――神道の成立――

 記紀における最高神、天照大神を祭る神社は、三輪神社・賀茂神社・熊野神社・八幡神社などより、はるかに数において少ないが、八百万の神々をアマテラスという律令政治にふさわしい神の下に従属させて、古事記、日本書紀における神の体系がつくられる。そして、神の歴史としての古事記、神の言葉としての祝詞、それによって一つの神道が確立された。

 神の時代から人間の時代へと歴史は動くという歴史観が記紀にある。(儒教的啓蒙主義か?)反面、記紀成立の時代における作者の意思の投影――記紀の作者の作為、その中に含まれる虚偽――を見抜く必要がある。

<アマテラス神話>

 アマテラス神話を生んだのは、天武帝死後の不安な政治情勢ではなかったか。ひ弱な皇子を永遠に日本の国王の位置に置くことは不可能である。この困難を乗り越えるためには、新しい神道と新しい神話が必要である。そこで、持統帝自身を天地を支配する神とする、この女神の子孫のみが日本国を統治できるという神話をつくったのではないか。古事記の中で語られる神は、子神についてはほとんどなく、祖母アマテラスから孫ニニギノミコトへ皇権が拝受されている。これも、持統帝がわが子・草壁皇子の早世により、孫の軽皇子に王位を継がせようとした意図が表れているのではないか。

<天皇の漢風(かんぷう)諡号(しごう)と和風諡号

 諡号は、諱あるいは贈り名で、死後つくった名前。神武から聖武天皇までは漢風諡号はなかったが、奈良時代中ごろよりも少し後(天平宝字年間)の、孝謙天皇の時代に、淡海(おうみの)三船(みふね)が、それまでの天皇の名前を全部つくった。和風諡号は同じく死後か生前につけられたものだが、記紀に出てくる古代の天皇につけられている日本風の表現。神武天皇の和風諡号は四つもある。

1 神武   カムヤマトイワレヒコ  ハツクニシラススメラミコト

       ヒコホホデミ・サヌノミコト

2 綏靖(すいぜい)   カムヌナカハミミ

3 安寧(あんねい)   シキツヒコタマテミ

4 懿徳(いとく)    オホヤマトヒコスキトトモ

5 孝昭(こうしょう)  ミマツヒコカエシネ

6 孝安(こうあん)   ヤマトタラシヒコクニオシヒト

7 孝霊(こうれい)   オオヤマトネコヒコフトニ

8 孝元(こうげん)   オホヤマトネコヒコクニクル

9 開花(かいか)    ワカヤマトネコヒコオホヒヒ

※ 2~9代は架空と考えられ、欠史八代と言われるが、葛城王朝として実在したと主張する学者もいる。

10 崇神   ミマキイヒリコイニエ    ハツクニシラススメラミコト

  垂仁   イクメイリヒコイサチ

  景行   オホタラシヒコオシロワケ

※ 3世紀終わりから4世紀初めにかけて、三輪山周辺を根拠地とする、大きな政治権力が存在した。この崇神・垂仁・景行の三代を三輪王朝(イリ王朝)と呼ぶ。王朝と言うが、大きな政治権力が存在しただけなので、初期大和政権とも言う。

  成務   ワカタラシヒコ

  仲哀   タラシナカツヒコ

  神功   オキナガタラシヒメ

  応神   ホムタワケ

  仁徳   オホサザキワケ

  履中   イザホワケ

  反生   ミツハワケ

  允恭   ラアサザマワクゴノスクネ

  安康   アナホ

  雄略   オホハツセノワカタケ

  清寧   シラカノタケヒロクニオシワカヤマテネコ

  賢宗   ヲケ

  仁賢   オケ

  武烈   ヲハツセノワカサザキ

  継体   オホド

  安閑   ヒロクニオシタkwカナヒ

  宣化   タケヲヒロクニオシタケ

  欽明   アメクニオシハラキヒロハニ

  舒明   オキナガタラシヒヒロヌカ

35 皇極   アメトヨタカライカシヒタラシヒメ

40 天武

  持統   オホヤマトネコアメノヒロノヒメ

  文武   ヤマトネコトヨオジ

  元明   ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ

  元生   ヤマトネコタカミツキヨタラシヒメ

<弥生時代、二つの政治的勢力の対立>

 北九州政権(鏡を神器とする種族。外国製武器の移入により、武力で優位)――北九州にいた種族の後継者の印は鏡。

 大和政権(銅鐸を神器とする種族。農業技術の改善により豊かな生活を営む)――ヤマタノオロチである三輪山の麓にいた種族は銅鐸の祭りをしていた。その長であるナガスネヒコが後継者の印として持っていたのが剣ではないか。今も熱田神宮にある草薙の剣は、銅の剣らしい。鏡と銅剣という二つの神器をもつことによって、神武帝は大和地方の支配者となった。

<神武東征による統一>

 書記には、出雲族のナガスネヒコと共に大和地方を統治していた天孫族のニギハヤヒは、ナガスネヒコと神武帝の戦い(神武東征)において戦局利あらざるを見て、ナガスネヒコを殺し、神武帝の下に帰順したとある。これによって、長期にわたる天孫族と出雲族の戦いは終結した。スサノオは、このニギハヤヒノミコト(書記ではクシタマニギハヤヒノミコト)ではないか。

 日本書紀では、オオモノヌシは出雲大社(杵築神社)に祭られているオオクニヌシと同じだとされるが、古事記では別の神とする。「ヤマタノオロチ=三輪山=オオモノヌシ=オオクニヌシ」であるとすると、「スサノオがヤマタノオロチを殺した=スサノオがオオクニヌシを殺した」、つまり、親が子供、あるいは6世の孫を殺したことになる。スサノオはニギハヤヒを、オオクニヌシはハガスネヒコを指すのではないか。

 神武東征説話の後半は、むごたらしい戦争の話の連続。征服されて神武の支配下に入った大和の豪族たちは、記紀がつくられた時代に活躍している有力な氏族の祖先という形で出てくる。古事記は、ニギハヤヒは物部氏や穂積氏などの祖という。物部氏は大連となり、後に蘇我氏と仏教をめぐって争うことになる。神武天皇が大和盆地で闘うときに活躍した大来目(おおくめの)(みこと)はのちの久米氏の先祖、道臣(みちのおみの)(みこと)は大伴氏の先祖と言われている。書記には、ヤマタノオロチを退治した剣は石上神宮にあると書かれている。石神神宮は物部氏の根拠地であり、その神宮は、フツ(剣の振り)を祭るといわれる。

 「古語拾遺」は、神器は昔、二種だったとする。玉は日本民族にとってさまざまな意味をもつ宝だが、神器では三番目であり、鏡や剣とは少し違った意味を持つのではないか。持統帝が即位したときは、神位の印として、鏡と剣だけだった。

<天津神と国津神>

 記紀では、神様を天津神と国津神に二分する。アマテラスの一族の天上の神々が、天津神、地上の世界で葦原(あしはらの)中国(なかつくに)にいた国津神とされる。

 三輪山・出雲大社・諏訪大社(諏訪明神)は出雲系の神々とされる。これは、天皇家とは別の勢力が結び付けられ、記紀の編纂が行われていたのではないか。三輪王朝の時代、三輪山は天皇家の聖なる山だった痕跡があるが、雄略天皇以降になると伊勢が聖なる土地となる。そして、蛇と結びついていた三輪山の神は、天皇家の王権を保証する神より、祟り神という姿をとり、大神氏にそこでの祭祀をゆだねることになる。かつて蛇は宗教的なシンボルとしてかなり優れたものであり、支配者を代表するシンボルとしてふさわしいものだったが、天皇を太陽女神の子、日の御子という考え方をするようになると、蛇と結びついていた三輪山は捨てられ、天皇にまつろわない存在の二つの聖地とともに出雲系ということでくくられたのではないか。出雲のイメージは、大和朝廷や伊勢とは対極のものとして記紀神話で形成されていったと考えられる。それによって、かつては天皇の祭祀が行われていた三輪山のオオモノヌシが、国津神に分類されるようになったのではないか。

<崇神による宗教改革>

 武力によって統一された国家は、さまざまな不安をその体中に秘めていた。10代目の崇神帝の頃、疫病の流行し、天下が乱れたため、崇神は日本国家の宗教として、征服された出雲族の宗教を用いたのではないか。オオモノヌシの子孫と称するオオタタネコをして、三輪山にオオモノヌシを祭らせたところ、その祭りによって疫病がおさまり、人民の不安は静まったという。そして、そのイデオロギーを基礎にして、日本国家の統一は進められていく。崇神、垂仁、景行、特に景行帝の子・日本武尊の話は、大和朝廷の武力統一の話。日本武尊は出雲族の王権の印である天叢雲剣をもって、出雲族の居住する東国におもむく。

 日本最古の古墳は、三輪山をめぐる古墳。崇神帝の時代と共に始まる古墳の建造だが、古墳は山の形ではないか。これは「神のハフリ」という考え方から、祟る神をできるだけ丁重に祭ったのではないか。当時、日本と通行があった魏で流行していた道教では、永世思想を説いた。古墳の中で永遠に生きるという強い永世の願いがあるのではないか。

 統一国家となった余剰エネルギーが、朝鮮半島への軍事的行動(神宮皇后伝説)となる。そこでは、山の神に代わって、海の神が活躍した。

<古い神々(神道) 対 新しい神々(仏教)>

 ニギハヤギの子孫、古いフツの神の伝統を守る物部氏。それに対して、海外遠征の功績者、武内宿禰を祖先とする新興の蘇我氏にとって、古い神々の権威を背後にもつ古い種族を打破するために、仏教は大変有用な宗教だった。結果は、仏教の勝利となる。聖徳太子は、この戦いによって勝利した仏教による国家統一の理想をもつ。太子の時代、古墳時代の権力の象徴である前方後円墳が廃止され、円墳となる。

 しかし、厭世的な仏教は、国家統一のイデオロギーには不向きで、政治の原理にはなりえなかった。当時日本に移入された仏教は主として三論で、「空」が説かれたが、これは天皇の権威を強める理論的根拠を提供することが困難だった。また、仏の前にはすべての人間は平等であると説くため、天皇家よりも、天皇家以外の大和の豪族(蘇我氏)をはびこらせることになる。

<天皇を中心とした国家の形成と、新しい神道>

 クーデターによって蘇我氏を倒した天智帝は、中国を規範とした新しい儒教的合理主義による改革を進めたが、あまりに急進的で保守派の反発を買う。保守派の懐柔策に反発した革新派と、天智帝の死とともにさまざまな不安が爆発。それを利用(壬申の乱)した天武帝は、豪族相互の、あるいは豪族と天皇家との血で血を洗う政治闘争に終止符を打つ。

<儒教的合理主義 + 新しい仏教 + 新しい神道>

 決定的な勝利を収めた天皇家はその勝利を永久化するため、新しい宗教を必要とする。天武帝は日本を中国なみの文化国家にするために儒教的合理主義を採用したが、一方では仏教を現世利益の宗教(薬師崇拝)として利用した。また崇神帝以来の祟る神、死の神ではなく、現世主義の神という神道の国家主義的改革を行った。そのために、今までよりはるかに強力な天皇の祖先神を創造。それを全国民の崇拝の対象とした。そして、海人部(あまべ)によって祭られた一地方神に過ぎなかった伊勢神宮の位を上げ、国家の神とした。

【なぜ、出雲国杵築の土地が神流しの地に選ばれたか】

 伊勢に新しい神の根拠地ができたが、古い神々はまだ大和地方に蠢動しており、豪族と結びついて、いつ何時騒乱を起こすかもしれない。そういう神々を遠方に流す必要がある。

① 昔から意宇の地は、熊野神社の社を持っていた。そして熊野大社は、スサノオを祭る出雲系の神社だった。

② 新しい神の根拠である伊勢は、東の地で、日の出の美しいところ(日出るところ)である。これに対して、神々の流罪の場所であるべきところは、西のほう、入日の美しいところ(日没するところ)でなくてはならない。しかし、日が没するところであっても、九州は天孫族の故郷なので、神々の死の場所とすることはできない。

③ 出雲は勾玉の産地であり、●

<「出雲国風土記」の空白>

 風土記は、古事記の作られた翌年(713年)に、元明帝の命によって作り初められたが、完成は国によってまちまちだった。単なる地理の書ではなく、地方の歴史を語ったもの。「常陸国風土記」には日本武尊、「豊後国風土記」「肥前国風土記」には景行天皇、「播磨国風土記」には神宮皇后、応神天皇の話が多い。また、歴史的事実ばかりではなく、地方の伝説が多く集められている。

 撰進は、古事記(712年)、日本書紀(720年)、「出雲国風土記」(733年)とされ、ほぼ同時期の制作。この歴史・地誌撰修事業は、ほぼ一連の仕事とみてよい。

【記紀が語る出雲神話の中心人物に対する疑問――スサノオ、オオクニヌシ】

① スサノオノミコト「大蛇退治の話」

 アマテラスオオミカミの弟であるスサノオノミコトは、乱暴をして高天原から出雲へ追放されるが、簸の川の上流でヤマタノオロチを退治して、その蛇の尾から出てきた剣(天叢雲剣・草薙剣)をアマテラスに献じた。

② オオクニヌシノミコト「国譲りの話」

 スサノオノミコトの子孫であるオオクニヌシノミコトは、名前のごとく中つ国の支配者だったが、高天原にいますアマテラスの命によって、オオクニヌシはアマテラスの孫・ニニギノミコトに平和のうちに国を天孫に譲り渡して、大きな宮に隠遁した。記紀は宮の場所を明記しないが、出雲大社らしいとされる。

※ オオクニヌシは、古事記ではスサノオの6世の孫、書紀ではスサノオの子。

【この二つの話が「出雲国風土記」にはない】

 「出雲国風土記」では、スサノオやオオクニヌシについて何度か言及しているが、両者より、スサノオの子やオオクニヌシの子のなどを生き生きとした姿で語る。「播磨国風土記」には、オオクニヌシの活動的な姿が書かれているのに、オオクニヌシが「天の下造らしし大神」と大げさな称号で呼ばれている割には、颯爽たる天下の覇者の姿が語られていない。

出雲族の子孫である風土記制作者たちは、国譲りという祖先の屈辱を語りたくなかったのか。しかし、オロチ退治はむしろ誇りであり、自己の祖先と天孫族との結びつきを強調するためにも有利ではないか。

出雲(いずもの)国造(くにのみやつこ)である出雲(いずもの)(おみ)は、(あめの)穂日(ほひの)(みこと)の子孫であり、天穂日命は、天皇家の祖先である天之(あめの)忍穂(おしほ)(みみの)(みこと)の兄弟。つまり出雲臣は天孫族であり、記紀において多少出雲族(三輪氏、賀茂氏など)になびいたという罪をきせられたにせよ、祝詞「出雲(いずもの)国造(くにのみやつこの)神賀詞(かむよごと)」によって祖先の無罪と功績をはっきり主張している。はっきりした天孫族の自己意識を持っている出雲側には、故意に史実や伝承を無視する必然性は少しもない。

 「出雲国風土記」は地理や年号の記載が実に精密。一つ一つの郡の記載の後に、郡司(こおりのつかさ)をはじめとする、その記事の責任者名を書き連ねている。正確を期す意図がはなはだ強いこの風土記に、二つの話がないのは、そういう事実も伝承もこの国に存在しなかったからではないか。古事記や日本書紀は、当時の人間にとって事実ではない多くの虚構が書かれているが、それは当時の政治的情勢や文化的情勢において必要な虚構だった。それを政府そのものが支持しているとするならば、沈黙を守るのが一番身の安全。遠い地方に関する虚構は比較的バレにくいが、地方においてすぐにバレる虚構を語るのは得策ではないため、風土記の作者は故意に沈黙したのではないだろうか。

【出雲神話の舞台は、出雲ではない。】

 大和を中心に広がった近畿文化圏こそ出雲族の統治する文化圏であり、オオクニヌシ(別名・オオナムチ)が最も多く崇拝されたところ。

田中(たかし)――出雲族の根拠地は大和で、出雲は、出雲族が追われた場

梅原猛――出雲は、8世紀の大和朝廷が神々を追放しようとした場所

 日本人の神信仰は自然信仰。山や石や木が神であり、神の宿るところとされ、神社を必要としなかった。三輪山がご神体だった三輪神社には、神殿はおろか、徳川時代までは拝殿もなかったほど。建築史学者の多くは、神社は寺院ができてから後に造られたと考えている。昔のままの素朴な自然崇拝では太刀打ちできない神社側が、壮麗な寺院・仏像に対抗して神社を造っていったと。

 出雲には古い考古学的遺跡は少なく、神社建築史からも、政治的文化的中心地があったと考えるのは困難。

 出雲大社の完成は、古事記制作と、日本書紀制作の中間と考えられる。古事記にある話(垂仁天皇の御子ホムチワケが物が言えないことを占うと、出雲の神がたたったためという。出雲の神を祭るため、肥川(ひのかわ)の中に仮宮を建てて泊まったところ御子が喋った)にある仮宮が、出雲大社ではないか。

 三輪山に祭られる大物主(おおものぬしの)大神(おおかみ)は、日本書紀ではオオクニヌシノミコトと同一の神とされ、古事記ではオオクニヌシの国造りを助けた最も重要な神。オオクニヌシの国造りの舞台である出雲に、大和の三輪山の神が登場するのはおかしい。アジスキタカヒコネ(賀茂氏の神)を祭る神社は、葛城山の高鴨(たかかも)神社。(京都の賀茂神社は葛城氏が移住後に造ったものと思われる)また、コトシロヌシ(オオクニヌシの子)の本拠も奈良高市(たけち)郡の雲梯(うなて)神社。また、三輪系・賀茂系の神社は、大和・近江・山城・紀伊などにはなはだ多い。代表的な出雲の神が大和を中心として祭られていたことをから、三輪系・賀茂系の神社の中心が出雲とは認められにくい。

○ ヤマタノオロチは、聖地・三輪山の象徴

 古代人の思惟(しゆい)はしばしば象徴的だと神話学者は言う。ヤマタノオロチの特徴(①蛇の一種、②八頭八尾、③背に檜などの木が生えている、④丈が長い、⑤眼が赤い、⑥腹が赤い、⑦酒好き、⑧女好き)から、これは何のシンボルか。

①⑧――古事記(イクタマヨリビメのところへ男が毎晩通ったという。その男の正体が、三輪の神であった)。日本書紀(この話はヤマトトトビモモソヒメの話で、男、すなわち三輪の神はうるわしき小蛇だった)。三輪神社は、オオナムチの和魂・オオモノヌシ、荒魂・蛇を祭る。

②④――三輪山は多くの狭と尾根を持っている。

③――背に大きな木が生えているのは、山。

⑤⑥――三輪山の木は、ほとんどが松・杉・檜であり、杉は冬になると赤くなる。赤い目は、三輪山の頂上に多くある、雲母質の石を多く含んできらきら輝く磐代のことではないか。

⑦――オオクニヌシは、スクハヒコナノミコトと共に日本に農業生産を伝えた神であり、酒を発明した神。三輪の神・オオモノヌシは、オオナムチと同一、または大変関係の深い神とされる。とすれば、三輪の神は酒と関係が深い。

 三輪神社の()の輪行事は、出雲地方の多くの神社で行われている茅の輪を越す行事と同じものであり、オロチ退治のイメージではないか。

【イナバのシロウサギ】

 この話は古事記にはあるが、日本書紀にはない。この話の舞台は、島根県の隠岐の島と鳥取県の因幡で出雲地方とされているが、本当は玄海灘の沖ノ島の宗像神社に伝わる伝承ではないか。

 シロウサギは古事記に「(あかはだ)の菟伏せりき」「此れ稲羽の素兎(しろうさぎ)なり。今者(いま)に菟神と謂ふ」とあり、どこにも白いウサギとはないだけではなく、神だとも書いてある。

 古事記で、隠岐の島は「淤岐(おき)の島」と書かれている。日本書紀では、「隠岐」あるいは「億岐」と書かれている。字そのものを正しく表記すれば、淤岐の島は沖の島と解されるべきではないか。古代日本史において、他の沖の島より重要な意味を持つのは、玄界灘の真ん中(日本から朝鮮への通路)にある沖ノ島。ここは海の正倉院と呼ばれているほど、古代日本の遺品が発掘されているが、朝鮮出兵の中継地であると共に、祭祀の場ではなかったか。神の島とされ、千何百年の間、女人禁制であり、島から一木一石さえ持ち帰ってはならなかった。

 鎮まりいます神は、宗像の神。アマテラスとスサノオの間に神々の出生が行われた(天の真奈井におけるウケイの方法)。アマテラスは乱暴者の弟スサノオの心を疑っていた。そこでスサノオは「()(きたな)き心無し」とうけいて、子を生もうという。それによって生まれた神々が五男三女神の神々である。そのうち、五男はアマテラスのもの、三女はスサノオのものとされる。この三女が宗像の三神。この島で行われている「みあれ祭」は、海に並んだワニの上をウサギが跳んでいく様子に似ている。また、この島に始めて上陸する者は、必ず海水で世俗の垢を洗い落とした(ミソギ)後、真水で体を洗わなければならず、これは現代も残る生き残っている掟。これが、八十神がウサギに海水で洗えと、オオクニヌシが真水で洗えと教えたことの起こりではないか。

<壁画の意味>

【高松塚の壁画の特徴】

① 古墳内の人骨には、頭蓋骨がなかったが、この死体が斬首でないことは明らかである。

② 遺留品として、鏡と太刀があったが、太刀に刀身はなかった。

③ 壁画は、四方の壁に四神(ししん)、東西の壁に八人ずつの人物と日月(じつげつ)、天井に星宿(せいしゅく)がかかれた華麗なものだったが、日月の面と玄武の顔には、明らかに人為的に削り取られた痕があった。

 当時の日本では、怨霊への恐怖が強かった。無実の罪で殺された高貴な人の怨霊は、必ずタタって生者に復習すると恐れられた。高松塚が法隆寺や出雲大社と類似しているのは、建物の高さなどに多く使われている十六(四重に四=死を含む)という数だけではない。それぞれ、塚として、寺として、社として、例外的に壁画を有している。壁画は鎮魂のため、それも霊をごまかすためではないか。

 謀反の罪で持統帝に殺された大津皇子は、無実だったと思われる。「薬師寺縁起」には、大津の死霊が竜となって世を悩ますので、その竜の住む馬来田池(まくたのいけ)を埋め薬師寺の金堂を建てたとある。そして、屍は西方浄土を思わせる二上山に移された。持統帝の一人息子・草壁皇子の早世も、大津の怨霊のせいだと噂されていたのではないか。持統帝にとっては、数多くの皇子の中で大津皇子と同様、弓削皇子もわが子の即位を脅かす存在だった。弓削皇子の死については明確な記録が残されていないことなどから、高松塚に葬られていた頭蓋骨のない遺体は、持統帝に殺されたと考えられる弓削皇子ではないか。古代中国人にとっては、首のない死体はあの世の復活の可能性までも奪われるとか、再生を目的とする葬礼や死後の祭りを享けることができないため、恐るべきことだった。このような考え方の影響を当時の日本人は受けていたのではないか。

① なぜ、藤原氏や皇室の氏寺である興福寺や大安寺に壁画がないのに、聖徳太子をまつった法隆寺に壁画があるか―→ 聖徳太子の霊よ、ここはあなたが行きたいと願った浄土なのです、ここに多くの仏がいて、多くの天女が世にも妙なる音楽を奏でているではありませんか、どうかここに永久にあなたはいてください。

② なぜ、皇室の祖先をまつる伊勢神宮に壁画がなくて、反逆者、オオクニヌシをまつる出雲大社に壁画があるのか。また、ミニ出雲大社とされる神魂(かもす)神社、スサノオとクシナダヒメをまつる八重垣神社は、ともに壮麗な壁画を持つ。―→ オオクニヌシの霊に、ああここは霊の不死の国です、空には、魂が雲となって漂っているではありませんか、永遠にこの社に止まるのがあなたの運命です。

③ なぜ、天武持統陵には壁画がなく、高松塚には壁画があるか(今のところ、壁画を持つ古墳は高松塚だけ)―→ 弓削皇子よ、ここは黄泉の国だ、四神、日月、星宿、朝賀の儀式を行う十六人の男女、三種の神器を思わせる副葬品、(これによって彼が帝位にある幻想を与える必要がある)ここであなたは黄泉の王となり、多くの臣下に囲まれて永久にお暮らしください。

 

 

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