【大宇宙】――その他――

――天界も地界も無限段階があり、各々の段階に相応した霊人や地上人がその段階的秩序を守って生活し、歓喜している。秩序、法則は、神そのものだから、神自身も破ることは許されない。

天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められていて、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、平面的には割り切れない神秘の用が生じる。は一だが、〇は二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。一は一のみでは一ならず、善は善のみでは善ならず、真は真のみでは真となり得ない。これら二つが相関連するのを外の真と云い、外の愛も外の真も共に生命する。

神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は存在しない。大歓喜にまします太神のは、立体を遥かに越えた超立体、無限立体的無の存在なので、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。霊人は、外的形式からすれば地上人で、地上人は、内的形式からすれば霊人。その根幹をなし、それを生命させる歓喜なき所に形式なく、存在は許されない。霊人たちは、属する段階以外の世界と、内的交流はあっても全面的交流はないが、同一線上での横の交流は可能。

歓神は歓喜。善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜という。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、歓喜の現われの一つ。生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える。故に本質的には善悪はない。浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。

・「天界無限段階地界無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからである。秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。しかし、同一線上に於ける横の交流は、可能である。それは丁度、地上に於ける各民族がお互に交流し、融和し得るのと同様である。総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。分類しては、生命の統一はなくなる。其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。一なるものは、平面的には分離し得ない。二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められているについては一なるも、〇に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない。神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない。しかし、大歓喜にまします太神のは、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。それは、立体を遥かに越えた超立体、無限立体的無の存在なるが故である。霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人である。生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式である。即ち、死後は生前の形式による。形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われる。而して、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されない愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しない。これら二つが相関連せるを外の真と云う。外の愛も外の真も共に生命する。人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見れば判るであろう。表面的なるものの動きも、内面的に関連性をもつ。故に、外部的にまげられたる働きの許されてあるを知ることができるであろう。許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない更に善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と云う。歓喜は神であり、神は歓喜である。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える。故に本質的には善悪のないことが知られるであろう。」(二日んの巻)

――【大神と太陽】大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われ、新しく総てが生れ出る。太陽は神が生んだものだが、逆に、太陽から神がさらに新しく生れる。弥栄は順序、法則、形式によって成り、個がその個性を完全に弥栄すれば、全体はますます弥栄する。順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない。

【天国と地獄】天国をうごかす力は地獄で、光明を輝かす力は暗黒だから、地獄的なものも天国的なものも神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われ。それによって、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれる。本来、地獄はない。愛は善となさんとするが故に、悪を生じ、憎を生じ、真は美となさんとするが故に、偽を生じ、醜を生ずる。善は悪あればこそ善として使命し、美は醜あればこそ美として生命し、共に、神の御旨の中に真実として生きる。愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。個と全体、愛と真との差がますます明らかになれば、その結合はますます強固となるのが神律。

【生前(極内世界、物質界)と、死後(極外世界、霊界)】地上人(物質界)の内的背後には霊人(霊界)があり、霊人の外的足場として地上人が存在する。地上人は常に霊界によって弥栄する関係にあることで、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆく。神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に、神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。歓喜に向かうとは、根元に通ずること、更に、生前(極内世界)と死後(極外世界)とが映像され、その間に地上世界(中間世界)がまた映像される。地上人の肉体は、霊の守護をなす重大な役目をもっているから、社会生活の中に行ずることが、天国への歩み。

・「愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。地上人は常に霊界により弥栄する弥栄は順序、法則、形式によりて成る。故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない。個の弥栄は、全体の弥栄である。個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである。更に、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。極内世界生前極外世界死後中間世界地上世界である。極内は極外に通じてを為す。すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。これによりて、新しく総てが生れ出る太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。されば、その用に於ては千変万化である。千変万化なるが故に、一である。一なるが故に、永遠である愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである。悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。共に神の御旨の中に真実として生きるのである。真実が益々単にして益々充実し、円通する。されば、の中のの中なるの中なる一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。これが、大歓喜そのものであって、神は、このに弥栄し給えるが故に、最外部の〇の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである。始めなき始めのの真中の真空にいますが故に、終りなき終りの〇の外の無にいまし、中間に位する力のの中に生命し給うのである。一物の中のなるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない。生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸とつづき、様相として弥栄ゆるのである。神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである。世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。何故ならば、地上人に於ける肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目をもっているからである。地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である。因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず。その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。呼が強くなれば吸も強くなり吸が長くなれば呼もまた長くなる。故に地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われであることを知らねばならない。天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。地獄は本来ないのである。また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである。」(二日んの巻)

――【霊人】地上人の生前の世界は、死後の世界に通じる。同気同類の霊人は相集まり、同気同類ではないものは、内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。同気同一線上にいる霊人たちは、会ったことがなくても互いにその総てを知ることができ、多くは同一の思想系をもつ。根本的容貌は非常に似ているが、同一のものはない。霊人の内の情動は、その霊体の中心をなす顔面にそのまま単的に現われ、地上人にも反影する。霊人の団体は、特に似た情動の霊人の数人によって一つの家族的小集団ができ上り、最も神に近い霊人が集団の中心の座を占め、内分が神に近い霊人の順に周囲に幾重にもとりかこんで運営される。霊人の生む子は歓喜。

【大歓喜】大神は常に千変万化、常に弥栄する姿であり、完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸。愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する根底力をなすは歓喜だから、歓喜なき所に真実の愛はない。歓喜の愛を愛の善、歓喜なき愛を愛の悪と言う。

神は霊物のみにては歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和があって、初めて力し、歓喜し、弥栄する。霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まない。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給う。

【地上人の〝御用の悪〟】霊人は、一時的には仮面をかぶることはできるが、善悪の両面に住することは許されない。地上人も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていないが、不自由不透明な物質の約束(時間、距離)を生じると同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することになる。悪と偽に同時にはいることは、それがあるために弥栄し、進展するから、一応の必要悪、必要偽として許される。この場合の悪は悪ではなく、悪を抱き参らせて、悪を〝御用の悪〟として育て給わんがために課せられた、地上人の光栄ある大使命。悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となる。

・「同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ずる。同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる。生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもつ。但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである。生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。一時的に満たすことはできても、長くは続かない。この情態の原理は、地上人にも、反影している。生前の世界は、以上の如くであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている。そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである。またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない。総てはを中心としての姿を形成しているのである。と〇とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。しかし、この場合もであり〇は〇である。これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである。悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである。生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。許されているから存在し行為し現われているのである。この場合の悪は、悪にあらずしての〇であることを知らねばならない。即ち、道を乱すが故である。地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。愛は真により、真は愛により向上し、弥栄するその根底力をなすは歓喜である。故に、歓喜なき所に真実の愛はない。歓喜の愛は、これを愛の善と云う、歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、となり、と集約され、その集約のの中にを生じ、更に尚と弥栄ゆる。生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなる。地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許される。何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。霊人も子を生むが、その子は歓喜である。歓喜を生むのである。」(二日んの巻)

 

 

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