喜び

――よろこびには、表「」、裏「」、表裏合わせた「」の三つある。「」は現れの神で、のもとの「」がキで、元の元の太元の神。同じ名の神二つあり、表の喜びが「」、愛、真、善、美となって現れ、裏の喜びからは「〇」、憎、偽、悪、醜が現れる。喜びが神だと言っても、今の人民の喜びは裏の喜び。

・「がよろこびであるぞ。もよろこびであるぞ。よろこびにも三つあるぞ。は表、は裏、表裏合せてぞ。神であるぞ。神であるなれど現れの神であり、現れのよろこびであるぞ。のもとがあるぞ。キであるぞ。元の元の太元の神であるぞ。(ム)であるぞ。(ム)から(ウ)生れ、(ウ)から(ム)生れるぞ。同じ名の神二つあると申してあろうが。表の喜びが、愛、真、善、美となり現れ、裏の喜びからは、〇、憎、偽、悪、醜が現れるのぢゃ。喜びが神ぢゃと申して裏の喜びではならんぞ。今の人民の喜びと申すのは裏の喜びであるぞ。悲しみを喜びととり違へているぞ。(中略)こまかに説いて判り易く説いてきかすぞ。分ければそれだけ小さくなるなれど。」(春の巻)

――総てがいつまでも未完成で、神様も大神様は判らない。正しい喜びをまず見極めて、只よろこびに向かってひたすら進んでいけばいい。

・「人民 栄えて行くことは、神、弥栄のことぞ。神も、人民も、世界も、宇宙も、総ていつまでも未完成ぞ。神様でも大神様は判らんのであるぞ。只、よろこびに向ってひたすらに進んで行けばよいのであるぞ。正しき喜びを先づ見極めよ。見きわめてひたすらに進めばよいのぢゃ。食物を食べるのも喜びであるぞ。正しき食物 正しく食べよ。更に喜びふへて弥栄へるのぢゃ。自分の喜びを進め進めて天国へ入ること出来るのぢゃ。悪い食物 悪く食べるから悪くなるのぢゃ。目に見へる食物ばかりでないぞ。何も彼も同様ぞ。人民は喜びの子と申してあろう。罪の子でないぞ。うれしうれしの道あるに、何故 歩まんのぢゃ。」(春の巻)

――喜びに入る門は、愛からと真からの二道ある。愛から入る方が、判りやすいが誤りやすい。心大きく、広く天地に放さなければ、天地のキを吸ふことはできない。

・「喜びにとけ入るから嬉しいのぞ。喜びから遠ざかるから悲しいのぞ。そんなこと分ってゐると申してゐるが、ほんとに身体に分ってゐまいぞ。喜びに入る門は愛からぢゃ。真からじゃ。二道あるなれど愛から入るのが入り易いが、愛からでは誤り易い。生れてすぐ歩けるものでないぞ。始めから何も彼も出来るものでない。気長に進んで行けよ。内の念と外の念とあるぞ。二つであるぞ。一つであるぞ。三つであるぞ。心大きく、広く天地に放さねば、天地のキを吸ふこと出来んぞ。」(黒鉄の巻)

――宇宙は真と愛との現はれだが、愛も真も善も智も、入れて結んで解けてヨロコビとなる。道は三つ。善と真をハッキリ区別することで、して、結んでヨロコビと現はれる。力は霊と肉の結びにの力が加わって、そこににヨロコビが出て、理(ミチ)となって真実と現はれる。

・「判るやうに申すならば、宇宙は真と愛との現はれであるぞ。愛と真ではない。、愛、真、善、智であるが、愛真でもなく、善智でもないぞ。愛と真が善と智と現はれ、喜びとなってはたらき、が加わって弥栄えた生命であるぞ。愛のみと云ふものないぞ、真のみと云ふものないぞ。愛と現はれ真と現はれるのであるぞ。人間には現はれたものだけより判らんのであるが、ことわけて申すならば愛には真かくれ、真には愛かくれ、その奥にがあるのぢゃ。人間はおやを父と母とに区別してゐるが、母と現はれる時は父その中に居り、父と現はれる時はその中に母ゐるのであるぞ。何れも親であるぞ。父となり母となり現はれるのであるぞ。愛と真、善と智と区別して説かしておいたが、それは今迄のこと、いつまでもそんなところでまごまごさしてはおけんぞ。が判らねばならん。が判らねばならん男の魂は女、女の魂は男と申してあらう。人間の目に愛とうつるものは外の愛、真とうつるものは外の真ぞ。中から申せば外は御役の悪であるぞ。今が過去で、今が未来ぞ。時間にふみ迷ふなよ。空間に心ふみ迷ふでないぞ。皮一枚ぬいで心でよく考へなされ。いつも日が出てゐるでないか。月輝いて御座るでないか。力そのものに、力はないのであるぞ。霊と肉の結びのみで力現はれるのでないぞ。プラスとマイナスと合せて組みて力出ると思うてゐるのであらうが、一歩ふみ出さねばならんぞ。プラスとマイナスと合わせたのではプラスとマイナスぞ。力出ないのざ。の力が加わって其処にヨロコビ出て、理(ミチ)となり、なり、なりて真実と現はれるのぞ。弥栄が真実ぞ。神ぞ。神の心ぞ。(中略)愛と智は呼吸して喜びとなるのであるぞ。よろこびは形をとる。形なく順序なきもの〇であるぞ。善と真のはたらきを完全にするには、善と真との差別をハッキリとさせねばならんぞ。とけ合はせ、結んでヨロコビと現はれるのであるが、区別することによって結ばれるのであるぞ。しなければならん。すればする程 力強くとけ合ふのであるぞ。大き喜びとなるのであるぞ。このこと日月の民には判るであらうな。道は三つぞ。合点ぢゃなあ。小の中に大あるぞ。無の中に有(ウ)有るぞ。もの益々小さければ、益々清ければ、益々内に大きなものあり、益々純なものあるぞ。神はそなたの中にあるが外にもあると申してあらうがな。(ウム)よく見て下されよ。愛はそのまま愛でないぞ。真はそのまま真でないぞ。善はナマでは善でないぞ。智はナマでは智でないぞ。入れて、結んで解けてヨロコビとなるのざ。ヨロコビ生命ぞ。宇宙の総て生命であるぞ。」(白銀の巻)

――現界で天国を生み出し、天国に住めない者は、死んで天国に住めない。まことの天国には、喜びのみが生きている。喜び食し、喜び着、喜びを呼吸し、喜び語り合って、嬉し嬉しとなる。お互いに喜びが湧き出ることでなければ、真の愛、理(ミチ)ではない。天国の理は、喜び。信仰とは、その喜びの中にとけ入ること。時間や空間を入れるから、生も死もなくなる。

・「の中のの中のは一であり、二とひらき、三と生命するぞ。理は一(ヒ)で二(フ)で、三(ミ)であると申してあらう。一(ヒ)も二(フ)も三(ミ)も同じであり、違って栄えるのざ。一二三(ヒフミ)であるぞ。このこと教へられても判るまい。ハラで判る大切こと、ハラ大切ぞ。かたまってはならん。に捉はれるとは判らん。地の定規ではかってはならん。如何なる天国も自分でつくるのぞ。そろばん捨てよと申してあらうがな。よろこびは理(ミチ)ぞ。ぞ。ぞ。真理ぞ。愛善ぞ。生命のイキと云ふこと判るであらう。天国と申すのは一人の大きな人間であるぞ。天国は霊人のみの住む所でないぞ。そなた達も今住んでゐるでないか。霊人も現界に住んでゐるでないか。現界をはなれて天国のみの天国はないのであるぞ。故にこそ、現界で天国を生み出し、天国に住めんものが、死んで天国へ住める道理ないのぢゃ。アメツチと申してあらう。この道理よくわきまえよ。善とか悪とか真とか偽とか愛とか憎とか申すのは相対の天国ぞ。まことの天国には喜びのみが生きてゐるのであるぞ。喜びの中にとけ入って、喜びのものとなってゐるのであるぞ。喜び食し、喜び着、喜びを呼吸し、喜び語り合って、嬉し嬉しとなるのぞ。いらんものは形が変って来る。新しき生命 湧き出るのであるぞ。善が悪と、真が偽と変った時は死となるぞ。その死は新しき別の生命と現はれて、新しき形の、新しき世界の善となり真となるのぞ。善も悪もないのざと申してあらう。善悪はあるが無いのざと申してあること判りたか。自分自身、己の為の善は死し、善の為の善は弥栄えるぞ。死んだものは新しき形をとって生命するのであるぞ。弥栄の道、神の喜び人間の喜びの中にあるぞ。愛ざと申して愛に囚はれて御座るぞ。真ざと申して真に囚はれて御座るぞ。喜びに生きよ。宗教に囚はれてはならん。道に囚はれてはならん。喜びに生きて、喜びに囚はれるなよ。お互に喜びの湧き出づることでなければ真の愛でないぞ。理(ミチ)でないぞ。天国に理あると申すが、今の人間の申したり、考へたりするやうな道でないぞ。道なき理と申してあらうが。喜びが理であるぞ。嬉し嬉しの理、早う合点せよ。生命栄えるもの皆喜びであるぞ。信仰とは、その喜びの中にとけ入ることぞ。生も死もなくなるのざ。時間や空間を入れるから、知(血)、通はなくなるのぞ。」(白銀の巻)

――凸凹(デコボコ)あるから力があらわれる。凸凹あるから、善のみでも、真(シン)のみでも呼吸(イキ)する。愛も真も、が入らなければ悪となる。仙人が属している幽界は、凸凹のうつしの国で、地獄ではない。お役の悪は、悪と偽りの悪で、その中に悪の喜びがある。己に悪あるから、悪に引込まれたり、ビクつく。心の鏡の凸凹がなくなれば、悪うつらない。

・「凸凹(デコボコ)あるから力あらはれるのぞ。凸凹あるため、善のみでも呼吸し、又真(シン)のみでも呼吸(イキ)するのであるぞ。偽善者も真を語り、真を伝へ得るのであるぞ。愛を云ひ得るのであるぞ。幽界と申すのは凸凹のうつしの国と申してあらうがな。地獄ではないのざ。仙人は幽界に属してゐるのざと聞かしてあらうが。取違ひして御座るぞ。愛は真と和して愛と生き、真は愛と和し、愛によって真の力現はれるなれど、愛のみでも愛であるぞ。真のみでも真であるぞ。只はたらき無いのざ。能(ハタラキ)ないもの力ないぞ。喜びないぞ。喜びないもの亡びるのざ。入らねば悪となるぞ。能(ハタラキ)なきもの罪ぞ。穢れぞ。善と悪と二道かけてならんぞ。理(ミチ)は一本と申してあらう。(中略)

――神界、中界、現界がマコトの和合をしていなければ、マコトの喜び(大神)ではない。大神の働きは人間によるものだから、しなくてはならない。天人にも結婚、仕事、死もある。地の世界と中の世界と天の世界は持たれつだから、地の上に禍があると、天の国も禍う。人間の心が、神に通ずるときは喜びとなり、幽人に通ずるときは悲しみとなる。通じる心があるから、心に自由あり、弥栄がある。死とは、住む段階の違ふ場合に起る現象で、生きること。幽界は道を外れた国のこと。モノが違ふだけだから、地獄は無い。言葉からモノを生むから、地獄という言葉を止めろ。

・「元の元のからの中界を経て、ウの現界に到る悉くの世界が皆人間に関係あるのであるから、肉体はウであるが、魂はに通じてゐるのであるから、はヨロコビであるから、喜びが人間の本体であるから、神界と云ひ、現界と云ひ、一本の国であるから、人間からすれば、人間が土台であるから、神の礎であるから、神しづまれば神人となるのであるから、神界、中界、現界つらぬきて居らねば、マコトの和合して居らねば、マコトの喜びでないから、マコトの喜びが大神であるから、大神の働きは人間によるものであるから、心せねばならんぞ。せねばならんぞ。天使と云ひ、天人と申すも、みなそれぞれの国の人間であるから、喜びの人間であるから、この道理判りたら、地の世界と、中の世界と、天の世界と、みな同じであるから、もちつもたれつであるから、三千世界であるから、地の上に禍あると、天の国にも禍ふのであるから、天の国の生活は地の上に根をつけてゐるのであるから、遠くにあるのでないぞ。同じ所にあるのであるぞ。幽界と申すのは道を外れた国のことざと知らしてあらうがな。地獄無いと申してあらうがな。このこと間違はんやうに、地獄地獄の言葉、やめて下されよ。言葉からモノ生むのぞ。只モノが違ふのみであるから、人間の心が神に通ずるときは喜びとなり、幽人に通ずるときは悲しみとなるのであるぞ。通ずる心あるから心に自由あるのであるぞ。弥栄あるのであるぞ。この道理よくわきまへて下されよ。天人に結婚もあれば仕事もあるぞ。死も亦あるのであるぞ。死とは住む段階の違ふ場合に起る現象ぞ。死とは生きることぞ。」(白銀の巻)

――人民は、神の喜びの全き現れだから、人民のいのちを正しく育てることが一番のよろこび。いくら穢れていても、元の神の根元神のキを受けている人民を、育て導け。宿った子を殺すのは、殺人。今の人民は九分九厘死んでいる。人民の理(ミチ)を歩めば、禍い無く、不足なく、いつも楽し嬉しとなる仕組み。

・「人民の理(ミチ)歩んで呉れよ。何も彼も嬉し嬉しとなる仕組、人民に禍ないのぢゃ。不足ないのぢゃ。いつも楽し楽しの歌で暮せる仕組ぢゃぞ。(中略)理(ミチ)しるべをつくりおくぞ。これがよろこびの理(ミチ)ぢゃ。人民のいのちを正しく育てることが一番のよろこび人民と申すものは神の喜びの全き現れであるぞ。いくらけがれても元の神の根元神のキをうけてゐるぞ。それを育てることぢゃ。導くことぢゃ。死なんとする人助けるのもその一つぢゃ。宿った子殺すことは、人民殺すことぢゃ。今の人民 九分九厘は死んでいるぞ。救へ、救へ、救へ。おかげは取りどくぢゃ。生かせよ。生かせよ。生かす理(ミチ)は神示よむことぢゃ。」(春の巻)

――人をほめて、その非を悟らせよ。罪を許して、ものを生かして使う。

・「人民をほめること よいことぢゃ。ほめて、その非をさとらせよ罪ゆるすことぢゃ。もの生かすことぢゃ。生かして使ふことぢゃ。神示(フデ)ひろめることぢゃ。やって見なされ。必ずうれしうれしとなるぞ。栄えるぞ。嬉しくなかったら神はこの世に居らんぞよ。」(春の巻)

――神示を世界にうつすこと、地に天国をうつすことが、喜び。今までの裏のやり方をひっくり返して、表のやり方をすればよい。神示を読めば、何もかもハッキリしてくる。

・「神示は一本道ぢゃ。始めからの神示よんで、よく読んで見なされ。何も彼もハッキリしてくるぞ。神示うつして下されよ。世界にうつすことよろこびぞ。地に天国うつすことぞ。六ヶ敷いことないぞ。今の裏のやり方、ひっくり返して表のやり方すれば、それでよいのぢゃ。裏は裏として生きるのぢゃぞ。金は使ふもの。使はれるものでないこと よく判って居らうが。御苦労のことやめなされよ。」(春の巻)

――掃除すれば、すべてに神のみ心があることが判る。理(ミチ)に勤しみ、理(ミチ)を行くところ喜びがある。喜びがあるから、病気も治り、金も出てくるし、おかげもある。タテには神と神界と和し、ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、生きの生命のウレシウレシがある。

・「行く水にも雲にも咲く花にも神のみ心あるぞ。それ見る目ないからわからんのぢゃ。掃除すれば判る。掃除結構。拝むは拝まんよりはましであるぞ。しかし拝んでばかりでは病気は治らん。金はもうからん。拝むばかりで金もうけ出来たり病気治ったりすると思ふたら間違ひぞ。理(ミチ)にいそしめ。理(ミチ)ゆくところ喜びあるぞ。喜びあるから病気も治るのぢゃ。金も出てくるのぢゃ。おかげあるのぢゃ。喜び神ぢゃ。タテには神と神界と和し、ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、生きの生命のウレシウレシあるのであるぞ。」(春の巻)

――与へられたものを喜べば、楽に楽しく暮せるようになっているから、生かして使え。与えているものを殺すから、生活にアクセクして、自分も死の苦しみをする。総て相当の意義があるから、総てに感謝せよ。全体的には、愛をもって接し、信をおくが、局部では、それぞれその時に応じてゆとりをもって処理せよ。

・「与へられたもの、そのもの喜ぶようにすれば楽にゆけるよう、暮しむきもたのしたのしで暮せるようになってゐるぞ。あり余る程 与へてあるでないか。生かして使へよ。生活に何故アクセクするのぢゃ。与へてあるもの殺すから自分も死の苦しみするのぢゃ。有限でなければモノは顕われないぞ。モノに顕わすと有限となるのぢゃ。総てに感謝せよと申してあろうが。総てのものに、それ相当の意義あるぞ。全体的には喜びせねばならん。愛をもって接しなければならん。信をおかねばならん。ぢゃと申して局部々々に於ては、それぞれ、その時に応じて処理せねばならん。只その場合は、ゆとりをもって処理せよ。綱長くしておかねばならん。」(夏の巻)

――今に一生懸命になれ。すべての世の中の出来事には、相当に意義があり、意義がないものは存在が許されない。それを毒とするか薬とするかは、各々の立場によって、考え方、処理方法、いろいろの運び方によって知る。それを人間心で、邪と見、悪と感じるのは、狭い低い立場だから、いつまでたってもドウドウめぐり。

・「すべて世の中の出来ごとはそれ相当に意義あるのであるぞ。意義ないものは存在ゆるされん。それを人間心で、邪と見、悪と感ずるから、狭い低い立場でゐるから、いつまでたってもドウドウめぐり。それを毒とするか薬とするかは各々の立場により、考へ方や、処理方法や、いろいろの運び方によってしるのであるから、心せねばならんぞ。「今」に一生懸命になりて下されよ。三月三日、ひつく神。」(夏の巻)

 

 

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