――〇(霊)界は、神界と幽界に大別され、神界は天国と霊国に分けられる。天国には天人、霊国には天使が住む。幽界は陽界と陰界に分れ、陽霊人と陰霊人が居る。陽霊人は人民の中の悪人の如く、陰霊人は善人の如き性をもっている。高い段階から言えば、善も悪も、神界も幽界もないが、人民の頭で判るように言っている。人民の地獄的想念が生み出した幽界は、本来は無い。
・「〇(霊)界と申しても神界と幽界に大別され、又神界は天国と霊国に分けられ、天国には天人、霊国には天使が住み、幽界は陽界と陰界に分れ、陽霊人、陰霊人とが居る、陽霊人とは人民の中の悪人の如く、陰霊人とは善人の如き性をもってゐるぞ。高い段階から申せば善も悪も、神界も幽界もないのであるが、人民の頭で判るように申してゐるのであるぞ。幽界は本来は無いものであるが、人民の地獄的想念が生み出したものであるぞ。」(五十黙示録/龍音の館)
――この世をつくった太神の神示だから、一分一厘違わない。この神は、太古を生み、中世を生み、現在を生み、未来を生みつつある。歓喜弥栄とは、世界は呼吸するのみ、変化するのみ、ぐるぐる廻るのみ。
・「この世をつくった太神の神示ぞ、一分一厘違わんことばかり、後になって気がついても、その時ではおそいおそい、この神は現在も尚(なお)、太古を生み、中世を生み、現在を生み、未来を生みつつあるのぞ、この道理判りて下されよ、世界は進歩し、文明するのでないぞ、呼吸するのみぞ、脈拍するのみぞ、変化するのみぞ、ぐるぐる廻るのみぞ、歓喜弥栄とはこのことぞ。」(五十黙示録/星座之巻)
――天界に行く門は輝き、幽界に行く門は闇。
・「天界に行く門は輝き、幽界に行く門は闇であるぞ。闇の門はとざされ、光の門は開かれてゐるぞ。天界は昇り易く、幽界にはおちにくいぞ。」(黒鉄の巻)
――人間は死後、皆極楽に行き、自分の命の最もふさわしい状態に置かれる。極楽にもピンからキリまであり、神の旨に添ふ極楽を天国と言い、添わない極楽を幽界と言う。神の理が判っただけ、自分がわかる。
・「人間の死後、自分の命(イノチ)の最も相応(フサワ)しい状態におかれるのであるそ。悪好きなら悪の、善好きなら善の状態におかれるのであるぞ。皆々、極楽行きぢゃ。極楽にもピンからキリまであるぞ。神の旨に添ふ極楽を天国と云ひ、添はぬ極楽を幽界と申すのぢゃ。心の世界を整理せよ。そこには無限のものが、無限にあるのであるぞ。神の理(ミチ)が判れば、判っただけ自分がわかる。」(黒鉄の巻)
――天人天使の行為は人民にうつり、人民の自由、能力の範囲内での行為はまた逆に、天界に反影する。天界のうつり方も、同じ日本人でも時と所によって違い、違ってうつるのがマコト。同じ数でも123と一二三は違ふ。
・「天人天使の行為が人民にうつるのであるなれど、人民の自由、能力の範囲に於ける行為は又逆に、天界に反影するのであるぞ、日本とカラ(支那中国)と土地が違ふように、日本人とカラ人とは違ふ、天界のうつり方も違ふのであるぞ。同じ日本人でも時と所によって違ふ。肌のこまかい絹と荒壁にうつる映画は同じでも少しづつ違ふようなもの、違ってうつるのがマコトであるぞ、同じ数でも123と一二三は違ふのであるぞ、判りて下されよ。新しき世界に進む大切ことぢゃ。」(五十黙示録/極め之巻)
――人民の肉体も心も天地も皆、同じものから同じ想念によって生れたから、同じ型、同じ性をもつ。天津神はイザナギ、イザナミの神と現われられ、成り成りの成りのはてにイザナギ、イザナミの命となられて、まず国土をつくり固められたことがこの世の元。東西南北の四方があり、八方と拡がり、八十となり、八百、八千と次々に拡がって、八百万(やをよろづ)となりなる。
・「人民の肉体も心も天地も皆同じものから同じ想念によって生れたのであるぞ。故に同じ型、同じ性をもっているぞ、そのかみの天津神はイザナギ、イザナミの神と現われまし、成り成りの成りのはてにイザナギ、イザナミの命となり給ひて、先づ国土をつくり固めんとしてオノコロの四音の島をならし八尋殿(やひろどの)を見立てられたのであるぞ、これがこの世の元、人民の頭に、東西南北の四方があり八方と拡がるであろうが、八十となり、八百、八千と次々に拡がりて八百万(やをよろづ)となりなるのであるぞ。」(五十黙示録/至恩之巻)
――思想は太神から出ているが、幽界からの力が強く加わっている。ネンは神界からの直々だから、悪の気を断たなければネンとはならない。
・「思想と申すのは広い意味で、太神から出てゐるのではあるが、幽界からの力が強く加わってゐるのぢゃ。ネンと申すのは神界からの直々であるぞ。悪の気、断たねばネンとはならんぞ。」(春の巻)
――天、地、人民それぞれに道があるが、次元が違うから、天の道を地に、人民にうつす時は、地の約束、人民の約束に従う。約束は神でも破れない。それを同じに説いたのが悪の教え。善にも悪にも外道がある。天、地、神、人、動物それぞれ、その性の高さ、清さ、大きさなどによって、それぞれ制限された自由がある。神から人民に与へられている光に向かうから、照らされて、光は﹅、真、善、美、愛となり、そのうらの〇、疑、悪、醜、憎となって現れる。光は生命あるものすべてから、その喜び度に正比例して出ているから、小さい生命からの光は判らない。
・「天には天の道、地には地の道、人民には人民の道あると申してあろう。同じ道であるが違ふのぞ。地にうつし、人民にうつす時は、地の約束、人民の約束に従ふのぞ。約束は神でも破れんのであるぞ。次元違ふのであるから違ってくるぞ。違ふのが真実であるぞ。それを同じに説いたのが悪の教。同じと思ふのが悪の考へ方であるぞ。上から来るものは光となって流れてくるのざ。光に本来影はないのであるが、動くから影がうまれる。それを影でない影と申すぞ。悪でない悪あると申してあろうがな。天には天の自由、地には地の自由、神には神の、人民には人民の、動物には動物の、それぞれの自由あるぞ。その性の高さ、清さ、大きさなどによって、それぞれの制限された自由あるぞ。自由あればこそ動くぞ。自由とは弥栄のこと。光は神から人民に与へられてゐる。光に向かふから照らされる。光は﹅、真、善、美、愛となり、又そのうらの〇、疑、悪、醜、憎となり現はれるぞ。御用の善となり、御用の悪となる。悪にくむは外道の善、外道とは上からの光が一度人民界にうつり、人民界の自由の範囲に於ける凸凹にうつり、それが再び霊界にうつる。それが幽界と申してあらう。その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、外道の悪となるのざ。善にも外道あるぞ。心得よ。光は天のみでなく、地からも人民からも、すべて生命あるものから出てゐるのであるが、その喜びの度に正比例してのものであるから、小さい生命からの光は判らんのであるぞ。」(春の巻)
――原因の原因はなかなか見当がとれない。人民の智の中に現われてくるときは、もはや大神ではなく、神。
・「人民の智の中に現われてくるときは、もはや大神ではないぞ。神であるぞ。原因の原因は中々見当とれん。」(夏の巻)
――フトマニとは大宇宙の法則であり秩序。神示では012345678910と示し、その裏に109876543210がある。〇九十(マコト)の誠で、合せて二十二、富士(普字、不二)(フジ)。神示の始めに、二二(富士)は晴れたり日本晴れと示している。
・「フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、〇九十(マコト)の誠であるぞ、合せて二十二、富士(普字、不二)(フジ)であるぞ。神示の始めに示してあろう。二二(富士)は晴れたり日本晴れぞ。」(五十黙示録/至恩之巻)
――三千世界の岩戸開きだから、少しでもフトマニに違ってはならない。【とつぎ】の道から改めよ。出舟の港は夫婦からで、ミトノマグハヒでなければ正しき秩序は生れない。素盞鳴命が、人民の罪を背負って下さる救ひ主の大神と判らなけば、岩戸はひらけない。新しき世界の宮は土地(神智)(十千)、永遠に在す神が住む(澄む、数務)土地(十千)、下には永遠の腕(宇丁)(うで)がある。
・「今の学者には今の学しか判らん、それでは今度の岩戸ひらきの役にはたたん、三千世界の岩戸ひらきであるから、少しでもフトマニに違ってはならんぞ。廻りくどいようなれど【とつぎ】の道から改めなされよ、出舟の港は夫婦からぢゃと申してあろう、ミトノマグハヒでなければ正しき秩序は生れんぞ、素盞鳴命が、荒ぶる神、悪神ではなく、人民の罪を背負って下さる救ひ主の大神であることが判らねば、岩戸はひらけんぞ。新しき世界の宮は土地(神智)(十千)であるぞ、住所(数真意)(すまい)であるぞ、永遠に在(おわ)す神は住む(澄む、数務)土地(十千)であるぞ、下には永遠の腕(宇丁)(うで)があるぞ。」(五十黙示録/極め之巻)
――元は同じでも氷・水・水蒸気と違うように、地・天・神・人民・動物・植物それぞれの法則があり、秩序がある。霊界に起ったことは、そのまま現界にうつったり、物質界がそのまま霊界に反影したりしない。総てが太神の中での動きだから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行く、それをフトマニと言う。大宇宙の鉄則だから、太神の歓喜から生れたその法則、秩序、統一性を太神も破ることはできないが、無限角度をもつ球だから、いかようにも変化する。マニ(摩邇)の球ともいうその鉄則は、絶えず完成から超完成に向って弥栄すればこそ、呼吸し、脈拍し、進展して止まない。このこと判れば、次の世のあり方の根本がアリヤカとなる。
・「氷と水と水蒸気ぢゃと申してあろうがな、同じであって違ふのぞと知らしてあろう、地には地の、天には天の、神には神の、人民には人民の、動物には動物の、植物には植物の、それぞれの法則があり、秩序があるのであるぞ、霊界に起ったことが現界にうつると申しても其のままでうつるのではないぞ、また物質界が霊界に反影すると申しても其のままに反影するのではないぞ、総てが太神の中での動きであるから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行くのであるぞ、それをフトマニと申すのぞ、太神の歓喜から生れたものであるが、太神もその法則、秩序、統一性を破る事は出来ない大宇宙の鉄則であるぞ、鉄則ではあるが、無限角度をもつ球であるから、如何ようにも変化して誤らない、マニ(摩邇)の球とも申すのであるぞ。その鉄則は第一段階から第二段階に、第二段階から第三段階にと、絶えず完成から超完成に向って弥栄するのであるぞ。弥栄すればこそ、呼吸し、脈拍し、進展して止まないのであるぞ。このこと判れば、次の世のあり方の根本がアリヤカとなるのであるぞ。」(五十黙示録/碧玉之巻)
――用(ハタラ)きは地の現れ方。百は九十九によって、五十は四十九によって、二十は十九によって用(ハタラ)く場合、百も五十も二十も、天であり始め。フトマニとは二十の珠で、十九は常立。根本の宮を二十年毎に新しくするのは、二十年を一まわりと考へるのは地上的考え方で、十九年で一廻りして二十年目、
・「百は九十九によって用(ハタラ)き、五十は四十九によって、二十は十九によって用(ハタラ)くのであるぞ、この場合、百も五十も二十も、天であり、始めであるぞ、用(ハタラ)きは地の現れ方であるぞ、フトマニとは二十の珠であり、十九は常立であるぞ、根本の宮は二十年毎に新しく致さねばならん、十九年過ぎて二十年目であるぞ。地上的考へ方で二十年を一まわりと考へてゐるが、十九年で一廻りするのであるぞ、いろは(母)の姿見よ。」(五十黙示録/碧玉之巻)
――天のあり方、天なる父は5で、それを中心として、ものが弥栄えゆく仕組。それを人民は自分の頭で引き下げて4と見たから行き詰って、世界が難儀している。手足の指は何故に5本なのかが判っていない。
・「元は5で固めたのぢゃ、天のあり方、天なる父は5であるぞ。それを中心として、ものが弥栄えゆく仕組、それを人民は自分の頭で引き下げて4と見たから行き詰って世界の【難ぢう】であるぞ。手や足の指は何故に5本であるか、誰にも判るまいがな。」(五十黙示録/極め之巻)
――天の5を地にうつすと地の五則となる。天の大神の指も五本で、それを五度折って二十五有法となされ、五十をもととされた。神々、神心、神理、神気、神境の交叉弥栄は限りなく、これを五鎮と言う。上天・下地・照日・輝月・光星を五極、東木・南火・中土・西金・北水を五行、裸物・毛物・羽物・鱗物・甲物を五生、文則・武則・楽則・稼則・用則を五法と言うが、そのがあり、大神がまします。これが妙であり、奇であり、天の父の教であり、地にうつした姿。
・「天の5を地にうつすと地の五則となるのぢゃ、天の大神は指を折りて数へ給ふたのであるぞ、天の大神の指も五本であるから、それを五度折りて二十五有法となされ、五十をもととされたのぢゃ、神々、神心、神理、神気、神境であるぞ、この交叉弥栄は限りなし、これを五鎮と申すのであるぞ。上天、下地、照日、輝月、光星、これを五極と申すぞ。東木、南火、中土、西金、北水、これを五行と申す。裸物、毛物、羽物、鱗物、甲物を五生と申し、文則、武則、楽則、稼則、用則を五法と申すのぢゃが、それだけでは足りない、その中に〇があるのぢゃ、大神がましますのぢゃ、人民の頭では中々に理解出来んなれど、理解して下されよ。これが妙であるぞ、奇であるぞ、天の父の教であり、地にうつした姿であるぞ。」(五十黙示録/極め之巻)
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