宇宙

――【大宇宙】全大宇宙は神の中に育てられて、宇宙そのものが神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部。過去・現在・未来も、生前も死後の世界も、地上人、霊界人の中に神は存在し、呼吸し、生長している。

【天国と地獄】天国を思念する処に地獄を生じ、善を思念するから、悪を生み出す。天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因。生前も、生後も、地獄はない。本質的には、善と真は有で、悪と偽は影だから、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。総てが神から流れ来て、自らは何ものをもつくり得ないと信じている善は、無限の力をうけて益々弥栄する。総てを自らつくり得、生み得るものと信じている悪には、本来の力はなく、影にすぎない。

【輪廻転生と浄化・弥栄】人の生後(=地上人の生活)は、生前の生活の延長であり、また死後の生活にそのままにして進み行く。立体となり、立々体と進み、弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。浄化、弥栄することによって善悪美醜のことごとくは歓喜となるから、神の中に神として総てが弥栄する。

【神に戒律なく、審判もない】悉くの行為が賞罰されなければならないと考える地上人的思念は、神の意志、行為、弥栄と離れたもの。歓喜に歓喜浄化を裁く〝審判〟はなく、弥栄進展を停止断絶する〝審判〟はない。神自らを切断する審判はあり得ず、戒律はつくり得ず、すべては湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らなければならない。

【三界の真実】生前の霊人は、生後の地上人を生み、地上人は死後の霊人を生み、死後人は生前の霊人を生み、極まるところなくして弥栄えるから、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られ、常に歓喜に向ってのみ進む。これは、あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象悉くも同様。地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つ。時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならない。

・「全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である。過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している。故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。故に、歓喜が生ずる。本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する。生前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様である。生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない。何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。地上人的に制限されたる感覚の範囲に於ては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、それは何れもが弥栄である。これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、そこには地獄的なものはあり得ない。川上で濁しても川下では澄んでいるのと同様である。要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのである。この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。しかし、天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。本来なきものをつくり出し、一を二にわける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。地獄なきところに天国はない。天国を思念する処に地獄を生ずるのである。善を思念するが故に、悪を生み出すのである。一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。即ち、一は二にして、二は三である。生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総ては〇である。〇はでありであり、と集約される。故に、これらの総ては無にして有である。人の生後、即ち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く、立体となり、立々体と進み、弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。悉くの行為が批判され、賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである。歓喜に審判なく、神に戒律はない。戒律は弥栄進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化を裁く。このことは神自らを切断することである。裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべては これ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない。行為は結果である。思念は原因である。原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む。生前の霊人は、生後の地上人を生む。地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む。となりて廻り、極まるところなくして弥栄える。以上述べた処によって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるであろう。されば、常に歓喜に向ってのみ進むのである。これは只、霊人や地上人のみではない。あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである。生前の呼吸はそのまま生後、死後に通ずる。地上に於ける総ては、そのままにして生前なるが故に、生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活がある。地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像の如く感覚されるものである。しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばならぬ。時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ。」(二日んの巻)

――宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。絶えず鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつある神そのものが弥栄であり、大歓喜。は大歓喜の本体であり、はその用で、それは善・悪でも、真・偽でも、美・醜でも、愛・憎でも、プラス・マイナスでもない。ただ大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄する。善と真の因、悪と偽の因、美と愛の因、醜と憎の因が結合して、二義的には現われ、働き、存在としてまたはたらく。神の歓喜をそのまま受け入れる霊人とは、常に対応して、地上人として地上に生命し、また霊人として霊界に生命する。霊人は、内にある情動によって定まるために、空間・一定した方位・時間もなく、ただ情動の変化があるのみ。宇宙の総てを創られたもののように考えるが、創造されたものではない。創造されたものなら、永遠性はあり得ない。

・「霊人に空間はない。それは、その内にある情動によって定まるが故である。また、その理によって一定せる方位もない。また時間もなく只情動の変化があるのみである。地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。創造されたものならば、永遠性はあり得ない。宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのであ る。存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。それはであり、なるが故である。は大歓喜の本体であり、はその用である。それは、善でもなく悪でもない。真でもなく偽でもない。美でもなく醜でもない。また愛でもなく憎でもない。プラスでもなければマイナスでもない。しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の因と愛の因とが結合し、醜の因と憎の因とが結合して、二義的には現われ、働き、存在として、またはたらく。善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しない。これらの総ては、これ生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあるがためである。神が意志するということは、神が行為することである。そして、さらに神の行為は、弥栄であり、大歓喜である。神の歓喜をそのまま受け入れる霊人とは、常に対応し、地上人として地上に生命し、また霊人として霊界に生命する。」(二日んの巻)

――宇宙世界、星の世界の必然からのもの。天に星があるように、地には塩がある。シホ、コオロコオロにかきならして大地を生みあげた如く、ホシをコオロコオロにかきならして天を生みあげた。空は天にも地の中にもある。天にお日さまがあるように、地中にも火球がある。同じ名の神が二つあるのは、大切なこと。

・「偶然と申すのは、宇宙世界、星の世界の必然からのものであって偶然ではないぞ、天に星のある如く地には塩があるのであるぞ、シホ、コオロコオロにかきならして大地を生みあげた如く、ホシをコオロコオロにかきならして天を生みあげたのであるぞ。天の水、地の水、水の中の天、水の中の地、空は天のみにあるのではないぞ、地の中にもあるのぞ、天にお日さまある如く地中にも火球があるぞと申してあろう、同じ名の神二つあるぞ、大切ことぢゃ。」(五十黙示録/星座之巻)

 

 

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