――【日の霊人、月の霊人、半物半霊の霊人】神の歓喜を内的にうけ入れる「日の霊人」の群も、神の歓喜を外的にうけ入れる「月の霊人」の群も無数にある。神の歓喜をそのまま自分の歓喜とする「日の霊人」は、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、何等それについて疑いをもたず、直接、地上人として生れ出ることは極めてまれ。神の歓喜を歓喜として感じて受け入れる「月の霊人」は、これを味わおうとして批判的となるため、二義的の歓喜となる。そのため、日の霊人と月の霊人は同一線上には住み得ず、別の世界を創り出し、原則として互に交通し得ない。地上人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる月の霊人の喜びから地上に生れてくる場合が多く、神に接し得るが、全面的には解け入らない月の霊人の性をそのままうけつぐ場合が多い。この二つの世界の中間に、「その融和、円通をはかる霊人」とその世界が存在し、これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄する。別の世界に住んでいる地上人と霊人との間も、同じように直接、全面的な交流はなく、その中間の半物、半霊の世界と霊人が、常にその円通をはかっている。以上の如くで、日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なもの。
・「神の歓喜を内的にうけ入れる霊人の群は無数にあり、これを日の霊人と云う。神の歓喜を外的にうけ入れる霊人の群も無数にあり、これを月の霊人と云う。月の霊人の喜びが、地上人として地上に生れてくる場合が多い。日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、直接、地上人として生れ出ることは、極めてまれである。月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。故に、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない。地上人は、この月の霊人の性をそのままうけついでいる場合が多い。日の霊人は、神の歓喜を、そのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いをもたない。月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜としてうけ入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となる。ために二義的の歓喜となる。故に、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。おのずから、別の世界を創り出すが故に、原則としては、互に交通し得ないのである。この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのであ る。地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ない。それは、別の世界に住んでいるためであって、その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっている。以上の如くであるから、日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである。」(二日んの巻)
――【霊人と地上人】霊人たちは、各々異なった方向に向かっているように見えても、向いている方向は常に、中心という意味の〝北〟。北は〝歓喜の中の歓喜〟で、それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっている。故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、真理と受け取られる歓喜(絶えざる愛)を得ることによって、生長し、生命している。霊人は各々が独立していて、他からの障害をうけず、各自の眼前にある相応な光・太陽・太陰・歓喜を、身体全体を集約した〝額〟で見、額で感じて受け入れる。地上人も、その内的真実のものは額でのみ見得る。地上人の肉眼に見え、うつるものは、映像された第二義的なもの。肉眼に映じたままのものが霊界に存在するわけではないから、霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ない。霊界では、思念による思念の世界につながるから、思念が違うものは同一の場所には存在しない。歓喜すればこそ太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得している霊人たちを、多くの地上人は〝邪霊〟〝邪鬼〝と云い、彼らが住む所を地獄と呼ぶが、本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。地上人は、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交するが、同一方向には向っていない。そこに、地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じてくる。
・「霊界人は、その向いている方向が北である。しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味である。中心は、歓喜の中の歓喜である。それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである。霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、その向っている方向が中心であることを理解しなければならない。故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである。地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる。上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない。各々が独立していて、他からの障害をうけない。しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。それは、霊人たちが目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのであるが、その場合の額は、身体全体を集約した額である。地上人に於ても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものである。映像として真実であるが、第一義的真理ではない。故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのでない。内質に於ては同一であるが、現われ方や位置に於いては相違する。故に、霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのである。霊人の中では太陽を最も暗きものと感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長していると云う、地上人には理解するに困難なことが多い。要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、且つうけ入れて生活しているのであるが、其処にも、それ相当な歓喜があり、真実があり、生活がある。歓喜のうけ入れ方や、その厚薄の相違はあるが、歓喜することに於ては同様である。歓喜すればこそ、彼の霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。この霊人たちを邪霊と呼び、邪鬼と云い、かかる霊人の住む所を地獄なりと、多くの地上人は呼び、且つ感じ、考えるのである。しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。霊界に於ては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない。何故ならば、思念による思念の世界につながる故である。現実的にみては折り重なって、この霊人たちが生活するとも、全然その感覚外におかれるために、その対象とはならない。地上人に於ても原則としては同様であるが、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交する。交叉混交はしても、同一方向には向っていない。そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じてくるのである。」(二日んの巻)
――【悪的感覚と悪的実体は別】地上には地上の順序、法則があり、霊界には霊界の順序、法則がある。原因の世界である霊界の秩序・法則は、そのまま地上にはうつらず、地上の約束はそのまま霊界では行ない得ない等、総ては神の歓喜によって秩序され、法則され、統一されている。その秩序、法則、統一は、完成から次の完成へと弥栄の波調をもって呼吸し、脈拍し、歓喜するのが生命の本体。限られたる智でこの動きを見ると、悪を許し、善の生長弥栄を殺すように感じる場合もあるが、これこそ善を生かして、更に活力を与え、悪を浄化して必要の悪とし、必然悪として生かす、生きたる真理の大道であり、神の御旨。本来、悪はなく、闇はなく、地獄はなく、生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜。一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は極めて低い囚われの水の世界であったことを体得し、一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様。地上人的感覚では、二の天界に進んだ時に一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。悪的感覚と悪的実態は自ら別で、この実状を感覚し分け得、体得する霊人は極めて少なく、地上人では極めて稀。悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て、祖先あるいは原因の世界より伝えられた一つの因果であるという平面的、地上的考え方は誤っている。来るべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなり、更に弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知って努力しなければならない。
・「地上には、地上の順序があり、法則がある。霊界には、霊界の順序があり、法則がある。霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。その秩序、法則、統一は、一応 完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである。これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もある。しかし、これこそ善を生かして、更に活力を与え、悪を浄化して必要の悪とし、必然悪として生かすのである。生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。本来 悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である。一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であったことを体得する。更に一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ない如く、地上人に到りては極めて稀であることを知らなくてはならない。悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て祖先より、或いは原因の世界より伝えられたる一つの因果であると云う平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べた処で明白となり、己を愛するは、先ず悪の第一歩なりと考える、その考えが悪的であることを知らねばならぬ。来るべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなる。しかし、それが最高の理想郷ではない。更に弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなければならぬ。」(二日んの巻)
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