――任せきって安心できる神をつかみ、任せきらなければ、マコトの安心立命はない。大きな生命に通じるものに死はない。
・「まかせ切らねばマコトの安心立命ないぞ。まかせ切るには、まかせ切って安心出来る神をつかまねばならん。おかげ信心や病気治しの神ではまかせ切れまいがな。早う合点結構ぞ。大きな生命に通ずるものには死はないぞ。通じなければ死あるぞ。」(黒鉄の巻)
――真の信仰の第一歩は、この神と認めたら、理解して、任せきる。自分の中にあるものが、苦しみの神、因果の神を呼び寄せているのに、不足を言う者が多い。すべてを甘受して、処理せよ。
・「神まかせがよい人民であるぞ。この神とみとめたら理解して、マカセ切れよ。太元の神さまにホレ参らせよ。真の信仰の第一歩ぞ。雨降らば雨を、風ふけば風を、一先づ甘受せよ。甘受した後、処理して行かなならん。受けいれずにハネ返すのは大怪我のもと。何回でも何回でも同じことくりかえさねばならんことになるぞ。何か迫り来るのは、何か迫り来るものが自分の中にあるからぞ。内にあるから外から迫るのぢゃ。自分で呼びよせているのぢゃ。苦しみの神、因果の神 呼んでおいて、不足申している者 多いのう。自分で呼びよせながら嫌がってハネ返すテあるまいにのう。同じものでも表からと裏からとでは違ふのぢゃ。同じ目で見ても、ちがってうつるのぢゃ。心得よ。」(春の巻)
――馬鹿正直ではなく、頭と肚を使え。
・「馬鹿正直ならん、頭の体操、ヘソの体操大切ぞ。」(五十黙示録/五葉之巻)
――現在の仕事が御神業。自分の力が隠せないようでは大仕事はできない。取り越し苦労、過ぎ越し苦労はやめよ。自分が招いた仕事だから、不満をもってはならない。
・「出し切って了ふと味がなくなるぞ、自分の力がかくせぬようでは大仕事は出来んぞ。取り越し苦労、過ぎ越し苦労はやめて下され、地球と言ふ大船に乗って一連託生ぢゃ、現在の仕事が御神業と心得よ、不満をもってはならん、そなたが招いた仕事でないか。この道理判らねば迷信の迷路に入るぞ。」(五十黙示録/五葉之巻)
――任せきるからこそ、神に通じる。進まないのは遅れていること。真剣なら失敗してもよいが、省みることで数倍することが得られる。下座の行、大切。
・「信じ切るからこそ飛躍するのぢゃぞ。不信に進歩弥栄ないぞ。肉体霊も外の自分であるぞ。まかせ切るからこそ神となるのぢゃ。神に通づるのぢゃ。他力で自力であるぞ。真剣なければ百年たっても同じ所ウヨウヨぢゃ。一歩も進まん。進まんことはおくれていることぞ。真剣なれば失敗してもよいと申してあろうが。省みることによって更に数倍することが得られるのであるぞ。いい加減が一旦成功しても土台ないからウタカタぢゃ。下座の行、大切。」(春の巻)
――自分の力が隠せないようでは、頭に立つことはできない。
・「そなたは自分の力を人に見せようとしてゐるが、無邪気なものぢゃのう。自分の力がかくせぬようでは、頭に立つこと出来んぞ。何も彼も出して了ったのでは味がなくなるぞ。」(月光の巻)
――信じたら任せきれ。任せきると、開けてくる。まかせきるとひらけてくる。任せきらないから、いつも自分で迷ひの世界をうみ出して、自分で自分を苦しめて悟り切れない。
・「そなたは何時もあれもよいらしい、これもよいようだと迷って、迷ひの世界をうみ出し、自分で自分を苦しめて、気の毒よなあ。これと一応信じたらまかせきれよ。梶をはなして鳴門の渦の中にまかせきれよ。まかせきるとひらけてくるのぢゃ。悟れたようでゐて、そなたが悟り切れんのはまかせきらんからぞ。」(月光の巻)
――他力の中の自力だが、自力も大切。
・「他力の中の自力ぢゃ。ぢゃと申して、まかせきったと申して、ふところ手ならん。自力大切ぢゃ。」(春の巻)
――ものの調和が判れば、正しい霊覚が生まれ、神の姿が映ってくる。
・「肚立つのはめぐりあるからぞ。(中略)ものの調和が判れば、正しき霊覚が生れるぞ。神の姿がうつって来るぞ。」(黄金の巻)
――ものは額の目で見れば間違いない。霊界では時間や空間が違って現れるから、無いのと同様。悪の霊は、ミゾオチに集まって頑張る。
・「もの見るのは額でみなされ。ピンと来るぞ。額の判断 間違ひなし。額の目に見の誤りなし。霊界には時間、空間は無いと申してゐるが、無いのでないぞ。違って現はれるから無いのと同様であるぞ。あるのであるぞ。悪の霊はミゾオチに集まり、頑張るぞ。」(黄金の巻)
――自分で判断できることを人に聞くのは、人間の悪い癖。神にきけば神に責任をきせることになる。
・「自分で判断出来ることを何故にきくのぢゃ。神にきけば神に責任をきせるのと同様ぞ。人間の悪いくせぞ。出直せよ。」(月光の巻)
――二二(フジ)は晴れたりとは、真理の世に出ること。天のこと地にうつすときは、正しくうつせ。邪気が入ってはならない。
・「二二(フジ)は晴れたりとは、真理の世に出づことぞ。天のこと地にうつすときは、地の力出るように、地の息吹き通ふように、弥栄するように、念を地の力と現はれるように、正しくうつして下されよ。邪気入ってはならん。」(春の巻)
――神は理屈ではなく、理だから、ただ求めるよりほかに道はない。神に呼びかけ、総てを投げ出し、まかせ切れば、神は喜びの光となって現われる。理屈の信仰に囚われると邪道。
・「神は理屈ではない。理であるぞ。生きた自由自在の、見当とれん、絶対であるぞ。只求めるより他に道ないぞ。親呼ぶ赤児の声で神を求めよ。神に呼びかけよ。総てを投げ出せよ。まかせ切れよ。神は喜びの光となって、そなたに現はれて来るぞ。理屈の信仰に囚はれると邪道。赤児心の理解は第一ぞ。」(黒鉄の巻)
――何事も体験。迷信と思う中に正信があり、正信と思う中に迷信が多い。神の気が通ったら、その気を人間にうつす救ひの御役を結構につとめあげよ。
・「何事も体験結構。今の人民の迷信と思ふものの中に正信あるぞ。正信と思ふものの中に迷信多いぞ。理解は正信。神の気通うたら、その気を人間にうつす御役、救ひの御役を結構につとめあげて呉れよ。自分の自由にならんことは大き自分が自由にしてゐるのであるぞ。神となれば、神人となれば何事も心のまま。神とは神、大神とは一十(カミヒト)のこと。」(黒鉄の巻)
――理屈も必要だが泡の如きもので、そなたの財産にはならない。体験の財産は死んでからも役にたつ。
・「そなたは中々に立派な理屈を申すが、理屈も必要ではあるが、あわの如きもの、そなたの財産にはならんぞ。体験の財産は死んでからも役にたつ。」(月光の巻)
――宇宙のすべてがつながりだから、拝み合い、親しみ合い、和せよ。理(リ)に向っていると、いつの間にか神の気、神の光がいただける。体得しなければ、何度か話を聞いたり拝んだりくらいでは、理は判らない。
・「宇宙のすべてがつながりであるぞ。石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。手と頭のようなもんぢゃ。拝み合へよ。親しみ合へよ。和せよ。和すと自分となるのぢゃぞ。自分 大きく、明るくなるのぢゃ。豊かにうれしうれしぢゃ。赤いものの中にゐると赤くなって行く。理(リ)に向ってゐると、いつの間にか神の気いただくぞ。神の光がいただけるのぢゃ。二度三度、話きいたり、おろがんだりくらいで理は判らん。神は解らん。体験せねばならん。一方的では何事も成就せん。もちつもたれつであると申してあろう。」(春の巻)
――和が根本、和がよろこび。神から分れたから、神に帰って、神の心に戻って和さねばならない。神なくして和はない。和すには神を通じて和す。神にかへって、神に通じなければ、世界に和平はなく、よろこびはない。
・「和が根本、和がよろこびぞ。和すには神を通じて和すのであるぞ。神を通さずに、神をなくして通づるのが悪和合。神から分れたのであるから神に帰って、神の心に戻って和さねばならん道理。神なくして和ないぞ。世界平和と申してゐるが、神にかへって、神に通じねば和平なく、よろこびないぞ。十二の玉を十まで生んで、後二つ残してあるぞ。」(秋の巻)
――人間、山、川、動植物も何もかもみな友。一人の友を得たら一つの世界を得たことになるから、友をつくれ。友は己で、皆己となれば己がなくなり、永遠に生きられ、無限の己となる。御神前で拝むもよいが、空・山・川・野菜・魚と拝めば、また己となる。
・「友つくれと申してあろうが、友と申しても人間ばかりでないぞ、山も友ぞ、川も友ぞ、動植物も友ぞ。一人の友を得たら一つの世界を得たことぞ、何も彼も皆友ぢゃ、友は己ぢゃ、皆己となれば己なくなるぞ、己なくなれば永遠に生きられる、無限の己となるぞ。御神前で拝むもよいなれど、空を拝めよ、山も川も拝めよ、野菜拝めば野菜が、魚を拝めば魚が神となり、又、己となるのぢゃ。足らぬことないクワシホコチタルのウラヤスの自分となるのであるぞ。」(五十黙示録/五葉之巻)
――不運は孤独から。友つくることは己をつくること、新しき世界をつくること。一人ではマコトの道を生きては行かれない。人間だけではなく、山・川・動物・植物・大地・大空、何もかも皆友となれば、己がなくなり、永遠に生命する無限の己となる。御神前で拝むばかりでは狭い。拝むことは和すことで、友をつくる秘訣。友を己とすることは、友にささげること。お尻を持ち込まれるのは、持ち込まれるだけのわけがある。世が迫ってくると、先にお尻をふかなけばならないことも出てくるが、後では神がそなたのお尻をきれいにふいて下さる。
・「そなたはいつも孤独、そなたの不運は孤独からぢゃ。友をつくりなさい、友つくることは己をつくることと申してあろうが。友つくることは新しき世界をつくることぞ。一人の世界は知れたものぞ。一人ではマコトの道を生きては行かれんぞ。友と申しても人間ばかりではないぞ。山も友、川も友、動物も植物も皆友ぞ。大地も大空も皆友となるぞ。何も彼も皆友ぢゃ、皆己ぢゃ。皆々己となれば己はなくなるぞ。己なくなれば永遠に生命する無限の己となるのぢゃ。御神前で拝むばかりでは狭いぞ。野菜拝めば野菜が、魚拝めば魚が己となるのぢゃ。拝むことは和すこと。和すことが友つくる秘訣ぞ。友を己とすることは、己を友とすることぢゃ。友にささげることぢゃ。親は子にささげるからこそ、子が親となるのぢゃ。判りたか。赤ん坊のお尻をふいてやることもあるであろうがな。そなたが赤ん坊と同じであったら出来ない芸当ぞ。お尻を出すものがあっても、決して怒ってはならん。子のお尻と思って きれいにふいてやれよと申してあろうが。お尻を持ち込まれるのは、持ち込まれるだけのわけがあるからぞ。利子は後から支払えばよいと、そなたは思ってゐるが、先に支払ふこともあるのであるぞ。先にお尻をふかねばならんことも、世が迫ってくると出てくるのぢゃ。その代り、後では神がそなたのお尻をきれいにふいて下さるぞ。ぶつぶつ申さずに勇んでやって下されよ。」(月光の巻)
――世が迫って岩戸があいたから、利子を先に払うこともある。お尻を出されるには、出されるだけの原因が己の中にある。お尻を出したら、怒らずにお尻をキレイにふいてやれ。気持よくふいてやれば、やがては神がそなたのお尻をふいて下さる。
・「お尻を出したらお尻をキレイにふいてやれよ、怒ってはならん、お尻を出されるには、出されるだけの何かの原因が己の中にあるのであるぞ。利子は後からでよいと申すが先に払ふこともあるぞ、先にお尻をふいてやらねばならんこともあるぞ。世が迫って岩戸があいたのであるから、先にお尻をふく事も出てくるぞ、思わぬお尻もち込まれることもあるなれど、怒ってはならん、気持よくふいてやれよ、やがては神がそなたのお尻をふいて下さるぞよ。」(五十黙示録/五葉之巻)
――大神の中で弥栄で、総てが神の子。色とりどりの組合せ、ねり合せこそ花がさく。一つ家族だから、大き心、広き心、長い心 結構。
・「気の合う者のみの和は和ではない。色とりどりの組合せ、ねり合せこそ花さくぞ。総てが神の子ぢゃ。大神の中で弥栄ぞ。大き心、広き心、長い心 結構。中々に合わんと申すなれど、一つ家族でないか。心得なされよ。」(月光の巻)
――肉体の自分と魂の自分との和合ができたら、もう一段奥の魂と和合せよ。更にまた奥の自分と和合せよ。一番奥の自分は神。高い心境に入ったら、神を拝む形式はなくても、為すこと、心に浮ぶこと、それ自体が礼拝となる。
・「自分と自分と和合せよと申してあるが、肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。更に、又奥の自分と和合せよ。一番奥の自分は神であるぞ。高い心境に入ったら、神を拝む形式はなくともよいぞ。為すこと、心に浮ぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。」(月光の巻)
――よろこびは神だから、和すことによって起こる。自分と自分とが和合する「外(肉体)のよろこび」のはじめは、食物、次は異性。霊の食物を食う「元のよろこび」を、なぜ求めないのか。神示は見るばかりでは身につかないから、よく噛みしめて味はひて喜びとせよ。次の「神との交わり(神との結婚)」は、永遠に続く結びで、かつて知らざりし驚きと絶対の大歓喜が生れる。神は理屈では判らないし、神が判っても、交わらなければ、神ととけ合わなければ真理は判らない。神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のもの、消えざる火の大歓喜。これがまことの信仰。
・「はじめの喜びは食物ぞ。次は異性ぞ。何れも大きな驚きであろうがな。これは和すことによって起るのぞ。とけ合ふことによって喜びとなるのぢゃ。よろこびは神ぢゃ。和さねば苦となるぞ。かなしみとなるぞ。先づ自分と自分と和合せよと申してあろうが。そこにこそ神の御はたらきあるのぢゃ。ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。元の喜びは霊の食物を食ふことぞ。その大きな喜びを与へてあるのに、何故 手を出さんのぢゃ。その喜び、おどろきを何故に求めんのぢゃ。何故に神示を食べないのか。見るばかりではミにつかんぞ。よく噛みしめて味はひて喜びとせんのぢゃ。喜びが神であるぞ。次には神との交わりぞ。交流ぞ。和ぞ。そこには且って知らざりし おどろきと大歓喜が生れるぞ。神との結婚による絶対の大歓喜あるのぢゃ。神が霊となり花むことなるのぢゃ。人民は花よめとなるのぢゃ。判るであろうが。この花むこはいくら年を経ても花よめを捨てはせぬ。永遠につづく結びぢゃ。結婚ぢゃ。何ものにも比べることの出来ぬおどろきぞ。よろこびぞ。花むこどのが手をさしのべてゐるのに、何故に抱かれんのぢゃ。神は理屈では判らん。夫婦の交わりは説明出来まいがな。神が判っても交わらねば、神ととけ合はねば真理は判らん。なんとした結構なことかと人民びっくりする仕組ぞ。神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。消えざる火の大歓喜ぞ。これがまことの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。早う神のふところに抱かれて下されよ。二月一日。」(月光の巻)
――現実の事のみではなく、常に永遠の立場に立って処理せよ。生きることは死に向って進むことだから、マコトに生きる大道に目ざめてくれ。奥山は神、幽、現の三界と通ずるところで、八尋殿の左と右に宮が建ち、奥にも一つ。奥山は善人の住むところ、悪人の休む処。
・「現実の事のみで処してはならん、常に永遠の立場に立って処理せよと申してあろうがな、生きることは死に向って進むこと、マコトに生きる大道に目ざめてくれよ、神示を始めから読めば何事もありやかぞ。奥山はあってはならん無くてはならん存在であるぞ。善人の住むところ、悪人の休む処と申してあろう、奥山は神、幽、現の三界と通ずるところ。八尋殿の左と右に宮が建つ、奥にも一つ。」(五十黙示録/紫金之巻)
――何ごとが起っても、苦しいことでも悲しいことでも喜んで迎へよ。人民が喜ぶ心は神の喜びを生み、天地が晴れて輝く。先ばかり見ずに、足もとに気をつけろ。みなが仲よう相談して、悪いことは気つけ合って進め。
・「何ごとが起ってきてもそなたは先づよろこべよ。それが苦しいことでも、かなしいことでも喜んで迎へよ。喜ぶ心は喜び生むぞ。人民よろこべば神よろこぶぞと申してあろが、天地はれるぞ。輝くぞ。そなたは先ばかり見てゐるぞ。足で歩くのぢゃ。足もとに気つけねばならんぞよ。そなたは自分ひとりで勝手に苦しんで御座るなれど、みなが仲よう相談なされよ。相談結構ぢゃなあ。相談して、悪いことは気つけ合って進んで下されよ。」(月光の巻)
――考へ方は幾通りもある。深刻な顔をしている場合の考えは迷い。苦を楽しむより、楽をたのしむ心は高い。苦しむと曲り、楽しむとのびるぞ。苦は曲がることだから、苦をつくり出してはならない。
・「そなたはいつも深刻な顔をして考へ込んでゐるが、考へ方にも幾通りも御座るぞ。考へは迷ひと申してあるのは、そなたのような場合ぞ。そなたは苦に向ひ苦にかったつもりで、苦を楽しんで御座るが、苦は曲ることぞと知らしてあろうが。苦をつくり出してはならんぞ。苦を楽しむより、楽をたのしむ心高いぞと知らしてあろう。苦しむと曲り、楽しむとのびるぞ。二月十日。」(月光の巻)
――悪を悪と見るのが悪。外には外のよろこび、内には内のよろこびがあり、二つが和して一となる。一が始め、元で、和して動き、動いて和せ。
・「外は外にあり、内は内にあり、外は内を悪と見、内は外を悪として考へるのであるが、それは善と悪でないぞ。内と外であるぞ。外には外のよろこび、内には内のよろこびあるぞ。二つが和して一となるぞ。一が始めぞ、元ぞ。和して動き、動いて和せよ。悪を悪と見るのが悪。」(秋の巻)
――神は愛と現はれ、真と現はれ、その根はよろこび。正流の歓喜は愛の善となって現はれて、 真の信と現はれる。外流のよろこびは、愛の悪となって現れる。
・「神は愛と現はれ、真と現はれるのであるが、その根はよろこびであるぞ。神の子は皆よろこびぢゃ。よろこびは弥栄ぞ。ぢゃがよろこびにも正流と外流とあるぞ。間違へてならんぞ。正流の歓喜は愛の善となって現はれて、又 真の信と現はれるぞ。外流のよろこびは愛の悪となって現れるぞ。何れも大神の現れであること忘れるなよ。」(冬の巻)
――宇宙は総てにおいても個々においても、よろこびによって創られてよろこんでいる。故に、故によろこびなくして生きず、合一はない。悪を抱き参らせて進むところにマコトの弥栄ある。大完成から超大大完成に向って常に弥栄している。
・「悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのであるぞ。神は弥栄ぞ。これでよいと申すことないのであるぞ。大完成から超大大完成に向って常に弥栄してゐるのであるぞよ。宇宙は総てに於ても、個々に於ても総てよろこびからよろこびに向って呼吸してゐるのぞ。よろこびによって創られてよろこんでゐるのであるぞ。故によろこびなくして生きないぞ。合一はないぞ。」(冬の巻)
――太神の許し給えるものなるが故に存在するから、悪を抱け、消化せよ。
・「悪を抱けよ。消化せよ。浄化せよ。何も彼も太神の許し給えるものなるが故に存在する。」(月光の巻)
――愛と真と合一し、するところに、陰と陽と合一、弥栄したところによろこびがある。
・「愛は愛のみではよろこびでないぞと申してあろう。真は真のみでは喜びでないと申してあろうが。愛と真と合一し、するところに、陰と陽と合一、弥栄したところによろこびあるのぢゃぞ。」(冬の巻)
――恨みの霊はなかなかとけないから、間違いでもとらわれると、恨みがまといつく。
・「恨みの霊は中々にとけんぞ。思ひは能(ハタラ)き、実在と申してあらうが、間違ひでも恨まれると、恨みがまとひつくぞ。」(黒鉄の巻)
――心して神を求め、心して幽界からのキを断て。判ったと思ったら、天狗。
・「心して神を求め、心して幽界からのキ断ちて下されよ。判ったと思うたら天狗ぞ。かへりみるとよくなる仕組。」(黒鉄の巻)
――咎める心は天狗。今生きているものは、それが許されているからで、排すな。
・「とがむ心、天狗ぞ。神の前にへり下り、へり下っても尚過ぎると云ふことないのぢゃ。人間は、色とりどりそれぞれの考へ方を自由に与へてあるのざから、無理に引張ったり、教へたりするでないぞ。今あるもの、今生きてゐるものは、たとへ極悪ざと見えても、それは許されてゐるのであるから、あるのであるぞ。他を排すでないぞ。」(黒鉄の巻)
――放っておいても、要らないものは無くなり、要るものは栄えるが、人の努力によってはよりよくなり、省みなければ生まれた時より悪くなる。物の世界から霊の世界、物と霊との大調和した、限りなき光の「無限の世界」へ入るから、無限の生命が与へられ、無限の喜び得ることができる。まことの神をつかめ。よいものをつくるには、大きな手数がかかる。
・「人民には分別与へてあるから反省できるのであるぞ。反省あるから進展するのであるぞ。ほっておいても、いらんものは無くなり、いるものは栄へるのであるが、人民の努力によっては、よりよくなるのぢゃ。省みねば生れた時より悪くなると申してあろうが。慾、浄化して喜びとせよ。喜び何からでも生れるぞ。広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢゃ。無限の喜び得ること出来るのぢゃ。無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。真理を知ることが、無限を得ること。まことの神をつかむことぞ。よいものつくるには大き手数かかるのぢゃ。ふところ手でいては出来ん。手出せ、足出せよ。」(春の巻)
――深く省みて、深く恥ぢておそれ、心して慎めば、直ちによき神界との霊線がつながり、その日その時からよくなってくる。気持が曲ったら霊線が切り替えられる。人の前での懺悔は、神をだまし、己をだますことになる。
・「ざんげせよと申しても、人の前にざんげしてはならんぞ。人の前で出来るざんげは割引したざんげ。割引したざんげは神をだまし、己をだますこととなるぞ。悔ひ改めて下され。深く省みて下され。深く恥ぢおそれよ。心して慎しんで下されよ。直ちによき神界との霊線がつながるぞ。霊線つながれば、その日その時からよくなってくるぞ。気持が曲ったら霊線が切り替えられる。」(月光の巻)
――同じことを繰り返しているように見えるが、世界は一段ずつ進んでいるからこそ、行きあたって行き詰まって、省みる時(さとりの時)が与えられる。裸になってぶつかれば、神様も裸になって抱いてくださる。
・「一切のものは(ウズ)であるぞ。同じことくりかへしているように、人民には、世界が見えるであろうなれど、一段づつ進んでいるのであるぞ。木でも草でも同様ぞ。前の春と今年の春とは、同じであって違って居らうがな。行き詰りがありがたいのぢゃ。進んでいるからこそ、行きあたり行きつまるのぢゃ。省みる時あたえられるのぢゃ。さとりの時与えられるのぢゃ。ものは、はなすからこそ摑めるのぢゃ。固く握って戸しめていてはならんのう。扉あけておけと申してあろうが。着物ぬいで裸体となることつらいであろうなれど、ぬがねば新しい着物きられんぞ。裸になってブツカレよ。神様も裸になってそなたを抱いてくださるぞよ。重い石のせたタクアンはうまいのであるぞ。」(春の巻)
――太神の真中にとけ入る=新しき霊界つくる=念を入れかへる。
・「念入れかへるぞ。念入れかへるとは、新しき霊界つくることぞ。新しき霊界つくるとは、太神の真中にとけ入ることぞ。」(春の巻)
――永遠弥栄の生命を元として考えて、早く体得せよ。正しき光の道によれ。これぞと思う理(ミチ)の人についていくのが一番よいが、見出すのは難しい。正しき光の道によれば、一月で見違える程になる。涙流し、汗流し、血流して、死んだ気で神示(フデ)を自身の身にうつせ。一日一度は便所へ行かなければならないように、天災や地変は、大きな肉体の応急処置の現れ。
・「これぞと思ふ人があったら、その理(ミチ)の人について御座れよ。一寸先見へん人民ぢゃ。先達の後からついて御座れ。それが一番よいことぢゃ。人、見出すこと六ヶ敷いのう。十年、二十年行じても、目あて違ってゐたら何にもならんぞ。このほうの道へ御座れ。正しき光の道によれよ。十日で、一月で見ちがへる程になるぞ。死んだ気で神示(フデ)をそなたの身にうつせよ。涙流せよ、汗流せ、血流せよ。天災や地変は大き肉体の応急処置の現れであるぞ。部分的に、人間苦しめる様に思ふてはならん。一日一度は便所へ行かなならんであろうがな。人間、この世の五十年をもととして考へるから判らなくなるのざ。永遠弥栄の生命、早う体得結構。」(春の巻)
――大局から見れば、世はよいに向って弥栄えている。やがては春が訪れる。ここぞと見極めたら、理解に向ってひたすらに進め。
・「まことの光の道に行き、進めよ。ここぞと見極めたら、理解に向ってひたすらに進まねばならん。理屈いらん。宇宙はこの方の中にあるのぢゃ。このほうぢゃ。世が段々せまって悪くなるように申してゐるが、それは局部的のこと。大局から見れば、よきに向って弥栄えてゐるぞ。夏が暑いと申してブツブツ申すでないぞ。秋になるぞ。冬もあるぞ。冬ばかりと考へるでないぞ。やがては春が訪れるのぢゃ。いづれも嬉し嬉しとなる仕組。」(春の巻)
――その人によってふさわしい行がある。身につかん行は、いくらしても何もならない。より高い聖所へ参って、魂のアカ落せ。アカを落さずに、神の光が見えないと、われよしで言っている。全体の為 奉仕するのはいいが、自分すてて全体なく、自分ないぞ。全体を生かし、全体と共に部分の自分が弥栄える。
・「その人によってふさわしい行がある。誰でも同じでない。一合食べる人もあれば一升食べる人もあるぞ。身につかんもの、身につかん行は、いくらしても何もならん。いらん苦労はいらんと申してあろう。風呂には時々入るが、魂の風呂に行く人 少ないぞ。より高い聖所へ参りて魂のアカ落せよ。神示よんで落して下されよ。アカ落さずに神の光見えんと申して、おかげないと、われよし申して御座るなれど、風呂に入らずに、アカつくとは怪しからんと申すのと同じでないか。何故に判らんのぢゃ。全体の為 奉仕するはよいが、自分すてて全体なく、自分ないぞ。全体を生かし、全体と共に部分の自分が弥栄えるのであるぞ。早合点 禁物。」(春の巻)
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