――神は神の中に、宇宙を生まれた。
・「神は神の中に、宇宙を生み給うたのであるぞ。善の祈りには善、悪の祈りには悪、祈りの通りに何も彼も出て来ること、まだ判らんか。時節には時節のことと申してあらう。」(黄金の巻)
――神が人間になって働く。
・「人間無くて神ばかりでは、この世のことは出来はせんぞ。神が人間になって働くのぞ。判りたか。」(黄金の巻)
(黄金の巻)(黄金の巻)
――〇がムスビで、弥栄、喜び。〇にかえり、〇によって結ばれる。
・「一はいくら集めても一ぢゃ。二も三も四も五も同様ぞ。〇にかえり、〇によって結ばれるのぢゃ。〇がムスビぞ。弥栄ぞ。喜びぞ」(月光の巻)
――人民は神の臍とつながっているから、神人。ととつながって、更に大きな
につながっているからこそ動きがあり、それぞれのハタラキがあり、使命を果たし得る。全部が合一しては力が出ない。心の中の中の中の心の中には
が植付けてあるが、心(外の心)が真っ暗。
・「人民は神のへそとつながってゐるのであるぞ。へその緒さへつながって居ればよく、神人であるぞ。と
とつながって更に大き
につながってゐるからこそ動きあり、それぞれのハタラキあり、使命を果たし得るのであるぞ。同じであって全部が合一しては力出ないのであるぞ。早う心いれかへと申してあるが、心とは外の心であるぞ。心の中の中の中の心の中には﹅が植付けてあるなれど、外がまっくらぢゃ。今迄のやり方では行けんこと判りて居らうがな。いらんものは早うすてて了へよ。直々の大神様は二(ツキ)の大神様なり。」(秋の巻)
――人間は小宇宙で、神のヒナガタ。宇宙は霊の霊と物質とからなり、人間も同様。宇宙にあるものは皆人間にあり。人間にあるものは皆宇宙にある。
人間には物質界を感知するために五官器があり、霊界を感知するために超五官器がある。神界は五官と超五官と和して知り得る。霊的自分を正守護神、神的自分を本守護神(大神の歓喜)、幽界的自分が副守護神。
・「宇宙は霊の霊と物質とからなってゐるぞ。人間も又同様であるぞ。宇宙にあるものは皆人間にあり。人間にあるものは皆宇宙にあるぞ。人間は小宇宙と申して、神のヒナガタと申してあらう。人間には物質界を感知するために五官器があるぞ。霊界を感知するために超五官器あるぞ。神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ。この点 誤るなよ。霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。幽界的自分が副守護神ぢゃ。本守護神は大神の歓喜であるぞ。」(冬の巻)
――総ては大宇宙の中にあり、大宇宙である大神の中に大神が生み給うた。これをわきまえれば、善悪のことがよく判って来る。人間の生活は霊的生活、言の生活。肉体は食べ、霊は言を食べている。
・「総ては大宇宙の中にあり、その大宇宙である大神の中に、大神が生み給ふたのであるぞ。このことよくわきまへて下されよ。善のこと悪のこと、善悪のこと、よく判って来るのであるぞ。故に、人間の生活は霊的生活、言の生活であるぞ。肉体に食ふことあれば霊にもあり、言を食べているのが霊ぞ。霊は言ぞ。この点が最も大切なことじゃから、くどう申しておくぞ。」(冬の巻)
――霊界に於ける自分は、先祖との交流、交渉が深い。祖先霊には、神界に属するものと幽界に属するものがあり、中間に属するものもある。神界に属する祖先は正流に属し、正守護神の一柱は正流を通じて自分に反応してくる。幽界に属する祖先は外流に属し、副守護神の一柱は外流を通じて自分に反応してくる。外流には、己の心の中にその霊と通ずるものあると、動植物霊も交ってくることもある。
・「霊界に於ける自分は、殊に先祖との交流、交渉深いぞ。よって、自分の肉体は自分のみのものでないぞ。先祖霊と交渉深いぞ。神はもとより一切の交渉あるのであるぞ。その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとあるぞ。中間に属するものもあるぞ。神界に属するものは、正流を通じ、幽界に属するものは外流を通じて自分に反応してくるぞ。正流に属する祖先は正守護神の一柱であり、外流に加はるものは、副守護神の一柱と現はれてくるのであるぞ。外流の中には、動植物霊も交ってくることあるぞ。それは己の心の中にその霊と通ずるものあるためぞ。」(冬の巻)
――「神と霊」「幽」「現」あわせて、三。神界から真直ぐに感応する想念を正流、幽界を経てまた幽界より来る想念を外流という。人間の肉体は霊のいれもの。人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすから、肉体的動きの前に霊的動きが必ずある。
・「神と霊は一つであって、幽と現、合せて三ぞ。この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ。故に肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もない。神界から真直ぐに感応する想念を正流と申す。幽界を経て又幽界より来る想念を外流と申すぞ。人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものであるから肉体的動きの以前に於て霊的動きが必ずあるのであるぞ。故に人間の肉体は霊のいれものと申してあるのぞ。」(冬の巻)
――物質界は霊界の移写で衣だから、霊界と現実界、 霊と体とは殆んど同じもので、同じ形をしている。人間は霊界より動かされるが、人間自体が醸し出した霊波は、反射的に霊界に反影する。人間の心の凸凹によって、一は神界に、一は幽界(人間の心の影が生み出したもの)に反影する。
・「又 物質界は、霊界の移写であり衣であるから、霊界と現実界、又 霊と体とは殆んど同じもの。同じ形をしてゐるのであるぞ。故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ。人間は霊界より動かされるが、又 人間自体よりかもし出した霊波は反射的に霊界に反影するのであるぞ。人間の心の凸凹によって、一は神界に、一は幽界に反影するのであるぞ。幽界は人間の心の影が生み出したものと申してあろうがな。」(冬の巻)
――生きても死んでも、物質界と霊界とのつながりは無くならない。神や祖先まつる際に物質の目当てを作るのは、未熟な事。
・「死んでも物質界とつながりなくならん。生きてゐる時も霊界とは切れんつながりあること、とくと会得せよ。そなた達は神をまつるにも、祖先まつるにも物質のめあてつくるであろうがな。それはまだまだ未熟な事ぞ。」(冬の巻)
――祖先は過去の自分で、子孫は新しき自分、未来の自分。兄弟姉妹は最も近き横の自分。人類は横の自分で、動・植・鉱物は更にその外の自分で、切り離すことはできない。
・「死後に於ても、現実界に自分がある。それは丁度、生きてゐる時も半分は霊界で生活してゐるのと同じであるぞ。自分の衣は自分の外側であるぞ。自分を霊とすると、衣は体、衣着た自分を霊とすれば家は体、家にゐる自分を霊とすれば土地は体であるぞ。更に祖先は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ。兄弟姉妹は最も近き横の自分であるぞ。人類は横の自分、動、植、鉱物は更にその外の自分であるぞ。切りはなすこと出来ん。」(冬の巻)
――縦には神とのつながりが切れないから、神は自分である、一切は自分であり、一切がよろこび。
・「自分のみの自分はないぞ。縦には神とのつながり切れんぞ。限りなき霊とのつながり切れんぞ。故に、神は自分であるぞ。一切は自分であるぞ。一切がよろこびであるぞ。」(冬の巻)
――霊体一致が喜びの根本。霊は常に体を求め、体は霊を求めているから、常に一切を浄化しなければならない。霊なるが故に、一つの肉体に無数の霊が感応し得る。高度の霊は無限に分霊する。
・「一切が自分であるためぞ。常に一切を浄化せなならんぞ。霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。霊体一致が喜びの根本であるぞ。一つの肉体に無数の霊が感応し得るのざ。それは霊なるが故にであるぞ。霊には霊の霊が感応する。又 高度の霊は無限に分霊するのであるぞ。」(冬の巻)
――心のいれかへをせよとは、新しき神界との霊線をつなぐこと。我が強いと、我の強い霊界との交流が段々と強くなって我のむしが生れ、我の病になってくる。その病は自分では判らず、わけの判らない病が流行るというのはこのこと。肉体の病ばかりでなく、心の病が激しくなっている。病を殺して無くそうとする今日までの教では、この病は治らない。悪を殺すというやり方ではなく、病を浄化しなければならない。
・「心のいれかへせよとは新しき神界との霊線をつなぐことぞ。そなたは我が強いから、我の強い霊界との交流が段々と強くなり、我のむしが生れてくるぞ。我の病になって来るぞ。その病は自分では判らんぞ。わけの判らん虫わくぞ。わけの判らん病はやるぞと申してあるが そのことぞ。肉体の病ばかりでないぞ。心の病はげしくなってゐるから気付けてくれよ。人々にもそのことを知らせて共に栄えてくれよ。この病を治すのは、今日までの教では治らん。病を殺して了ふて、病をなくしようとて病はなくならんぞ。病を浄化しなければならん。悪を殺すと云う教や、やり方ではならんぞ。悪を抱き参らせて下されよ。」(月光の巻)
――人間の使命の最も大切なことは、自分はタテにもヨコにも無限につながっているから、その調和をはかること。霊が元。二重三重人格は、二重三重のつきものの転換によるもので、群集心理は一時的の憑依霊。
・「二重三重人格と申すのは、二重三重のつきものの転換によるものであり、群集心理は一時的の憑依霊であると申してあろうがな。霊が元と申してくどう知らしてあろうが。人間は現界、霊界共に住んで居り、その調和をはからねばならん。自分は自分一人でなく、タテにもヨコにも無限につながってゐるのであるから、その調和をはからねばならん。それが人間の使命の最も大切なことであるぞ。」(冬の巻)
――絶対の責任は神、相対の責任は人民。親や師より、神を愛せば、その親や師は神からさらに愛される。
・「世界平とう、胸の掃除からハラの掃除ぞ。理智がまことの愛ぞ。(ア九(ク))も神の御子。絶対の責任は神、相対の責任は人民。親よりも師よりも神愛せよ。その親、師は神から更に愛されるぞ。」(黄金の巻)
――人間は、人間に知れる神の働きのみを見て、神そのものと思う。神は人の命で、人は神のいれもの。
・「人間には神は知れんものぞ。神のはたらきのみ、やっと知れるぞ。神の能(ハタラ)きは千変万化、能(ハタラ)き見て神そのものと思ふは人間心。(中略)神は人となりたいのぢゃ。人は神となりたいのぢゃ。霊は形を形は霊を求めて御座るのぢゃ。人は神のいれもの、【神は人のいのち】。」(黄金の巻)
――神は神体や神殿ではない。
・「神体や神殿が神ではないぞ。神でもあるぞ。取違ひ禁物。」(黄金の巻)
――神が主で人民が従なのを逆にしたから、世が乱れている。結構すぎて、人民は天地の御恩を忘れている。
・「神が主であり人民が従であると申してあろう。これを逆にしたから世が乱れてゐるのぞ。結果あって原因あるのでないぞ。今の人民、結構すぎて天地の御恩と申すこと忘れてゐるぞ。いよいよとなって泣面せねばならんこと判りてゐるから、くどう気付けてゐるのぢゃ。マコトのことはトリの年。」(秋の巻)
――理(ミチ)ふめとは、生みの親と同じ生き方、同じ心になれということ。大神の中に神を生み、神の中に人民を生んだから、神も人間も同じ。大神が弥栄なら、神も人民も弥栄。自分の中に自分を新しく生むときは、自分と同じカタのものを生む。
・「神も人間も同じであると申してあろう。同じであるが違ふと申してあろう。それは大神の中に神を生み、神の中に人民生んだためぞ。自分の中に、自分新しく生むときは、自分と同じカタのものを生む。大神弥栄なれば、神も弥栄、神弥栄なれば人民弥栄ぞ。困るとか、苦しいとか、貧しいとか、悲しいとか云う事ないのであるぞ。理(ミチ)ふめと申すのは、生みの親と同じ生き方、同じ心になれよと申すことぞ。人民いくら頑張っても神の外には出られんぞ。神いくら頑張っても大神の外には出られんぞ。」(夏の巻)
――人間は霊人のカタシロになるからこそ、養われ、成長していく。愛から離れた理解はなく、善から離れた真理はない。
・「愛からはなれた理解はないぞ。善からはなれた真理はないぞ。タネなくて芽は出ん道理。(中略)人間は霊人のカタシロになるからこそ養はれてゐるのぢゃ。成長して行くのぢゃ。血は愛によって生き、愛はヨロコビによって生きるのぢゃ。ヨロコビなき所に愛はないのざぞ。﹅ないところ生命(イノチ)栄えんぞ。」(黒鉄の巻)
――学も我も出さない、練り直して澄んだ水晶がよい。人間は神の子だからこそ、悔い改めなければならない。真なき愛の道、悲しみの喜びから生まれるのが罪の子。
・「学出すから、我出すから行き詰るのぞ。生れ赤児と申すのは学も我も出さん水晶のことぞ。ねり直して澄んだ水晶結構。(中略)人間は罪の子でないぞ。喜びの子ぞ。神の子ぞ。神の子なればこそ悔い改めねばならんぞ。真なき愛の道、悲しみの喜びからも生れることあるぞ。それは罪の子と申すのであるぞ。」(黒鉄の巻)
――土でつくって神の気を入れて人間をつくったというのは、竜神は進化して行く地から竜神と、退化していく天からの竜神が結ばれて人間となるということ。
・「竜神と申してゐるが竜神にも二通りあるぞ。地からの竜神は進化して行くのであるぞ。進化をうそざと思ふは神様迷信ぞ。一方、天からの竜神は退化して行くのであるぞ。この二つの竜神が結ばれて人間となるのであるぞ。人間は土でつくって、神の気入れてつくったのざと申してあらうがな。イワトしめとイワトひらきの二つの御用のミタマあると申してあらうが。ミタマの因縁恐ろしいぞ。」(白銀の巻)
――身も心も嬉し嬉しなるのが、まことの神。神は人間の命、人間は神の容れもの。人間の窮まるところは神。霊人は中間の存在。
・「身も心も嬉し嬉しなるのがまことの神ぢゃ。ものの嬉しさだけではゼロぢゃ。たまの嬉しさだけでもゼロぢゃ。よく心得なされよ。死後のみ説く宗教はゼロの宗教ぢゃ。迷ふでないぞ。この世で天国に住めんもの、天国に行ける道理ないのぢゃと申してあらう。神は人間の命、人間は神の容れものであると申してあらう。人間の極まるところは神であるぞ。霊人は中間の存在ぞ。人間は神への土台ぞ。」(黒鉄の巻)
――真の自由は大神のみにあり、人間には自由はなく、自由の影があり反影がある。自由の反影だから、悪にも善にも陽にも陰にも為し得るし、進歩・弥栄する。人間が自由とする悪自由は首をくくるもので、善自由こそが真の自由。+(陽)の陰には-(陰)があり、-の陰には+があり、その和の状態が〇であり(イノチ)する。中界は天と地の中間で、死後にまず落ち着く初めての世界。
・「人間に自由はないのであるぞ。真の自由は、大神にのみあるものぞ。大神の自由の一部が御喜びと共に神に流れ入り、神に流れ入った自由は、又神の喜びとなって人間に流れ入るから、人間自身は自由をもってゐると信ずるのであるぞ。本質的には自由はないのであるぞ。人間には自由の影があり、反影あるのざ。それを人間は自由と心得てゐるのであるぞ。自由の反影あるから、悪にも善にも、陽にも陰にも為し得るのであるぞ。又進歩、弥栄するのであるぞ。悪自由を、人間は自由と心得てゐるが、それは自由ではなく、自分自身首くくるものぞ。善自由こそ真の自由であるぞ。自由は神から流れ出ると申してあらう。他の世界と交流するは、他の世界に住む人間を通じてするのであるぞ。世界とは人間のことでもあるぞ。人間が世界であるぞ。よく心得なされよ。+(陽)と-(陰)と〇とであるぞ。+の陰には-があり、-の陰には+がある。その和の状態が〇であり
(イノチ)するのであるぞ。+は+のみでは力ないぞ。-は-だけでは力ないぞ。+と-とだけでも動きないぞ。生命の喜びないのであるぞ。よく心得よ。〇
があって+-があり、+-があり
があって和があるのであるぞ。ここの道理よく得心、合点せよ。+は人間にとって直接の喜びでない。
がぢきぢきの喜びぞ。-も直接ではなく、
が直接の喜びであり、その二つが和し
して嬉し嬉しと弥栄えるのであるぞ。天地の中間を中界と申すぞ。天の息吹きと地の息吹きの中間ぞ。天国へ行くのも、行かんのも先づ落ちつく、死後の始めての世界であるぞ。」(白銀の巻)
――「もの」はものの生命だけ、「霊」が真の生命、霊につけられた「霊の霊」が主。あるために人間となり、人間なるが故に神となり、神なるが故に喜び。他のいきものにも
はあるが、外の
。
・「祈りとは意が乗ることぞ。霊の霊と霊と体と合流して一つの生命となることぞ。実力であるぞ。想念は魂。魂は霊であり、霊の世界に属し、霊に生きるのであるぞ。ものは霊につけられたもの、霊の霊は、霊につけられたものであるぞ。ものにはものの生命しかない。真の生命は霊であるぞ。生命のもとの喜びは霊の霊であるぞ。霊の霊が主ざと申してあらう。奥の奥の奥のは大神に通ずる
であるぞ。喜びであるぞ。
ある為に人間となり、人間なるが故に神となり、神なるが故に喜びであるぞ。他のいきものにも
はあれど、外の
であるぞ。」(黒鉄の巻)
――心を柔らかくして任せきれば、神がうつるが、心の通りにうつる。人間は肉体をもっている間も、その霊は霊の国に住み、霊の霊は、霊の霊の世界に住んでいる。愛は脈うち、真は呼吸する。肉体では、肺臓は呼吸し、心臓は脈うつ、この二つが一つで肉体を生命し、喜びと三つが一つである。
・「神がうつらぬと申してゐるが、心をやはらかくしてマカセ切れば刻まれるぞ。平かにすれば正しく写り、凸凹(デコボコ)すれば曲ってうつる。神の前に固くなってはならぬ。人間は肉体をもってゐる間でも、その霊は、霊の国に住んで居り、霊の霊は、霊の霊の世界に住んでゐるのであるぞ。この道理よくわきまへよ。愛は脈うってゐるぞ。真は呼吸してゐるぞ。肉体にあっては肺臓は呼吸し、心臓は脈うつ、この二つが一つであって、肉体を生命する。喜びと三つが一つであるのぞ。霊にあっては霊の心臓、霊の肺臓、よろこびあるぞ。」(黒鉄の巻)
――神の姿は総てのものに現われているが、一度にすべてを見てのみ込もうとしても判らないから、判るところから気長に神を求めよ。総ては神から流れ出ているから、神にお願いして実行しなければならないという、判り切った道理が、疎かになっている。そこに天狗が出ている。
・「神の姿は総てのものに現われてゐるぞ。道ばたの花の白きにも現われてゐるぞ。それを一度に、すべてを見せて、のみこませてくれと申しても判りはせんぞ。判るところから、気長に神求めよ。総ては神から流れ出てゐるのであるから、神にお願ひして実行しなければならん。この判り切った道理、おろそかにして御座るぞ。そこに天狗出てゐるのぞ。」(夏の巻)
――天の理と人の理とは、同じであって、違う。人民は神のいれもの。神のと人間の
が通じていれば後は自由で、神の〇と人民の〇を同じようにしておかなければならないというのは間違い。人民には人民の自由があるから、神のやり方と自ら違うところあってよい。
・「人民は神のいれものと申してあろう。神のと人間の
と通じて居ればこそ呼吸するのぢゃ。
と
と通じて居ればそれでよいのぢゃ。神の
と人民の
と通じて居るならば、神の〇と人民の〇と同じようにしておかねばならんと申すのは、人間の誤りやすい、いつも間違ひ起すもとであるぞ。神の〇と人間の〇と同じようにしておくと思うて、三千年の誤りしでかしたのぢゃ。
と
と結んでおけば後は自由ぢゃ。人民には人民の自由あるぞ。神のやり方と自ら違ふところあってよいのぢゃ。天の理と人の理とは同じであって違ふのざと知らしてあろう。心得よ。」(夏の巻)
――「人民は土でつくった」とは、神のよろこびで土をつくり、それを肉体のカタとし、神の歓喜を魂としてそれにうつして、神の中に人民をイキさしている。総てを土でこねてつくり上げたのでは、マコトの親子ではない。
・「人民は土でつくったと申せば、総てを土でこねてつくり上げたものと思ふから、神と人民とに分れて他人行儀になるのぞ。神のよろこびで土をつくり、それを肉体のカタとし、神の歓喜を魂としてそれにうつして、神の中に人民をイキさしてゐるのであるぞ。取り違ひせんように致しくれよ。親と子と申してあろう。木の股や土から生れたのではマコトの親子ではないぞ。世界の九分九分九厘であるぞ。」(秋の巻)
――神の子の本家は人間で、分家は動植物。神の前では同じだが、位置をかえると同じではない。
・「同じ神の子でも本家と分家とあるぞ。本家は人間ぢゃ。分家は動植物ぢゃ。本家と分家は神の前では同じであるが、位置をかへると同じでないぞ。」(秋の巻)
――親と子、上の子と下の子、左の子と右の子と違えばこそ、存在する。
・「親と子は、生むと生まれるとの相違出来てくるぞ。又上の子と下の子と、左の子と右の子とは違ふのであるぞ。違へばこそ存在する。」(秋の巻)
――外内と一つになり、二つになり、三つになったマコトの喜びとならなければ、弥栄はない。
・「外の喜びはその喜びによって悪をまし、内の喜びはその喜びによって善をますなれど、マコトの喜びは外内と一つになり、二つになり、三つになった喜びとならねば、弥栄ないぞ。」(秋の巻)
――人は神の喜びの子。人の本性は神なればこそ、天国へ自ずから行く。地獄はない。理屈を言わずに、神について御座れ。
・「神について御座れよ。理屈申さず、ついて御座れよ。地獄ないと申してあろう。人は神の喜びの子と申してあらう。人の本性は神であるぞ。神なればこそ天国へ自づから行くのぢゃ。住むのぢゃ。」(秋の巻)
――人民の善はそのまま霊人の善ではなく、そのまま霊人の悪ではない。心せよ。下々の神様も人民も、善だ悪だと言って、うそが上手になった。
・「人民、うそが上手になったから中々油断ならんぞ。下々の神さまも、うそ上手になったなぁ。善ぢゃ悪ぢゃと申してゐるが、人民の善はそのまま霊人の善でないぞ。そのまま霊人の悪でないぞ。心して呉れ。」(秋の巻)
Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.