日本島の人文がことごとく完全に滅びたことで、「山武姫大神」は、日の本に紛れ込んで以来の長き念願「限身現界での日の本奪取」に好い時期が来た、時説が到来したと、以前から抱いている志を貫き通すために力を集中した。「山武姫大神」はまず「神武天皇」の御身魂として出現し、さらに大神や部下の諸神霊を、皇族と大臣・中臣・小臣の身魂として植え付けて拡大。このため、日の本在来の諸神霊は、「十道行成大神」「青森白木上大神」「大力之神」を初めとして奮い立ち、決然と行動を起こして「山武姫大神」系諸神霊に反抗。ここに、駛身神霊界はまた大混乱があらわになる。
この「山武姫大神」系諸神霊と日の本在来の諸神霊との争闘は、日の本の歴史で、「神武天皇」東征途中における各所の戦闘として記されているが、事実は「四次元神霊界の戦争」で、三次元現界の事実ではない。即ち、「饒速日尊」は「十道行成大神」(註 饒速日尊は、皇統第23代天之忍穂耳天皇の皇子で、神武天皇東遷の時代とは遠く74代の天皇を隔てる御代の方)で、「長髄彦」は「青森白木上大神」なり。また、「兄猾」「弟猾」は「大力之神」なり。ところが、日の本在来の歴史は、「饒速日尊」以下を天皇に抗った叛乱の徒とする。これを四次元界の神霊的事実より見ると、むしろ「山武姫大神」こそ、古来個有の日の本を破壊しようとする纂奪者であり、侵入者である。
両神霊系間の争闘は一進一退で、いつ終わるかは見えなかった。やがて、「天照日大神」より
『日の本文化建直しの必要性と、やがて大地将軍の霊統たる明治天皇に一且時代を渡すべきことから、速やかに矛を収めて山武姫大神に委せよ』
との神勅が下る。「十道行成大神」以下は、止むを得ず戦闘を断念して、「山武姫大神」以下の指揮に従うことになった。
以上が神界・神霊界の消息で、これを記紀の伝える現界の物語と照合すると、興味深いものを覚える。すなわち、「神武天皇」東征の砌、「饒速日尊」征伐のため紀州南部に上陸された時、天皇はじめ全軍の将兵は悉く敵軍が発する妖気に酔い、前後不覚に眠り込んで動くことができなかった。眠っている間、天皇の御前に一頭の熊が現れ、天皇に「これより先に高倉下なる家があり、天より宝劔が降りた。その劔を取れば、全軍は再び眠っている状態からはっきり意識を戻す。」と告げる。天皇が高倉下に着かれると、劔が屋根を貫いて床に立っていた。天皇はその劔を取って戦い、全軍は正気を取戻して大勝利を得た。この劔を、後に大和国石上神宮に納め、神宝とされたという。以上の伝えられることを考えると、熊とは古来、日の本の皇太神の思いが凝って成った獣と言われ、すなわち「天照日大神」の神意を象徴するもの。(高倉下のは葺不合69代「神足別豊天皇」の皇子「高倉下尊」より出でしもの)また、この神劔は「天照日大神」が降された神勅そのものにして、「神武天皇」に敵対することを禁ずるもの。すなわち、「山武姫大神」に反抗するのを止めて、これに任せよとの、善一筋の天よりの御言葉を象徴したもの。このように日の本の伝説は、現実から見ると甚だしい嘘のように思われることが多いが、その荒塘無稽に似た事実が指し示す所を思い、神霊界の事実を考えてその意のある所を汲めば、やがて首肯(=もっともだと納得)する心理に到着する。
以上の如く、「山武姫大神」の日の本現界への進出は、統治神「天照日大神」の許容されるところであることから、日の本個有の諸神霊はその神勅を無視して正面よりこれに抗う理由はなく、やむなく裏面から秘かに「山武姫大神」の現界に対する劃策を防ぎ止める手段を廻らすこととなった。以上によって明らかなように、「神武天皇」の出現は「天照日大神」の御神意によるもので、大地変によって覆滅した日本文化を再建するためだった。ところが、この大神のお心を推察できない史家は、日本建国の時として後世より遡って「神武紀元」を定め、わずかに三千年の神国の歴史を誇ろうとするのは、かえって神威を冒瀆するものと云わざるをえない。
「神武天皇紀元」について在来史家は、「神武天皇」が賊徒を平定後、辛酉年正月元日、大和畝傍山橿原大宮で即位した年紀元元年とし、これを日本建国の始めと定めた。ところが、「皇祖皇太神宮」古文書に記す所によれば、前天皇「彦五瀬天皇」は、即位35年9月23日に皇弟「狭野尊」に譲位、同年御齢117歳で神幽り給うとあり。皇位を一日も空けてはならないという太古以来の代々天皇の譲位状況から見れば、「狭野天皇」もまた直ちに譲位されたのは確実。したがって、「神武天皇」の即位元年は、「彦五瀬天皇」の即位35年で、その践祚は、皇位を受けられた9月23日当日もしくはそれ以後の数日の間に行われたと推察される。したがって、「神武天皇」即位の儀式は当地の大地震後で、造営中の「皇祖皇太神宮」より神宝を取り出すために、天皇はみずから越中に赴いて神通川の対岸、遠見の里より「太神宮」を遙拝し、神宝を捧げ持って大和に帰還。天皇齢112歳の4月3日、畝傍山の「皇祖皇太神宮分宮」で、神宝をもって即位式を挙行。この即位式の時が天皇が皇位に就いた何年かは明らかではないが、4月3日は明らかなため、少なくとも字皇位継承と同年ではないことは確実。仮に、即位式を皇位継承2年の4月3日の事と考え、従来の各天皇はことごとく皇位継承の年に該天皇の即位元年とする定めに従えば、現在史家の唱える「神武天皇」即位元年、即ち紀元元年は天皇の皇位継承2年に当たり、1年の差違を生じることになる。この場合、天皇の即位が譲位の数年後とすれば、この差違は更に大となり、現在(昭和7年)2592年は皇紀2593年、またはそれ以上の年になることになる。この問題は、なお今後、詳細な調査によってやがて確定することができる。
最後に、以上の「神武天皇」に到るまでの葺不合72代の状況を拝察すると、現在、日本で定められているように、「神武天皇」即位元年をもって日本紀元となすべき根拠を、その何れの所でも見出せない。加えて、その紀元元年を記念して建国蔡を行うようなことは、全く意味がない事と言わざるを得ない。強いて言うと、当時日本の人文が完全に滅びたために、第2回岩戸閉めとして、日の本天皇は世界統一を一時放擲し、文化を逆輸入して、日本再建を開始した意義はあるが、これは単なる再建であり、決して日本建国ではない。したがって、皇統第1代天皇よりの真の歴史を拝察して、全時代を通じての現界的な区切りは、左記のようになされるのが極めて当然であり妥当。
一、「太古時代」 皇祖天日豊本葦牙気皇主天皇の御世、皇統第21代伊邪那岐天皇の御世まで。
二、「中古時代」 中興の御祖皇統第22代天疎日向津比売天皇の御世より、葺不合朝の終わり、第97代彦五瀬天皇の御世まで。
三、「近世時代」 再建の御祖皇統第98代神武天皇の御世より、皇統第219代孝明天皇の御世まで。
四、「現代」 皇統第220代明治天皇の御世より、現時まで。
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