後 土 御 門 天 皇
この頃、「八百八光神」「八百幡神」「八尾狐」「金毛九尾」と仏魔等の諸霊が、駛身界の各自各方面で大争乱を開始し、その反映がついに応仁の乱以降の戦国時代として現出する。
天皇の御世、文明3年詔。越中国婦見郡宮川郷公郷村赤上神明、「太古棟梁系図神宮、皇祖皇天照日大神宮」の修繕・建替に要する木取山20数ヶ所を授ける。当時、世は入り乱れた戦国の大混乱にあったが、皇室では依然として「皇祖皇太神宮」を深く心配し、「治国万民平安祈念」の御墨付を賜る。――「願仁与利 皇祖天照日大神宮並に神主竹内家替造普請木取山登志亭婦見郡新川郡之内仁大高山西新山洞山御鷹山笹津山寺井谷六ヶ所木地字名全部新川郡内立山薬師嶽山黒部毛勝山駒嶽山僧嶽山滝倉谷山北又谷山成谷山柏尾谷山別又谷山南又谷山阿部木谷山十五ヶ所木地字名全部永遠仁賜不事。」 神倭103代成仁 花押 文明三辛卯年3月16日 (勅使 権大納言正二位 源通秀 朝臣 権中納言正三位 藤原実久 朝臣)(「皇祖天照日大神宮」並びに神主職 竹内越後守惟義へ 竹内三郎修理太夫義信へ)
(備考 成仁天皇自ら御墨付で神倭103代と云っているが、息長帶天皇が皇統に漏れているため、103代となる――このように、特に神倭代と記すのを見れば、他の代はあってはならず、神武天皇を皇統第1代とするにおいて、特に神倭代と言う謂れはない。すなわち、皇室では、神倭代に対する葺不合代を当時認めており、天照日神宮とあることからも、上代に対する認識は当時充分にあったことを拝察する。)
一方、世情はますます混乱を重ね、仏魔の荒々しい勢いはいよいよ激しく、「皇祖皇太神宮」が跡形もなく消えたことを期して、長享2年、加賀・能登・越中における天台・真言・曹洞・浄土・真宗の僧徒士族を合して7000余、「皇祖皇太神宮」と、その摂社・末社・附近神社を襲撃して、その全部を破壊し終わった。これは、「山武姫大神」が皇位をかき乱すことに失敗した鉾先を転じて、万国棟梁「皇祖皇太神宮」の破壊を目指したもの。その鋭鋒が向く所では、いかに執拗で停止する所がないか、右によってその一班を察知できる。古来、北越の地に仏教が興隆した理由を考えるに、その他は皇祖皇太神宮の存する地で、しかも、太古以来の神器・神宝が秘蔵された地であることから、その地をぐるりと禍根で仏魔が密集し、その隙に投ぜんとしつつある危なきを思う時、恐ろしさに思わずぞっとすることを禁じ得ない。(註 第164章参照)
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