<出版にいたる経緯>

――「神霊正典」――

 海軍大佐・矢野祐太郎氏が、神啓神示の下に口述したものと、不敬罪の名の下に大井警察署に被拘禁中に特許されて記述したものを「神霊密書」として騰写印刷し、更に校訂補正して「神霊正典」として出版した。(昭和36年7月7日)矢野祐太郎氏が神示を受けた様態は、真実味を感得するに役立つと考えて、未亡人矢野シン子女史の口述のまま記述。(昭和7年6~7月、神示のまま誌すとして謹写)

 長尾千代松「矢野祐太郎(三条比古之)が書をかいた事情」(昭和36年)によると――矢野祐太郎は、一部の連中が国を誤った思想に国民を狩り立てているのを憂慮し、国民が「日本人の本当の姿と在り方を知る為の道しるべに」と、諸家の古文書やお筆先を検討。シン子の霊媒力と自身の審神(さんわ)眼で識ったところを、「神示現示による宇宙剖判(ほうはん)(開闢)より神政成就に到る神界現界推移変遷の概観。日本天皇発祥。世界統理・統理蜂起・統理復帰・神政復古の経緯」にまとめた。100部を謄写刷り、内容を「図表」にしたもの10本を作って、高松・久邇・東久邇・梨本・閑院・朝香・竹田の各宮家に献上、元警視総監赤松濃氏や同憂往来の諸氏に配布した。

――長尾千代松「神示現示の解」――

 「神示」とは、「天地根本大祖神」の御経綸を説くもの。宇宙剖判(天地開闢)よりこの方の、神の世界の過去における推移、現在の状況、将来の諸神霊の活動を説く。文化11年(1814年)冬至の日、黒住宗忠が昇る朝日を拝む「日拝(にっぱい)」の最中に天啓を得て、「(アマ)(テル)()大神」と一体になる天命直授(てんめいじきじゅ)あって以降、黒住(〇〇)金光(〇〇)天理(〇〇)大本(〇〇)の各教祖に神啓垂示ありしものと、その後、某方面に現れて垂示ありしもの。

 「現示」とは、世界人類の始祖たる、日の本御皇室の皇祖以来地上に建設されし「天地根本神」以下、皇大神達の神霊を奉斎せる「皇祖皇太神宮(すみおやすみらおおたましいたまや)」の御神体として、太古・上代の歴史に明示じせらるるもの。

 「神示(〇〇)」と「現示(〇〇)」とに現れた事実を照合すると、両者の説は全く合致し、少しの差異もない。この両者に基いて編纂されたものが、これで説き述べる「宇宙剖判より神政成就に到る神界現界推移変遷の概観」であり、「日本天皇の発祥、世界統理、統理放棄、統理復帰、神政復古の経緯」である。

 この古文書は、「神武天皇」以前の日の本の歴史と皇室の御系譜を骨子とし、真の歴史を意図的に歪めて書いた古事記、日本書紀、その他とは全然異なり、全く純粋で正しい日本歴史である。この古文書は、「応神天皇」の御代、既に渡来していた仏教、儒教の弘通が盛んとなり、唯一の日本を破壊しようとする形勢が顕著となってきたことから、異教徒の手によって神宝(カンダカラ)が跡方もなく消え去られることを考えて地中深くに隠されが、明治26年、地中より発掘された。

――矢野祐太郎の御神業――

 矢野祐太郎は史学経典に傾倒して、中学生の頃から海軍時代を経て最後の時まで、記・紀・上記・天津金木、竹内古文書から天理・金光・黒住・妙霊・大本・福島・九鬼など諸家の文献、新旧キリスト教、仏教は八宗の教理と、多くの書物などを読みあさって思索の日常を過していた。

 昭和7年の節分の夜、矢野は『今日まで口伝にも文書にも伝え遺して無いことをお前が余り熱心に聞くので神もついにお前の熱心に免じて此点までは教えたのであるから、お前は自分の頭に刻み込んだ其事を書き残せ』との神示を霊受。霊受直後、矢野が洗面器に半分ほどの鼻血を出したのは、神命の業に就く矢野の肉体が浄められたものと思われる。休養した矢野は、5日から一枚の原稿も一冊の参考書も用いず、既に神示されていたもの(説話)を喋った。偶にフッ途切れるので見ると、矢野は正座しながら腕組したままで天井を睨み、「ああそうですかウンウン」などと独り言を言っていた。シン子が尋ねると、「いまあそこ(天井)に神様が字を書いて教えて下さっていたので、それを読んでいたのだ」と、また喋り続ける。数日間で終わった説話(神話)が、シン子が集成した「此書」であり「図表」。

 矢野祐太郎が一番困ったのは、神名。記紀(古事記・日本書紀)でも、一体である神の御名の称え方が違っているが、その何れもが神聖さをもって貴いものとして称されていることから、この神名で表わすことにした。

――矢野シン子の御神業――

 昭和13年8月に矢野が東京巣鴨拘置所内で奇怪な急死。その遺志を継ぐことが使命と思ったシン子は、以来20余年間これらを探し続けたが、「図表」と「書き物」はわずかの部数しか作らなかった上に、事件当時、矢野のメモから頒布先を知った特高がその先き先を虱潰しに家宅捜し、没収しては焼き棄てたため、残存していないと悲観していた。ところが、昭和34年に「図表」が、昭和35年初秋には「本書」が、意外な処から手許に戻り、シン子は喜びのあまり踊り出す思いで、安部時敏先生に相談する。安部先生の案内で大阪真和会の会長・吉岡庄一先生に会い、本書の経緯と希望を述べたところ、吉岡先生は、本書の如きは跡形もなく消えたり埋もれたりされる底辺のものではなく、広く世に表わして、日本の国柄と世界に対する神様の御仕組を詳しく知ることは神業を助け世界平和に裨益することなので、一日も疎かに出来ない聖業で是非お手伝いしたいと引き受けて、間に何も解さず、「神霊密書」として印刷して発行することになった。

 昭和38年5月中旬、堺市の坂田義一氏の紹介で、シン子に用件があると言う中川治三郎という霊能者を急遽来訪。祐太郎もシン子も面識はなく、矢野の素行等を知るはずもない中川氏だったが、矢野が憑依して、「この度は自分が精魂を尽くした書き物が世の中に出る事になって有難い。明日、桃山御陵に参拝して、明治天皇様にこの本を出版することを報告し、出来たら一部明治天皇様に奉じてくれ」「昭和13年8月22日、自分は風邪を引いていたので風邪薬を渡されたが、それは他の薬物で、服めば死ぬことは知っていたが、自分の使命は「アノ本を完成し、それを赤鬼、白魔(ソ連と英米)の手の届かぬ所に残したことによって終わったから、承知の上で飲み下した。肉体を持っているうちに明治天皇様に最後の御挨拶を申し上げたかったが、残念だ。それで、明日はこの事を克く御記申上げてくれ」と話す。シン子は翌日、桃山に参拝して、以上の由をつぶさに言上した。

 矢野シン子――矢野は、自己満足や売名のために古来からの説諭を排して、新たな神相見や神界観を解いたのではない。日本を安国と拓き給うた国祖神や、日本人を天意奉行の「真人(しんじん)(まことの道を体得した人)」にと産み給うた国人祖(くにつかみ)のお導きのままに、その神意遂行の神業に真一文字に仕え奉った。真実は、いつも後ろに控えていて出しゃばらないのが本当の姿のようで、とりたてて言わないのが神道の本旨。その器をその人に感得せしめ、清浄な「奉行(上命を奉じて公事を執行する)」によって、世道人心を浄め啓かれるのが神の思召かと思う。本書から「言外の言」に心耳を傾け、更に高く更に深いものを正しく知得くださることを祈ると共に、本書出版に記した私の衷心を了知くださることを念願する。――

 長尾千代松(昭和36年夏)――近時国情が一変したので、この来歴である神界の事情を知るため、今一度本書を読みたいと思ったが手許にはない。例の100部も、特高の虱潰しの捜索でほとんどが没収されて焼かれたり、戦災で灰になったりした。信念の義人・加世田哲彦(海少佐)氏等を前にして口述した16個のトランク詰めの記録は、検事が「この中には国宝級と言ってよい重要な記録もあるので、自分が命に代えても保管するから安心しているように」と未亡人に約束したから、戦災からは安全に保管されているのではないかと思うが、この検事も最後には先生に心服したとして満州国に左遷され、先生の死で内地に返り咲いたが病死したから、記録の所在がわからない。一部くらいまだ誰かの手許に残っていそうなものだと随分方々に気を配ったが見つからないので、もう残っていないだろうとあきらめていた所、未亡人が「いま、知り合いがある役人に頼んで隠して貰っていたので助かったんですが、貴女が探しておられるときいたのでお役に立てば結構ですと送ってくださった。」と、書を持って来られた。そして未亡人は私に、矢野が「この種の問題は今日までには随分と研究が進んでいるはずなのに、誰もがその成果を発表しないので、後進者はいつもまた同じ道を同じ苦労で思索して行き、先人と同じ程度の事柄を識り得た頃には、もう自分の寿命が尽きる時という、一向に研究栄えが無い有様の繰り返しをやっている始末だが、幸い自分は今日までにこの道に躰を張って、漸くこの程度の事を知る事ができたし、それにまた神霊からも教えても戴けたので、ここにそれを書き遺して置く事にした。しかし、人にはそれぞれの立場がある。この自分の説を()しからぬと思う人もいるだろうが、そこが所謂(いわゆる)磨き合いと言うもので、それでこそ真実も判るのだから、ここではまず軒軽(けいけん)(軽快で作りのよい車)を論ぜず、自分がここで述べた事を足場にして、これ以上の事柄は誰かが(きわ)めて、その真の姿をなお一層顕示してくれれば、自分がこの本書を遺した事もまた無駄事では無かったと言えるだろう」と言った事があった。矢野のこの遺志を継承して、これが実現への道を拓くには、この本を手許に収蔵していたのでは駄目だから、なんとか良法を考えて欲しいという話になった 勿論、私も同じ考えだったので、道友の真和会会長・吉岡貴光先生の協力を得て、原本を再録し、先生の玉綸を(そこな)う事が無いよう、負荷の慎みを以て、未亡人に代って、有道諸賢(正道を行う多くの賢人)の浄らかな机に差上げることとした次第である。

――投獄されるまでの矢野祐太郎――

【生誕から結婚まで】

 矢野雄太郎は、明治14年3月15日、明治天皇のお召列車の運転に常に奉仕した鉄道技師矢野源次郎同テルの四男一女の長男として東京築地に生れる。築地中学、海軍兵学校を経て、同大学を卒業。明治39年12月(大尉時代)に、小樽市色内町雅楽川林二同リンの三女シンと結婚して三男一女をもうけた。

【海軍時代】

 日本海々戦には旗艦三笠に乗組んで参戦したが、統合司令長官の身辺で炸裂した敵弾の破片で負傷。この海戦で、伊集院大将発明の信管を使った日本軍の砲弾には不発弾が多かったため、矢野は大学を卒業すると、研究科進学を辞退し、呉工廠勤務を志望した。約2年で信管の改良に成功し、採用を具申するも、大将はそれを黙殺しようとしたため、矢野は信管の性能差を実験で立証。大将もついに新信管採用に同意した。

 次いで、艦政本部に転じた矢野氏は退役までの17年間、主として同本部に勤務した。大正2~5年、特別任務で大使館附武官として滞欧し、スコットランドの某造船所で英海軍が秘密裡に建造していた異形マストの軍艦の構造を探察(たんさつ)した。また、世界的な某秘密結社本部に潜入して、日本包囲覆滅(ふくめつ)(くつがえして滅ぼす)計画という重大情報を入手するなど、任務を果たした。

 帰国後、また艦政本部に戻った矢野は、艦艇の改装問題に手をつけ、骨に刻むような苦労で独創的な考えをあつめ、全世界が驚愕した(やぐら)式マストの雄姿を生み出した。当時の海軍の大砲は、素材の関係でさえも実弾発射では往々砲身に亀裂が生じ、これ以上の巨砲を望むのは無理だった。矢野はこの難関突破を試み、優秀な新合金の試作に成功、これを機に海軍は大艦巨砲時代に移行する。さらに、ボタン一つで全艦載砲を自在に捜査する電動装置を完成する等、英米海軍に比べて劣勢だった日本艦艇の戦闘力の強化に貢献。中佐としては破格の勲三等に叙せられた。

 八八艦隊問題では編成責任者の一人としてその実現に努力したが、大正11年の国会でこの案が否決されたため、矢野は加藤友三郎大臣に、海軍は決められた枠内で英米に劣らない高度な国防力を維持するための体質改善をする必要がある、出殻(だしがら)の俺はまず()めると申し出た。大臣からは「間もなく少将に昇進するからそれまで待て」とかえって慰留され、(らち)が明かないと考えた矢野は、兵は巧遅(巧みだが遅い)より拙速(やり方は下手だが速い)を尊ぶとばかり、独断で「本日予備役となりました」と各宮家に挨拶廻りをする。某官が早速、海軍は軍客の再編成を計らなければならない重大事に直面しているのに、矢野を予備にするとは遺憾と、大臣に電話したとか。驚いた大臣は矢野を呼び、軍の使命維持が君達の双肩で支えられようとしている時に、俺の顔を潰してまで罷めたいのかと怒って問いただしたが、事ここに到っており、予備編入を発令する。矢野は41才、階級は大佐だった。

 今次の戦争では、直ぐにニッケル硬貨が国民の手許から姿を消した。かつて矢野が、国内産出量が少ないニッケルを平時には貨幣として流しておき、一大事が起きた時はそれを回収して金属の器物を溶かして地金(じがね)に変えて兵器その他に使用すれば、莫大量のニッケルを常時活用しながら必要量を確保できると、ニッケル貨幣使用方の献策を上申しており、それが実施されたためだった。

 海軍を罷めた矢野は、「俺は素裸の男になって(かね)ての道の究明に専念して行くが、お前はその貧乏を苦にせずに俺についてくるか、それとも嫌なら暇をやるから里に帰れ」とシン子夫人に言う。シン子が、貧乏だろうが何だろうが文句を言わずに従っていくと答えると、「そうか()し」と言って、鰐皮の鞄を庭に持出して、中から全財産に関した書類を掴み出して焼き捨て、「俺はこれでサバサバとした貧乏になった」と。

【道の究明に向いながら】

 矢野は、皇道学、気学、霊数字で有名な武智音吉先生を田舎で朽ちさすのは日本の損失だと、ヨハネ黙示録の研究家で先生と道交がある内山氏を使者にして四国から東京に迎え、親友の山本英輔(海軍大将)に、「俺は貧乏で満足な世話もできないからお世話をしてくれ」と彼の家に寄寓させた。(これで矢野は約3年間、同先生について皇道学其他を存分に学ぶことができたと思われる。)

 終戦になってから、四日市の湯の山に移った武智先生の住まいを未亡人が「図表」を持って訪れ、図表に施してある色彩についての意見を求めた。武智同先生は一見するなり、「先生はどうして神の霊統とその活動を表わすこの色霊を知られたのですが、私はそれを知りたい。この図表は神意によらぬと、とても書けない物です。これはどうか同学の人達に分与する道を立てて下さい。」と感激して言われ、シン子夫人は、改めて図表がもっている意義について再認識する事ができたと喜ぶ。

【中国の革命を支援】

 また森格・鳩山一郎氏等と、中国の革命を援助しようと上海に渡ったが、この運動は失敗して、同志も四散していた。失望して内地に引揚げると言う二人と分かれて奉天に移った矢野は、浪花通に事務所を構え、張作霖とも連絡がとれ、さて活動開始という時、関東大震災の飛電を受け取る。矢野は後事を同志に托して、東京の山谷阪町の家に帰ってきた。

【出口王仁三郎師と大陸での宣道を計画】

 矢野一家が東京から綾部の上野町の自宅に引揚げた初冬、直ぐにやってきた保釈で出獄中の出口王仁三郎師が、「紅卍字から客分で来てくれと言うので行こうと思うが」などと相談をかけた。相手を射抜くような鋭い眼差しで出口師を見つめた矢野は、「どうせ行くなら客分の居候より、蒙古のド真ん中に大本教を樹て、世界を相手に宣道運動をやる位の元気をもつことですよ、」「それじゃあんたそれの力に為って呉れるかな。」「為りましょう。」

 矢野は蒙古人には何んでも大陸的がよいと、それまでは単に王先生と呼んでいた同師を「聖師」と改称。白紙四つ切り程の特大型の名刺をつくるやら、奉天に居住している蒙古人の廬占魅氏に、部下を引きつれて同師一行を蒙古に護導するよう連絡をとる等、内々で脱出準備を整え終わった。大本の節分祭(大正13年)の混雑に紛れ、監視の目を掠めて一行(従者に日本合気道道主故植芝盛平翁他4人)6人を連れ出し、綾部初の一番列車で首尾よく京都へ。前日から潜行して一行を待ち受けていたシン子夫人からホームで奉天行きの切符を受け取ると、そのまま一路奉天を目指して西下した。奉天駅につき、ホームに自分達を探しているらしい警官がいると見てとった矢野は、素早く一行を車に押し込んで浪花通りの事務所に車を乗り着け、部屋を斜めに走り抜けて裏門に廻り、車で城内の呂の家にさっと送り込んだ。

 矢野から「いま着いたが、もう網が張られてあるのでここで愚図ついていては駄目だから、君は直ぐ一行を連れて出発してくれ。まず四平街まで一気に飛べば大丈夫と思うから確かり頼むぞ。俺は後方工作のためしばらく後に残る」との指図を受けた廬は、即座に部下をまとめ、一行と車を連らねて城内から四平街に飛び出す。

 陽動作戦に次ぐ連撃的脱出作戦で、一行をどうにか奥地への道に就かせて一息している所に、警官が一行の引渡しを求めて矢野の前に立つ。「出口って――。そりゃァ誰の事だ、そんな男は此所には居らんよ」「いや貴女が駅から同道したのを見届けておる」「それなら連れて行け」と押し問答しながら、この間に一行は奥地へと素飛んでいるからまずは可しと。ところが、一行がある不祥事を起こしたために呉佩孚(ごはいふ)の討伐隊に逮捕されて、パインタラで銃殺されるとの謀報を受ける。矢野は歯がみして口惜しがり、すぐ奉天軍や関東軍の特務桟関に除名嘆願をかけた。現地人の激昂を鎮めるために、廬以下の蒙古人十余人は銃殺されたが、出口師5人の日本人は特赦で死罪を免じて内地に強制送還されることになり、奉天に後送(こうそう)されてきた。そして送還の日、矢野は西島大本教奉奠支部長に新調した6人の着物と袴を届けさせて一行を厚く慰問。自身も注意退去で奉天を離れ、綾部に帰り、出口師の野望も矢野夫妻の協力も総てが水泡に帰した。

 大晦日の夜中、出口師が矢野を訪ね、教団の一年の指導目標とその実践方法について智恵を借りたことがある。これは大正6年から最後の時まで続くが、この夜の結論が大本教1年間の宣教態勢となっていた。

【投獄から死へ】

 軍部の動きが活発で、国情も騒然として来た頃、矢野は兵学校で同期だった永野修身軍部長(元帥)を家に呼ぶ。直ぐやってきた永野部長は二階座敷に通ったが、しばらく経つとどう話がこじれたのか、「貴様は何という大馬鹿者か、そんな事で御奉公が出来ると思うのか。」「貴様こそ頑迷だぞ、現状を見よ、現状を」などと怒鳴ってはドンドン机を(たた)き合う始末となった。「それじゃ、俺は帰るぞ」と降りてきて靴を履いている永野部長に、矢野は、「これが俺が貴様に言う最後の言葉だからよく聞いておけ、貴様たちがいまの侭の考えで進んで行ったら、日本は大変な目に遭う時が必ず来るぞ、其時になって野良犬のように四ツ這いになって宮城の回りを這い廻りながら、陛下に大変な事を致しましたとお断りしようが、よしんば貴様が申訳ないと言って泣いてお詫びの腹を切ろうが、役にも立たァせんのだぞ、よいか、然しいま俺がどんなに話しても貴様の耳には這入らんのだから、後で之れを読んでみろ。」と本書を突き出した。永野部長はウンと頷いて、静かに「貰っておくぞ」とそれを掴み、「奥さん、こいつを頼みますよ」と言うと、右手にしっかりとその本を握って車に乗る。夫人は、また立場の違いでお互いに意見の相違はあるが、信じ合った者同士の友情の美しい姿だと涙して眺めていたという。

 矢野が、シン子の霊媒力と自身の審神(さんわ)眼で識った「神示現示による宇宙剖判(ほうはん)(開闢)より神政成就に到る神界現界推移変遷の概観。日本天皇発祥。世界統理・統理蜂起・統理復帰・神政復古の経緯」は、各宮家に献上され、元警視総監赤松濃氏、同憂往来の諸氏にも配布された。

 竹田大妃宮から「天皇様に差上げたいから、一部届けてほしい」と御所望があり、矢野自身が鳥の子紙に浄霊して、さっぱりして品がある装填をした献上本を作った。昭和7年頃はもう特高が矢野の言動を監視しており、それを届ける隙が無かったが、同宮の隣の北白川宮若姫の結婚で、宮中から往復しはじめた使い(女官)に事情を話して、大妃裏に届けてもうらうよう預けた。女官が竹田宮邸の大妃宮にお渡しすると、待ちかねられていた大妃宮は直ぐ参内され、内々のうちに皇后様から天皇様に差上げられたという。皇后様からは、大妃宮を通して、天皇様が御嘉納されたおしるしですと御紋菓一折が下された。

 当時、昭和11年2月に勃発した二・二六事件に次いで、政府は一億一心国民に「蹶起(けっき)」と称してお手盛りの国論を楯に圧政政治を行い、それに同調して特権暴力の統本山になった検察当局は、大本教に大弾圧を加えた。目星をつけた片っ端から引っ捕えて絞めあげていた時代だったので、「矢野は嘘を言ってあざむき、国の尊厳と皇室の申請を冒涜している。その証拠はその著本等で歴然だ」と、職権を隠れ蓑にして、昭和11年3月、大井警察署に召喚して拘置する。矢野は、取調べに当たった東京刑事地方裁判所検事の愚劣な罪人つくりに激しく怒り、二人三人と忌避して何人目かの係となった佐野茂樹検事と向かい合った時、「君は話がわかるようじゃな」とニッコリし、国体(国のありさま)と皇室に関して、堂々と供述を続けた。

 巣鴨でもかつて海軍に貢献した功績に遠慮してか、これといった過酷な処遇はしなかったが、10日近くになる取調べでも不敬罪で立件する必要な事由が穿じり出せないばかりか、これ以上詮索すればその論旨を認めなければならない羽目になりそうだった。ところが、矢野は思想転向の勧告には頑として耳をかさず、どうにも処断できなくなった彼等は態度を豹変し、精神鑑定「精神異常者」との烙印を圧した。矢野氏を狂人に仕立て、人格までも社会から葬る手段に出たが、矢野は「自分の所論の正しい事は神聖な公開の法廷で論述しよう」と応じなかった。

 大本教大弾圧の時、係官が浅野和三郎氏に「君がなんと力説しても大本教の教理には此の様な重大な誤りがあるではないか。大幹部の君としてはこの誤りは、その責任を神と君のどちらが負わねばならないものかと思うか」と質問したところ、彼は顔面蒼白にして「それは神の誤ちだ」と答え、彼は助かったが大本教は潰されたという。矢野氏は逆に、この拒否を自分からの最後の通知と受け取った彼等が次に打つ手段は、どんなに悪辣なものかを予測したが、その陰惨な予見に怯えたところなど微塵もなく、平常と少しも変わらず言い替えたり詳しく説明したりし、翌13年8月22日、同所内で急死(58才)した。

 同夜8時頃、矢野の長男(迪穂)と中里義美(神日本学界々会長)弁護士が、遺骸を引き取るため同所に出向くが、「火葬にして遺骨を渡す」と死体での引渡しを拒まれる。翌日の午後まで二人は、遺骨でなければ何故渡せないのか、その理由を説明せよと抗議し続けたことから、「死因について詮議しないことにして、重病人の態で引取ってくれ」と当局が兜を脱ぐ。矢野夫妻が拘引されてから家族が引越していた玉川の溝の口の小さな裏長屋に、遺骸は抱えられて帰ってきた。

 急死の原因を当局が説明しなくても、ある種の薬を一服盛られたための中毒死だと判断できる、紫暗色の斑点が全身に現われていた。遺体を解剖して死因を突きつけ、当局を糾弾しようと憤激した者もいたが、シン子夫人は、「矢野は既に今日の事があるのを予知していて、その時が来ても慌てるなよと、躰を張って満足して命を捨てたのだし、それに死因については詮議だてしないと当局に約束した事だから、何も言わずに矢野を見送って欲しい。」と。矢野逮捕から約3ヶ月後、共犯者として品川警察に引っ張られたシン子は、「矢野が書いたものは私が贋神憑りで出鱈目を喋ったと供述しろ」としつこく強要されたが、「矢野が何のために躰を張ってまで真劔にやっているかは、2年近くも放り込んで調べる貴女方には判ったはず。それだけの男が家内だからって私風情のためにごまかされますか。矢野の信念があっての事だから、私達が仕組んだ狂言かどうかは納得のゆくまで矢野に尋ねたらよいでしょう」と、真夏の不潔な留置場で90余日を頑張った揚句、栄養失調が高じて危篤となり、宅下げになっていた。そのシン子が逆にたしなめたことから、彼等も口をつぐんだ。

 そういう事情から告別式は密葬(内々で行う葬式)にしていたが、霊前には、各大臣、高官、各階層の知名人、各種団体から数百の献花や弔旗が供えられ、玉串奉奠者は300人超、一般会葬者も路地から表通りにまで溢れた。村長が「ここにはどんな偉方が住んでいたのですか。気付かずにいて申し訳ありません。」と慌てて来るやら、交通整理の巡査が立つやら盛大なものとなった。国が真実を把握する事ができず、国士(こくし)を獄死させたことを(おし)んだ事への現われと思う。

 

 

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