第百二十七章 神武紀元の真意義

 ()て、日本島の人文悉く覆滅(ふくめつ)せしにより、「山武姫(ヤマタケヒメ)大神」は、其の日の本竄入(ざんにゅう)以来の長き念願たりし限身(カギリミ)現界に於ける日の本奪取の好時節到来せりとなし、其の素志貫徹に愈々努力を傾注し給う。即ち、「山武姫(ヤマタケヒメ)大神」は、先づ「神武天皇」の御身魂として出現し給い、更に大神部下の諸神霊を皇族及び大臣、中小臣の身魂として()(しょく)し給う。之が為め、日の本在来の諸神霊は、「(ジフ)(ダウ)(ユキ)(ナリ)大神」「(アホ)()(シラ)()(ジョウ)大神」「大力之神」を初めとして、奮然(ふんぜん)蹶起(けっき)して、「山武姫(ヤマタケヒメ)大神」系諸神霊に反抗し、駛身(カケリミ)神霊界は、玆に又、大混乱を現出するに至れり。

 此の「山武姫(ヤマタケヒメ)大神」系諸神霊と、日の本在来の諸神霊との争闘は、日の本の歴史に於て、「神武天皇」御東征の()()に於ける各所の戦闘として記さるゝものにして、事実は四次元神霊界の戦争にして、三次元現界の事実にはあらず、即ち、「饒速日尊(にぎはやひのみこと)」とあるは、「(ジフ)(ダウ)(ユキ)(ナリ)大神」なり。(註 饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、皇統第二十三代(アメ)()(オシ)()(ミミ)(スミラ)(ミコト)の皇子にして、神武天皇御東遷の時代とは遠く七十四代の天皇を隔つる御代の御方なり。)「長髄彦(ながすねひこ)」とあるは、「(アホ)()(シラ)()(ジョウ)大神」なり。また、「兄猾」「弟猾」は「大力之神」なり。而して、日の本在来の歴史によれば「饒速日尊(にぎはやひのみこと)」以下を天皇に抗し奉りし叛乱(はんらん)となし居れども、之を四次元界に於ける神霊的事実より見る時は、寧ろ「山武姫(ヤマタケヒメ)大神」こそ、古来個有の日の本を破壊せんとする纂奪(さんだつ)者・侵入者たりしものなり。

 此の両神霊系間の争闘は、互に一進一退ありて、何時果つるとも見えざりしが、(やが)て、「(アマ)(テル)()大神」より御神勅降下あり。

 『日の本文化建直しの必要と、且つ、(やが)て大地将軍の霊統たる明治天皇に一且時代を渡すべきにより、速に矛を収めて、山武姫(ヤマタケヒメ)大神に委せよ。』

(のたま)い給う。此の御神勅によりて、「(ジフ)(ダウ)(ユキ)(ナリ)大神」以下、止むを得ず戦闘を断念して、「山武姫(ヤマタケヒメ)大神」以下の指揮に従うこととなり給えり。

 以上述ぶる所が、神界・神霊界の消息にして、之を記紀の伝うる所の現界の物語と照合するに、自ら興深(きょうふか)きを覚ゆるものあり。即ち、「神武天皇」御東征の砌、「饒速日尊(にぎはやひのみこと)」御征伐の為め紀州南部に御上陸あり給いしに、天皇はじめ全軍の将兵(ことごと)く敵軍より発する妖気に酔い、昏(ハイ)して動く事能わざりし事あり。此の夢寐(むび)の間、天皇の御前に、一頭の熊現れ、天皇に告げて曰く、「是より先に、(タカ)(クラ)()なる家あり。其の家に天より宝劔降りあり。其の劔を取らば、全軍再び醒す事を得ん。」と、即ち、天皇高倉下(タカクラジ)に到りて見給うに、果して、劔、屋根を貫き床に立てり。天皇、其の劔を取りて戰い給いしに、全軍醒めて大勝利を得たり。此の劔を後に大和国石上神(イソノカミ)宮に納めて、神宝(カンダカラ)となし給えり、と云う。以上伝えらる所を(かんが)うるに、熊とは、古来日の本の皇太神(スミオホカミ)の思いの凝りて成れる獣なり、と云わるゝものにして、即ち、「(アマ)(テル)()大神」の神意を象徴し奉るものなり。(高倉下なる名は、葺不合(ふきあえず)六十九代「(カン)(タル)(ワケ)(トヨ)(スキ)天皇(スミラミコト)」の皇子「高倉下尊」より出でしものなり。)また、此の神劔とは、「(アマ)(テル)()大神」より降し給える神勅そのものにして、「神武天皇」に敵対し奉ることを禁ずるもの、即ち、「山武姫(ヤマタケヒメ)大神」に反抗するを止め、之に任せよ、との善一筋の天よりの御言葉を象徴したるものなり。斯の如く、日の本の伝説は、現実より之を見るに甚だしく虚妄の如く思わるる事多けれども、而も其の荒塘無稽に似たる事実が以て指示する所に思いを潜め、之を神霊界の事実に想到(そうとう)して、其の意ある所を汲まば、やがて首肯(しゅこう)し得べき心理に到着するを得るものなり。

 ()て、以上の如く、「山武姫(ヤマタケヒメ)大神」の日の本現界への進出は、統治神「(アマ)(テル)()大神」の許容し給う所なるを以て、日の本個有の諸神霊は、その御神勅を無視して正面より之に抗する由なく、止むなく裏面よりして秘かに「山武姫(ヤマタケヒメ)大神」の現界に対する(かく)(さく)(ぼう)(あつ)する手段を廻らすことゝなれり。而して、以上によりて(あきらか)なる如く、実に「神武天皇」の御出現は、「(アマ)(テル)()大神」の御神意によるものにして、大地変によりて覆滅(ふくめつ)せし日本文化再建の為なりき。然るに此の大神の御意(ぎょい)を拝察し得ざる史家は、日本建国の時として後世より(さかのぼ)りて神武紀元を定め、僅に三千年の神国の歴史を誇らんとするは、(かえ)って神威を冒瀆するものと云わざるべからず。

 ()て次に、神武天皇紀元(〇〇〇〇〇〇)に就きて、在来史家の定むる所によれば、「神武天皇」賊徒を平定し給いて後、辛酉(かのととり)年正月元日大和畝傍山橿原大宮に於て御即位し給える年を以て紀元元年とし、之を日本建国の始めとせり。然るに「(スミ)(オヤ)(スミラ)(オホ)(タマシイ)(タマヤ)」古文書に記す所に由れば、前天皇「(ヒコ)(イツ)()天皇(スミラミコト)」は、御即位三十五年九月二十三日、皇弟「(サヌ)()尊」に御譲位ありて、同年御齢百十七歳を以て神幽(カミサ)り給えり。従って、皇位一日も(むな)しくすべからずと云う太古以来の代々天皇御践祚(せんそ)の御状況より見れば、「(サヌ)()天皇(スミラミコト)」もまた直ちに御践祚ありし事、確実なり。従って、「神武天皇」の即位元年は、「(ヒコ)(イツ)()天皇(スミラミコト)」の即位三十五年にして、其の御践祚(せんそ)は、御受()の九月二十三日当日、若しくは其の以後数日の間に、行われし事と推察せらる。而して、「神武天皇」御即位の大礼(たいれい)は、当地大地震の後を以て、御造営中なりし「(スミ)(オヤ)(スミラ)(オホ)(タマシイ)(タマヤ)」より神宝(カンダカラ)を取り出さるゝ為め、天皇(みずか)ら越中に赴かれ、神通川の対岸遠見の里(〇〇〇〇)より「太神宮(おおたましいたまや)」を遙拝(ようはい)ありて、神宝(カンダカラ)(ほう)()して大和に御帰還あり、天皇、御齢百十二歳の四月三日、畝傍山の「(スミ)(オヤ)(スミラ)(オホ)(タマシイ)(タマヤ)分宮」に於て、神宝(カンダカラ)を以て御即位式を挙げ給えり。此の御即位式の御時が天皇御践祚(せんそ)後何年なるかは分明(ぶんめい)ならざれども、四月三日なる事明らかなる以上、尠くとも践祚(せんそ)と同年に非ざる事は確実なり。仮に御即位式を践祚(せんそ)二年の四月三日の御事と考え、而して又、従来の各天皇は何れも悉く御践祚(せんそ)の年を以て該天皇の即位元年となし給える定めに従えば、現在史家の唱うる「神武天皇」即位元年即ち紀元元年は、天皇の御践祚(せんそ)二年に当り、此処に一年の差違を生ずる事となる。若し此の場合、天皇の即位が践祚(せんそ)の数年後なりとせば、此の差違(さい)は、更に大となり、従って、現在皇紀二千五百九十二年は、二千五百九十三年、又は、それ以上の年となる事となるなり。此の問題は、猶今後詳細なる調査を待って(やが)て確定するを得ん。

 最後に、以上「神武天皇」に到るまでの葺不合(ふきあえず)七十二代の状況を拝察すれば、現在日本に於て定めらるゝが如く、「神武天皇」即位元年を以て、日本紀元となすべき根拠を、其の何れの所に於ても見出す事を得ず。況や、其の紀元元年を記念して建国祭を行うが如きは、全く意味なき事と言わざるべからず。強いて之を云わんには、当時日本人文覆滅(ふくめつ)せる為に、第二回岩戸閉めとして、日の本天皇世界統理を一時放擲し、文化の逆輸入をなして、日本再建を開始せる事の意義あらんも、而し、之は単なる再建にして、決して日本建国には非ざるなり。

 依って、皇統第一代天皇よりの真歴史を拝察して、全時代を通じての現界的画期は、左の如くなすを至当と認む。

一、太古時代  (スミ)(オヤ)(アメ)日豊本(ヒノムト)(アシ)()()皇主(キミノシ)天皇(スミラミコト)御宇(ぎょう)より、皇統第二十一代伊邪那岐(イザナギ)天皇(スミラミコト)御宇(ぎょう)まで。

二、中古時代  中興の御祖皇統第二十二代(アマ)(サカル)(ヒニ)(ムカ)()()()天皇(スミラミコト)御宇(ぎょう)より、葺不合(ふきあえず)朝の終り第九十七代(ヒコ)(イツ)()天皇(スミラミコト)御宇(ぎょう)まで。

三、近世時代  再建の御祖皇統第九十八代神武天皇御宇(ぎょう)より、皇統第二百十九代孝明天皇御宇(ぎょう)まで。

四、現  代  皇統第二百二十代明治天皇御宇(ぎょう)より、現時まで。

 

 

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