矢野祐太郎「神霊正典」 <まえがき>

矢野祐太郎「神霊正典」Ⅰ・Ⅱ巻

(昭和36年7月7日)

御神紋   十六菊型 御紋章

籠目紋   ダビデ章

(原本P1~5)

    まえがき

 本書は故海軍大佐矢野祐太郎氏が生前神命を拝して神啓神示の下に口述したものと不敬罪の名の下に大井警察署に被拘禁中に特に許されて記述したるものを収録してこゝに大阪の人故吉岡庄一氏、外数氏の援助によって神霊密書として騰写(とうしゃ)印行(いんこう)したものを更に校訂補正してこゝに神霊正典として上梓(じょうし)するに到ったものである。

 矢野祐太郎氏の閲歴怪死の顚末(てんまつ)は後段に詳記するが神示を受け口述の様態は未亡人矢野シン子女史の言葉を以て記述する事が読者として真実味を感得するに役立つと(かんが)(あえ)て口語のまま記述することにした。

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 彼(矢野祐太郎)は性僻といゝましようか史学経典に傾倒しまして中学生の頃から海軍時代を経て最後の時まで、記・紀・上記・天津金木、それに竹内古文書から天理・金光・黒住・妙霊・大本・福島・九鬼など諸家の文献や基教(キリストきょう)は新旧両派に、仏教は八宗の教理をと渉猟(しょうりょう)目を通しては思索の日常を過していました。

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 昭和七年の節分の夜のこと 彼は『今日まで口伝にも文書にも伝え遺して無いことをお前が余り熱心に聞くので神もついにお前の熱心に免じて此点までは教えたのであるから、お前は自分の頭に刻み込んだ其事を書き残せ』との神示を霊受したのであります。 この霊受の直後に彼から衂血(はなじ)が洗面器に半分程も出ましたが、これは神命の業に就く彼の肉体が浄められたものなのでしょう。それで一両日も休養して五日から説話されはじめました。このとき彼が一番困ったのは神名でした。記・紀にしても御一体である神の御名の称え方が違っているのにその何れもが神聖さを以て崇称(そうしょう)されている有様ですので、それではと言う訳でこの神名で表わすことにしました。説話に当っては一枚の原稿も一冊の参考書も用いずに既に神示されていたものを喋ったのでありまして、時偶にフッとと切れますので彼を見ますと、彼は正座しながら腕組したままで天井を睨んで「ああそうですかウンウン」などと独り言を言っているのです。それで「天井になにか変った事があるのですか」と聞きますと「ウンいまあそこに神様が字を書いて教えて下さっていたので、それを読んでいたのだ」とまた喋り続けて数日間で説話は終りましたが、その説話(せつわ)されたものを私が集成したのが「此書」であり「図表」なのであります。

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 彼が昭和十三年八月に東京巣鴨拘置所内で奇怪な急死をしてからは、彼の遺志を継ぐのが私の使命だと思い爾来二十余年間心を配ってこれらを探し続けていたのですが、何様その時僅かの部数しか作らなかった「図表」と「書き物」である上に、事件当時に彼のメモから頒布先を特高が知って、其先き先を虱潰(しらみつぶ)しに家宅捜査して没収しては焼き棄てたもので、とても残存していることはあるまいと悲観してたところ、昭和三十四年に「図表」が、亦昭和三十五年初秋には「本書」が意外の処から私の手許に戻って来たのであります。手の舞い足の踏む所を知らぬ思いで、早速道交のある故安部時敏先生に(はか)りました処、同先生の案内にて大阪真和会の会長故吉岡庄一先生に会い、本書の経緯と希望を述べましたところ、本書の如きは煙滅埋没し去る底のものでなく、広く世に表わして日本の国柄と世界に対する神様の御仕組を知悉(ちしつ)せしめることは、神業に翼賛(よくさん)し世界平和に裨益する事なので一日もおそろかに出来ない聖業であり是非お手伝いしたいものだと一諾(いちだく)(じか)に「神霊密書」として印行(いんこう)することになったものであります。

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 三十六年五月中旬彼が存生中私方におられた堺市の坂田義一氏から中川治三郎と云われる霊能者が私に用件があるといわれるので至急来訪するようにとの電話があり急いで堺へ来てその霊媒の方にお会いしましたが、此方は私は勿論、彼、祐太郎とは生前一度も会ったことのない人で、元より彼の素行等知るべき筈もありません。その方に彼が憑依して「此度は自分が精魂を尽くした書き物が世の中に出る事になって有難い。力添え下さる方々によろしく御礼を述べてくれ、また明日は桃山御陵に参拝して明治天皇様に、この本を出版することの御報告をしなさい、そして出来たら一部明治天皇様に奉てくれ、自分はあの時(昭和十三年八月二十二日)風邪を引いていたので風邪薬を渡されたが、それが風邪薬でなく他の薬物で、それを服めば死ぬるということは知っていた。だが自分の使命は「アノ本を完成し、それを赤鬼、白魔(ソ連と英米)の手の届かぬ所に残したことによって終ったのだから結果を承知の上で嚥下(えんげ)したのだ、残念だったのは肉体を持っている内に、明治天皇様に最後の御挨拶を申上げたかったのが薬を飲むとすぐ口が利けなくなって御挨拶申上げられずに此方に来てしまったことだ、それで明日はこの事を克く御詫申上げてくれ」と申しましたので、翌日坂田夫人と共に桃山に参拝以上の由を(つぶさ)に言上致しました。

 彼は自己満足や売名の為に古来からの説論を排して新たな神相観や神界観を説いたのではありません。日本を安国と拓き給うた国祖神や、日本人を天意奉行(ほうこう)真人(まびと)にと産み給うた(くに)人祖(つかみ)のお導きのままに、その神意遂行の神業に真一文字に仕え奉ったのであります。

 真実は処女のように何時も後ろに控えていて出しゃばらないのが本当の姿のようでありますし、(こと)()げしないのが神道の本旨で其器其人に感得せしめ清浄の奉行(ほうこう)によって世道人心を浄め(ひら)かれるのが神の思召かと存じます。

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 以上のような事情で出版しました本書を御覧の方々が本書から言外の言に心耳を傾けられて、更に高く更に深いものを正しく御知得下さいますことを祈りますと共に、(あえ)て私事までも申し上げて恐縮しまするが、本書出版に記した私の衷心を御了知下さいますことを念願として休みません

     昭和三十六年七月七日       矢野 シン    白 

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・   (原本P6~22)

    そえがき

=故海軍大佐矢野祐太郎(三条比古之(さんじょうひこゆき))先生がこの書を書いた前後の事情は=

 先生は一部の連中が国を誤る思想に国民を狩立てておるのを憂慮して、国民が日本人の本当の姿と在り方を知る為の道しるべにと諸家の古文書やお筆先を検討したりシン夫人の霊媒力と自身の審神(さにわ)眼で識ったところを「神示現示による宇宙剖判(ほうはん)より神政成就に到る神界現界推移変遷の概観。日本天皇発祥。世界統理・統理放棄・統理復帰・神政復古の経緯」にまとめたが、出版しようにも出版費の都合がつかぬので、三円で夜着を売って用紙を買い、百部を謄写刷りにした他、この内容を「図表」にしたもの十本を作って高松・久邇・東久邇・梨本・閑院・朝香・竹田の各宮家に献上したのを初め、元警視総監赤池濃氏や同憂往来の諸氏に配布した。

 すると、続いて竹田大妃宮から「天皇様に差上げたいから、一部届けてほしい」と御所望になったが、もうこの時は刷ろうにも紙が無いので困っていたところ、上杉拍から好意の申出があって、調えた(とり)()に先生自身が浄書して桐柾(きりまさ)の薄板を表紙に()()な装填をした献上本を作った。

 此の頃(昭和七年)は、もう先生の言動を特高が監視していたから、大妃宮にそれを届ける隙が無いので困っておったところ、折よく同宮のお隣の北白川宮若姫の御結婚で、宮中からお使いが往復しはじめたので、先生はその女官に事を話して、大妃宮に届けて貰いたいと献上本を預けた。

 女官は、北白川宮邸からお庭伝いに竹田宮邸に行って、大妃宮にお渡しするとお(まち)()ねだった大妃宮は直ぐ参内されてお内証に皇后様を煩わして、天皇様に差上げられたそうだが、皇后様からは、大妃宮を通して「確かに天皇様に差上げましたから」とのお言葉に副えて、天皇様が御嘉納されたおしるしですと、御紋菓一折を先生に下された。

 昭和十一年の二月に勃発した二・二六事件に次いで日支間の国交もまだ急だったので、政府は一億一心国民総蹶起(けっき)と称してお手盛りの国論を楯に圧制政治を行うし、またそれに同調して特権暴力の統本山になった検察当局は「大本教」に大弾圧を加えたように、此の野郎がと目星をつけたら片っ端から引捕えて絞めあげていた時代だったので、先生の存在は、目の上の瘤以上に我慢ならぬものだったらしく、邪魔者は除けとばかり「矢野は譎詭(けっき)を弄して国の尊厳と皇室の神聖を冒涜しておる」、その証拠はその著本等で歴然だと職権を隠れ蓑にして同年三月大井警察署に召喚して拘置した。

 取調べに当った東京刑事地方裁判所検事の愚劣な罪人つくりの運筹(うんじゅ)に憤然とした先生は「君では話にならんから替れ」と、二人三人と忌避して何人目かの係となった佐野茂樹検事と向い合った時、はじめて「君は話がわかるようじゃな」とニッコリした。それからは翌十二年十二月二十五日不敬罪で巣鴨東京拘置所に移されるまで、彼は国体と、皇室に関して堂々の供述を続けた。

 巣鴨でも(かつ)て海軍に貢献した功績に対して遠慮してか、これという苛酷な処遇はしなかったようだが、しかしすでに千日近くになる取調べでも、まだ不敬罪で立件するのに必要な事由がどこからも穿()じり出せないばかりか、これ以上は詮索して行けばその論旨を認めなければならない羽目になりそうで、木乃伊(みいら)とりが木乃伊になる(おそ)れがあるし、というて思想転向の勧告には頑として耳を籍さないから、どうにも処断ができなくなった彼等は、此処で態度を豹変して「精神鑑定」という形式をとって、精神異常者だとの烙印を圧し、狂人に仕立てて一挙に先生の所論は勿論のこと、その人格までも社会から葬るという手段に出たが、先生はこの指示もまた「自分の精神状態は正常だから鑑定の必要はない。また自分の所論の正しい事は神聖な公開の法定で論述しよう」と反論して応じなかった。

 大本教大弾圧の時、係官が故浅野先生に「君が何んと力説しても大本教の教理には此の様な重大な誤りがあるではないか。大幹部の君としてはこの誤りは、その責任を神と君のどちらが負わねばならないものかと思うか」と質問したところ、彼は顔面蒼白にして「それは神の誤ちだ」と答えたので、彼は助かったが大本教は潰されたのだとか聞いた話とは逆で、この拒否を先生からの最後の通牒(つうちょう)だと受け取っただろう彼等が、それでは次に打つであろう手段がどんなに悪辣なものであるかを先生は予測されたようだが、その陰惨な予見に怯えたところなど微塵もなしに自若(じじゃく)として囚座で所論布衍(ふえん)の著述を続け=翌十三年八月二十二日五十八才を一期に同所内で急死した。

 長男迪穂君と中里義美(神日本学会々長)弁護士とが遺骸引取に同夜八時頃同所に出向いたところ、「火葬にして遺骨を渡す」と死体での引渡しを拒まれた。そこで納得のゆかぬ二人が「遺骨でないと何故に渡せぬか、その理由を説明せよ」と翌日の午後までも抗議し続けたところから「死因に就て兎角の詮議をせぬ事にして、重病人の態で引取ってくれ」と当局が遂に兜を脱いだので、遺骸を先生夫妻が拘引されてから家族が引越していた玉川の溝の口の小さな裏長屋に抱えて帰って来た。

 尤もこの急死の原因を当局が説明しないでも、或る種の薬を一服盛られたが為の中毒死だと判断出来る紫暗色の斑点が全身に現われていたから、遺体を解剖して死因を彼等に突きつけて、飽くまでも当局を糾弾しようと憤激した者もいたが「矢野は既に今日の事があるのを予知しておって、其時が来ても慌てるなよと、躰を張って満足して命を捨てたのだし、それに死因については詮議だてしないと当局に約束した事だから、何も言わずに矢野を見送って欲しい。」と先生から三ヶ月許り後からだったが、共犯者じゃと品川警察に引張られ、「矢野が書いたものは私が贋神憑りで出鱈目を喋った」と供述せい。としつこく強要されたが、「矢野が何の為に躰を張ってまで真剣にやっているか位は、二年近くも放り込んで調べる貴方達には判った筈です。それだけの男が家内だからって私風情の嘘にに胡魔化されますか。矢野には矢野の信念があっての事でしょうから、私達が仕組んだ狂言かどうかはご自身が納得のゆくまで矢野に質したらよいでしょう」と真夏の不潔な留置場で九十余日を頑張った揚句に、栄養失調が亢じて危篤になったため宅下げになっていた夫人が、逆に(なだ)めたから、彼等もそれではと口を(つぐ)んだ。

 告別式は事情柄で密葬で執り行う事にしていたところが、霊前には各大臣や高官、各階層の知名人・各種団体から数百の献花や弔旗が供えられ、玉串奉奠者は三百人を超え、一般会葬者も路次から表通りに溢れたので、「此所には一体どんな偉方が住んでいたのですか。気付かずに居て申訳ありません。」と村長が慌てて来るやら、交通整理の巡査が立つやらという盛大なものとなってしまったが、これは国が真実を把握する事が出来ずに、可惜(あたら)国士(こくし)を獄死させたを惜んだ事えの現れだったと思う。

 先生は明治天皇のお召列車の運転に常に奉仕した鉄道技師矢野源次郎同テルの四男一女の長男として、明治十四年三月十五日東京築地に生れ、築地中学、海軍兵学校を経て同大学を卒業した。また同三十九年十二月(大尉時代)に小樽市色内町雅楽川林二同リンの三女シンと結婚して三男一女をもうけた。

 日本海々戦には旗艦三笠に乗組んで参戦したが(東郷司令長官の身辺で炸裂した敵弾の破片で負傷した)この海戦で日本軍の砲弾には故伊集院大将が発明した信管を使用したが、意外に不発弾が多かったので、大学を卒業すると研究科進学を辞退して、進んで呉工廠勤務を志望し、約二年をこの信管の改良に没頭し成功したので、当の大将にこれが採用方を具申したところ、大将は自分の面子にこだわってか、それを黙殺しようとしたので、先生は新旧信管の性能差を実験で立証したから流石に頑固だった大将も遂に新信管を採用することに同意した。多分これ以後はこの信管が使用されていたものと思う。

 次いで艦政本部に転じた先生は、以後退役までの十七年間は主として同本部勤務だったが、此間大正二年から同五年にかけて、特別任務を帯びて大使館附武官として滞欧して、スコットランドの某造船所で英海軍が秘密裡に建造していた異形マストの軍艦の構造を探察(たんさつ)した。一方また世界的な某秘密結社本部に潜入して、日本包囲覆滅(ふくめつ)計畫という重大情報を入手するなどと其の任務を果たされた。

 帰国してまた艦政本部に戻った先生は、艦艇の改装問題に手をつけ、縷骨(るこつ)の創意を(あつ)めてこれもまた全世界が驚愕した(やぐら)式マストの雄姿を生みだした。

 当時の海軍の大砲は素材の関係で十二(インチ)砲でさえも実弾の発射では往々砲身に亀裂が生じたので、これ以上の巨砲を望むのは無理という状態だったが、この難関突破を試みた先生が優秀な新合金の試作に成功したので、これを機に海軍は大艦巨砲時代に移行したのだった。

 更にはまた(ぼたん)一つで全艦載砲を自在に捜査する電動装置を完成する等と英米の海軍に比べては劣勢だった日本艦艇の戦闘力の強化に貢献したので、中佐としては破格の勲三等に叙せられた。

 八八艦隊問題では編成責任者の一人としてその実現に努力したが、大正十一年の国会でこの案が否決されたので、今後海軍は決められた枠内で英米に劣らぬ高度の国防力を維持するための体質改善をする必要があるから、(だし)(から)の俺が先づ罷めると故加藤友三郎大臣に退役したいと申し出た。

 大臣から「間もなく少将に昇進する予定だからそれまで待て」とかえって慰留されたので、これでは(らち)が明かぬと考えた先生は、兵は巧遅より拙速をたっととばかり独断で「矢野は本日予備役となりました。」と各宮家に挨拶廻りをしたので「海軍は軍客の再編成を計らねばならぬ重大事に直面している時たのに、矢野の如きを予備にするとは遺憾である。」と某官が早速、大臣に電話したとかで、寝耳に水の大臣は驚いて、先生を呼び「軍の使命維持がいまや君達の双肩で支えられようとしている時に、君は俺の顔を潰してまで罷めたいのか」と憤然として糺問(きゅうもん)したものの、事ここに到ってはもはや止むをえんと予備編入を発令した。先生はこの時四十一才で階級は大佐だった。

 ここで違った面から先生を偲んで見ると、今次の戦争では直ぐにニッケル硬貨が国民の手許から姿を消したが、それには理由があった。と云うのは実はニッケルの国内産出量が少いので、平時は貨幣として流しておき、一朝(いっちょう)有事(ゆうじ)の際にはそれを回収して鋳潰(いつぶ)し兵器其他に使用する事にすれば、莫大量のニッケルも死蔵して置く事なしに常時に活用しながら必要量を確保して置く事が出来るからと、ニッケル貨幣使用方の献策を、(かつ)って、先生が上申して居たのでそれが実施された為だった。

海軍を罷めてからの事だが、「俺は素裸の男になって(かね)ての道の究明に専念して行くが、お前はその貧乏を苦にせずに俺についてくるか、それとも嫌なら暇をやるから里に帰れ」と夫人に言うので、「今更帰れますか。貧乏だろうが何だろうが文句を言わずに従いて行きます」と答えたところ「そうか()し」と言うと、鰐皮の鞄を庭に持出し中から書類を掴み出して焼捨てて「俺はこれでサバサバとした貧乏になった」と座敷に上って来られたが、此の時に焼き捨てたのは全財産に関した書類だった。

 先生は皇道学、気学、霊数学で有名な故武智音吉先生を田舎で朽ちさすのは日本の損失だと、ヨハネ黙示録の研究家で同先生と道交がある内山氏を使者にして、四国から東京に迎えて親友の故山本英輔(海軍大将)氏に「俺は貧乏で満足な世話も出来ないから、貴様がお世話をして呉れ」と彼の家に寄寓(きぐう)させた(これで彼は約三年間を同先生に就て皇道学其他を存分に学ぶことが出来たと思う。)が、終戦になってから四日市の湯の山に移った同先生の其清居を、昨秋のこと未亡人が「図表」を持って訪れ、図表に施してある色彩についての意見を求めたところ同先生は一見するなり「奥さん、先生はどうして神の霊統とその活動を表わすこの色霊を知られたのですが、私はそれを知りたい。この図表は神意によらぬと、とても書けない物です。これはどうか同学の人達に分与する道を立てて下さい。」と感激して言われたので、夫人は改めて図表がもっている意義について再認識する事が出来たと喜んだ。

 また故森格・故鳩山一郎氏等と、中国の革命を援助しようと上海に渡って見ると、既にこの運動は失敗していて、同志も四散していたので失望して内地に引揚げるという二人に分かれて、奉天に移った先生は浪花通に事務所を構え、張作霖(ちょうさくりん)とも連絡がとれて、さてこれから活動開始だという時に関東大震災の飛電を受取った。其所で先生は後事を同志に托して置いて東京の山谷阪町の家に帰って来た。

 次いで先生一家が東京から綾部の上野町の自宅に引揚げたのは、何所よりも色美しい丹波路の紅葉も枯れ散った寂しい初冬の頃だった。すると直ぐに保釈で出獄中の故出口王仁三郎師がやって来て「紅卍字から客分で来て呉れって言うんじゃで行こうと思うがあんたはどう思うか」などと相談をかけた。例によって相手を射抜くような鋭い眼差しで同師を見つめた先生は「どうせ行くなら客分だなんて言う居候で行くより、蒙古のド真ん中に大本教を樹て、世界を相手に宣道運動をやる位の元気をもつことですよ、」「それじゃあんたそれの力に為って呉れるかな。」「為りましょう」で男同志の話は早やかった。

 蒙古人には何んでも大陸的がよいのだと、それまでは単に王先生と呼んでいた同師を聖師と改称して白紙四つ切り程の特大型の名刺をつくるやら、奉天の場内に居住しておる蒙古人の廬占魅氏に部下を引きつれて同師一行を蒙古に護導する様に連絡をとる等と、内々で脱出準備を調え終った先生は、大本の節分祭(大正十三年)の混雑に紛れて監視の目を掠め(かすめ)一行(従者に、日本合気道道主故植芝盛平翁他四人)六人を連出し、綾部発の一番列車で首尾よく京都に行き、前日から潜行して一行を待ち受けていた夫人からホームで奉天行きの切符を受取ると一行はそのまま一路奉天を目指して西下した。

 さて奉天駅についてホームの人混みをジロリと見廻した先生は、自分達を探しているらしい警官が居るのを見てとり、素早く一行を車に押し込んで、浪花通りの事務所に車を乗り着け、部屋を斜めに走り抜けて裏門に廻り、其所からまた車で城内の呂の家にさっと送り込んで仕舞った。

 先生から「いま着いたが、もう網が張られてあるので此所で愚図ついて居ては駄目だから、君は直ぐ一行を連れて出発して呉れ、先ず四平街まで一気に飛べば大丈夫と思うから確かり頼むぞ、俺は後方工作のためしばらく後に残るから」との指図を受けた廬は、今日の為に護導態勢を完了して居たのだから、とばかりに即座に部下を糾合(きゅうごう)して、一行と車を連らね城内から四平街にと飛び出して行った。

 この陽動作戦に次ぐ電撃的脱出作戦で一行をどうにか奥地への道に就かせて一息している所に、警官が一行の引渡しを求めて先生の前に立った「出口って――。そりゃァ誰の事だい、そんな男は此所には居らんよ」「いや貴方が駅から同道したのを見届けておる」「それなら連れて行け」と押し問答しながら此の一秒一分に一行は奥地へと素飛んでいるのだから先ずは可しと先生は腕組みした侭だった。

 然し好事(こうじ)()多しで、一行が或る不祥事を惹起(じゃっき)した為、呉佩孚(ごはいふ)の討伐隊に逮捕されて、パインタラで銃殺されるとの諜報(ちょうほう)を受けた先生は歯がみして口惜しがり、直ぐ奉天軍や関東軍の特務機関に助命嘆願をかけたので、現地人の激昂を鎮めるために廬以下の蒙古人十余人は銃殺されたが、同師五人の日本人は特赦で死罪を免じて内地に強制送還することとなって奉天に後送(こうそう)されて来た。そして愈々送還の日に先生は故西島大本教奉天支部長に新調した六人の着物に袴を添えて届けさせ一行を厚く慰問し自身も注意退去で離奉帰綾した。これで同師の野望も先生夫妻の協力も総てが水泡に帰した訳だ。

 先生と同師との関係ではこの他に世間に知られてない事柄がある。それは同師が大晦日の夜中に先生を尋ねて、教団の一年の指導目標とその実践方法とに就て智恵を借りていた事であるが、此の事は大正六年から最後の時まで続いた。つまり此の夜の結論が同教一年間の宣教態勢と為って居た訳だ。

 軍部の動きが活発で、国情も騒然として来た頃の事だが先生は兵学校で同期だった故永野修身軍令部長(元帥)に、多忙だろうが来て呉れないかと電話した。すると彼は直ぐやって来て二階座敷に通るなり大胡坐で「オイッ話って何んだ」と切り出したが暫く経つと、どこでどう話がこじれたものか、「貴様は何という大馬鹿者か、そんな事で御奉公が出来ると思うのか。」「貴様こそ頑迷だぞ、現状を見よ、現状を」などと怒鳴ってはドシンドシン机を(たた)き合う始末になった。「それじゃ、俺は帰るぞ」と彼が降りて来るまでというものは、今にも取っ組み合いをやり出すのではないかと夫人はハラハラしていた。

 靴を履いて居る彼に先生は「これが俺が貴様に言う最後の言葉だからよく聞いておけ、貴様達がいまの侭の考えで進んで行ったら、日本は大変な目に遭う時が必ず来るぞ。其時になって野良犬のように四ツ這いになって宮城の(まわ)りを這い廻りながら、陛下に大変な事を致しましたとお断りしようが、よしんば貴様が申訳ないと言って泣いてお詫びの腹を切ろうが糞の役にも立たァせんのだぞ、よいか、然しいま俺がどんなに話しても貴様の耳には這入らんのだから、後で之れを読んでみろ。」と本書をグッと突き出した。彼は〝()ン〟と呟いて、一瞬キラリ光る目玉で先生を見て、静かに「貰っておくぞ」とそれを掴んだが、二人の手は磁石に吸い着けられた鉄片のように暫くは離れなかった。

 (やが)ての事、彼は式台の夫人に「奥さん、此奴を頼みますよ」と言うと、右手にしっかりと、その本を握って車に乗ったが、その後姿を石像のように見送っている先生を、夫人はまた立場の違いでお互に意見の相違はあろうが、信じ合った者同志の友情の美しい姿だと涙して眺めていた。

 ()て、私は近時国情が一変したので、この由因(ゆかり)である神界の事情を知る為、今一度本書を読みたいと思ったが手許にはないし、他に心当りといっては例の百部だが、これも特高の虱潰(しらみつぶ)しの捜索で殆どが没収されて焼かれたり、戦災で灰になったりしたようだし、また先生が大井警察署に拘置されていた時に、故佐野検事や同署署長、それに自分は矢野先生の同志だと名乗り出て、同所に拘置された。信念の義人故加世田哲彦(海軍少佐)氏等を前にして、口述した十六個のトランク詰めの記録だが、これは同検事が「此の中には国宝級と言ってよい重要な記録もあるので、自分が命に代えても保管するから安心している様に」と未亡人に約束した(そう)だから或は戦災からは安全に保管されて居るのではないかと思うが、この検事も最後には先生に心服したとの(とが)で満州国に左遷され、先生の死でまた内地に返り咲いたが病死したので、記録の所在がわからないし、どうしたものかと思案していた処に「この本一部位はまだ誰かの手許に残っていそうなものだと随分方々に気を配ったが見つからないので、もう残っていないだろうとあきらめていた所、いま、知り合いが或役人に頼んで隠してもらっていたので助かったんですが、貴女が探して居られるときいたのでお役に立てば結構ですと送って下さった。」と未亡人が本書を持って来られた。(私は乾ききった道芝草が驟雨(にわかあめ)に遭った時のように急に元気が出た。)そして未亡人は私に、矢野が「此の種の問題は今日迄には随分と研究が進んでいる筈なのに、誰もがその成果を発表しないので、後進者は何時もまた同じ道を同じ苦労で思索して行き、先人と同じ程度の事柄を識り得た頃には、もう自分の寿命が尽きる時という、一向に研究栄えが無い有様の繰り返しをやっている始末だが、幸い自分は今日までに此道に躰を張って漸く此の程度の事を知る事が出来たし、それにまた神霊からも教えても戴けたので、此所にそれを書き遺して置く事にした。然し人にはそれぞれの立場があるので、此の自分の説を()しからぬと思う人も居るだろうが、其所が所謂(いわゆる)磨き合いと言うもので、それでこそ真実も判るのだから、此所では先ず(まず)軒軽(けんけい)を論ぜずに、自分が此所で述べた事を足場にして、此れ以上の事柄は誰かが(きわ)めて、その真の姿を尚一層に顕示して呉れれば自分がこの本書を遺した事もまた無駄事では無かったと言えるだろう」と言った事があったが、矢野のこの遺志を継承してこれが実現への道を拓くのには、此の本を手許に収蔵して居たのでは駄目だから、なんとか良法を考えて欲しいと言う話になった 勿論、私も同じ考えだったので、道友の真和会会長故吉岡貴光先生の協力を得て、原本を再録し、先生の玉綸を(そこな)う事の無いように負荷の慎みを以て、未亡人に代って、有道諸賢(ゆうどうしょけん)浄机(じょうき)に呈上する事と致した次第である。

                          昭和三十六年 清澄夏日

                                                                                                           故  長尾 千代松

 

 

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