◆「古事記」
(※ 第46章[皇統第26代]、第127章「神武紀元の真意義」、第138章[古事記の由来]、第143章[皇統第138代]・第145章[皇統第141代]をまとめた。)
【葺不合朝の72代が省略・隠匿されたわけ】
皇統第26代[葺不合第1代]「武鵜草葺不合身光天津日嗣天日天皇」を第1代とする「葺不合皇朝」は73代続き、神倭第1代「神武天皇」に及ぶ。ところが、日の本の古記では、「神武天皇」が葺不合第1代天皇の御子として記され、その間の72代、約8万7200年にわたる歴代天皇の事蹟・日本と万国の歴史は、ことごとく抹殺、省略されて伝わることはなく隠匿され、何人もあずかり知らぬところとなった。
このような由々しき大錯誤は、後代の記紀編纂の時に、理由があってあえて為された。こういう歴史の省略と隠匿が必要だった、こういうことを来すにいたった誘因は種々ある。
宇宙は未だ自在の時代で、現実界現象の起こる根源である4次元駛身神霊界では、古の日の本に渡来した外国諸神が、日の本を永久にその掌中に奪い取ろうとして、あらゆる手段方策を弄していた。代々の天皇がさまざまな苦心を払って皇位継承の各神宝を伝えてきた間に、4次元駛身神霊界では、天照彦系諸神霊がその支配権を永久に持続せんとして、まず日の本歴史改竄計画に着手する。
皇統119代[神倭22代]雄略天皇は、21年1月21日、「天照彦大神」系の身魂を有する5名(大伴室屋、葛城円、物部自連、巨勢男人、蘇我韓子』)の願いから、万国棟梁皇祖皇太神宮神躰の、神代文字天皇御系譜の巻より、天之御中主天皇から上代天皇及び神代の神を除き、狭野天皇(神武天皇)までの所を写し取ることを許可、汝、真鳥宿禰の写しの巻より写し取らすべしとした。(万国棟梁皇祖皇太神宮神躰の神代文字天皇御系譜の巻から、皇統第4代(上代4代)「天之御中主天皇」から上代天皇及び神代の神を除き、狭野天皇(神武天皇)までの所を写した。)5名の一人・物部氏が写した「天之御中主天皇」以降の天皇御系譜の写しは、後に、美濃国中山村山本家(太玉命の子孫、天照彦系の身魂)に伝わり、都を逃れて山本家に隠れていた「大海人皇子」(身魂:天照彦大神)が、それを読み、古事記の重要部分を作成。その後、30年で即位した「大海人皇子」は「天武天皇」となり、古事記編纂を命じる。
天武天皇から命を受けた稗田阿礼が繰り返し読んでいた歴史を、元明天皇から命を受けた太安万侶が筆録して、712年、「古事記」が完成。編纂を終えた「稗田阿礼」(当時28才の女、身魂:天照彦大神)と、「太ノ安万侶」(身魂:天照彦大神)は、古事記を「元明天皇」に奉る。この裏面の神霊的根拠から見ると、編纂に当った者の身魂はことごとく「天照彦系神」で、かねてより日本歴史を跡方もなく消すという思念をもつ天照彦系諸神の意志に従って編纂されたるものであることは明らか。すなわち、この古事記をもって正当な日本歴史と判断するのは大なる誤りであることを推測することは難しくない。
(※ 序文の「古事記成立過程」――天武天皇は、諸家に伝える帝紀・旧辞に虚偽が多いとして、稗田阿礼に命じてこれを誦み習わせ、元明天皇の712年正月28日、太ノ安万侶が筆録した3巻を奏上した。)
また、編纂者「太安万侶」の序文には、古代日本には文字がないように記した。
【食い違う年代とコジツケ】
古事記の要となった部分は皇統第4代(上代第4代)「天之御中主天皇」(身魂:盤古大神)以降の系譜。編纂にあたっては、宇宙根本祖伸を、本来の「元無極體主王大神」に代って、上代第4代「天之御中主天皇」として記したため、それ以降は順次これにしたがってその年代が喰い違わないようにしなければならず、人類発生を第22代「天疎日向津比売天皇」の時とし、第1代「天日豊本葦牙気天皇」に降下した「天孫降臨の神勅」を、第24代「瓊々杵天皇」の高千穂遷都に無理にこじつけて、「瓊々杵天皇」に降下あったものとして記した。
【皇后の名前が同じことから、誤記】
記紀編纂者は、神倭第1代「神武天皇」を葺不合第1代天皇の皇子として伝えるため、皇統第26代[葺不合第1代]「武鵜草葺不合天皇」の皇后「玉依比売后宮」と、皇統第96代[葺不合第71代]「天照国照日子百日臼杵天皇」の皇后「玉依比売皇后宮」の名前が同じことから、その間70代にわたる日本中古文明黄金時代だった葺不合皇朝全部を歴史から抹殺し、神倭第1代「神武天皇」を葺不合第1代天皇の皇子として伝えるという大誤記をあえて犯す。従って、「神武天皇」を葺不合第1代天皇の皇子として伝えた。
日本書紀の「神武天皇」東征の年代は、天孫高千穂降臨(即ち、仁仁杵天皇御遷都)があってより、178万2000余歳と記されており、この間、わずかに4代の天皇の御代を経過するのみならば、あまりに長きにわたる歳月だと云わざるをえない。
【神武紀元は再建で、建国ではない】
「神武天皇」の出現は5次元界「天照日大神」の御神意によるもので、大地変によって覆滅した日本文化を再建するためだった。ところが、この大神のお心を推察できない史家が、日本建国の時として後世より遡って「神武紀元」を定め、わずかに三千年の神国の歴史を誇ろうとしたことは、かえって神威を冒瀆する。
「神武天皇紀元」について、在来史家は、「神武天皇」が賊徒を平定後、辛酉年正月元日、大和畝傍山橿原大宮で即位した年を紀元元年とし、日本建国の始まりと定めた。ところが、「皇祖皇太神宮」古文書によれば、前天皇「彦五瀬天皇」は、即位35年9月23日に皇弟「狭野尊」に譲位、同年御齢117歳で神幽る。皇位を1日も空けてはならないという太古以来の代々天皇の譲位状況から見れば、「狭野天皇」もまた直ちに譲位されたのは確実。「神武天皇」の即位元年は「彦五瀬天皇」の即位35年であり、その譲位は、皇位を受けた9月23日当日か、それ以後の数日の間に行われたと推察される。
「神武天皇」即位の儀式は当地の大地震後で、造営中の「皇祖皇太神宮」より神宝を取り出すため、天皇みずから越中に赴いて、神通川の対岸、遠見の里より「太神宮」を遙拝し、神宝を捧げ持って大和に帰還。天皇齢112歳の4月3日、畝傍山の「皇祖皇太神宮分宮」で神宝をもって即位式が挙行された。即位式が皇位に就いた年は明らかではないが、4月3日は明らかなので、少なくとも皇位継承と同年ではないことは確実。仮に、即位式を皇位継承2年の4月3日と考えて、従来の天皇がことごとく皇位継承の年を該天皇の即位元年とする定めに従えば、現在の史家の唱える「神武天皇」即位元年(紀元元年)は、天皇の皇位継承2年に当たり、1年の差違を生じる。天皇の即位が譲位の数年後とすれば、この差違は更に大きくなり、現在は皇紀2593年、またはそれ以上の年となる。この問題は、今後、詳細な調査によってやがて確定することができる。
以上の「神武天皇」に到るまでの葺不合72代の状況を拝察すると、現在の日本で定められているように、「神武天皇」即位元年をもって日本紀元となすべき根拠をいずれの所でも見出せない。加えて、その紀元元年を記念して建国蔡を行うようなことは、全く意味がない。強いて言うと、当時日本の人文が完全に滅びたため、第2回岩戸閉めとして日の本天皇は世界統一を一時放擲し、文化を逆輸入して、日本再建を開宇始した意義はあるが、これは単なる再建で、決して日本建国ではない。したがって、皇統第1代天皇よりの真の歴史を拝察して、全時代を通じての現界的な区切りは、次のようになされるのが極めて当然であり、妥当。
一、「太古時代」 皇祖天日豊本葦牙気皇主天皇の御世、皇統第21代伊邪那岐天皇の御世まで。
二、「中古時代」 中興の御祖皇統第22代天疎日向津比売天皇の御世より、葺不合朝の終わり、第97代彦五瀬天皇の御世まで。
三、「近世時代」 再建の御祖皇統第98代神武天皇の御世より、皇統第219代孝明天皇の御世まで。
四、「現代」 皇統第220代明治天皇の御世より、現時まで。
【女帝「天照大神」を、5次元界「天照日大神」と混同】
人皇10代「崇神天皇」の御代、皇統第22代女帝「天疎日向津比売天皇」を日の本上代中興の御祖として称え奉った御名「天照大神」を、5次元・天の御三體大神の一なる「天照日大神」と混同。3次元限身界の天皇が、5次元燿身界の統治神たることになった。
【史実としての価値なし】
古事記は、このような年代の食い違いを無視し、包み隠して作成され、ついに世界人類界の根源たる日の本の歴史を跡形もなく消すことが成功した。このような虚偽をあえて後代に残したのは、「天照彦大神」系諸神の日の本歴史改竄の意図から出でしものに外ならない。
これで明らかなように、古事記は不確かでいい加減な事はなはだしく、大誤謬(=大間違い)・大矛盾(=つじつまが合わない)を含み、史実としてはほとんど一考の価値もない。その本文「天地初発の時、高天原に成りませる神の御名は、天之御中主神、次に高御産巣日の神、次に神産巣神、この三柱の神は、並独神成り座して、身を隠し給う。」を形而上的な神文として考える時、必ずしも無意味だとは言いにくいが、記載の事柄全部を事実とみなして、これを歴史として取扱い、その結果、日の本皇室と国体の尊厳をこれより説明しようと試みるのは、大誤謬・大冒瀆をあえて犯すものだと断定せざるを得ない。
(※ 古事記――「天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。此の三柱の神は、並独神と成り坐して、身を隠したまひき。次に國稚く浮きし脂の如くして、久羅下那州多陀用弊流時、葦牙の如く萌え騰る物に因りて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神。次に天之常立神。此の二柱の神も亦、独神と成り坐して、身を隠したまひき。上の件の五柱の神は、別天つ神。次に成れる神の名は、國之常立神。次に次に豊雲野神。比の二柱の神も亦、独神と成り坐して、身を隠したまひき。」)
【真の神武天皇東征】
日本島の人文がことごとく完全に滅びたことで、「山武姫大神」は、日の本に紛れ込んで以来の念願「限身現界での日の本奪取」に好い時説が到来したとして、力を集中。「山武姫大神」はまず「神武天皇」の身魂として出現し、さらに大神や部下の諸神霊を、皇族や大臣・中臣・小臣の身魂として植え付けて拡大。これに対して、日の本在来の諸神霊は、「十道行成大神」「青森白木上大神」「大力之神」を初めとして決然と行動を起こし、「山武姫大神」系諸神霊に反抗し、また、駛身神霊界の大混乱があらわになる。
この「山武姫大神」系諸神霊と日の本在来の諸神霊との争闘は、日の本の歴史では、「神武天皇」東征途中における各所の戦闘として記されているが、事実は「4次元神霊界の戦争」で、3次元現界の事実ではない。すなわち、「饒速日尊」(神武天皇東遷の時代とは遠く74代の天皇を隔てる、皇統第23代天之忍穂耳天皇の皇子)は、「十道行成大神」で、「長髄彦」は「青森白木上大神」、「兄猾」「弟猾」は「大力之神」。ところが、日の本在来の歴史は、「饒速日尊」以下を天皇に抗った叛乱の徒とした。これを4次元界の神霊的事実から見ると、「山武姫大神」こそ、古来個有の日の本を破壊しようとする纂奪者であり、侵入者。
両神霊系間の争闘は一進一退で終わりが見えなかったが、「天照日大神」より
『日の本文化建直しの必要性と、やがて大地将軍の霊統たる明治天皇に一且時代を渡すべきことから、速やかに矛を収めて山武姫大神に委せよ』
との神勅が下り、「十道行成大神」以下は止むを得ず戦闘を断念し、「山武姫大神」以下の指揮に従うことになった――以上が神界・神霊界の消息。前天皇時代の日本島大変動・大地震の後をうけて、「彦五瀬不合72代天日嗣天皇」が皇弟「狭野尊」と共に、その再建に大きな努力を傾けたことが、真の「神武天皇御東征」。
これを記紀の伝える現界の物語と照合すると、興味深い。
「神武天皇」東征の砌、「饒速日尊」征伐のため紀州南部に上陸した時、天皇はじめ全軍の将兵はことごとく敵軍が発する妖気に酔い、前後不覚に眠り込んで動くことができなかった。眠っている天皇の前に一頭の熊が現れて、「これより先に高倉下なる家があり、天より宝劔が降りた。その劔を取れば、全軍は再び眠っている状態からはっきり意識を戻す」と告げる。天皇が高倉下に着くと、劔が屋根を貫いて床に立っていた。天皇はその劔を取って戦い、全軍は正気を取戻して大勝利を得る。この劔を後に大和国石上神宮に納め神宝とした。
熊は古来、日の本の皇太神の思いが凝って成った獣と言われ、すなわち「天照日大神」の神意を象徴する。(高倉下は葺不合69代「神足別豊天皇」の皇子「高倉下尊」より出でしもの)また、この神劔は「天照日大神」が降された神勅そのもので、「神武天皇」に敵対することを禁ずる、すなわち「山武姫大神」に反抗するのを止めて、これに任せよとの、善一筋の天よりの御言葉を象徴したもの。
このように日の本の伝説は、現実から見ると甚だしい嘘のように思われることが多いが、その荒塘無稽に似た事実が指し示す所を思い、神霊界の事実を考えてその意を汲めば、やがてもっともだと納得する。「山武姫大神」の日の本現界への進出は、統治神「天照日大神」の許容されるところであることから、日の本個有の諸神霊は、その神勅を無視して正面よりこれに抗う理由はなく、やむなく裏面から秘かに「山武姫大神」の現界に対する画策を防ぎ止める手段を廻らすことになった。
◆神宝の秘蔵
前述の如く、仏魔の侵入が愈々盛になり、其の暴挙益々激しくなって来たため、「皇祖皇太神宮」並に皇室の神宝は勿論、日本天皇の系譜歴史に就いても、当時代々の天皇は、痛く大御心を悩まされ、「皇祖皇太神宮」神主其の他に対して、度々御詔勅を以って、極力神宝を守護するように命令された。即ち、古文書に残れる記録を次に記載する。
1、神倭八代孝元天皇、即位21年1月1日、朝6刻、「天疎日向津比売天皇御神霊」より天皇へ神勅あり、宣告される、
『万国の棟鿄天皇の御神宝神日本魂三劔、神骨石の神體神霊、天疎日向津比売天皇の三種之神器・籬立瓶神体・神代神孫図宝を他国人、また万国人に秘密に秘蔵せよ。』
という神勅で、同年3月1日、天皇自身が越中国日見日高見赤池上神明の「棟鿄皇太神宮」へ行幸。詔して、「大葦氷徳別尊」をして秘蔵した。
2、神倭10代崇神天皇、即位3年3月3日、秘密の詔を大申政神主「竹内屋主忍雄親王」が受ける。天越根中国日見高見光池上神明万国祖根棟梁「皇祖皇太神宮」の神体、神骨像石神代文字付48體のうち、2體分(天疎日向津比売天皇の御神骨像)を遷し、1は宮中に、1は「丹波本伊勢太神宮」に移して祀る。(第132章:皇統第107代[崇神天皇]参照)
3、神倭10代崇神天皇、即位4年10月16日、詔。さきに「天疎日向津比売天皇」を改めて「天照大神」と宮中に移して祀った神體・神骨像石神代文字付神體を、大和笠縫村に移し、祭主天皇、祭長「紀竹内屋主忍雄親王」、祭宮「大彦命」「武渟(名)川別命」「吉備津彦命」「丹波道主命」「武埴安彦命」「大伴豊日命」が来臨を願って祀る。(第132章:皇統第107代[崇神天皇]参照)
(備考 日本書記本文訳「6年百姓は流浪できず、背く者もあり、その勢いは徳で治めることが難しい。これをもって、朝に起き夕に煬りて、神祗(=天の神と地の神)を請罪す。これより先、天照大神・倭大国魂二神を天皇、大殿の内に祭るが、その神の勢いを恐れ、共に住むことは簡単ではなかった。天照大神を以て豊入媛命にかこつけて倭の笠縫邑に祭り、磯城神を立てた。」)
4、神倭10代崇神天皇、即位62年3月1日詔。「万国棟梁天皇の諸神宝を、今より先の代々まで秘蔵するため、天越根中国日見日高の御皇城山神明の棟鿄、皇祖皇太神宮に堅く秘密に他人に大奥に秘蔵せよ。汝武渟名川別命・吉備津彦命・大彦命・丹波道主命・武埴安彦命・大伴豊日命がこれをなせ。」「神宝守護の役を、永遠の世まで棟梁(=一族の頭)の臣と定める。」「汝武雄心命(武内宿禰の祖父)は、皇祖皇太神宮の神宝守護役となって、今より遠き代々まで孫々まで、よく守り勤めよ。」(註 皇祖皇太神宮神主は、この詔勅によって世襲となる。)
(※ 日本書記では、武内宿祢の祖父は「彦太忍信命」、父は「屋主忍男武雄心命」(別名: 屋主忍男武猪心命、武猪心命。)
同じく詔、「すみらみことの三種の神器を造り、天皇に譲ることとして伝える。五色人にさとられないよう秘蔵せよ。真の神器は、必ず他人に知られないよぅ、皇祖皇太神宮に秘蔵して念を入れて守れ。」(これによって、三種神器は皇祖皇太神宮に埋蔵された。)
5、神倭16代誉田別天皇[応神天皇]、即位11年1月6日、竹内宿禰を勅使として遣わして、地中に「皇祖皇太神宮」神宝を埋め、秘蔵。(神宝は地中に埋蔵。)
6、神代19代瑞歯別天皇[反正天皇]即位元年より2年1月6日朝まで、大臣「紀氏平群竹内真鳥」に、「天皇のため、御国のため、今代より万国を統一する時まで、御皇城山の棟鿄皇祖皇太神宮を必ず堅く守り、御宝を守護すべし。」と神託あり。
7、神倭22代大泊瀬幼武天皇[雄略天皇]即位15年3月16日明七ッ刻より同明六ッ刻まで、「天照日大神」が皇后「韓姫」に神懸り、天皇へ神託。「神倭12代景行天皇即位15年10月1日詔して、天皇自身が天降り、天下一宝の生カネ、ヒヒイロカネ(太古より代々受け継がれて伝わったヒヒイロガネは、天皇の御時、材料が皆無となる)を取って、日の神十六菊形紋を2枚造り、何十万年経っても、鏽びず、腐らず、生々としている宝のヒヒイロガネ、天下に又となき宝の生ヒイロガネの紋、神日本魂の劔、八咫二面鏡の神代文字名付神宝を持ち得る人こそ、天下万国主天皇であり、天津日嗣代々高御座へ祭る宝である」「不合天皇自身がヒイイロカネで、日の神十六菊紋形紋、神代文字ホド字ミド字付2枚、神宝神骨像石神代文字神名付神籬立瓶神代文字神名付神代文字天皇系譜は、天下万国に一人、世無極代まで「天照日大神」神勅の正孫代々天皇一人に定めた、天皇自身の守り神宝である。天皇自身を守護する皇祖皇太神宮だ。」以上、同四ッ刻に詔、真鳥が謹んで受ける。
8、神倭22代大泊瀬幼武天皇[雄略天皇]、即位15年3月16日詔。万国棟梁皇祖皇太神宮神体万神宝守護、神主・大申政大統領紀武内群菟宿禰の子、大申政大統領紀竹内真鳥は、詔「神代文字神宝、象形仮名を支那唐字で、初めて神代文字を直して写し、他人に他言禁止、大秘密にせよ。」を謹んで受け、堅く守って写す。(本解読所載の古文書中の記文は、凡て古、真鳥宿禰が唐字と片仮名で、神代文字を訳したものを、そのまま記載。)
9、神倭24代遠祁石巣別天皇[顕宗天皇]、即位2年1月1日詔、アヂチの文字、神代文字を形仮名と唐字に直し、臣は謹んで受ける。(臣神主 大申政大臣「紀氏竹内平群真鳥」、大連「大伴室屋」、大連「大 金村」 花押 棟鿄皇祖皇太神宮大秘蔵)
10、神倭25代億計天皇[仁賢天皇]、即位2年3月17日詔。「汝真鳥宿禰の子孫は、必ず棟鿄皇祖皇太神宮の神主をせよ。神宝を守護せよ。今のところ、ますます唐字を習い、仏教を始めている。今後、日の本に仏教が開かれる時、万国五色人祖根の棟梁皇祖皇太神宮の神宝、天皇の御宝を失うことがないよう、必ず外人から大奥を秘蔵せよ。万国五色人の天皇の神宝、ヒヒイロガネ十六菊紋象形仮名日文字の神体神宝巻、ヒヒイロガネ三劔神日本魂劔、神骨像、石霊、神籬立瓶を堅く大奥に秘蔵せよ。天疎日向津比売天皇自身が造らせた「三種神器」は、天皇が所持していると広く知らせ、アヂチ唐王、万国五色人王の棟鿄天皇の神宝ある事を知らさず、堅く秘蔵せよ。」「神代の巻以下、唐字に写し直して作るべし。」
11、又同じく即位5年2月10日、詔。「神代の巻以下、唐字に写し直して作るべし。」(4月23日迄、大臣 紀氏平群 竹内真鳥、大臣 大伴氏 室屋連、速 物部日連が、これを映す。)
12、また、同5年6月5日・6日・7日、天皇自ら祭主となって皇祖皇太神宮大祭礼を行う。上代でのように、天皇みずからが祭祀をしばしば行わせる事のために、皇祖皇太神宮に各種神宝を秘蔵してあることが、やがて他に察知されることを思い、この時の親祭を最後として永久に親祭(=天皇自らが行う祭)の儀を停止した。
◆三大神勅の真起源
その根源を古事記・日本書紀・古語拾遺等の記述とする「天孫降臨天壊無窮の御神勅」「三種神器御拝受の御神勅」「天津神籬天津磐境の御神勅」は、日の本皇室と国体の尊厳に関する最大の根拠となる神勅とされているが、大きな間違いがある。その真実を明らかにすれば、日の本皇室の尊厳はさらに一層その意義を深め、国體の光輝が億倍するとわかる。
(1)天孫降臨天壌無窮の神勅
古語拾遺「干時、天祖天照大神、高皇産霊尊、乃相語曰、夫葦原瑞穂国者、吾子孫可王之地、皇孫就而治焉、宝祚之隆当与天壌無窮矣。」を、神代文字「神體神名天皇御名の巻」の記載文と、神示によって綜合する。
- 日本島に人類界が出現した時、神界統治神「天照日大神」より、人祖に対して、人類統一の神勅「天孫降臨の神勅」(第6・13章参照)が下された。古記本文の「天祖天照大神」は神界統治神「天照日大神」であり、人類統治者である大神は、第3次元界・人間界で、その霊統者(皇孫)を永遠のその統治者と決定した。在来言われているように、天孫たる人類が天上より地上に降りてきたのではない。
――「男人祖を天照日大神の皇太子と定める。」「皇太子男人祖と女人祖を夫婦とする。」「皇太子を地上における人類界の統治者とし、天において「天照日大神」が天職天皇として天津比嗣永遠の御位に在ますように、皇太子[御身魂 大地将軍]の霊血統者が地上での天津比嗣を継承すべし。」(皇太子は万国棟梁天職天津日嗣天皇の高御座に即位し、皇祖として天日豊本葦牙気皇主天皇と言う。)「皇位継承の象徴として、ヒヒイロガネの (は)玉を、天より下す。」「男女53尊とその子孫を、臣下に列す。」
- 皇統第3代「天日豊本黄人皇主天皇」の御代、地球全部に大変動が起きて一面泥の海と化し、万国・万物が潰滅した時、天皇は皇族397名を率いて天空浮船に乗り、秋津根国大台原峯より天日球の国に登って大難を逃れた。地上が静まり、天皇即位○年イヤヨ月(3月)立1日、「天御光太陽貴王日大御神」[天照日大神]から「天日豊本黄人皇主天皇」に、「万国の天津日嗣は、汝の子々孫々まで天地とともに永遠に極まりなく続く。汝、天津越根中国(越中)に天降りて、再び地球万国を開き治めよ。」と。
また天皇は、皇子皇族に詔して、日球の国より越根中国のニ井ヤのトトの山に天降って、御皇城山大宮を仙洞(=御所)とし、皇太子「天御中主尊」は越根中国鷲羽山に天降り、その他の皇子・皇族390名は神国と支那その他に天降った。天皇は、さらに万国の五色人の祖として25名を天降した。(註 第17章)
- 皇統24代「仁々杵天皇」は即位○年ケサリ月円10日(2月20日)、天越根中御皇城山より、天空浮船に乗って奇日根日向国高千穂峯に、皇后・皇太子・皇族・臣僚88尊と共に天降る。大宮を建てて、そこに遷都し、自ら万国の万機を親裁(天皇や国王などがみずから裁決を下すこと)した。
以上の三項から、「天御光太陽貴王日大御神」[天照日大神]の神名が「天照大神」の御名に相通ずる所と、「瓊々杵天皇」高千穂大宮へ遷都の事実が双方混同され、次の次の古記で、「天照大神」の『天孫降臨』『天壌無窮』の神勅として構成された。天孫降臨は、決して「天照大神」たる「天疎日向津比売天皇」の御代の事ではない。
(2)三種の神器御授受の神勅
古御拾遺「即以八咫(鏡)及草薙劔二種神宝、授賜皇孫、永為天璽、矛玉自従、即勅日、吾児視此宝鏡、当猶視吾(可)与同床共殿、以為斎鏡・仍以天児屋命太玉命天鈿女命便配待」を、「神体・神名・天皇御名の巻」に照合。
- 皇統第22代「天疎日向津比売天皇」(後代、天照大神と称す)は、劔・玉・鏡をヒヒイロガネで造らせて、「三種の神器」と名付ける。鏡・劔は「天真浦命」(宇麻志阿志訶備比古遅天皇の皇子)に命じ、玉は「生玉命」に命じて磨かせ、天皇自身が常に御に着けて、これを「天忍穂耳尊」に譲った。(天真浦命作の劔は、長さ2尺2寸5分)
- 葺不合第6代「石鉾歯並執楯天皇」の即位式の際、「天疎日向津比売天皇御神霊」より、「三種之神器を自分と思って秘蔵し祭りせよ」と神勅あり、天皇御自身所持の御宝の神器とされた。
古御拾遺に「吾児視比宝鏡・岩猶視吾」とあるのは、葺不合6代天皇の即位式の際、「天疎日向津比売天皇御神霊」よりの神勅で、「仁仁杵天皇」に降されたものではない。また、三種之神器は天皇自身が常に所持される御身守御宝で、それが皇位継承の神宝となったのは、葺不合第11代「禍斬劔彦天皇」の御世、「三神宝劔と天疎日向津比売天皇の造られた三種神器を以て、即位した」とあることが始まり。これより前は、代々の天皇は三種神器以外の諸神宝で即位された。
古語拾遺の本文は、「仁仁杵天皇」を皇孫とし、その天降りに権威をもたせるための創意から出た加筆。
(3)神籬磐境の神勅
古語拾遺「因又勅曰、吾則起樹 天津神籬及び天津磐境 当為吾孫奉斎矣 汝天児屋命太玉命二神 宜持天津神籬降於葦原中国 亦為吾孫奉斎焉 惟爾二神 其(共?)待殿内 能為防衛(護?) 宜以吾高天原所御斎庭之穂 亦当御(於)吾児矣 宜太玉命(率) 諸部神供奉其職如天上儀 仍令諸神(亦)与陪従」を、古文書記載の文に照合。
- 皇統第10代高皇産霊天皇即位大礼祭
天皇はまず天神人祖一神宮「天照日大神」に天盃を捧げ、次に、天津日嗣の高御座に即く。高御座は、その八方位に神籬を樹て、その外方四方位で「東に青幣旗立て、青人王神服にて拝礼」「西に白幣旗立て、白人王神服にて拝礼」「南にヒヒロ幣旗立て、青人王神服にて拝礼」「北に紫幣旗立て、黒人王神服にて拝礼」し、四方位の中間4ヶ所に黄幣旗を立て、黄人万国五色人の棟鿄天皇の臣副・32臣が拝礼した。(註 現今大礼で使う万歳旗にある瓶は神籬立瓶を表し、五尾の魚は中東東西南北の五を示し、三十二の波は32臣を表す。)
- 皇統第23代「天之忍穂耳身光天津日嗣天皇」は、「天万栲幡千幡比売尊」の姫「天玉依毘売尊」と成婚。「皇祖皇太神宮」前殿での即位式の時、神勅によって、天皇自身が神籬立瓶を造り、上代天皇の大神名を神代文字にて彫刻し、それ以降の即位式の際は必ず用いると定めた。
- 皇統第24代「天之仁仁杵身光天津日嗣天日天皇」、即位16年イヤヨ立1日(3月1日)、天越根中日見日高見赤池上「皇祖皇太神宮」で即位大祭礼。天皇自ら神籬立瓶を造り、上代天皇の大神名を神代文字で掘りつけ、8つを八方位高御座に建てて、挙行。それ以降、代々の即位式には必ず神籬立瓶を建てる事とし、かつ、御三劔の御神宝を受け継がせ、即位当日、天皇より「天照日大神」に天ミキサカツキ「天盃」を奉った。
- 皇統第25代「天津彦火火出見天津日嗣天皇」は、天越根中日見日高見赤池上「皇祖皇太神宮」の前殿で、即位の大祭礼挙行。「太神宮」の本殿と前殿を造り替え、四方位に鳥居を建て、天皇・皇后自身が神籬立瓶を造って、上代天皇の御名を神代文字で掘り付け、当日は高御座の八方位に建てて即位した。神籬立瓶は「皇祖皇太神宮」に奉納。「天照日大神」の神勅によって、即位の年イヤヨ月立3日、天皇・皇后が祭主となって大遷宮祭を行った時、「思兼命」が祭長、「児屋命」「太王命」が祭官となる。五色人王380名が来朝し、参拝。
- 葺不合第6代「石鉾歯並執楯天皇」は、「皇祖皇太神宮」の本殿と前殿を造り替え、即位5年ジブリ月立3日(11月3日)、自身が祭主となって即位大祭礼を挙行。天津高御座に昇り、「天照日大神」に自身が1尺7寸2分の大盃に酒を奉持、朝六ッの刻より四ッの刻まで天盃を奉り、正九ッ刻に天皇が南面して即位。この時、「天疎日向津比売天皇御神霊」から、「天下万国に一人、天皇の身は、羽衣にのみ日の神の守として十六菊紋章を付けるべし。三種神器を自分と思って秘蔵せよ。祭りせよ。」と神勅あり。
以上列記の即位式の模様から、高御座(=天皇の玉座)は磐境(=神の鎮座する場所)で、ここに神籬を樹てて天上の諸大神の神霊を招き、上代天皇の御霊としては、神日本魂御劔その他代々天皇が残した神宝を南面せる天皇の上位(左方)に置き、天皇御皇祖皇宗と共々、天津日嗣継承の大典を挙行する次第と拝察される。
すなわち、神勅によって「天之忍穂耳天皇」自身が神籬立瓶を作り、これに上代天皇と諸大神の御名を神代文字で彫刻し、将来これを即位式に用うべき事を遺詔された事を考えると、古書日本文の天津神籬・天津磐境の真意はありありと脳裏に浮ぶ。在来諸学者の唱える解説は、天祖皇祖皇宗と共々に天津日嗣天皇の高御座に昇られる大典の本義を含む、神籬磐境の真意に遠くして及ばない。
ことに、本文「天児屋」「太玉」2神は、決して4次元界の神霊ではなく、人間。「太玉命」は皇統10代「高皇産霊天皇」の皇子(佃女命はその子)。「児屋命」は、「神皇産霊天皇」の皇子「天豊津速産霊尊」―「市干魂」―「居に登魂命」の子で、「高皇産霊天皇」の皇女「天万栲幡千幡比売尊」の女「天玉依毘売尊」を皇号宮と正式に決定したと同時に大臣となった。「天疎日向津比売天皇」の御世の「皇祖皇太神宮」大祭典の時、「児屋命」は既に祭典長を勤め、「仁々杵天皇」即位式では祭官を勤めた人間。これを天上より派遣された神霊のように書き記したのは、天孫天降りを権威づけんとする筆者の曲筆。
以上によって、三神捗の起源はほぼ明瞭となった。現在の諸学者が唱えるような神現混合の鵺式(=あいまいな)解説は、これらの上代の即位式の事実を知らないため、いい加減な推測を重ねてこれを神秘化し、哲学化して挙げつらう観念の遊戯が過ぎる。後段「第169章 登極霊の変遷」を参照する際、以上は惟神にして、ことさら言葉に出して言い立てることも要さない、明瞭な事実であることを納得すべし。
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