◆皇統第98代[葺不合第73代][神倭第1代]神日本磐余彦天皇(神武天皇)
狭野尊不合七十三代天日嗣天皇
神日本磐余彦天皇神倭一代[神武天皇][御身魂 山武姫大神]
多多良五十鈴媛皇后宮
皇后宮は、葺不合67代天皇の皇子「言代大宝尊」の子、「春日建櫛甕玉尊」の女。
(註:日本記は「言代大主尊」を「言代主命」とし、一説として「大物主尊」=「大和櫛甕王大物主神」の子とする。「言代主尊」は「大国主命」の子、「大物主」は「大国主命」の和魂を伝うるもので、「言代大主尊」より大の字を脱し、春日建櫛甕玉の三字によって「大物主神」の子としたもの。古記が杜撰なる事を知るべし。)
【山武姫大神が皇霊統に初侵入】
「天の御三體大神」の神意によって、日本が完全に滅んだ後の建直しの目的で「神倭磐余彦天皇」が即位し、その身魂「山武姫大神」は、ついに日の本皇室の皇霊統に入る事を得た。このことは、「天照日大神」の神意に基くもので、やがて来るべき「第二回の岩戸開き」を期して、まず外国神霊を日本皇霊統に入らせ、それら諸神霊の支配下で日の本の再建に努力させ、わずか2600年で、今日見るような日の本に恢復し得た。
「山武姫大神」は勇み立ち、心躍って日本島文化建設事業に着手。「山武姫大神」の手足となって働く家臣として事業を補佐した「磐古大神」「御幣田姫神」「幡十台神」等の外国諸神霊は、この後、さまざまな人間の身魂として現界に出現し、個有日本を完全に滅ぼして、外国諸神の意のままの日本を造ることに専念する。すなわち、「妙見」[磐古大神]、「普賢」[御幣田姫神]、「文珠」[幡十台神]等の諸菩薩は、極力仏法の弘通に努め、後に儒教が入って漸次拡まったことは、これら諸神霊の「日の本奪取の計画]の現われに外ならない。
当時、越中の地は大地変後で、「皇祖皇太神宮」は修理中だったので、天皇はまず「太神宮」の東、神通川の岸から遙拝(遠見の里と名付ける)。それより神宝を奉持して大和に帰り、畝傍山に「皇祖皇太神宮」を鎮祭。神宝たる神日本魂御劔の名によって、名を「神日本磐余彦尊」と改め、御齢112歳4月3日、この畝傍分宮の大前で即位の大礼を挙行。天皇みずからが祭主となって天津日嗣の高御座に昇り、南面して「天照日大神」に天盃を捧げ、万国五色人王の棟鿄天皇の御宝、神日本魂三神宝劔・神骨像石の御神體・天疎日向津比売天皇の三種之神器、神龍立瓶・神代上代の皇統象形仮名アヒル文字の巻・十六菊形御紋宝等を奉持して、正殿で即位した。
即位50年の記念祭に際し、現在われわれが使用している新片仮名文字、アイウエオ以下ンまで、51字を作成(第117章「古代文字」)。また、文化回復のため、韓国や支那より文物の輸入を図った。
【第2回岩戸閉め】
「神日本磐余彦天皇」は、文化が完全に滅んだ日の本建直しのため、一時、世界万国を統一して治めることを完全に放棄した。これを「第2回岩戸閉め」と言う。
【大広木正宗大神の各宗教樹立】
3次元現界では日本文化覆滅という大事があり、4次元駛身界では、「山武姫大神」がのさばりつつあった時、駛身界で第7次神政内閣没落後、外国に赴いていた「大広木正宗大神」は、事態が急なるを見て、最初の目的だった外国教化の事業にいっそう努力し、現界の各地に出現して教えを樹立した。
○ 紀元57年(紀元前604年[*中国571年?])、楚の陳都に「老子」[身魂:支那古来の神霊「盤古大神」]生誕。「大広木正宗大神」が導いて、その幽玄な老経の完成に努力した。
○ 「綏靖天皇」の20年(紀元前562年[*624年?])、インド天竺国カビラ城に、万山黒人王「唐良羅衛尊者」の末裔の「釈迦」[身魂:山武姫大神の分霊]生誕。「大広木正宗大神」「大力之大神」「日之出大神」等の諸神が、正しい道に教育する任務に当たり、荘厳な仏教を樹立した。
○ 「綏靖天皇」の31年(紀元前551年)、魯の昌平郷陬邑に「孔子」[身魂:山武姫大神]生誕。「大広木正宗大神」が導いて、その厳粛な論語その他の完成に努力した。
○ 「孝安天皇」21(紀元前372年)年、「孟子」[身魂:大広木正宗大神]生誕。老・孔を綜合して、その濶達(=度量が広く、小事にこだわらない)な王道の要を完成させた。
○ 「垂仁天皇」26年(紀元前4年)、猶太に、「基督」[身魂:大広木正宗大神]生誕。
○ 「推古天皇」18年(皇紀1270年[西暦610年*570年頃?])、イスラム教を樹てた「ムハメット」[身魂:大広木正宗大神]生誕。
【近世仏魔の侵入】
日本再建に必要な物質文明の輸入と共に、儒教の教えも次第に日本に入り、文化の進歩に貢献した半面、個有日本を消そうとして儒教・仏教の魔が侵入し、随時、随所でのさばり蔓延るようになった。
日本各神社は、本来、ただ清浄で飾り気がなく正しいものでなければならない。ところが、今日われわれが常に見る神社は、境内に狛犬の像があり、建築では鼻巻象・唐獅子・鳳凰等の彫刻があることから、そこに何ものが根を張っているかがわかる。(註:鼻巻象は普賢菩薩[御幣媛神]、唐獅子は文殊菩薩[幡十台神]、鳳凰は妙見菩薩[盤古大神]の象徴。殊に祥鳥と言われる鳳凰は、「山武姫大神」の創造化した孔雀を思わせ、日本皇統を奪い取るというかねてからの願いによって、ついに鳳輦(=屋形の上に金銅の鳳凰をつけた輿)を作って、おそれ多くも陛下の頭上に置く。将来、鳳輦は廃止されるべきもの。
日の本在来の神霊は、これら魔の跳梁を防ぎ止め、極力これに対抗。日の本諸神霊が何をおいても守護しなくてはならないものは、やがて再来すべき世界統一で物質的根拠象徴となる、皇統継承の天璽象徴たる「皇祖皇太神宮」と、皇室にある神代上代の御神宝。その保護のため、現界では代々天皇が、神勅の指示するところに従ってさまざまな方法であらゆる苦心と努力を傾け、神界でも同時に、遠くの将来を見据えて着々と諸般の準備が進めた。
◆皇統第105代[神倭第8代]大日本根子彦国牽天皇[孝元天皇]……身魂:八尾大陣大神
大日本根子彦国牽天皇[孝元天皇] [御身魂 八尾大陣大神]
即位12年1月1日、「天疎日向津比売天皇御神霊」の神託により、仏魔侵入に対して、「皇祖皇太神宮の神宝・神代上代の万宝と三種之神器を、他国人又万国人に秘密に秘蔵せよ」と詔。
◆皇統第107代[神倭第10代]御間城入彦五十瓊殖天皇[崇神天皇]……身魂:大野大陣大神
御間城入彦五十瓊殖天皇[崇神天皇] [御身魂 大野大陣大神]
即位3年3月3日、「皇祖皇太神宮」の神宝中、上代天皇神宮骨像石神體48八體から1體を宮中に、他の1體を丹後「元伊勢太神宮」に秘密裏に勧請。後、宮中のものは大和笠縫村に移して祭祀。これは、「天疎日向津比売天皇」の神骨石像神體で、天皇は上代「日の本中興の御祖」であることから、その神霊の威徳によって仏魔を下そうとする天子の意から出た。この時より、「天疎日向津比売天皇」を、「天照大神」と称し奉る。
即位62年3月1日、五色人に秘密で三種之神器を製作し、製作された神器を以後代々の天皇に譲ると定め、真の神器は「皇祖皇太神宮」に秘蔵した。
◆皇統第108代[神倭第11代]活日入彦五十狭茅天皇[垂仁天皇]
活日入彦五十狭茅天皇 [垂仁天皇]
即位25年、大和笠縫村に鎭祭していた神宝「天疎日向津比売天皇」の神骨像神體を、更に「倭姫命」に命じて、伊勢五十鈴川上に鎭祭。即ち、現在の「伊勢太神宮内宮」を「天照皇大神宮」と称す。此の翌年、「基督(キリスト)」生まれる。身魂は「大広木正宗大神」。
◆皇統第111代[神倭第14代] 足仲彦天皇[仲哀天皇]
足仲彦天皇 [仲哀天皇] [御身魂 大広木正宗大神]
息長帶媛皇后宮 [神功皇后] [御身魂 大鶴姫大神]
武内宿禰 [身魂 八尾大陣大神]
天皇、神意を尊重しなかった廉で、即位7年3月14日巳の日、突然に崩後。「天照日大神」の神勅により、「息長帶媛皇后」が天津日嗣の高御座に登る。時に皇后の御齢42歳。此の登極の御事が史実に残らなかったため、現在の皇統に漏れており、単に摂政の始めとして記録されるに止まっている。
◆皇統第112代[神倭第15代] 息長帶媛天皇[神功皇后]
息長帶媛天皇 [神功皇后]
即位元年11月14日、筑紫国蚊田宮にて皇子「誉田別尊」御誕生。天皇詔して、御自ら「竹内宿禰」[身魂 八尾大陣大神]を率いて三韓に進み、「忍熊王」を始め53王を征伐。蚊田宮に残されていた皇子「誉田別尊」には、「竹内木菟宿禰」及び「景行天皇」の皇女「五百城入姫尊」に鳩八十羽を付けて侍従させ、天皇と皇子との御文通はこの鳩によってなされた。即位3年冬12月23日蚊田宮に凱旋。其の時まで「誉田別尊」の御誕生を発表されなかったため、皇子は三ヶ年間母天皇の御胎内に在られた事として、伝えられる。
即位54年甲戌5月5日、「武内宿禰」に詔して、筑紫三井垂将玉垂の地中にうつら(虚―空洞)を作らせ、天皇の御宝、潮満玉、潮干玉を秘蔵される。その所に、「皇祖皇太神宮」「太陽日神」「大陰月神」「日向津天照大神」「豊玉彦神」「豊玉彦姫」を、「高良玉垂の神」として勧請。天皇自ら祭主となり、宿禰祭長となって、祭祀し奉る。即位69年4月17日、御齢110歳を以て、若桜宮に崩御。池上に葬り奉る。
◆皇統第113代[神倭第16代] 誉田天皇[応身天皇][御身魂 地上丸大神]
誉田天皇 [応身天皇] [御身魂 地上丸大神]
即位11年1月6日、詔して、「竹内宿禰」を勅使として、越根中国赤池上「皇祖皇太神宮」に派遣、代々天皇の神宝・上代天皇御親作の神籬立甕・「息長帶天皇」の水金鏡及び神代上代の万宝を神宮の地中に秘蔵、仏魔の暴挙を免れる。天皇、即位11年3月1日、自ら祭主となり、大祭礼を挙げ給う。即位45年2月15日、御齢111歳を以て、豊明宮に崩御。
◆皇統第131代[神倭第34代]豊御食炊屋比売天皇[推古天皇]
豊御食炊屋比売天皇 「推古天皇」
当時、「普賢」「文珠」「妙見」等の諸菩薩が、部下眷属と共にまた相次いで日の本に侵入して、各所の神社を占拠し、ますますわがもの顔にのさばったため、代々の天皇は苦心を重ねてきた。「豊御食炊屋比売天皇」(推古天皇)の御代に到り、「大地将軍」は「聖徳太子」の身魂として出現、天皇の摂政として長く政治に参与した。「聖徳太子」は我国歴史では佛法弘通の大先覚者として伝えられるが、これは上辺の見方に過ぎず、太子は表面では仏法に帰依し、内々ではその鋭鋒を挫いた。
天皇即位18年、アラビアで「マホメット」[身魂 大広木正宗大神]がイスラム教を創始。第7次神政内閣以後、外国に走って後、「大広木正宗大神」はさまざまな教えを樹立したが、大神の新教創設はイスラム教で最後となった。
◆皇統第136代[神倭第39代]天智天皇……身魂:十道行成大神
天 智 天 皇 [御身魂 十道行成大神]
素服(=飾り気のない服)軍国を始め、滋賀大津に皇居を定め、唐制に倣って律令を制定。身魂「十道行成大神」は「饒速日尊」が現界に出現して活動されたもので、「山武姫大神」諸神の佛法弘通に対して、毒をもって毒を制する意図で、唐制の採用を試みた。
◆皇統第137代[神倭第40代]弘文天皇……身魂:大地将軍
弘 文 天 皇 [御身魂 大地将軍]
壬申の乱で天皇軍は破れ、勢田(=瀬田)で崩御。この戦は次代「天武天皇」[身魂 天照彦大神]との伯・甥間の争闘で、4次元駛身界で神政紊乱開始の際、「大地将軍」対「天照彦大神」の争闘が反映したもの。
◆皇統第138代[神倭第41代]天武天皇……身魂:天照彦大神
天 武 天 皇 [御身魂 天照彦大神]
「大海人皇子」(後の「天武天皇」)は都を逃れて、美濃国中山村、山本家(太玉命の子孫、すなわち天照彦系の身魂を有する)に隠れ、この家で、物部氏より伝わる「雄略天皇」勅令による許可、「天之御中主天皇」以降の天皇系譜を読み、古事記の重要部分を作成。その後約30年で即位し、詔して、古事記の編纂を命じる。(註 第138章参照)
「太ノ安万侶」の序文を見ると、古代日本には文字がないように記されているが、このような虚偽をあえて後代に残すのは、「天照彦大神」系諸神の日の本歴史改竄の意図から出でしものに外ならない。
◆皇統第140代[神倭第43代]文武天皇……身魂:山武姫大神
文 武 天 皇 [御身魂 山武姫大神]
【役小角と大峰山】
御代、仏魔が甚だしくわがもの顔にのさばるようになったことから、「国万造主大神」は「役の小角」に現れて大嶺山を開き、神仏を混合して、大いに仏魔の鋭い矛先を挫いた。魔軍として伝えられる「一言主神(ひとことぬしのかみ)」は「国万造主大神」の現れで、「小角」はこれに指導されて大峰に入った。「山武姫大神」の身魂たる天皇は、「小角」を捕えて大島に流罪したが、「小角」は後に赦されて大和に還る。峰より遂に仙人となって天に昇ったが、行方はわからない。
◆皇統第141代[神倭第44代]元明天皇
元 明 天 皇
「稗田阿礼」(当時28才の女、身魂:天照彦大神)と、「太ノ安万侶」(身魂:天照彦大神)は、古事記の編纂を終え、「元明天皇」に奉る。編纂に当った者の身魂は「天武天皇」を始めことごとく「天照彦系神」で、この裏面の神霊的根拠から見ると、かねてより日本歴史を跡方もなく消すという思念をもつ天照彦系諸神の意志に従って編纂されたものであることは明らか。すなわち、この古事記をもって正当な日本歴史と判断するのは大なる誤りであると推測することは難しくない。
◆皇統第143代[神倭第46代]聖武天皇……身魂:耕大陣大神
聖 武 天 皇 [御身魂 耕大陣大神]
天皇は、自ら「三宝の奴(=仏・法・僧の三宝に供養するため身を捨ててその奴隷となる)」と称して毘盧舎那仏を建立し、表面では帰依するも、内々にその鋭い攻撃を挫いた。仏像建立にあたってその體内に、古記、宝物を蔵して、それが散り失せることを防ぐが、後年、戦争による火災で仏像の首が落ち、ことごとく無くなった。
天皇は大いに意を払ったが、「山武姫大神」系神の威は依然として盛んで、僧「行基」[身魂:山武姫大神]が現れて本地垂迹を説き、「道教」[身魂:青森白木上大神]が出て朝の要路に立ち、後、第49代「称徳天皇」の御代に到って、遂に法王となって権勢を振るった。
◆皇統第148代[神倭第51代]桓武天皇……身魂:天若彦大神
桓 武 天 皇 [御身魂 天若彦大神]
天皇は平安城をさだめ、皇居の守護のため、「最澄」[御身魂:耕大陣大神]に、皇居の鬼門方角に当たる比叡山に延暦寺を建立させる。比叡山には「国万造主大神」の分霊「天国上則義大神」が在られ、ここに国祖の霊が在られると仏教弘通の妨げになることから、これを強制的に追い払い、神社を山の向かい側(現今、日吉大社「大山祇神」のある所)に移す。かつ、皇居には鬼門に当たるため、不開門を作って国祖の皇居守護を永遠に封じ、その間には「大地将軍」の使者たる猿2匹を門番に当らせた。すなわち、「天若彦大神」と「耕大陣大神」が、国祖を馬鹿にしてからかい、その神意を閉じて塞ごうとする皮肉な処置。
◆皇統第150代[神倭第53代]嵯峨天皇
嵯 峨 天 皇
御世、「空海」[国万造主大神]が高野山を開き、真言宗を弘通する。日の本における真言宗は、仏教各宗派中、最も日本神道に類似する。すなわち「空海」は、仏教の教義をかりて神道を説く者で、さらには、仏教を日本の神道化しようと努めた者。
◆皇統第154代[神倭第57代]清和天皇……身魂:地上大陣大神
清 和 天 皇 [御身魂 地上大陣大神]
天皇は、僧「行教」[身魂:御幣田姫神]を勅使にし、「宇佐八幡」を男山に迎えて祀り、神体として仏體を用いた。「八幡神」は「彦火火見天皇」の神霊「地上丸大神」だが、この神霊を駆使し、これに代わるに仏霊をもってした。後代、「八幡太郎義家」がこの「男山八幡」で元服する。この頃、一般民衆に対する部門の勢はようやく強くなり、各地の武家は、部門の総師たる「義家」の威厳を期待して、全国にあまねく「八幡神社」を建立。こうして建てられた「八幡神社」は、総て神体を置かずに仏體を入れ、これを「僧形八幡」と云う。
当時、「山武姫大神」が、神界で「御幣田姫神」[普賢]に盛んに外国化を行わせ、自神は皇室の外戚中にようやく侵入しつつあった。これは政権が外戚「藤原氏」に移ろうとする下地で、しかも、さらにこの時、日の本神社「八幡宮」に仏魔の侵入を許したことで、やがて、「八幡宮」を利用して仏魔が勢力を部門に植え付け、ついには政権を武門の手に入れる前提が出来上がる。
◆皇統第158代[神倭第61代]醍醐天皇
醍 醐 天 皇
【大峰再興と、「醍醐天皇」一千年の仕組み】
天皇は、「聖宝理源大師」[身魂:青森白木上大神]に勅命して、大峰山修験道をふたたび盛んにさせ、延喜式延喜格(えんぎしきえんぎきゃく)ができて、神道が盛んになった。
(※ 延喜格――平安時代、藤原時平、三善清行らが編修した格の集成。弘仁格、貞観格の後をうけ、貞観11年(869)~延喜7年(907)まで、39年間の詔勅や官符の類を官司ごとに排列整理した12巻。現存しない。)
大峰山修験道は「役小角」の後、一時衰微したが、勅命によって「理源大師」が再興に努めた。大師もまた、第四の説破(=他の説を言い負かす)する所となった大峰山山麓・洞川の白竜の毒気のため倒れたが、醍醐池の白竜が大師の病を治し、共に大峰再興に努力。この時より1000年の後、第2回の岩戸開きがあることから、そのための準備を開始したことが、この大峰再興の神意。それ以来、日の本全国から集合した神霊・人霊は、1000年間、そこで修業を積み続け、昭和4年9月26日、いよいよ期が熟したことから、全山の神霊人霊およそ数百万がことごとく下山して日本全国に散り行き、各々因縁ある肉体に宿った。これを「醍醐天皇」一千年の仕組みという。(註 昭和6年醍醐天皇1000年祭、昭和5年聖宝、理源大師、1025年祭)
◆皇統第160代[神倭第63代]村上天皇
村 上 天 皇
皇室を、「金毛九尾」の悪狐霊が悩ませる。怪火が起きて内裡を初めて焼き、約100年間に内裡が炎上すること十数回。これは「山武姫大神」が、外国における諸神の怨みや嘆きから生まれた思凝神である悪狐「金毛九尾」の一団を褒賞で唆し、日の本皇室をかき乱そうと意図した結果、悪狐はわがもの顔にのさばって、その後の禍が甚だしくなった。
【日本魂の根源】
日の本では、大祓祝詞にあるように「天の御蔭日の御蔭を隠りまして」と云い、臣下各人の功績はことごとく天皇の威徳となり、天皇はこれを天祖の御稜威(=威光)に奉った。これが日本魂の根源。ところが、外国では「一将功成り、万骨枯る」というように、「山武姫大神」がことごとく部下の功績を自分のものとするため、諸神霊の怨恨が一団となったものが思凝神「金毛九尾」。天皇がこの悪狐の禍で悩んでいた時、当時11歳の「阿倍晴明」がこの悪狐を祓って、天皇のお体を安らげた。「晴明」の身魂は「大地将軍」で、これによって、「大地将軍」は、「安倍隆盛上大神」と名付けられる。
◆皇統第170代[神倭第73代]白河天皇……身魂:大広木正宗大神
白 河 天 皇 [御身魂 大広木正宗大神]
「神武天皇」以来、日の本に紛れ込んだ仏魔は、結束して日の本を奪い取ろうと努力したが、遂にその間に欠裂を生じ、争闘を起すようになる。「白河天皇」の御代、延暦寺と円城寺の僧徒が戦い、これを始まりとして各地で僧徒がかき乱したため、天皇はしばしば高野山に行って難を避けた。
◆皇統第172代[神倭第75代]鳥羽天皇
鳥 羽 天 皇
「金毛九尾」の悪狐がまた皇室を悩まし、僧徒がまた大いに戦う。伝説によれば、この時、「金毛九尾」は美姫「玉藻前」に変じて「鳥羽天皇」を悩ましたが、「安部泰親(安倍泰親?)」に見破られて下野那須野に逃れ、殺生石になったと言われる。
(※ 鳥羽天皇の寵姫・玉藻前は妖狐の化身で、殺されて石になったという。この石に触った人に災いを与えたので後深草天皇の時、玄翁和尚が杖で打つと、二つに割れて死霊が現れ、成仏して消えたと伝える。栃木県那須温泉の近くにある溶岩の塊。)
◆皇統第177代[神倭第80代]六条天皇
六 条 天 皇
御世、「平清盛」[身魂:天照彦大神]が太政大臣となって横暴を極める。外戚「藤原氏」と「平氏」のわがままで勝手な振る舞いは、全く仏魔と「金毛九尾」の仕業。後、ついに「後鳥羽天皇」他、二天皇が承久の乱を起こすに到る。「清盛」の横暴は「木曽義仲」[身魂:青森白木上大神]によってまず挫かれ、後、「源頼朝」[身魂:地上大陣大神]がこれに代わって、ついに征夷大将軍となって幕府を鎌倉に開いた。
「清和天皇」の御代より政権の外戚に移ったが、ついに武家となったことは、「山武姫大神」が、極力「天照彦大神」その他諸神神霊を追い立てて、天皇より統治権を奪い取ることを画策し、ついに成功を見たもの。以来700余年にわたる武家政治も、表面的に見る時はその間各種の原因・理由を指摘できるが、それは上辺の理由に過ぎず、その現象の裏面にあって秘かに策略を廻らして活動する諸神霊の動きを見ないなら、真個(=まこと)の歴史を語ることはできない。
◆皇統第184代[神倭第87代]後堀河天皇
御 堀 河 天 皇
【日蓮宗の開宗】
貞応元年、「日蓮」[身魂:十道行成大神]が生まれ、「後深草天皇」の建長5年4月28日、日蓮宗を開宗した。天皇の政権は多年外戚「藤原氏」に移っていたが、「頼朝」に到って武門に帰し、まもなくその外戚「北条氏」に移っていく経過は、天の御三體大神が黙視することができない一大事だった。そのため、「天照日大神」は「神武天皇」当時以来、因縁がある「十道行成大神」[饒速日尊の神霊]に対して、天皇の政権確立の勅命を発す。これが、「日蓮」が「十道行成大神」の身魂を有して出現した由来。「日蓮」は承久の乱を下剋上の甚だしきものとし、しかも、これは当時の仏教各宗派の誤った教義に由来するとした。
「日蓮」は仏法の研鑚が終って後、「皇祖皇太神宮」に到って、日の本の根本神道を究めんと訪ねること3回。当時の神主「竹内氏」よりその熱誠を認められ、ついに「竹内氏」系図を見ることを許される。ここに初めて太古よりの日の本の真相を識る事を得、直ちに「伊勢大廟」に参籠して、21日を経て郷里小湊に帰り、日蓮宗を立教する。立教の真意義は、武門に移った政権を返還させて皇室を確立するにある。これによって、「天照日大神」の神勅に報いることが、その身魂「十道行成大神」の意志だった。
ところが、この間の動静を察知した仏魔「妙見菩薩」[盤古大神]は、「日蓮」の計画が成就すると、多年日の本に植え付けてきた自己の努力が失われることから、咤呮尼天(吒枳尼天?)(だきにてん)[狐霊]「妙太郎」「法太郎」をけしかけて「日蓮」を引き落し、「十道行成大神」の画策を挫折させようとする。そのため「日蓮」はその道の半ばにして志を失い、単なる一宗門の開祖として終わり、初期の目的を達することはできなかった。「天照日大神」は大いに怒り、「日蓮、妙見、天に殴り上げて、おみとに入れて乾し殺す」と布告。以上は、外国渡来の神「盤古大神」が、日の本在来の神霊を敗北させた一例。
(※ 咤呮尼天……死者の肉を食う夜叉(鬼神)の類。密教では、胎蔵界曼陀羅外院にあって、大黒天に所属する夜叉神。日本では稲荷神の本地仏とされ、愛知県の豊川稲荷(妙厳寺)に祀られる。)
◆皇統第194代[神倭第97代]後醍醐天皇……身魂:地上丸大神
後 醍 醐 天 皇
【南北両朝の対立と合一】
「後醍醐天皇」の出現によって、一時皇政の復古を見たが、「山武姫大神」一派は、古来よりの目的を挫折する結果となることから猛然と奮起し、皇統をかき乱すことに努めた結果、現界で南北両朝の対立を見る。当時、南朝の各天皇が経験した臥薪嘗胆の苦心について、現存する史実はわずかにその一区分を記すに過ぎない。(第164章「皇祖皇太神宮沿革」参照)
南北朝合一によって、「山武姫大神」は茫然自失し、ついにその画策が成就しがたいことを覚るが、この間、「山武姫大神」の部下の諸神霊は、なおも南朝を滅ぼすため、密かに執拗な策略をめぐらせようとした。歴史に現れない顕著な事項としては、神倭98代「後村上天皇」の正平3年、即ち北朝「光明天皇」貞和4年、「足利尊氏」[身魂:大野大陣大神]は全国に命令して、南朝一味が身を寄せた神社・仏閣をことごとく焼却。また正平10年、北朝「御光厳天皇」の文和4年、全国に令して、古事記・日本書紀・古語拾遺等に記載されている神宮・神社で、南朝に加担したものの、書籍と歴史からことごとく完全に消し去ることを、7年間、極力実行した。(第164章参照)
その一方、久遠の昔より、これら外国諸神霊がわがもの顔にのさばっている事態に対応していた「十六神の大神」は、常に皇室擁護のために絶大な活動をしていた。されば、南北朝分離して62年後、「後亀山天皇」が北朝6代「後小松天皇」に対して父子の礼をもって神器を譲り、南北朝の合一を見て、「山武姫大神」の画策は全く失敗に終わる。
その後、世に三種之神器を中心とする「南北朝正閏(=正統と閏統)」の議論が騒がしい。北朝に伝えられる神器の真偽は問わず、万国棟梁天皇の御身守にして皇位継承の神宝たる三種の神器は、必ずヒヒイロガネで製したものでなければならない。しかも、その中古「天疎日向津比売天皇」製作の神器は、「崇神天皇」以来、「皇祖皇太神宮」神主「竹内氏」子々孫々守護して、今日に到る。やがて、この神器が天皇の手許に奉還された暁には、従来の南北、正閏の議論は全く無意味となり、終わる。
◆皇統第201代[神倭第104代]後土御門天皇
後 土 御 門 天 皇
「八百八光神」「八百幡神」「八尾狐」「金毛九尾」と仏魔等の諸霊が、駛身界の各自各方面で大争乱を開始し、その反映がついに応仁の乱以降の「戦国時代」として現出する。
「後土御門天皇」、文明3年詔。越中国婦見郡宮川郷公郷村赤上神明、「太古棟梁系図神宮、皇祖皇天照日大神宮」の修繕・建替に要する木取山20数ヶ所を授ける。当時、世は入り乱れた戦国の大混乱にあったが、皇室では「皇祖皇太神宮」を深く心配し、「治国万民平安祈念」の御墨付を賜る。――「願仁与利 皇祖天照日大神宮並に神主竹内家替造普請木取山登志亭婦見郡新川郡之内仁大高山西新山洞山御鷹山笹津山寺井谷六ヶ所木地字名全部新川郡内立山薬師嶽山黒部毛勝山駒嶽山僧嶽山滝倉谷山北又谷山成谷山柏尾谷山別又谷山南又谷山阿部木谷山十五ヶ所木地字名全部永遠仁賜不事。」 神倭103代成仁 花押 文明三辛卯年3月16日 (勅使 権大納言正二位 源通秀 朝臣 権中納言正三位 藤原実久 朝臣)(「皇祖天照日大神宮」並びに神主職 竹内 越後守惟義へ 竹内 三郎修理太夫義信へ)
(備考 「成仁天皇」自ら、御墨付で神倭103代と言うが、「息長帶媛天皇」が皇統に漏れているため、103代となる――このように、特に神倭代と記すのを見れば、他の代はあってはならず、神武天皇を皇統第1代とするにおいて、特に神倭代と言う謂れはない。すなわち、皇室では、神倭代に対する葺不合代を当時認めており、天照日神宮とあることからも、上代に対する認識は当時充分にあったことと拝察する。)
一方、世情はますます混乱を重ね、仏魔の荒々しい勢いはいよいよ激しく、「皇祖皇太神宮」が跡形もなく消えたことを期して、長享2年、加賀・能登・越中における、天台・真言・曹洞・浄土・真宗の僧徒士族を合して7000余が、「皇祖皇太神宮」とその摂社・末社・附近神社を襲撃し、その全部を破壊し終わった。「山武姫大神」が皇位をかき乱すことに失敗した鉾先を転じて、万国棟梁「皇祖皇太神宮」の破壊を目指したもので、その鋭鋒が向く所ではいかに執拗で停止する所がないか、その一班を察知できる。
古来、北越の地に仏教が興隆した理由を考えるに、その他は皇祖皇太神宮の存する地であり、しかも、太古以来の神器・神宝が秘蔵された地であることから、その地をぐるりと禍根で仏魔が密集して、その隙に投ぜんとしつつある危なきを思う時、恐ろしさに思わずぞっとすることを禁じ得ない。(註 第164章「皇祖皇太神宮沿革」参照)
◆皇統第203代[神倭第106代]後奈良天皇
後 奈 良 天 皇
享禄2年、本願寺家宰(=主人に代わって家を取り仕切る)「下間筑前坊」一味が、「皇祖皇太神宮」を破壊し、神主を殺す。また、加能越三州の明神社の神主をことごとく殺害。こうして、上代天皇より長い年月にわたって存在した万国棟梁「皇祖皇天照日太神宮」は、暴虐な仏徒の手によって全く没落した。しかし、この事態になったにもかかわらず、上代より代々受け継ぎ伝えてきた万国棟梁天皇の神器・神宝は、深く土中に埋められていたため、僧徒や土地の賊徒の難を免れて無事だったことは、もっぱら十六菊形御紋章に象徴される日の本守護の「十六神大神」の加護による。上代天皇がこの紋章を定めた真意に深き思いが潜められていると共に、仏魔の悪意を隠した執拗な裏面の魔手がどのあたりにまで及んだかを思わざるを得ない。
◆皇統第204代[神倭第107代]正親町天皇
正 親 町 天 皇
天正3年、「織田信長」[身魂:天照彦大神]が「足利氏」を滅し、天正10年、「明智光秀」[身魂:青森白木上大神]が「信長」を滅す。「天照日大神」「青森白木上大神」「大地将軍」の葛藤で、遂に「大地将軍」の勝利に帰し、天正13年、「豊臣秀吉」[身魂:大地将軍]が関白に任じられる。幾何もなく、第108代「後陽成天皇」の慶弔5年、関ヶ原の戦で「豊臣家」は滅亡。
同8年、「徳川家康」[身魂:天照彦大神]が征夷大将軍に任じられて幕府を江戸に開くに到り、この葛藤の勝利は再び「天照彦大神」の手中に帰し、武門政治300年の基礎を開いた。慶長10年、「秀忠」[身魂:天若彦大神]が征夷大将軍に任じられるに及び、国祖「国万造主大神」の隠退後、表にははっきり出ないが「天照彦大神」が強い勢力で管理する代は依然として継続されつつあった。
◆皇統第207代[神倭第110代]明正天皇
明 正 天 皇
寛永17年、前田富山城主が、「皇祖皇太神宮」で、〝これから先は神域で乗り物を降りて入れ〟と書かれた下乗札を破壊し、「仏如来の他教の信者を罪科に行う事」と命令。これまでの仏魔が跳梁する現れから、当時、全く衰えて微かになり尽した「皇祖皇太神宮」に対して、なおかつこのような迫害を蒙らせた。
◆皇統第212代[神倭第115代]中御門天皇
中 御 門 天 皇
宝永7年、越中で大洪水があり、上代よりの「皇祖皇太神宮」の地は流出して跡方もなくなったが、神主「竹内氏」一門がその神器・神宝を土中に埋めて、明治の聖代に至るまで完全に守護した。
◆皇統第217代[神倭第120代]光格天皇
光 格 天 皇
【煎り豆に花咲く時節到来、天理・金光・黒住先走り】
「光格天皇」の文化18年(今日[昭和7年]より152年の昔―*文化は14年迄、安永9年?)6次元仮凝身界創造神「天一天柱主大神」は、7次元「天地根本大祖神」の意を体して、天の岩戸開きの勅命を5次元燿身界創造神「天の御三體大神」に下された。この勅令が降下して[発布]されるや、宇宙の万事万般は盛んな勢いで活動を開始。かつて悠久を経て来った「自在の時代」は、ここにようやく「限定の時代」に入り、やがて統一ある神政成就に到ろうとする黎明の微光がゆらゆらとなびき始めた。
この勅命によって、天の御三体の大神の一の神(=第一の神)なる「天照日大神」は、文化11年冬至の日、まず「黒住宗忠」[黒住教祖]に神憑って、神政復古と万国棟梁天職天皇の世界統理復帰を直接授け、これを日の本皇室に伝達した。当時、日の本は自在の時代の澆世(道徳の薄れた人情軽薄な世)で、しかも、大昔の葺不合皇朝6代「石鉾歯並執楯天皇」以来、天皇自身が神人合一となることは稀有となり、天皇を助ける側近を初め、将軍「徳川氏」は云うに及ばず、その他神官・僧侶、一人として大神の神意を受ける器量を有する者が皆無である時、「黒住宗忠」なる真の人が現われ、ここに初めて大神の神勅を直接受けたことは、すでに時到れるの故であり、かつまた計り難き神意の顕れ。
「宗忠」はこの天命を直受してより、表から見えるところでは、その教え「黒住教」を拡め、内々では、神の神命実現に努める事30年。次代「仁孝天皇」を経て「孝明天皇」の御代に到り、初めて時期到来。三度禁中に参内して、「天照日大神」の神勅を天皇にお目にかかって奏上した。ここにおいて天皇は始めて大神の神意を了解し、それ以後、天皇は徳川幕府に対する態度を一変。皇政維新についての目論見を、すべてこの神勅に基いて建てた。「宗忠」は安政2年に没したが、翌3年、京都吉田に「宗忠神社」が祭祀されて「宗忠大明神」の号を賜り、勅願所と定められた。日の本が始まって以来、官位のない臣下の身で大明神の号を賜ったのは、「宗忠」惟一人。これによって、「孝明天皇」がいかにこの神勅を重んじたか拝察しうる。
天の岩戸開きの勅命を創造神より受けた、5次元・天の御三体の大神は、大昔の第4次神政内閣以来、隠退していた国祖「国万造主大神」を徴して(呼び寄せて)その再起を促し、「天の岩戸開きに対し、再び立って、神・現・幽の建替建直しを実施して、もとの神代の神政に還元せよ」と勅命。国祖「国万造主大神」は、煎り豆に花咲く時節がようやく到来したことから直ちに勅命を拝受し、古来、大神と共に隠退した「金神系諸神」[大神の直属神と八百八光神]にその再起を命じる。ここに葺不合皇朝末期、日本島文化覆滅当時に準備した「国祖三千年の仕組み」によって、いよいよ三界の建替建直し、日本天皇が世界を統べ治めることへの復帰、神政復古の大神業実現の準備に着手。このことはまた一面、往古葺不合59代「天地明玉主照天皇」の御代に、「天照日大神」の「今より6000年の後、再び世界統理の時到る」旨の神勅が発布された神意の実現。
こうして、「国万造主大神」は、大神業の最初の実行準備として「仁孝天皇」の御代、天保9年(1838年)10月、天理教祖「中山みき子」に「天の将軍」と称して出現し、「このたび神が表に現われて、詳しい事情を説いて聴かせる」と宣べる。これを大神の「第一の宣示(=公示)」として、しだいに世界の建替建直し、神政成就について記述。当時、世に真人はおらず、神と人との交通の任を果させるべく、ようやく純潔な「中山みき子刀自」の肉體を完成し得て、ここに神意の発展をなさしめた。すなわち、「黒住宗忠」に対しては「天照日大神」より、天命勅授としてこれを皇室に伝え、「中山みき子」に対しては「国万造主大神」より、多年「自在の時代」にあった神界・現界の両界を限って、統一ある神政成就の域に進めるために、神霊と人類の全般に向って未知の真理を明示し、創造神の神意を完全に具体化しようとする意志で、仔細な記述があった。
以上のように、「国万造主大神」が神・現・幽三界の建替建直しに着手し始められた時に当って、一方で、太古以来長年の間、隠然地界の司宰神だった「天照彦大神」、長年月、日の本に紛れ込んでいた「山武姫大神」、その他、日の本の神界・現界の両界を奪い取って全世界を掌握しようとする野望に加担した諸神霊は、国祖「国万造主大神」の再起を知り、彼等に不利な時となったと感知したが、なおもこの大勢に抵抗して初期の目的を達成し、末法万年(=仏滅後にその教えの効力が消滅する長い年月)を継続させようと、あるときはこっそりと,あるときは表立って努力した。
ところが、天の御三体の大神はこの大神業を実施するに当って、神霊界に争闘が起ることをできる限り避け、平和円満に神政成就の理想的境地に到達させようという神慮の下、再起した「国万造主大神」と部下「金神」系諸神に対して、暴挙を慎んで可能な限りひたすら我慢して軽々しい振る舞いを慎むよう戒める。これによって「国万造主大神」は、あらためて部下直属神と「八百八光神」にこの天の御三體大神の神意を伝え、軽挙妄動を慎むことはもちろん、現在表面に立っている「山武姫大神」系と「天照彦大神」系諸神霊に対して、怨恨で事を処理しようとすることがないよう、充分な訓戒を与えた。
この「金神」系諸神は、今日までの過去長い年月にわたって隠退し、全く表面に現われたことがなかったため、再起に当ってはまず現界人類にその出現を認識させ、これを神として尊びあがめさせる手段を取る。すなわち、国万造主大神」は安政6年10月、大神の分霊神たる「大地将軍」を「天地金の神」として金光教祖「川手文治郎」に出現させ、「金神」系統神再起の真意義を徹底的に伝えた。すなわち、人間として最初に「金神」の認識を得たのは、この金光教の開祖。ここで、「国万造主大神」の臣下の神を初めて「金神」と称し、盛んに尊崇礼拝して、これを広く世に拡めたことから、開祖「川手文治郎」は「金光大陣」なる神命を賜った。
以上のように、黒住・天理・金光の三教祖によって、「天の御三体大神」と「国万造主大神」は、神霊界諸神と皇室始め人民全般にわたって、「国祖」と「金神」系統神の出現を発表したが、これはそもそも神政復古準備の序曲で、これを「天理・金光・黒住先走り」と云う。
この間、現界では、優れて賢い資質をもった「孝明天皇」が「天照日大神」の神命を理解し、やがて来る明治維新の準備を着々と進める。これに対して、「山武姫大神」系諸神は、またも日本皇室を悩ます手段に出、ついに「孝明天皇」は、傷ましくも倒幕の事業半ばにして急に崩御される災難に遇った。
Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.