行き詰り

 世の中の人ばかりじゃない、信者でもそうだが、よく行詰(ゆきづま)りという言葉を発するが、これはものの真相を弁(わきま)えないからで、何事も行詰りがあるから発展するので、つまり行詰りじゃない訳で、丁度(ちょうど)駆出(かけだ)しすぎては息が続かないから一休みするのと同じ訳で、言わば節(ふし)である。これは竹を見ても分る通り、伸びては節が出来、伸びては節が出来るから丈夫に育つので、伸びるばかりで節がなければ、アノ強靭(きょうじん)な竹とはならないのである。従って節の少い竹程弱く、節の多い程強いのはそういう訳である。このように凡(すべ)ては自然が教えているから、何事も大自然をよく見つめれば物事は大抵(たいてい)分る筈(はず)である。

 右は自然の行詰りに就(つ)いて書いたのだが、困る事には人為(じんい)的に行詰らせる人も少くないので、これこそ叡智(えいち)が足りないためで、こうすればこうなるという先の見通しがつなかいからである。こういう人こそ壁に突当って二進(にっち)も三進(さっち)もゆかなくなるのであるから、これを読んだらよく心の奥に蔵(しま)っておき、行詰った際、振向いてよく考えてみれば分る筈(はず)である。それによって何処(どこ)かしら間違っている点に気がつけばいいので、人間は不断(ふだん)から精々(せいぜい)智慧を磨(みが)いておくべきで、それには出来るだけ御神書を拝読すべきである。

 

 

Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.