【御教え】
此間奈良、京都の方に旅行したそれを今簡単に書いてみたんですが、今読ませます。
(御論文「奈良美術行脚」) 【註 栄光一五六号】
奈良美術行脚
今度私は、日本仏教美術調査研究の為、奈良地方へ赴き、著名な寺院を次々見て廻り、大いに得る処があったから、今その感想を聊か書いてみよう。何しろ今から千二、三百年以前、飛鳥、白鳳、天平時代から、弘仁、藤原等の時代に至る迄の作品であるが、見る物悉くと言いたい程、素晴しいものばかりなので、面くらった位だ。よくもこんな古い時代に、今日の美術家でも、到底出来まいと思う程の物が沢山あるので、驚くの外なかったのである。その中で、何と言っても法隆寺の品物であろう。何しろ数多くの金銅仏や、木彫、乾漆、塑像等は勿論、厨子や仏器に至る迄、他の寺院にあるそれ等のものを、断然切り離しているといってもいい程の、優秀な物ばかりなのである。特に有名な百済観音などは、いつ見ても頭の下る思いがする。又最近出来上ったという例の壁画は、まだ一般には見せる処まではいっていないようだが、以前私は見た事があるので、想像は出来ると共に、今飾ってある写真だけを見ても、偲ばれるのである。
尚右法隆寺の外、私の最も感歎に堪えなかったのは、彼の薬師寺の本尊仏であろう。これは幾千万言費すよりも、実物を見た方がいい。実に言語に絶する神技である。恐らく現代のどんな名人でも、到底この何分の一も難かしいであろう。その他各寺にある物悉くと言いたい程名作ばかりであるから、一々は略すとして、今更乍ら木彫に於ける日本の地位は、世界一といっても過言ではなかろう。今回私が廻って見た寺は、東大寺、薬師寺、法華寺、法隆寺、奈良博物館と、少し離れた宇治平等院の鳳凰堂、石山寺等であったが、右の鳳凰堂にある仏体は、藤原期の代表作で、立派なものであった。そこで私が思った事は、このように数ある古代仏教芸術を一堂に集めて、日本人にも外国人にも手軽に見られるようにしたら、どんなにか喜ぶであろうし、益する処大きいかを想像してみた事である。それと共に、日本人が如何に古代から文化的に卓越せる民族であるかが充分認識されるであろう。その意味に於て、私は何れ京都に一大美術館を建て、それを如実に現わしたいと、今から期待しているのである。
以上は今回の紀行をザッと書いたのであるが、この外に鎌倉時代の仏教彫刻に就いても一言いいたい事は、何しろ奈良朝以後暫く落着き状態であった仏教彫刻は、この頃に至って俄然盛り返し、絢爛たる様相を呈したのである。勿論巨匠名人続出し、彼の運慶と快慶等もこの時の名人であった。そうして奈良時代のそれと違う処は、殆んど木彫ばかりで、特に彩色が大いに進歩すると共に、模様に切金を使い始めた事で、これが大いに流行し、その作品は今も相当残っているが、その巧みな技術は感歎に価するものがある。よくもこの時代に、このような巧緻な物が出来たものかと、私は常に感歎している。この切金模様の極致とも言うべき名作が、箱根美術館に出陳されるから、見れば誰しも驚くであろう。
これで大体、今度の仏教美術の見聞記は終ったが、元来日本の彫刻は、仏教に関する以外の名作は余りなかったようである。只有名なのは左甚五郎であるが、この人に関する興味ある伝説も随分あるが、その作品に至っては、一般人の目に触れる物は殆んどないと言っていい。只あるのは日光東照宮の「ねむりの猫」位のものであろう。だが、私は茲に推賞したい一人がある。それは今生きている人で、佐藤玄々という彫刻家である。この人は初めは朝山、次は清蔵といい、玄々は三度目の名であるが、その点珍らしい人である。この人は今年確か八十三か四と思うが、古来稀にみる名人と思っている。私はこの人の作品を好み、傑作品と思う数点を美術館に出すつもりだから、見たら分るであろう。
今度、丁度奈良の博物館で、白鳳、天平展覧会というのが開催されていたんです。三尊の弥陀――之は大きいんですね。等身大位です。それと金剛仏で誕生の釈迦ですね。それがありましたが、どちらも素晴しいものですが、片っ方は大き過ぎるので、到底東京とかこっちの方に移動する事は出来ないものです。其他、金剛仏が十数点と、経文とか仏器とか、そういうものも相当ありますが、今の二点を除いた外は私の美術館の方が上です。で、私も大いに気を良くした訳です。数は成程博物館の方がありましたが、博物館にあるよりかもっと良いのが私の方にあります。それから経文なんかも博物館のは殆ど天平時代のもの許りですが、私の方のは支那の唐時代のものもありますし、それから色々か種類がありますからね。それから仏器なんかも私の方が種類が多くありますから負けない積りです。その仏教美術の方も私の方は一部なんですからね。一部で奈良博物館より大体上なんですからね。引け目をとらないと思ってますね。そんな訳で、今度見た色々な仏像なんか、千二、三百年前にそういうものが出来て、今日はその足本(元?)にも追いつかないのは実に不思議と思いますね。色々なものが進歩しているにも拘(関?)らず、そういうものは進歩どころか反って退歩している位です。それは何ういう訳かと言いますと、之は一寸一般の人は気がつかないんですが、やっぱり理由があるんです。何故というと、其時代の人は頭が非常に良いんです。今の人は――美術家は勿論の事ですが、頭がずっと悪くなっているんです。何故というと、唯そこに、単に頭が良いとか悪いとか言う事は、其時代の人の中身ですね。中身が良かった。今の人は中身が段々悪くなって来て、上っ側になって来た。つまり表面が、頭が良くなって来たんですね――今の人はね。それで中身が微弱になって来た。そこの異いさですね。私なんかもどっちかというと中身の方です。そこで今の人の頭の悪さ加減が、実に驚いているんです。実に頭が悪いんです。何よりメシヤ教が之程病気が治っても、解らないんだからね。それをお医者さんなんか、よく見たり聞いたりして、唯首をひねる丈で、それをさて研究しようとか言う考えは起らないんですね。まあ、何かの工合だろうと、唯気休めみたいに理窟をつけて、それでお終いになっているんですからね。そういう工合に悪くなっているんです。それから栄光新聞は厚生省に一年も前から送ってます。皆見ているに違いないですが一人も何にも言って来る人はないんです。ですから、それすら実に頭が悪いですね。そういう事許りでなく、あらゆる方面ですね。政治でも経済でも実に頭が悪いですね。だから政府の、何か偉い――大臣や知識階級の人が色々頭を集めて年中相談許りしています。それでいて実にまずいですね――頭がね。今度の共産党の暴れた問題なんかも、あれは何んですね。片っ端から怪しい奴は逮捕するんですが、逮捕した処でそれを警視庁なら警視庁に運ぶ事を忘れちゃったんです。ですから、輸送の方が出来ない為に、ふん摑まえた者に警官が附いて居なければならない。そこで、もっと摑まえる事が出来たのを、附いて居ては、あと摑まえる事が出来ないから、そこで能率が上らなかった。だから摑まえる事は、余程考えて準備したに違いないが、それを輸送する事を忘れちゃった。一事が万事で、何でもそうなってます――頭が悪いのはね。じゃ、日本人許りかというと、西洋の人が頭が悪い。特にアメリカの人の頭が悪いのは恐ろしいです。中共と停戦問題に就いて交渉やってますが、あれでアメリカ人は愈々講和が成立するという事を、よく偉い人が去年あたりから言ってますが、何時迄経っても駄目だ。今度愈々駄目だという事になった。リッジウェイなんかも、此間の話では愈々出来るという事を言ってますが、駄目なんです。最初から駄目なんです。引延ばしなんですからね。私は先から言ってますがね。唯時を稼いでいる丈なんですからね。それを幾らか信じていたんですね。だからものの見通しが出来ないですね。上っ側の智慧だからね。そういう様に上っ側は非常に良くなってますから、小利巧に今の人は言ってますがね。実に上っ面の、見え透いた事を、政治家なんか言ってますが、少し深い処や見通しなんかは全然ないですね。之は医学と同じで、対症療法と同じです。事が起ってから周章てるとね。だから共産党の大物ですね、今八人ですが今以って潜って判らないですね。まあ此点は共産党の方が頭が良いかも知れないが――。
だから芸術方面もそういう風になっていますね。だから今の美術が良い物が出来ないのは、頭が悪いのと経済的関係ですね。それで良い物が出来ない。それから、今の人は何うして頭が悪いかというと薬の為です。薬毒が頭に上ってますからね。それは白鳳や天平時代よりか今の人は余計薬が入ってます。然もあの時分は草根木皮でしたが、今はもっと強い薬が入ってますからね。それで今の人はあの時分より頭を余計使いますからね。使うといっても、良い事に使うのではない。心配です。心配というと、まあ税金でしょうね。税金の為に何の位頭を使っているか分らない。頭を使うから頭に毒血が上っていきます。何の位悪くなっているか分らない。近来赤痢が流行るのは、薬毒と税金なんです。赤痢は頭の毒血ですからね、赤痢の流行に税金が原因だと言っても、今の人間には到底解りっこないですよ。そんな様な訳ですから、内容に目が届き、頭が働けば根本が分るんです。
それから今度奈良で、非常に意味があったのは、法隆寺に夢殿という小さい祠がありますがね。祠というか、まあ美術品が少し許り入って、そうして中に観音様の像があるんです。其処の扉は一年に何日か開く事になっている。丁度其時開いていて、其処に行って見ますと、やっぱり等身大の観音様の仏像で、そこに救世観世音という札が出ているんです。之は仏教の方では救世観世音というんですがね。之は文献には少しありますがね。唯それに「メシヤ」という様に名を附けたのは、私が附けたんですがね。救世観音と書いて救世観音ですね。処がジッと見てますと、何とも言えない霊気がスーッと私の方に入って来て、とても良い気持になって来て、何んだか嬉しくて涙がこぼれそうになって来た。それは、観音様の霊が私に入って来たんですよ。それは非常に意味があるんです。というのは、聖徳太子はつまり千手観音様が憑られたんです。ですから千手観音様のお働きですがね。あの時には大体時代が時代ですから小さい御働きだったですね。まあ、千手観音じゃなくて百手観音様かも知れませんがね。そこで仏教を観音様が、つまり日本に本当に御自分が出る迄の間、仏教を日本に弘めて、それで救わなければならないと、そうして聖徳太子を働かせて、兎に角仏教を始められたんですね。ですから奈良は仏教発祥の地です。そこで奈良という処は、何宗何宗という何はないんです。仏教には真宗とか色々ありますが、それは後から寺をそういう風にしたもので、本当から言うと奈良には開祖なんて言うのはないんです。だからあれは原始仏教ですね。本当の原始仏教ですよ。其後に至っては法然とか、空海、伝教、親鸞――そういう人達が出て開祖になって今の色々な宗門を作ったんですがね。それから山岳仏教ですね。高野山とか、比叡山ですね。其時になって民間仏教ですね。つまり在界の仏教ですね。ですから奈良は純然たる原始仏教であって、その発祥の地ですね。で、仏教を始められたのは聖徳太子ですからね。聖徳太子は千手観音の働きをされた訳ですね。で、其後千二、三百年という間は法隆寺の夢殿に居られたんですね。聖徳太子という方は、仏教を始めるに就いては矢張り芸術に依って弘めたんです。そこで、つまりあの地を卜して七堂伽藍を造られたんです。だから色々な事に精通されていたんですね。で、ひとり芸術許りでなく、十七條の憲法なんか作ったんですね。憲法と言っても、日本に於ける憲法の最初は聖徳太子という事になりますね。ですから政治的知識も非常にあられたんですね。ですけれども、兎に角仏教を芸術に依って開こうという事になった。其為にあの時代の仏教美術というものは非常に盛んになって、まあ奈良の大仏なんて、ああいった驚くべき――あの時代にあの位の立派なものを作るという事は殆ど人間業以上ですね。丁度私はそれを世界的にした様なものです。で、私は芸術に依ってメシヤ教を開くという事は、丁度聖徳太子がやられた事を、もっと大きくして――世界的にしてやるのと同じですね。それで私が今やっている事は、つまり千手観音の働きになる訳なんです。ですから私が一番最初に始めた時の観音会ですね。観音会を作るに当って――それが昭和九年の十月でしたね。観音会を作ったんですが、其時に千手観音を画いたんです。之から千手観音の働きという訳ですね。私は其時には気がつかないで、画きたいから画いたんですが、今日になってみると、そういう必要があってやらされたんですね。ですから現在私が色んな事に手を出して、何でもやりますが、千手観音の働きですから色んな事をやる訳ですね。で、千手の手に色んなものを握りますがね。握るといって、懐に入れちゃう訳じゃないんです。凡ゆるものを救われるんですね。救うという事は、それを自由にしなければ救えないから、つまり言う事を聞かなければね。それで、握れば自由自在になりますから、それで思う様に救える訳ですね。そういう事は大体知ってましたが、今度夢殿に行って、そうして尚はっきり分ったんです。つまり聖徳太子がやられる事がね。私に憑った訳ですね。だから矢張りメシヤ教の為に大いに働かれる事になったんです。ですからもう夢殿には霊が居られなくなったんですね。だから、今に開けっ放しになるかも知れませんがね。で、そういう神様の事というのはちゃんと、年限でも時でも凡て決っているんですからね。そんなら早くそうしたら良いだろうというが、そうはいかない。やっぱり時期々々に依ってそうなっている。矢張り「神は順序成り」でね。花が咲いて実がなるのと同じでね。幾ら神様がみんなに綺麗なものを見せたいといって、正月に桜が咲く事はないんですからね。そういった、時と順序それは厳然として動かす事は出来ない。それで夢殿は聖徳太子が始終仕事をなさるのに、丁度夢殿がある処で仕事をなさったんです。それを記念としてあそこに夢殿を作ったんですからね。つまり奈良の中心は法隆寺で、法隆寺の中心は夢殿というんですから、仏教の中心は日本に於ては夢殿ですね。あれが中心といっても良いですね。
今度、其他に京都にいずれ地上天国を造らなければならない。そういう適当な敷地があるというので、それを見て呉れというから、それを見たんですが、之は大体條件は先ず良いですね。時期が来たら手に入るだろうと思ってます。で、そんな訳で美術館なんかにしても、仏教美術――そういうものに就いて大いに知識を得た訳ですね。大体仏像やそういうものに就いては粗方分ったですから、いずれはそういった様な美術館も京都に造りたいと思ってます。旅行の話はその位にして――。
今度新宗教新聞というのが出来て、それに何か原稿を書いて呉れというので書いた処が、間に合わないので、一号には出なかったが二号に出るでしょう。メシヤ教の記事も出てましたね。良く書いてありました。其原稿を――之は現在の宗教家に言う事なんて、参考になりますからね。
(御論文「今後吾等は如何にすべきや」)
今後吾等は如何にすべきや
(不明)
之は良く知っている事ですが、非常にはっきりしている結核問題ですが、はっきりしている御蔭話です。説明をつけて書いたんです。
(「恐るべき医学迷信」)【註 栄光一五七号】
恐るべき医学迷信
(栄光一五七号)
本教は常に結核療法に対する医学の無効果否逆効果を唱えているが、左記の御蔭話はそれを最も明白に示したもので、これを見れば如何に疑い深い者でも、信ぜざるを得ないであろう。従って今日最も難問題とされている結核が、浄霊によってこの様に正確に、短期間に完全に治るとしたら、実に驚異的大問題である。にも拘らず文中にもある通り、この実際を見た医師は、只首を傾げるばかりで、進んで研究をしようともしない態度は、寔に不可解千万である。そうして若しも斯んな素晴しい効果が医学上での発見であるとしたら、ヒドラジットどころの騒ぎではない。世界的一大センセーションを捲き起さない筈はないであろう。ところが全然そのような事などありそうもないとしたら、全く根強い医学迷信に陥っているからで、恐るべきは現在の医学迷信である。この事実にみて忌憚なく言えば、今日の時代は外容は文化的であっても、結果から言えば野蛮蒙昧時代といっても過言ではあるまい。従ってこの迷信の為に現在は固より、今後も如何に多くの病人が犠牲にされるかは到底計り知れないものがあろう。嗚呼この世紀の一大悲劇を日々目の前に見ている吾等は如何にすべきや只長大息あるのみである。
(本文省略)
こんな様な訳で、肺を取巻いている膜と膜の間に空気を入れて、肺を圧迫するんですね。だから肺が、こう(伸縮自由)になっていたのが、少ししかならなくなる。つまり肺の絶対安静ですね。それで段々萎びていくんです。あれは人間でも、手など使わずに置くと段々萎びて来ます。あれと同じです。萎びて来るから空洞が小さくなる。あれで良い様に思っているが、あれを普通にすると又空洞も大きくなる。つまらない事なんですよ。だから気胸というのは、一時的に症状が減るんですね。それで治ると、斯ういう風に間違えちゃったんです。もう一つは、外科のお医者さんと内科のお医者さんが意見が違うんですが、外科のお医者さんは、町を歩いていても自動車事故がある。だから請負えないという事に至っては、何と言って良いか言い方がないですね。余りに馬鹿々々しいです。だから、医学なんて言うのは、当り外れなんです。だから請負えないんですね。医学の色んな――よくラジオなんかの質問に対する解(回?)答が、決してはっきり言わない。「治る筈です」とか「治る訳です」とか「治ると思います」とか「治る事になっている」とか曖昧極るんです。あんな馬鹿々々しい事に命を任せるんですから、実に危ぶない世の中なんです。之程危険な時代はないでしょう。何時も言ってますが、そんな様な工合でありますけれども、段々浄化が強くなりますから、いずれは二進も三進も行かなくなって、それからこっちの言う事が本当に解って来るんですから、もう一息ですよ。
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