六月六日

【御 教 え】

 今日は少いですから、一寸変った話をしましょう。私は何時も大乗と小乗という事をよく言うんですが、之が本当に腹に入るのは、中々難しいらしいんですね。それで、全く難しいには違いないんですよ。そこで私は小乗にあらず大乗にあらず、大乗であり小乗であり――両方反対の事を言っているんです。之は経と緯でいえば、緯が大乗で経が小乗ですね。そこで大乗でもいけないし小乗でもいけない。それから大乗でなければいけないし小乗でなければいけないですね。だから非常に難しいと言えば難しいんですがね。解れば易しいんです。何でもない。だから一番それが分り易い考え方は、結果を見るんです。結果が良ければ大乗も小乗もないんです。大変理窟に合っていて結果が悪い人は沢山あります。むしろ理窟に合う方が結果が悪いんです。理窟に合わない方が結果が良いんです。

 今度は、可笑しな話で――理窟という事になりますが、よく昔から理外の理と言いますが、理外の理というのはないんですよ。理窟に合わないという事は理窟が違っているんですよ。理外の理という、その前の理というものは理じゃないんです。理外の理という後の理は本当のものなんです。先の――理外の「理」ですね。其方が間違っている。で、世の中の道理というのは殆ど間違が多いんです。そこで間違った理窟の他の理窟という事になります。処が、間違った理窟の他の理窟という事は、間違っていないんです。そうすると理外の理という言葉はないんです。理内の理ですね。そこをよく考えなければならない。だから例えてみれば医学ですね。医学というものは科学だという事を言ってますが、私は科学ではないと言うんです。浄霊が本当の医学です。結果からみて浄霊の方が効くからね。それから浄霊の方なら、どんな深くても説明が出来ますからね。医学では説明できない。風邪は何処が原因ですかと言うと、未だ発見出来ない。先生此病気は何処が原因でしょうというと、斯ういう事になっているが未だ解りません。ハイドラジットは効くというが、何ういう訳で効くんでしょうと言うと、そいつは分らない。実験したが分らないという。実験したが分らないという事はあれは科学じゃない。つまりまぐれ当りなんです。多分効くだろうといって、効くか効かないか、副作用があるかないか試すでしょう。動物実験から人間実験から――色んな事で試すでしょう。それは科学じゃないんです。科学というのは方程式にちゃんと合ってなければならない。だから動物実験するという事は科学じゃないんです。鉄砲を射っても弾道が正確だとちゃんと当るんです。弾道が正確でないと当り外れたりするんです。だから、医学は色んな実験をする間は未だ科学じゃないんです。つまり推理ですね。多分斯うだろう、多分良いだろう。之は赤痢に効くだろう。何人やってみたら、それが良くなったから確かに良いと――それは理窟じゃないんです。まぐれ当りなんです。薬というものはみんなまぐれ当りです。何ういう理屈に依って、何ういう作用に依って効くという説明は出来ないんです。まぐれ当り様な、そんなあやふやなものを学理と言うんです。凡てがそういう理窟になってますから、本当の理窟の方が理外の理になっちゃう。だから、今迄の理窟というものは、今みたいに外れている理窟もあるし、稍真理に近い理窟もある。理窟にも色々ありますがね、やっぱり医学で――よしんば薬が効くとして、一時効くのと永遠に効くのとありますね。半年は大丈夫だ。一ヵ年は大丈夫だが、その先は分らないというのは本当に効いたのではない。一時的なものですね。肥料もその理窟なんです。硫安なら硫安をやると、最初一年なり二年は効くんです。それが段々悪くなる。それに気がつかないで最初出来たから何時迄も効くと、斯う思っている。実に人間の目は近視眼的になっているんですよ。遠くが見えない。処が浄霊すると今迄なかった熱が出て来るしオデキが出てくるしね。だから一時は悪くなった様にみえるが、それを越せば良くなるんです。それが医学の方は、一時熱が冷めたり痛みが軽減されたりする。だから理窟は、向うの方の理窟は短い期間の理窟ですね。永遠性のない理窟ですね。我々の方は永遠の理窟ですから、そこで真理なんです。

 小乗と大乗でも、そういう事が言えるんですね。で、小乗大乗の場合に、一番尤もらしく聞えるのは小乗ですよ。之は日本が終戦前に国家に忠義を尽せ、忠君愛国が本当だ。というその悲想(愴?)な理窟ですね。よく勤皇なんかの伝記とか色んな行った事を聞くと、それは涙がこぼれる様な忠誠ですね。偉いと思いますね。然し私は其時分からそういう事が馬鹿々々しくてね。腹の中では笑ってましたがね。一寸聞くと非常に理屈が良いですからね。道理に合っている様にみえますからね。それで感心してみんな命迄捨ててやるんですがね。ですから私は何時でも、小乗的理窟と思ったのは、非常に日本は忠君愛国――日本人は忠義だと強調した時私は思ったんです。それじゃ朝鮮人も支那人もそういう忠君愛国だったら何うだろう。すると日本が人口が増える。どうしても食い物が足りないので何処かに広がらなければならない。するとお隣の国に広がらなければならない。処がお隣の人間が忠君愛国だったら厄介ですよ。他国の人間は一人でも入れるものか、国をやるものか。そうするとそこに武力を以て入り込むでしょう。防がなければならないとなる。だから忠君愛国は戦争を作る様なものだという事になる。戦争を作るものだとしたら間違っている。だからああいう敗戦の結果斯ういう風に変ったという事は、実は間違った事が訂正されて本当になった。間違わない事になるんですね。で、私は先から嫌いなのは忠臣蔵ですね。あれは嫌いで、ですから此前の春の大祭の時には講談で忠臣蔵をやらない様にと注意させたんです。私は大嫌いです。何故嫌いかというと、君に忠義を――浅野内匠頭の忠義のために自分の命を犠牲にして、苦心惨憺してやったんですが、それは感心です。感心だけれども、本来仇討ち思想というのは、非常に間違っている。伜なら伜が――親父が誰かに打たれたというと、どうしても親の仇だと言って、一生を仇を討つ事にのみ骨折っているとすれば、人間というものは実に馬鹿々々しいもので、世の中を良くする為に――神様が理想世界を造る為に生まれたのに、人殺しをやる為に一生を棒にふるのは如何に間違っているかが分るし、親の仇といって討つと、其息子が又親の仇と言ってやる。そんな馬鹿々々しい事なんです。だから仇討思想を無くするのが一番良いと私は思っている。そこで仇討思想を最も偉く見せかけているのは忠君愛国が代表的なものです。だから私はあれはいかん、嫌いなのはそうなんです。之は祖先以来仇討思想を押込まれて来た為ですが、実に厄介な思想です。それでもう一つは昔の武家時代ですね。武家時代は武家が自分に都合の良い道徳を作ったんですね。その代り一生食うに困らない丈の扶持をやるから、殿様が不慮の災難が起った時、或いは誰かにやられた時には――というのだから、うっかりやれない。だから其殿様が安全になりますからね。そこで権力者が安全にする為に武家道という自分に都合の良い道徳を作った。その代り一生涯困らない丈の扶持をやるというんです。そこで忠臣蔵みたいにやるのは当り前ですよ。敢えて尊ぶべき事で値打を評価する価値はないですね。それは普通の人でも一生涯困らない丈のものを貰えば、そうするのは当り前です。一種の取引ですからね。食うに困らない丈の扶持を貰って生命を維持されたんですから、君の為に命を捧げるというのは、経済的に言えば一種の取引です。だからそこに人類愛的な何もなければ、崇高な何もない。それを崇高にみせたり、神に祀ったりするのは、如何に其時の道徳が間違っていたかが分る。今の見方は大乗的な見方です。処が忠臣蔵は偉いとか曾我兄弟は偉いというのは小乗的な見方です。それは其人丈の見地から見ていくからそうなる。どうしても真理というのは、大乗的に見るのが真理なんです。何うみるかというと世界人類――世界を見るんです。世界が全部良くなるというのが真理であって、それが大乗です。あと自分――兎に角せばめられた言動ですね。自分の家を良くしようというのは小乗です。そこで小乗の悪は大乗の善で大乗の悪は小乗の善という事になるんですね。自分の子息丈を良くするという事は小乗の善ですね。それを世界的にみれば大乗の悪ですね。そこで共産主義は小乗善です。他の者は不幸になっても構わないというのは大乗じゃないです。結局悪になるんですね。で、世の中を騒がしておいて、大衆に不安を与えても自分の主義を通そう。自分の階級、団体のみを幸福にしようというのは小乗的にいえば非常に良いんですが、世界人類的に言えば悪なんです。そこでああいうのは一時的で決して成功しない。しないけれども、神様の経綸上矢張りあれも必要なんです。つまり、善と悪と闘わして今迄の文化を発展させたんですからね。だから之程物質文化が発展したんだからね。之は善悪を闘わした為なんだから、今迄の事は仕方がなかった。処が何時迄も摩擦させると人類を進歩させるんじゃなくて、滅亡させる事になる。だからここいらで打切って、善悪の摩擦をさせない――させないといっても、戦争の様に人殺しの摩擦をさせないんです。というのは、国際競走ですね。例えてみればスポーツですね。ああいう風に世界各国が優勝を得ようとしてやる――之は摩擦でも、闘争でなく競走ですね。之は大いに盛んになる。ですから神様の経綸からいうと、そういう方に人類の頭を持っていくんです。で、殺し合いはもう打止めになるんです。一番分り易くいうと、原子爆弾ですね。殺し合いが続いていくと原子爆弾を持出す。そうすると人類は滅亡になりますからね。ですからここ迄来て、ここで善悪の闘争は止めさせる時期になったんですね。そうすると善悪の闘争がなくなる世界になると、今度は今言う競走ですね。そういった様な事が盛んになる。今度は芸術の世界です。人間は今迄人殺しに興味を持ったんです。武士とか色んな戦国時代ですね。つい最近に至る迄人間は殺し合いに興味を持っていた。我々から言うと、あんな命懸けで危ぶない事や、危ぶない職業ですね。武士なんか真平御免だが、あれを希望して武士になりたがる人間が沢山あった。そうすると殺し合いが如何に好きだったか、興味を持っていたかが分る。そこで之からの人間は人殺しの興味という事はなくなってくるんです。

 で、人殺しに興味を持っているのは副守護神です。だからそういう社会が出来たんです。それは霊界が暗かったせいで、副守護神がのさばっていたんです。霊界が明るくなると副守護神の力というものは非常に薄くなるんです。弱くなる。副守護神が弱くなると本守護神の方が力が強くなる。そうすると平和的なものを好むんです。ですから副守護神が萎縮するに従って、人間は他の楽しみを持って来る。人を殺すんでなく、人を生かすとか人を喜ばすという事の興味が段々起って来る。それは何処にいくかというと芸術にいく。もう少し経ったら書きますが、五六七の世になると非常に芸術が好きなんです。大抵一つの町に一つ劇場なんか出来る。そうして至る処に公園が出来るんです。公園や花園――そういうものが出来る。それで、一週間に一度宛町々村々で集りがある。で、集った時にみんな美術品を見せ合ったり、娘に踊らしたり、他の人は歌をうたったり、それを非常に楽しみにする。又文学的なのは歌をやるとか俳句をやるとか、碁将棋ですね。それに依って競走(争?)する。そういう世界です。それから料理なんかも非常に発達して、其時に食べ較べて――御馳走を作りっこする。それから旅行ですね。旅行なんかも、殆ど汽車賃なんか只みたいになるですね。それで会社とか工場とか団体的なものは、ちゃんと定期的に旅行出来る様になって、そうしてやっぱり――金持も貧乏人も色々ありますが、貧乏人でも食うに困る様な貧乏人は全然なくなります。最低生活といった処で楽々食べられる様になる。というのは病気が無くなりますからね。病気がなくなれば貧乏人なんか決してない。貧乏の因はみんな病気なんですからね。それから了(料?)簡が今よりみんな良くなりますから、そこで喜んでみんな働きますからね。そこで非常に良くなる。半日働いて楽々食って行ける。そうして富豪は凡て利益を公表しますからね。此半期は三井は何億万円入った。住友は何十億の利益があった。と、はっきり公表する。そうすると、それを私に使う事は出来ないんですね。普通は三分の一丈を所得にして三分の二を公共事業に出すんです。何ういうものに出すかというと、娯楽施設です。劇場なんかですね。そこで入場料なんか殆ど申し訳で良いですね。金儲けが目的じゃないからね。そこで、芸術なんか非常に発達して来る。建築なんか、壮麗な素晴しいものが出来る。それこそ天国浄土みたいなものが出来る。私の地上天国の模型なんか、極くしみったれたものでね。其時代になったら、こんなものは場末に出来る様なものですよ。ですからそうなると色んな演劇とか映画とかは非常に違って来ます。こんな話をしていると切りがありませんがね。今に段々書きますが、兎に角非常に素晴しい世の中ですね。神様はそういう世の中を造る目的で今迄物質文化を発達させたんですからね。発達させるには矢張り悪人がなくちゃならないし、殺し合いをさせなければ発達しないし、人間発明発見――発明というのは戦争の為にあったんですから、今迄は必要だったんですね。そういう風に考えると、今迄の戦争の時代というのは愈々終りに近ず(づ?)いたという事は分るんですね。

 それから斯ういう事を時々聞くんですがね。私の本や何かで裏表があると言うんですね。そういう事を聞くんですがね。一時そういう事の随分甚だしい事があったです。裏表がある様にみる人は邪神が憑っている。何故というのは、今迄のお経にしろ、凡ゆるものは夜のものだから、どうしても確かに裏表があったんです。夜の世界だったら、此処丈は月が照らすから見えるが、此処は見えない。処が昼の世界では此処も見えるが、此処も見えるんです。だから裏表はないんですね。だから私の説いたものはそんな事はないんです。その儘信ずれば良いですね。それから今迄の事は根本が悪になっていたから、明ら様に言う事が出来ないんです。そこで秘密があったんですね。凡ゆるものがそうだったんですね。之は宗教も無論そうでしたね。何しろうっかりすればキリストみたいや、日本の色んな偉い坊さんでも島流しになったり、殺され様としたりしたから、どうしても明ら様に出来ない。秘密にしたんですね。我々だってそうですよ。終戦前はそうですよ。はっきり言えなかった。だから「明日の医術」でも曖昧極まるものがあったですが、あれははっきり書けなかったんです。処が今はそうではない。言論の自由ではっきり書けるから、今度の「結核信仰療法」ははっきり書いた。日本がそういう民主的になったという事は昼間の明るい時期に一歩近ず(づ?)いた訳ですね。そういう訳ですからメシヤ教というのは昼の世界を造る。昼の世界になるについて出現した宗教です。ですから今迄の日本の宗教と違うんです。だから私の言う通りにやれば決して間違ない。裏があると思ったら間違ですね。だから素直になれというのはそういう意味ですね。素直にその儘やれば凡て旨くいくんですね。

 それからもう一つ肝腎な事は――之に就いて二、三日前に宮本武蔵の絵を買ったんですが、今度美術館に出ますが、達磨さんの絵です。実に上手い。驚いたですね。支那の宋元時代の名画に遜色ないですね。国宝も一つあります――宮本武蔵の絵のね。そこで武芸の達人になると凡てのものも矢張り其奥義に達するんですね。之は非常に、知って置いても良い事なんです。色々な種類がありますがね。部門ですね。絵でも彫刻でも芸能でも又文学でも、日常生活ですね。凡ゆる人間生活に種類がありますが、此内の一ついきますね。そうすると他のものも其処にいくんですよ。下にさがっていてもね。之が面白いですね。そこで武芸の達人なら達人になれば、絵を画いても武芸の達人の処迄いくんです。そこで字の上手い人は絵が上手い。絵が上手い人は字が上手い。斯ういう事になる。私が何をやっても上手くいくという事は、霊的に魂が上にあるから、凡ゆるものが斯う(上位に)なるんです。だから庭を造っても建築をやっても――最高の庭になるんですね。建築でも最高の建築になるんですね。それは別に教わらなくても、自然にそこにいっちゃう。

 そこで美術館を造って名人の良いものを見せるというのはそこに意味がある。だから美術の良いもの――高いものを見ると、其人の頭が之に接近しますから、矢張り信仰で身魂を磨くのと同じ結果になる。只昔の人は色んな難行苦行をして身魂を高上させたものです。それは地獄の信仰です。つまり夜の世界の信仰です。そこで私は天国的宗教ですから、昔の人が水浴びたり断食したりするのと同じ結果になる。それは行動からいえば大したものなんですが、売薬と違って斯ういう場合は大丈夫です。そういう訳ですから、神様はつまり美術を大いに利用したんですね。聖徳太子はそういう考えだったんですが、時期が早過ぎたんです。だからあの時代丈救うには効果があったが、あの後やっぱり夜の世界ですからね。只美術丈は残ったが思想的には大した効果はなかった――とはいうものの奈良にあれ丈の美術を作って残してあった為に、時々人間が行って、それから受ける刺戟に依って幾分かの効果はあったに違いないですね。違いないけれども時期がつまり言わば早過ぎたんですね。夜を出ない内にやったんですね。今度私がやるのは、丁度夜明けの時期になったから時期もピッタリする訳ですね。そんな訳で今の宮本武蔵の偉さというものは、何でもそういった様な、名人というものはそういうものだという事です。そうして武芸の達人にしろ、凡ゆるものの達人というものは、一寸考え方が違うんです。ここの処が大乗道の上の方のものなんですね。一寸分り難いですが、一番手っ取早くいうと、武芸の本当の名人になると腹の力を抜くんです。よく人間は腹に力を入れろというが、あれは本当じゃない。間違っている。だから、力を入れるとか、頑張る――そういう事がいけないんです。だから決して頑張ってはいけない。頑張ると力が限度になるからね。頑張らないのが非常に力が出るんです。丁度浄霊で力を抜く程効果があるというのはそれなんです。だから色んな事を人が言った時に、何処迄も自分の主張を通すというあれがいけないんです。愚かになるんですね。私が素直にしろ、素直にしろと言っているのは、素直にするのは勝つんです。最後には勝つんです。従わせる方が下になっちゃう。よく負けるが勝ちと言いますがね。議論しますね。こっちの方で負けますね。そうすると勝ったんです。何故なら議論した方は主張を言っちゃったんですから、あとは何もない。素直に負けた方は何んなものを持っているか分らない。だから勝った人は恐いんです。負けた人は何でもないんです。ひどい目に合(遭?)わされた人は一時は恐い思が時間が経つに従って決して――不安はなくなるんですね。むしろ先方は満足しているだろうとう(思う?)から、こっちの方は気が明るい。ひどい目に合(遭?)わせた方は、あいつは怨んでいるだろう。仇討ちをしないだろうかと、気が苦しいんですね。だから負けた方が勝っているんです。だから何でも負けて先方の言い條を通させるんです。之は腹の力を抜くのと同じです。だから私はどんな部下の、つまらない事を言っても、出来る丈言う事を聞いているんです。私が主張を通そうとする時は、悪に蹂躙される時丈は強いんですが、そうでないときには従っているんです。よく世の中では部下の言う事を聞くと値打がなくなる様に思うんですが、実に滑稽なんですよ。バーナード・ショウがよくそういう喜劇を書きましたが、一つの喜劇なんですね。私はマッカーサー元帥がヒリッピンで攻められた時に逃げましたが、逃げる時に――いずれ又此処に来るからと、逃げたんですね。あの時に私はマッカーサーというのは偉い人だ。今に大変な仕事をするからと言った事があるが、それは負けたからです。逃げたからです。兎に角軍人で逃げる位の軍人は名将になるですね。何処迄も命を捨てて向って来るのは、極く下の下ですね。そういう様な訳で、結果というものが、非常に違うんです。そこでさっきも言った通り、一時的ですね。医学で一時的良くなっても駄目で、永遠に――将来迄良くなる。それが真理だという理窟にも思うんです。だから今言った負けるが勝ち流に世の中を渡れば必ず旨くいくんです。結局勝つんです。ですから凡ゆるものが、世の中の事は逆が多いんです。ですから逆の結果、逆の現われかけ――そういう事をみて、それに学ばなければいけないんですね。そうすると楽々と成功するという訳ですね。それが私がメシヤ教を始めた時分の――其前からですが、出来る丈人に知れない様にしろ、宣伝的の事を決してやってはいけない。目立たない様に目立たない様にヒッソリヒッソリする様にとみんなに言ったんですが、よく宣伝的にもっとやった方が良いと言った人がありましたが、私は知れない様に知れない様にやった。処が知れちゃった。之が逆効果です。だから知れる様に宣伝的にやった宗教というのはあんまり知れないんですね。然し他の事はそうではないですよ。売薬とか石鹸とかああいうものはしますが、そうではない本当の仕事ですね。それは出来る丈地味にした方が良い。ですから支部や分所を作っても、世間に知れる様にしたら反って知れない。知れない様にした方が知れるんです。斯ういう事を言うと切りがないから此辺で何して置きますが、そういった様な事を私はボツボツ書いてますが、之は一つの聖書みたいなものですね。聖書は良い事が書いてありますが、中々解らないんです。それにあの時代は、時代も違ってますからね。あれを今の人間に合わせ様と思っても、中々ね――「金持を救うのはラクダを針の穴に通すが如し」と言ってもね――そうすれば金持は絶対に救われない事になる。あの時代はあれで良かったんですが、今の時代に合った様な事を色々書く積りですがね。話はその位にして置きます。

 

 

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