八月七日

 今年は赤痢が大いに流行(はや)ってますが、赤痢は頭の毒血の浄化だという事は言ってありますが、一日の晩に私が今迄に経験した事のない様な下痢で、四回――よくも斯んなにあると思う位下痢したのです。目が眩んで来て、便所に行くのに壁に摑まって行く位で、便所に行っても良く物が見えない。斯んな事はないのです。それから食当りかと思って考えてみても、それらしいものがないのです。若し食当りなら、食べた人は皆そうならなければならないが、私丈というのは変だ。それで翌る朝迄眠らないで只ウトウトしてました。それから頭を見てみると後頭部に瘤の様な物が出来ている。之は昔本にも書きましたが、歯の薬です。歯が四本痛んで、一年間薬を続けたので、それが頭に上って頭の中が薬の刺戟で変になった。一時は発狂すると思った位です。頭が自由にならないのです。考え様と思う事が考えられないで、飛んでもない事が浮んだり考えたりするのです。ですから之はもう精神病になる一歩手前だと思った。それに歯の痛みが毎日ですから、発狂か自殺かどっちかだと、斯ういうふうに覚悟したのです。処が其為にこの薬毒を知ったのです。だからやっぱり神様にそういう苦しみをさせられた訳です。処がそれが此処(後頭部)に固まっていたのです。その浄化が起った。其為に此処が大変小さくなったのです。で、非常に頭の工合も良くなったのです。そうして嘔吐をしそうになったから、嘔吐丈は自分で浄霊して、しない様になりました。それで熱が出て、やっぱり汗をかいたりしますが、その臭いが――丁度歯の薬――それはチモールと言って殺菌剤の強いものです。で、その臭いが丁度三十七年前――大正三年ですから、三十七年前のその臭いが消えない。其時の臭いを想い出す位によく臭うのです。ですから薬毒というものは三十年以上経っても変わらないという事がよく分ったのです。如何に恐ろしいものかという事が分った。今では大分柔くなったが――尤も之は去年あたりから浄霊しているのですから少し宛小さくなっていたが、今度は大分柔かく小さくなった。今でも半分位は残ってます。今でも浄霊すると直き下痢したくなるので、厄介だからあまり浄霊しないでいる。下痢するとやっぱり食欲が減りますから、やっぱり舌の方の楽しみがなくなりますから、それで両方を旨く調和させてやってます。だから下痢というものは、頭の病気であるという事は、もう間違いないです。私の場合は赤痢でないから、それ丈に之は良いとも言えず悪いとも言えない。本当は赤痢の方が楽なのです。というのは赤痢の方は薬毒が割に新しいのです。それから赤痢でない方は薬毒が古いのです。毒血が古くなると段々膿になるのです。で、新しい内は赤いのです。処が赤痢の方は新しい薬毒ですから、本当はその方が早く済むから良いのです。私のは古い丈に反って上等ではない。そういう訳なのです。それと、以前は下痢というと腹の――腹膜です。慢性腹膜という様な固まりが多かったのです。近頃の下痢というのは殆ど頭の浄化が多いのです。之からは下痢の患者は頭を浄霊するという事を良く心得ていると良いです。それから家に居る太田という男が、私以上の下痢なのです。三十分置きなのです。みると頭の浄化です。頭にうんと薬毒がある。顔が(つち)気色(けいろ)をしている。で、頭をやってやるが急に治らない。それで可笑しいと思って背中をやると、背中にうんと浄化が起っている。ですから之は頭と背中と両方の浄化です。ですから先ず頭をして、背中の浄化の処をやる。それから肋間神経痛なんかの胸の毒も、之が下痢になる。そういう様にみて、触ってみれば熱がありますから直き分ります。着物の上からでも触ってみれば温いですから、それが浄霊の本元です。そうすれば何んな下痢でも治ります。やっぱり霊界の浄化が強くなるに従って起る場所が違って来る訳です。以前は頭の毒は中々溶け(にく)かったが、此頃は溶け易くなった。だから今は、何処か悪い人と言うと必ず頭と頸です。斯ういう処にとても熱がある。之から段々頭と其の為の下痢が多くなると見て良いです。

 それからもう一つは結核の再浄化ですが、之は皆知ってますが、一旦治ってから暫くすると、今度は再浄化が起って来る。之は最初の浄化よりもっとしつこいです。で、其場合之からは方針を変えるのです。というのは、一週間に一回位浄霊するのです。そうして安静にさせるのです。つまり再浄化で一番いけないのは熱が出る為に咳と痰がうんと出るというので、食欲が無くなってそれで衰弱するのです。衰弱で参って了うのです。だからそうしない様にするには熱を無くするのです。それには安静に限ります。安静と言っても医学の様に床縛りみたいでなくて良いです。寝たり起きたり位の程度でそうして熱を冷すのを主にするのです。そうして熱が無くなって――無熱になってからボツボツ運動をし始める。それで又熱が出そうになったら安静にする。という様に気長にゆっくりやるのです。そうすると心配なく必ず治ります。で、浄化が強くなってますから、うっかりやると浄化が強過ぎるのです。此間私が、相当古い中教会長ですが、非常に工合が悪いというので、こっちに泊っていて二、三回やってやった。そうすると馬鹿に浄化が起って了って、それは食べ物もろくに食べないで、ドンドン衰弱してゆく。之は大変だと、あなた帰りなさい。帰って寝て居なさいと言ってやりました。で、浄霊もあんまりやってはいかんと言ってやったら、それから段々良くなって、その危険がない状態になった様ですという事を聞いたので、まあ大丈夫という処に来た様です。ですから斯ういうのはもう一層やると危なかったのです。そんな様な工合で如何に浄化が強いかという事と、それに対するやり方――そういう事を考えなければいかんという訳ですから、それ丈の注意をして置きます。段々霊界が変って来ますから――変って来るという事は浄化が強くなるという事です。その代り治りもずっと早くなります。浄霊の効目が強くなりつつあります。之はあなた方でも良く分っていると思いますが、先よりかずっと治りが良くなってます。短期間で同じ効果がある。近頃御蔭話を見ても、皆そういう風に書いてある。直きに治る。そういった御蔭が多いです。そんな様な工合ですから一方やり良くはなりました。それから進んで行くと医学の方と逆になって行きます。今迄効いた薬――効いたというのは薬で固める方法ですが、それが固まらなくなるから、段段々々薬で治らなくなる。つまり一時抑えが効かなくなるのです。此頃はストマイなんかも怪しくなってます。も駄目だという説が随分多くなった。B・C・Gとかヒドラジットなんかも怪しくなってます。ヒドラジットが意外に売れないので困っているのです。そんな様な工合で薬というものが効かないという様な例が非常に増えて来た、という事は面白いと思います。もっと進むと今度は薬は恐ろしいという時代が来ますから、それからがこっちの領分です。メシヤ教の治し方より他は駄目だという時代がいずれは来ますから、それからは目の廻る程忙がしくなります。それが段々近寄りつゝあります。人の憂を喜ぶのではないが、楽しみもあります。

 之は「文明の創造」の中ので、今文明の創造を書始めましたが、前のとは又書き方を変えてやったので、序文も違いましたから一度読ませます。

 御論文「文明の創造」   【註 栄光一七〇号】

文明の創造 序文

(栄光一七〇号)

 この著は歴史肇って以来未だ嘗てない大聖著であり、一言にしていえば新文明世界の設計書であり、天国の福音でもあり、二十世紀のバイブルといってもよかろう。即ち現在の文明は真の文明ではなく、新文明が生まれるまでの仮の文明であって、聖書にある世の終りとは、この仮定文明世界の終りを言ったものである。また今一つの〝(あまね)く天国の福音を()べ伝えらるべし、然る後末期到る〟との予言も、この著の事であろう。そうしてバイブルはキリストの教えを綴ったものであるが、この著はキリストが繰返し言われた処の、天の父であるエホバ直接の啓示である。そうしてキリストはこうも言われた。それは『天国は近づけり、爾等悔改めよ』との警告である。してみればキリスト自身が天国を造るとは言われなかったのである。

 併し私は〝天国は近づけり〟とは言わない。〝天国は已に来れり〟というのである。何よりも私は目下天国の基礎的準備に取掛っており、甚だ小規模ではあるが、日々驚くべき力と奇蹟を(あら)わしつつあり、人々は驚歎している。そうして右の如き模型的経綸が漸次発展するに従い、他面世界的には旧文明の清算の幕が切って落される。それが最後の審判の開始であって、眼目は善悪の立分けである。即ち悪は亡び善は栄える段階に入るのである。これが為如何に多数の犠牲者が出るかは計り知れないものがあろう。併し乍ら神の大愛はこれ等犠牲者を最少限度に食止めらるべく、救いのその第一声がこの著出版の理由である。といっても、旧文明世界からも神は善悪正邪(せいじゃ)()り分け、善にして役立つ者は残されると共に、悪にして見込なき者は永遠に滅びるの止むなきに至るのである。

 以上の如く、最後の審判が済むや、続いて新世界設計の順序となるのは勿論だが、その転換期に於ける凡ゆる文化の建直しこそ、空前絶後のものであって、言う迄もなくそれは旧文明の誤謬(ごびゅう)是正(ぜせい)と共に、新文明の指針を示すのである。処が茲に悲しむべき事がある。というのは、人類が数千年の長い間に堆積された処の罪穢(つみけがれ)であって、当然この大浄化作用が発生するのである。それをこれから詳しく説いてみるが、幸いこれを読む人々は救いの綱を目の前に出されたのであるから、何等の躊躇(ちゅうちょ)なく摑まれん事である。それを前以て人類に知らせ、悔改めを私は神に代って勧告するのである。これぞ神の大愛でなくて何であろう。従ってこれを知った以上、一時も早く頭の切替えは固より、心の準備に取掛るべきである。そうして審判の最後に到っては、罪深き者は亡び、罪浅き者は救われるのは決定的であるから、これを信ずる者こそ永遠の生命を獲得すると共に、将来に於ける地上天国の住民として残るのである。そうして主神の経綸の深くして、そのスケールの如何に大なるものであるか、又現在までの文明が如何に野蛮極まるレベルの低いものであるかを、この著によって充分知らせ、確固たる信念を得させるのである。

 御論文「梗概」

梗概

(地上天国三十九号)

 之は「文明の創造」ではないのですが、一寸面白いものです。

 御論文「御説教」   【註 地上天国第三十九号】

御説教

(地上天国三十九号)

 昔から宗教と名の付くものは、例外なく戒律(かいりつ)が主となっており、それを御説教によって教えたのは誰も知る通りであるが、我が救世(メシヤ)教に至っては、御説教が非常に少ないのは信者も知る通りで、これに対し幾らかの疑問をもっている人もあるであろうし、(また)未信者から聞かれた場合、その理由を話さなければならないであろうから、それを書いてみよう。言う(まで)もなく、宗教の目的は改過遷(かいかせん)(ぜん)にあるのだから、それには魂の曇りをとる必要がある。魂さえ清くなれば、悪い事は出来くなり、世の為人の為に善を行う立派な人間になるからである。

 それに対し、耳からの教えによって魂を清める手段が御説教であり、目からと言霊からそうするのが、バイブルや経文(きょうもん)御筆先(おふでさき)等であるのは勿論だが、本教は耳から目から、又言霊での清めもあるにはあるが、それらは従であって、主とする(ところ)は浄霊である。何となれば五官(ごかん)(かい)して清めるのは間接的方法であって、見えざる魂に向っての体的方法であるから、効果の薄いのは勿論である。(ところ)が本教浄霊に至っては、直接魂に向って霊光を注いで浄めるのであるから、その効果たるや到底体的の比ではない。丁度病気の治り方と同様、他の療法を散々(さんざん)行っても治らない病気が、短期間に訳なく治るにみても明らかである。

 右の如くであるから、いつも言う通り本教は宗教ではなく、超宗教と言ってもいいのである。そうして宗教とは、読んで字の如く宗祖の教えであって、教えによって人心を済度(さいど)するのが建前(たてまえ)となっているが、前記の如く本教は教えは第二、第三で、浄霊によって人を善化(ぜんか)するのであるから、第一手数も時間もかからずして、効果百パーセントという訳である。実に宗教以上と言っても()えて過言ではあるまい。そんな訳で今は適当な名前が見当たらないので、仮にメシヤ教と名づけたまでである。これも今迄にこのような素晴しい救いがなかったから名称もないので、(また)止むを得ないと言えよう。()いて言えば救いの光とでも言うより外に言葉はないであろう。

 それから人間は病気さえ無くなれば百二十歳迄は必ず生きるのです。病気というのは薬毒ですから、つまり薬毒が完全に無くなっていけばまさに百二十は生きられるのですから、長生きしたかったら薬毒を抜くのです。薬毒を抜くには出来る丈多くの人を助ける。そうすると薬毒は抜けるのです。だから大いに活動する人は反って病気が起るのです。教師なんかになって非常に活動する人はよく浄化が起り易いが、之はそういう訳なのです。反ってボヤボヤして居る人の方が割合に起らない。その理屈が分れば何でもないのです。だから浄化が起るという事は非常に結構なのです。あの人はあんなに働くのに何うしてあんなに病気が起るのだろう、という様な疑問が起る人も無いではないが、そういう訳です。そこで出来る丈薬毒を無くする様にするのです。本尊である私が、さっき話した様な大浄化が起るのですから――只私は簡単に早く済んだのです。ですから今度の事なんか普通から言えば大病です。大病ですから一日丈仕事をしなかった。ゴロゴロ寝たりしていた。でもアメリカ人の偉い人が来て一緒に食事をして、又三十分位案内したり話したり――それが一番苦しい日でしたが、そんな事で済むのです。それで、一つは病気に対する観念ですが、之は結構だ、毒が出て了えばもう治る、という絶対の信念がありますから恐怖は少しもない。それから何んなに酷い浄化でも精神的には大丈夫ですから、何んでも出来るのです。病気の苦しみというのは恐怖感です。重くなったら命に関わらないか、もっと重くなるのではないか、という恐怖感が精神的に弱らせるのです。ですから其点をはっきり分って絶対の信念さえあれば、肉体的の苦しみはありますが、精神的に苦しみは少しもないから楽に済んで了います。

 で、文明の創造の中から、病気と寿命という事を書いたのです。

 御論文「病気と寿命」

病気と寿命(健康と寿命?)

(『文明の創造』より)

 私はこれから医学を全面的に批判解剖してみるが、そのまえに健康と寿命についてもかかねばならないが、現代医学が真の医術であるとすれば、病人は年々減ってゆかなければならないはずであり、それと共に寿命もぜん延びてゆかなければならない道理であるばかりか、そうなるまでに数百年で充分であるのは勿論、現在最も難問題とされてゐる結核も伝染病も全滅するし、病気の苦しみなどは昔の夢物語になってしまふであらう。ところが事実は全然其反対ではないか。としたら真の医学でない事は余りにも明かである。

 そうして次の人間の寿命であるが、これも造物主が人間を造った時は、寿命もハッキリ決めた事である。もっとこれに就ても私は神様から示されてゐるが、最低百二十歳から、最高は六百歳は可能といふ事である。従って人間が間違った事さへしなければ、百二十歳は普通であるから、そうなったとしたら実に希望多い人生ではないか。しかただ長命だけではなく一生の間溌剌はつらつたる健康で、病気の不安などは消滅するのであるから、全くこのの天国である。では右の如き間違った点は何かといふとこれこそ驚くべし医学の為である。といったら何人も愕然がくぜんとするであらうが、この百二十歳説に就て、最も分り易いたとえでかいてみるが、づ人間の寿命を春夏秋冬の四季に分けてみるのである。すると春は一、二、三月の三月みつきとして、一月の元旦が誕生日となり、一月は幼児から児童までで、二月が少年期で、梅の咲く頃が青年期であって、今や桜が咲かんとする頃が青年期で、それが済んで愈々いよいよ一人前となり、社会へ乗出す。これが花咲く頃であらう。次で四月桜の真盛りとなって、人々の浮き浮きする頃が、四十歳頃の活動の最盛期であらう。よく四十二の厄年やくどしといふのは花に嵐のたとえ通り、花が散るのである。次で五、六、七月は新緑から青葉の繁る夏の季節で、木の実はたわわに枝に実るが、それを過ぎて気候も下り坂になって、愈々いよいよ稔りの秋となり、これから収穫が始まる。人間もそれと同じやうに、この頃は長い間の労苦が実を結び、仕事も一段落となり、社会的信用も出来ると共に、子や孫なども増へ、人生最後の楽しい時期となる。そうして種々の経験や信用もあり、それを生かして世の為人の為出来るだけ徳を施す事になるのである。それが十年として九十歳になるから、それ以後は冬の季節となるから、静かに風月などを楽しみ、余生を送ればいいのである。しかし人によっては活動を好み、死ぬまで働くのもこれまた結構である。

 以上によってみても、四季と寿齢とはよく合ってゐる。この見方が最も百二十歳説の裏付けとして好適であらう。この理によって医療が無くなるとすれば、右の如く百二十歳迄生きるのは、何等なんら不思議はないのである。ところが単に医療といっても種々の方法があるが、二十世紀以前までほとんど薬剤が主となってゐたので、長い間に薬剤で沢山たくさんの病気を作って来たのである。何しろ薬で病気を作り、薬で治そうとするのだから、病気の増へるのも当然であると共に、寿じゅれいの低下も同様である。この何よりのしょうとして、医学が進歩するとすれば病気の種類が少なくなりそうなものだが、反対に増へるのは、薬の種類が増へるのと正比例してゐるのである。今一つ人々の気の付かない重要事がある。それは医学で病気が治るものなら、医師もその家族の健康も、一般人より優良でなければならないはずであるのに、事実はむしろ一般人より低下してゐる。何よりも種々の博士中医学博士が一番短命だそうだし、また医師の家族の弱い事と、結核の多い事も世間衆知の通りである。そうして現在の死亡の原因は突発事故を除いてことごとくは病気である。しかも病死の場合の苦しみは大変なもので、これは今更言う必要もないが、よく余り苦しいので、一思ひに殺してれなどの悲鳴の話をよく聞くが、ではこのような苦しみは何が為かといふと、全く寿命が来ない内死ぬからで、中途ちゅうとから無理に枝を折るやうなものであるからで、恰度ちょうど木の葉が枯れて落ち、青草が枯れてしおれる。稲が稔ってとり入れるのが自然であるのに青い内に葉をむしり、青い草を引抜き、稲の稔らないのに刈込むと同様で、不自然極まるからである。といふやうにどうしても自然死でなくてはならない。しかし近代人は弱くなってゐるから、自然死といっても九十歳から百歳位が止まりであらう。

  以上説いた如く、神は人間に百二十歳以上の寿命を与へ、病気の苦しみなどはなく、無病息災で活動するやうに作ってあるのを、愚かなる人間はそれを間違へ、反って病苦と短命を作ったのであるから、その無智なる、あわれと言ってもひ足りない位である。

 

 

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