此の頃聞いた話ですが、病気なんかに就いて私の言う事を間違う点があるのです。それは斯ういうことの間違があるのです。私が「人間の健康には無理をした方が良い。無理をしなければ丈夫にならない」という事を前から言っているのですが、之は健康の人に言っているので、病人に言っているのではないのです。処が病人に対して「楽にしてはいけない。無理をしても身体を動かさなければならない」と、斯ういう人が居るのです。これは大変な間違いです。結局根本は自然が良いのです。起きるのは大儀だ、寝て居たい。というのは寝ているのが良いのです。自然なのですから寝て居る様にする。それから身体に元気が出てもうじっとして居られない。寝て居られない。どうしても起きたい、歩きたい。というのはもうそれで良いのですから、そうすれば良い。飽迄自然でなければならない。ですから病人に対して言う事と健康な人に対していう事とは逆な事が沢山あるのです。それを一緒にして了うのが一番困るので、飽迄自然です。一番滑稽なのは、昔私がリンゴを食べなかった。すると「明主様は何うしてリンゴをおあがりにならないのです」と言うから、私は「リンゴは旨くないから――つゆ気がないから――私は、つゆ気がある物が好きだから」と、その時分は盛んにミカンを食べたものです。それが大変な事になって「明主様がリンゴをおあがりにならないのは、リンゴは毒だから」と言う、そういう事があったのです。随分私は取消したが、今以てあるのです。そういうのは未だ良いが、斯ういう人があるのです。之は、地方の者ですが「リンゴはよく医者や何かで薬になると言っている。だから医者なんかはリンゴを食えと言う。リンゴが薬になるということをみると、その薬毒の害を蒙る。薬の気があるというのだから、リンゴを食べれば薬毒の害がある」と言うのです。そこ迄来ては、何と言って良いか分らない。之も自然に反するのです。リンゴでも柿でも、神様は人間に食べさせる為に作ってあるのですから、リンゴがいけないとか柿がいけない何がいけないという事は大変な間違です。リンゴというのは人間が食べる為に出来ているのです。つまり味というのが大変に必要なものなのです。ですから農業の方は自然農法と言いますが、医学の方でも健康に就いてはやはり自然が良いのです。食物も自然、それから運動とか動作というものも自然です。又熱があったり風邪を引いて色んな事があっても、立派に仕事が出来る、それ程苦痛ではない、という人は仕事をしても良いです。私は随分風邪引とか熱があるとかしても、構わず仕事をしてます――それ程苦痛ではないから。それはそれで良いです。そういう風に飽迄自然です。それで、起きているのは嫌だ寝ている方が良い、というのは寝て良いのです。その事で、医学の方で間違っているのは「起きて居てはいけない、絶対安静だ」と言って、フウフウ言って寝ているのです。私の本にも書いてありますが、ピンピンしているのが、健康診断で肺に曇りがある、絶対安静でなければならないと言って、段々弱らせて命迄亡くしたという人がありますが、之は反自然だからいけないのです。そういう訳ですから、此点を間違っている人は大いに訂正しなければいけないと思う。
それから話は違いますが、昨日京都の薬師寺の管長で、橋本と言う坊さんが訪ねて来ました。薬師寺は、私は禅宗だと思って居たら、そうでない。法相宗というのです。それは何うでも良いですが、管長の橋本さんですが、実に顔色が良いのです。可成り肥ってますが、実に人相が良いのです。丸で絵に描いた大僧正みたいな感じです。頭も非常に良いです。仏に関して――特に仏教美術に関して中々深いのです。薬師寺の由緒だとか、それから色々な仏教美術に関する事を聞きましたが、大変参考になりました。只驚く可き事は、非常に顔色が良いのです。それから肥り工合といい、皮膚の工合といい、まあ理想的です。今時あんな人は見た事がないです。実に気持が良いです。明るい顔でして、話しの工合でも頭の良い点、中々――私も随分頭は悪くないつもりですが、話があの人はよく合うのです。それで聞いてみると絶対に菜食なのです。こっちでお昼を御馳走しましたが、カツオブシもいけないと言うのです。カツオブシを止して別に捌えたのですが、あれを普通の人がみると、栄養が良いなと思いますが、処が実際はカツオブシも駄目だから、今なら栄養不足というわけです。だから実際栄養という事は如何に出鱈目かという事が分るのです。で、良く聞いてみると、生まれてから未だ薬を飲んだ事がないそうです。又病気もしないから――。尤もああいうのは、小僧の内に禅宗寺なんかにやられて修業するのです。で、沢庵に麦メシかで、それは禅宗寺というのは酷いものです。それで叩上げられるから、病気なんかしないのです。ですから菜食というものは如何に良いかという事が分るのです。その話に就いて、私が十八の時結核で医者より見離された時には、絶対菜食です。カツオブシも止したのです。三カ月絶対菜食にして――之は私の本にも書いてあります。只菜食は精神的に非常に違うのです。菜食しているうちは凡て――欲望というものが非常に薄くなるのです。何事にも満足するのです。「之ではいけない」というのでなく、「之で結構だ」という様な気持になるのです。ですから昨日も、今は何故菜食をしないかと言うと、大抵な事は諦める。覇気――そういうものが薄くなる。私は始終悪魔と闘って、之からも大いに悪魔と闘わなければならない。それで、いろんな――文明の革命だとかそういう事もしなければならない。大人しい、諦めの精神が多くなっては困るから、それで私は九十迄はやっぱり肉も魚も食べ大いに闘争力を強くする。九十より先は絶対菜食にして――我々の事だからブラブラするわけにはいかないから仕事をしますが、仕事もそういった欲望の強いものでなく、風月を楽しむとか適当な事をやる積りだと言って話したのです。そんな様な工合で、健康上から言うと菜食が一番良いのです。ですから私は今でも出来る丈偏しないのです。野菜とかそういった動物性の物と、大体半々にしてます。処が料理をする人は、御馳走と言えば何んでも魚や肉だと思って、そういうのが多過ぎて困るのです。それで始終小言を言っている。私は野菜を多く食べなければ固るのだから、野菜を多くする様に考えて呉れと始終言っている。栄養は野菜だが、文化生活をする上に於てあんまり大人し過ぎても仕事が出来ないから、そこで動物性の物を食べるのです。それを心得てやれば丁度良いわけです。で、競走心(競争心?)は結構ですが、それがもっとひどくなると闘争心です。闘う方です。だから肉食人種は闘争心が強いわけです。今アメリカで一番困っているのは胃癌です。日本は割合に癌は少いです。之もアメリカ人は菜食が足りない為です。之は今度書いてアメリカに出す積りです。
それから之は「文明の創造」の中の「人間と寿命」というのですが、寿命というのは人間が年をとったら菜食にすればよい。薬を飲まないから薬の気が無くなる。そうして先ず八十過ぎ位から菜食にすると、百以上は必ず生きるのです。昨日も、閑休庵というお茶の師匠で、今十二指腸潰瘍と言って青い顔をして、酒が好きな人ですが酒を一滴も飲まず、煙草ものまないで、食物も制限していたから、原因は薬だという事を言ってやった。それで私の経験を話してやった。私は四十迄は殆ど薬詰めであったが、薬の害を知ってから今年で三十六年ですが、一滴も薬というものを飲まない。それでも未だ薬毒はありますから始終自分で浄霊してます。其為に年々丈夫になってます。今七十ですが、暇があれば庭で木の枝を切ったり色んな事をやってます。重労働ではないが軽労働と重労働の間位の事をやってます。それで皆は草臥れた草臥れたと言ってますが、私は別に草臥れたという事はないのです。何ういう訳かと言うと、やっぱり薬毒が無くなったせいです。だから人間は薬毒が無くなれば非常に丈夫になるのです。今でも私は足が早いのです。若い者と歩く時は、私は加減しているのです。若い者が追附かないのです。どうした、年の加減だろうと言ってますが、あべこべなのです。それで又薬毒が無くなると頭が良くなります。頭が良くなるから、仕事が沢山出来ます。それに就いて「文明の創造」の健康と寿命という一節を今読ませます。
御論文「文明の創造 健康と寿命」
健康と寿命
(『文明の創造』より)
私は之から医学を全面的に批判解剖してみるが、其前に健康と寿命に就てもかかねばならないが、現代医学が真の医術であるとすれば、病人は年々減ってゆかなければならない筈であり、それと共に寿命も漸次延びてゆかなければならない道理であるばかりか、そうなる迄に数百年で充分であるのは勿論、現在最も難問題とされてゐる結核も伝染病も全滅するし、病気の苦しみなどは昔の夢物語になって了ふであらう。処が事実は全然其反対ではないか。としたら真の医学でない事は余りにも明かである。
そうして次の人間の寿命であるが、之も造物主が人間を造った時は、寿命もハッキリ決めた事である。尤も之に就ても私は神様から示されてゐるが、最低百二十歳から、最高は六百歳は可能といふ事である。従って人間が間違った事さへしなければ、百二十歳は普通であるから、そうなったとしたら実に希望多い人生ではないか。而も只長命だけではなく一生の間溌剌たる健康で、病気の不安などは消滅するのであるから、全く此世の天国である。では右の如き間違った点は何かといふと之こそ驚くべし医学の為である。といったら何人も愕然とするであらうが、此百二十歳説に就て、最も分り易い譬えでかいてみるが、先づ人間の寿命を春夏秋冬の四季に分けてみるのである。すると春は一、二、三月の三月として、一月の元旦が誕生日となり、一月は幼児から児童までで、二月が少年期で、梅の咲く頃が青年期であって、今や桜が咲かんとする頃が青年期で、それが済んで愈々一人前となり、社会へ乗出す。之が花咲く頃であらう。次で四月桜の真盛りとなって、人々の浮き浮きする頃が、四十歳頃の活動の最盛期であらう。よく四十二の厄年といふのは花に嵐の譬え通り、花が散るのである。次で五、六、七月は新緑から青葉の繁る夏の季節で、木の実はたわわに枝に実るが、それを過ぎて気候も下り坂になって、愈々稔りの秋となり、之から収穫が始まる。人間もそれと同じやうに、此頃は長い間の労苦が実を結び、仕事も一段落となり、社会的信用も出来ると共に、子や孫なども増へ、人生最後の楽しい時期となる。そうして種々の経験や信用もあり、それを生かして世の為人の為出来るだけ徳を施す事になるのである。それが十年として九十歳になるから、それ以後は冬の季節となるから、静かに風月などを楽しみ、余生を送ればいいのである。然し人によっては活動を好み、死ぬ迄働くのも之亦結構である。
以上によってみても、四季と寿齢とはよく合ってゐる。此見方が最も百二十歳説の裏付けとして好適であらう。此理によって医療が無くなるとすれば、右の如く百二十歳迄生きるのは、何等不思議はないのである。処が単に医療といっても種々の方法があるが、二十世紀以前迄は殆んど薬剤が主となってゐたので、長い間に薬剤で沢山の病気を作って来たのである。何しろ薬で病気を作り、薬で治そうとするのだから、病気の増へるのも当然であると共に、寿齢の低下も同様である。此何よりの証左として、医学が進歩するとすれば病気の種類が少なくなりそうなものだが、反対に増へるのは、薬の種類が増へるのと正比例してゐるのである。今一つ人々の気の付かない重要事がある。それは医学で病気が治るものなら、医師も其家族の健康も、一般人より優良でなければならない筈であるのに、事実は寧ろ一般人より低下してゐる。何よりも種々の博士中医学博士が一番短命だそうだし、又医師の家族の弱い事と、結核の多い事も世間衆知の通りである。そうして現在の死亡の原因は突発事故を除いて悉くは病気である。而も病死の場合の苦しみは大変なもので、之は今更言う必要もないが、よく余り苦しいので、一思ひに殺して呉れなどの悲鳴の話をよく聞くが、では此様な苦しみは何が為かといふと、全く寿命が来ない内死ぬからで、中途から無理に枝を折るやうなものであるからで、恰度木の葉が枯れて落ち、青草が枯れて萎れる。稲が稔って穫入れるのが自然であるのに青い内に葉をむしり、青い草を引抜き、稲の稔らないのに刈込むと同様で、不自然極まるからである。といふやうにどうしても自然死でなくてはならない。然し近代人は弱くなってゐるから、自然死といっても九十歳から百歳位が止まりであらう。
以上説いた如く、神は人間に百二十歳以上の寿命を与へ、病気の苦しみなどはなく、無病息災で活動するやうに作ってあるのを、愚かなる人間はそれを間違へ、反って病苦と短命を作ったのであるから、其無智なる、哀れと言っても云ひ足りない位である。
それから
の文化、主神とか主と言いますが、丸にチョンを打って我々は「ス」と読んでますが、之は凡ゆるものを簡単に表わしているのです。それを今一寸読ませます。
御論文「
の文化」 【註 栄光一七三号】
の文化
(栄光一七三号)
この標題を説くに当っては、先ず最初
の意味からかいてみるが、見らるる通り
とは、〇の真中に﹅が点いている。只これだけなら別に大した意味はないが、実はこの
の形程神秘偉大な意味はないのである。それは何かというと、この〇は斯ういう意味である。つまり、森羅万象一切の形は〇である。第一地球も太陽も月もそうであり、人間も霊になると他へ移動する場合、〇の形になっていく。これは人魂がよく現わしているし、神様でも移動なさる場合矢張〇になられるが、同じ〇でも神様の方は光の玉となる。だが人間の方は光がなく、只白色または黄色の朦朧体であって、黄色は男、白色は女である。これは太陽と月に相応する訳である。
これ等の説明はこの位にしておいて、肝腎な事をかいてみるが、勿論この世界も〇であるが、〇だけでは輪であるから、中身は空虚である。人間でいえば魂がない訳であるから、この真中へチョン即ち魂を入れれば、生きた人間になり、活動が出来るのであるから、
とは空ッポに魂が入った形である。昔から美術家などがよくいう入魂という言葉がこれである。この理によって今までの世界は、チョン即ち魂がなかったのであるから、以前私は外郭的文化とかいたのはこの意味である。何よりもこの理は凡ゆる文化面に現われている。いつもいう通り病気に対する対症療法がそうで、痛みや痒みを外部から注射をして麻痺させたり、薬を塗ったり、発熱を氷で冷したり、服薬で浄化を止めたりして、一時的苦痛を免れるのであって、中心には触れていないから根治は無論不可能で、時が経ては必ず再発する。つまり病気の延期でしかないのである。という訳で病原もチョンにあるのだが、それが今まで分らなかったのである。
その他犯罪にしてもそうだ。現在は刑罰の苦しみで懲りさせ、防止する手段以外方法がない。医学と同様対症療法であるから、大抵は一旦犯罪を犯すと、二度も三度も犯すようになり、中には何十回も犯す奴さえ出来る。酷いのになると一生涯の内、娑婆にいるより牢屋にいる時の方が多い奴さえある。この原因もチョン即ち魂がないからである。戦争にしてもそうだ。軍備を充実させれば、相手も勝目がないから一時止めてしまう。つまり延期手段でしかないので、何時かは必ず始るというのが歴史上明らかな事実である。斯うみてくると今までの文化は〇だけで、チョンがなかった事がよく分るであろう。
そうして私は九分九厘と一厘という事を常に言うが、〇にチョンが入るとなると、これが九分九厘を一厘で替えてしまう。 言変(換?)えれば九分九厘の悪を一厘の善の力で往生させるという意味である。丁度〇全体が黒く塗りつぶされようとする時、チョン一の力で、反対に黒を消して白全体にしてしまうので、これを世界的にいえば空虚な文明に実を入れる。即ち魂を入れるのである。これによって今まで形だけで死人同様になっていた文明を生かす、即ち新世界の誕生である。
それから「文明の創造」の中の一つで「九分九厘と一厘」という事を書いたので、それを読ませます。
御論文「九分九厘と一厘」
九分九厘と一厘
(栄光一三八号)
前項に述べた如く、戦争の原因は人間に内在する悪そのものであって、この悪なるものの本質は何であるかというと、曩にもかいた如く動物霊の意欲の現われであって、その行為が動物的であるに見ても明らかである。動物とは勿論獣類が主で、次が鳥類、稀には虫類もあり魚族もあるが、何れも人間の体慾を司る必要から、神がその様に人間を造られたもので、所謂必要悪である。処がこの動物霊は霊線によって、邪神界の頭目に連繋しているので、その頭目の思うまま自由自在に操られているのである。そうして邪神界にも階級があって、人間個々の霊的階級に相応し憑依するので、上級から下級に至るまで差別があり、これも正神界のそれと同様の組織になっている。
この様な訳で、人類は原始時代から今日に到るまで、善と悪が相対峙しつつ、現在まで何万何十万年に亘って来たのであるが、勿論その期間邪神の力の方が強い為、兎もすれば正神の方が圧迫され勝ちであったが、結局に於て悪の方が敗北し、善の方が勝ったのは歴史がよく証明している。それは若し邪神の方が勝ったとしたら、世界は崩壊され、今日見るが如き世界は、あり得なかった筈であるからで、それというのも今日までは時が悪に或程度味方していたので、つまり夜の世界であったからである。勿論夜は暗黒そのもので、悪を制御する光が足りない以上止むを得なかったのである。右の如く、これまでの世界は悪でも目的を達せられ、相当期間持続されたので、これを見た人間は悪で成功する方が早道と錯覚してしまうと共に、その追随者も出来るという訳で、滔々として一般が悪に感染し、処世の常識とさえなってしまったのである。
これは歴史をみれば分る如く、悪によって一時は成功したように見えても、何れは必ず失敗するが、それに大部分は無頓着であったのである。従って歴史とは悪による成功と、悪による失敗との交互連続の記録でしかないと言えよう。右のように夜の時代は悪の力が強い為、その犠牲となった善者も少くなかった。特にそれが宗教家に多く、最大な犠牲者としては、彼のキリストであった。私と雖も若しその時代に生まれたとしたら、如何なる苦難に遭ったかも判らないが、いつも言う通り今や夜が終り、黎明期に一歩入った現在であるから軽く済み、予定通りの進展を遂げつつあるのである。
処で玆に注意すべきは、邪神の計画や行動といっても、戦争や暴力のみではない。凡ゆる分野に亘って、いとも綿密にして遠大なる計画の下に進んで来た事である。その中で最も成功したものとしては唯物科学であって、この唯物科学こそ彼等の最大なる武器であって、これによって全人類に素晴しい恩恵を与えたと共に、これを利用して信頼させ、最後には絶対権を握ろうとするのが彼の計画であって、その狙いは何と言っても人間の生命を左右する事である。その意味から進歩させたものが現代医学である以上、徹頭徹尾物質的方法によって、病気を治そうとし、外面的には如何にも治りそうに見えるが、内実は治してそうでないに拘らず、彼等の智能は頗る巧妙に凡ゆる手段を尽くして努力しているのである。勿論、方法としては機械、光線、新薬、手術等であり、又病理も微に入り細に渉って理論附けているが、この真相を看破し得た者は今までに一人もなかったのである。この意味によって、例えば病気に罹りその病原を質問しても、御座成的で、的確な説明は出来ないで、曖昧極まる答弁をしている。又病気に対してその見込を訊いても、だろう的で、断定は出来ない。よしんば断定しても、十中八、九は齟齬するので、これは医家も常に経験する処であろう。
次は食糧問題であるが、これも医学と同様殆んど科学的論拠によって作られた彼の科(化?)学肥料である。これも最初は一時的効果を見せられたので人間は瞞されてしまい、今日の如く各民族に行渡ったのであろうが、これは別の項目で詳説する。
次は戦争であるが、これも曩に述べた如くその時代の手腕ある野心家が、多くの人命を犠牲にして、覇者たらんと企てたものであるが、これ等も一時的成功の夢を羸ち得るに過ぎず、最後は必ず失敗し、歴史上の語り草に残るのみである。
以上大体悪に就いての検討をしてみたが、これによってみても、神は唯物文化の清算をされ給う時期が来た事は明白であって、邪神の目的通りにならんとするその一歩手前に来た現在、神は私を通じて真相を明らかにされ給うのである。これを深く考えればその深遠微妙なる大神策は実に端倪すべからざるものがある。茲で別の意味からみれば、神の力は十全であり、邪の力は九分九厘であるから、神の方が一厘勝っており、この一厘の力を以て掌を返すので、この力こそ如意宝珠であるから、私が常にいう如く、現代文化は九分九厘までで切替えとなり、その時がキリストの言われた世の終りであるという訳である。従って、この時こそ霊界に於ては仰天動地の一大異変が起るのは必然で、この事を信じ得る人にして、永遠なる幸福者となるのである。
そうして、彼の計画の唯一のものが現代科学であるから、医学の革命も当然起るであろう。それに代るべきものとしては、本教の浄霊法である。というのは、幾人もの博士が梃摺(梃子摺?)って、死に垂んとした病人が医学のイの字も知らない普通人が、数日の修行によって治し得る力を与えられるにみても多くを言う必要はあるまい。従ってこの力を以てすれば、何十世紀もかかって積み重ねた現代文化の誤れる点を解消するのも、敢えて難事ではないであろう。
ここに至って夜の帳は切って落され、赫々たる太陽が現われるので、その黎明期こそ今である。キリストの言われたる、信ずる者は幸いなりとしたら、信ぜざる者は滅亡の運命となるより致し方ないであろう。
之に就いて知らねばならない事は、今迄の宗教で悪を肯定する宗教はないのです。全部悪を憎み――憎むのは当然ですが、悪だから悪いけれども――そうして攻撃――敵の様に宗教自体が言っていたのです。又悪の方では宗教を悪く言って、そうして神は無い――それは今でも盛んに言ってますが、神があると言う奴は迷信だと、そんな様にして両方を闘わせたのです。というのは今迄の宗教の開祖というのは善の方の神様です。善丈の神様と、今の様な悪の方の――邪魔するサタンと対立していた。処が両方を造られたのは、真中に居る主神なのです。そこで主神の見方から言うと違って来るのです。そこで私の今の、悪が必要であった。医学という、要するに薬というものは人間を弱らすもので、人間を弱らせなければ文化というものは出来なかった。という様に説いてあるのは、主神から出る教えです。要するに善悪の根本を説いているのです。そこで分らなければならない。今迄のは善丈の教です。そこで悪を説かねばならない。悪というのは主神が作ったのです。主神はこういう必要があって悪を作ったのが、斯ういう訳で許したのだ。善と悪とを対立させた事、そういう事を「文明の創造」の最初に説くのです。然し悪は文化の進歩に或程度迄必要であって、天国要するに地上天国に必要である程度の文化を作る迄の必要であって、それ以上はいけない。だから悪の期限が来たという事も説いてあります。それで悪というものは必要であったという事と、悪の期限が来たという事で、初めて根本が分るわけです。だから医学というのは人間を弱らせる為に必要であったという様に説けば、一寸医者の方では怒る事も出来ないのです。然し今日ではもういけないのです。もう弱らせる事は止める時期が来た。だから止せと、斯ういう意味です。ですから之を知って居れば、何んな質問が出ても困る事はないです。その意味を話すれば良い。今迄は結構だ、結構だがもう然し人間を弱らせる方法は済んだ。と、そう言えば一寸文句は言えない。それを説いてあります。最初は拳固を握っても、読んでいるうちに段々溜息に変ります。
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