此間、院展と青龍展に行って見て、あんまり酷いので書かずに居られないから、書いて「栄光」に出して日本画の主なる先生達に送る積りです。何しろ日本画というものは亡びて了うのです。それを書いてみたのです。言いたい事を言ったわけです。
御論文〔今や亡びんとする日本画〕
今や亡びんとする日本画
(栄光一七八号)
私はこの間、目下開催中の院展並びに青龍展を観た結果、その感想をどうしても書かずにはおれないので、茲に書いてみるのである。先ず院展であるが、会場へ入るやオヤッと思った。これは間違ったのではないか――というのは、隣りに二科と行動展が開催中だからである。併しよく見ると油絵具ではなく、日本絵具で画いてあるので、ヤハリ院展かなあと思いつつも、何か割切れない気がしてならない。殊によると洋画家の方で日本絵具を使い始めたのではないかとも思った。処が第三室に入るや、突当りに大観先生の絵があるので、ヤハリ院展だという事が分ると共に、何とも言えない寂しさが込み上げて来た。成程出来星の展覧会なら兎も角、相当長い歴史もあり、何といっても現代日本画壇の重鎮である、四十年前彼の岡倉天心先生が、光琳を現代に生かすべく勃々たる野心の下に、大観、春草、観山、武山を四天王と選び、それまで伝統の殻から脱け切れない日本画壇に巨弾を投げつけたのであるから、この天心先生の大胆にして烱眼なる意図は、正に革命的であった。果せる哉画壇は動き始めた。最初はそれ程でもなかったが、その内に世の中が承知しない。院派に吸われる如く人の眼は集って来、ついに日本画壇に於ける寵児的存在となったのは、誰も知る通りである。処が、それはそれとして、京都画壇に於ても一人の大天才が現われた。すなわち竹内栖鳳である。彼の神技は院派とは別な趣きを表わし、天下の目を奪ったのは勿論、茲に大観と並んで東西の大御所となったのである。処が栖鳳氏は、惜しい哉人々の嘱目を後にしてこの世を去ってしまったばかりか、次の大御所的期待をかけられていた関雪も逝き、渓仙、麦僊の鬼才もまた早逝した等によって、遂に現在の如く日本画壇は東に移って、展覧会としては、院展、青龍展の二つのみとなったのである。然るに、この両展覧会の一方の雄たる院展が、前記の如しとすれば、日本画壇にとっての由々しき一大異変と言ってよかろう。
次に青龍展の方であるが、こちらも相変らずで、殆ど進境は認められないと共に、御大龍子先生の凉露品であるが、これを遠慮なく言えば失敗作である。特にこの絵としての最も不可ない点は、全体的に黒々とした輪郭が目障りだ。これは普通の墨ではなく、何かを焼いて出来た墨という事だが、何れにせよ、折角の画面を壊してしまったと言っていい。私はこの画を見た瞬間、淡墨であったならと思った事である。
次は、この展覧会の全体的批評を書いてみるが、この会の絵は総体的に見て、会場芸術かは知らないが、殆んどの絵は焦点を余りに無視している事である。悪く言えば壁紙式が多い。そうして芸術感覚も乏しく、単なるスケッチ風が大部分である。これらも洋画カブレであろうが、深さも品位も乏しいので、全く東洋画の生命がない。そんなわけで、この会としては寧ろ小品展の方が遥かにいいと、私は思ったのである。
最後に、龍子先生に望みたい事は、君の技巧は正に天下一品と言ってもいい位だが、それが反って災いしているようだ。というのは、余りに達者に任せて画きすぎる嫌いがある。その為画面全体が騒々しく、落着きと慎ましさがない。何と言っても、東洋画の本質は、静であって動ではない事である。成程動も時代的には或る程度は許されるが、ジャズになってはお仕舞だ。又、君の旅のスケッチは中々面白く楽しめるが、これも難を言えば筆が躍りすぎている。もっとしっとりしている方がよいと思うが、どうであろう。いつかも言った通り、喋舌る事の上手な人が、興に乗って言わずともいい事までペラペラ脱線するようなものではないか――と思われるのは、私ばかりではあるまい。
次に現代の日本画全体を引括めて言ってみたいが、先ず近頃の画題である。成程今更達磨や羅漢、寒山拾得、布袋、龍や唐山水などは、余りに陳腐で時代錯誤ではあるが、さらばと言って、現代生活そのままのスケッチでも感心出来ない。例えば街中や室内にある何等美のない物体を、無理に美化しようとする努力など、凡そ無意味ではないか。これらは何程上手に画いたとて、見る者をして何等趣味は湧くまいと思う。これも洋画追随の結果であろうが、日本画としての約束を無視しては、その良さがなくなる。従って、取材にしても、芸術約高さがなくてはならないのは言う迄もない。これに就いては日本の風景の絶佳な事、草木の種類の豊富な事等を見ても、よい題材はいくらでもある筈である。そうかと言って、現代の大家でもよく画く、草花物などに就いても言いたい事は、余りに女学生趣味である。同じ草花にしても、琳派物のような見応えのあるものの少ないのは遺憾である。
それから、新聞にも出ている通り、今度米国に於て華府始め五大都市で、日本古美術展を開催する事となり、その要務を帯びて過般来朝したフリヤー美術館長ウェンリー夫妻と、紐育メトロポリタン博物館東洋美術部長プリーストの両氏は、別々に箱根美術館に来館された。その際私は親しく面接したが、両氏共現代日本画には目もくれないで、只大いに褒めたのは栖鳳の竹に雀の大幅で、是非欲しいとさえ言われた位であった。然も両氏共米国に於ける美術界の権威とされている人で、その鑑賞眼の鋭さには私も一驚を喫した程である。そうして後れて来朝したワォーナー博士であるが、この人との約束もあったが、何しろ老齢の事とて非常に疲れており、次の日を約して、今回は割愛された。
玆で、深く考えねばならない事は、米人は新画だから不可ない、古いから良いという骨董癖は殆んどない事で、実際公平な見地から見て古画を愛好するのである。この点私も同感で、私とても新古の別は問わない。只よく出来て、気に入ればそれでいいのである。処が、実際古画の方がズッと上で、新画の方は比べものにならない程劣っている。これに就いても同国の好事家は現代仏蘭西大家の作品は、非常な高価でも引張凧という話であるし、また先日仏蘭西の国際展へ出品した日本の油絵にしても、意外な不評判であったのは、全く日本の洋画は世界的水準に達していないからである。
処が日本画に至っては、日本独特の世界的最高峰の芸術である以上、これに最も力を注ぐのが賢明ではなかろうか。処がそれに気が附かない為か、現在の日本画家は一生懸命油絵の模倣に汲々たる有様である。これではどんなに良く出来た処で、畢竟イミテーション以外の何物でもあるまい。従って、この際一日も早く頭を切替え、断然日本画一本で進むべきではないか。勿論、目標としては古画を凌ぐ程の傑作を作る事で、それを以て堂々世界の檜舞台に出すとしたら、結果は外国画家の方で日本画に追随し、油絵に日本画風を採入れる事になるのは断言するのである。それに就いて思い出して貰いたい事は、君等が崇拝している現在の洋画である。処が、この根本こそ日本の光琳からヒントを得て、それが今日のように変化して来た一事である。彼の十九世紀前半、ルネッサンス様式が極点にまで発達し、絵画に於ても写実主義が行詰り、どうにもならなかった時、突如として彼等をアッとさせたのが光琳であった。これによって当時の洋画界は俄然革命されたのであるから、この我等の祖先の偉大さを見たら、今日の画家の不甲斐なさは、実に情ないと思うのである。
又、先日仏蘭西ユネスコの幹部であるダヴィット女史が来館され、一番気に入ったのが有名な桃山時代の「湯女」の肉筆浮世絵であった。これを見て感に打たれた女史は、複製にして是非世界各国のユネスコ支部に、日本文化の卓越せるを紹介したいと言って、同文化部から今回我が外務省を通じて、正式に申込んで来たので、快諾し、目下大塚巧芸社に製作させている。私はこういう場合遺憾に思うのは、現代画の方は全然問題にされない事である。
以上、思いついたまま雑然と書いて来たが、要するに今や日本画は危急存亡の機に臨んでいる。どうか一日も早くこの危機から脱して貰いたいと、切に念願するのである。
そうして、今度の院展を見て驚いた事は、今まで大観先生のみは時流に媚びず、毅然として指導的地位を持していたに拘わらず、今度の絵はどうだ。軽薄極まる洋画風を採入れているので、これを見た私は、目頭の熱くなるのを禁じ得なかったのである。
最後に是非書かねばならない事は、大局から見ての東西画観である。私は思う、日本画こそ真の芸術であって、西洋画は芸術とは言えないと思う。それは、レベルの低さである。何よりも、その扱い方がそれを示している通り、日本画は床の間という、絵そのものを楽しむように出来ているし、季節に応じて掛替える事にもなっている。これに対し西洋画は、所かまわず壁に掛けるだけで、取替える事も要らない。としたら、正直に言って先ず高級家具と言ってもよかろう。然も、東洋画は画くのであるが、西洋画は塗抹である。だから東洋画に於ては、筆力雄健一気に画く、此処に生命の躍動がある。これを書に譬えても分る。書は一気に書くから生きているが、提灯屋では死んだ文字である。というわけで私は、日本画は芸術であるが、西洋画は芸術と工芸品との中間であると、常に言っている。
では、何故今日のように日本画は堕落したかと言うと、根本は何と言っても、芸術と科学を混同している錯覚ではなかろうか。それは素晴しい科学の進歩に眩惑された結果、西洋崇拝思想が、美術にまでも及ぼした為ではなかろうかとも思うが、それとは反対に、西洋各国の識者は、逆に東洋美術に対する憧憬は、益々濃くなりつつあるのが事実である。
以上長々と書いて来たが、兎に角美術だけは西洋崇拝を止めて、日本、支那、朝鮮の古美術を出来るだけ研究し、再認識されたいのである。これに就いて、こういう事がある。箱根美術館には凡ゆる階級の人が来るが、不思議にも画家は殆んど来ないのである。これを考えてみて分った事だが、成程現代画家のように、油絵を憧れる以上、反って古画など見ない方がいいのかも知れないと思うので、全く長大息せざるを得ないのである。これに目覚めない限り、何れは外国人と共に、日本人からも見放されてしまい、日本画の没落は時の問題でしかあるまい。
之は一寸面白い論文です。
御論文〔運命は自由に作られる〕 【註 地上天国四十一号】
運命は自由に作られる
(地上天国四十一号)
これから運命に就いてかいてみるが、ここで知っておかねばならない事は、世人はよく宿命と運命とを同一にしている事である。併しこれは全然違うのでそれをかいてみるが、宿命とは生まれ乍らに決ったものであるが、運命の方は人間次第でどうにでもなるもので、この点を知らなくてはならないのである。誰でもそうだが、いくらああしたい、こうなりたいと思っても、なかなか思うようにゆかないのは、前記の如く人各々の宿命という枠で決められているからで、それから抜け出る事は無論出来ないようになっている。従って人間は自分のもって生まれた宿命の限度をハッキリ知る事が肝腎であるが、実はこれが中々難かしいので、寧ろ不可能といってもいい位である。
この限度が分らない為、自分の力以上の計画を立てたり、身の程知らずの望みを起したりするので失敗するのである。処がその場合でも早い内に気が附き、一旦陣を引いて出直せば苦しみも軽くて済むが、宿命の限度が分っていないから、無理に押し通そうとするので失敗を大きくするのである。又世の中を甘く見過ぎた為であった事も勿論である。そんな訳で盛り返そうとしては失敗し、出直そうとしては腰を折られ、散々な目に遭ってやっと目が覚める人が大部分である。併しまだ目が覚めればいいが、中には不幸のドン底に陥ったまま死ぬまで目の覚めない人も大いにあるが可哀想なものである。以上は信仰のない人の運命を書いたのであるが、そこへゆくと信仰者は別である。
それについては霊の方面から説かねばならないが、つまり一切の苦しみは浄化作用である。浄化作用といえば病気だけのように思うかも知れないが、決してそうではない。総ての悩み苦しみの因は悉く浄化作用である。例えば人に瞞され損をする、火事で焼ける、怪我や泥坊、家族の不幸、商売上の損や失敗、金の苦しみ、夫婦喧嘩、親子兄弟の仲違い、親戚知人との争いなど何も彼も浄化作用である。このように普通浄化作用といえば苦しみで曇りを除るより方法はないから、曇りがあるだけは免れぬ事は出来ないので、曇りを減らすのが開運の絶対的条件である。つまり或程度魂が浄まれば浄化の必要がないから不幸が幸福に変る事になる。これが真理であるから、運は寝て待てではなく、運は浄めて待てというのが本当である。
処が前記のように苦しまないで魂が浄まるその方法が信仰であるから、無信仰者には幸福は絶対ないわけである。併し信仰にも色々あるから、立派な力のある信仰でなくては真の幸福は得られない。そこへゆくと我救世教こそ右の条件に叶う宗教である事を知らねばならない。
今読んだ通り、凡ての苦しみは浄化です。それで霊の曇りが除れるのです。そこで今迄の宗教での難行苦行というのが、その方法なのです。というのは、普通世間で苦しむのは、止むを得ずなるのです。苦しみの方がぶつかって来るのです。処が難行苦行というのは、自分で一生懸命苦しむのです。それでも魂が磨けるのです。それでバラモン教の方は苦しんで悟が開けると言っているのですが、苦しんで悟が開けるという事は、曇りが無くなると悟が開けるのです。つまり曇がないから、物事が良く分るのです。すると悟が開けるのです。悟が開けるという事は、物事が分る事です。つまり真理が分るわけです。けれども真理にも色々あるのです。やっぱり上中下あります。だから、皆が真理と思っている処が極く下の真理というのが多いです。それで前よりも魂が浄まるのです。迷が少くなって来る、判断力が出て来る。併し、迷というものは全然無くなるという事はないのです。どんな偉い人でも――私でもあります。只迷が無くなるのが早いのと遅いのとの異いです。私などは、迷っても半日位です。私は物事をみると直ぐ結論が分るのです。ですから、斯うして庭や建築とか色々な事をみても直ぐパッと分るのです。首をひねる様な事はありません。若し其時パッと出ないと、考えないで放ったらかして置くのです。それはやはり時があって、何かの時にパッと分るのです。というのは順序があって、神様の方で、早過ぎると知らせないのです。それで時期が来ると分るわけです。ですから迷わないで分るわけです。処が今の人は霊が曇ってますから、どんな偉い人でも始終迷いに迷い、考えに考えているのです。で、あんまり考えたりするのに碌な智慧は出ないのです。だからやり損ったり、自分で求めて失敗を作っているのです。特に政治家方面などは……よく新聞なんかに出てますが、実にあまりに智慧が無さ過ぎる。という事をよく感じますが、それは霊が曇っているからです。そこで人間は、その曇を出来る丈除ると、健康になるばかりでなくやっぱり頭が良くなります。そこで頭を良くするのに、つまり曇を除るのに難行苦行をしなくても除れるというのは恐らくメシヤ教丈だろうと思います。之はつまり天国的宗教、昼間の宗教だから、明るいから早く曇が除れ、魂が磨けるから智慧正覚が得られるというわけです。
即ち病気を治す場合に、疑っても何でも治るという事は、つまり難行苦行という事は要らないというのと、理窟は一つです。他力です。他動的です。そこに素晴しい値打があるわけです。そんなわけだから運というものは、霊の曇と平均するものです。つまり霊のある丈は、どうしても苦しみはぶつかって来るのですから、一切は相応の理と言って、凡て何でも喰い違いはないのです。人間には、喰い違いがある様に見えるのは、つまり人間が上っ面丈を見て判断するからです。仮に一家にどうしても信仰に入らない人があって、其人が反対したりするが、そうすると反対された人の方は、始終やきもきしてますが、そのやきもきする方に曇がある。其人に曇が無くなって魂が浄まると、他の人が悩み苦しめる事は出来なくなる。すると其人は信仰に入る事になる。あの畜生、人を酷い目に遭わせやがる、あいつの為に飛んでもない事になった。あいつは飛んでもない損をさせた。又いくら言っても入らないとか、そういうのはやっぱり御自分を見なければいけない。それはそれ丈の曇りがこっちにあるからなのです。それに依ってこっちの曇を除って呉れるのです。ですから自分を酷い目に遭わせたり苦しめたりするという人は、自分の曇を取って呉れているわけです。浄化作用の仕事をやって呉れているわけです。そこ迄来ると、感謝してもよい事になって来るのです。此間裁判所で、公判が済んだ時に被告の感想を言わせたのですが、外の人は今迄間違った調べをして、検事や検察官はけしからんと、今迄の言い足りない不満足を言ってましたが、私は今迄検察官や何かのお陰で、私は大変磨かれた、其為に教団も堅実になった、大いに御苦労であった、それを感謝する。という事を言ったのです。で、何も迎合したり、そんな様な意味ではないのです。今言う様に、大乗的に考えればそうなるのですから、大いに感謝してよいのです。だから、考え方というのは其処の点です。そういう考え方が信仰の価値なのです。価値ではない、それが蕊です。本当なのです。だからこっちに反対する奴は、私も一時は癪に障ったが、考えてみると其為に反って結果が良かった、という様に言いましたが、それが本当なのです。ですから、思う様に行かないという事は未だ自分に霊的に資格がないのです。で、霊が浄って魂が浄まれば思う様にいくのです。そういう風に出来ているのです。思う様にいかないという事は、それは未だ自分に曇があるのです。その曇を苦しんで除らないで愉快に除るというのがメシヤ教の真髄です。それには人を助けるのです。そうすると人の感謝に依って其人は始終光を受けますから、それでこっちの魂が浄まるのです。つまり難行苦行の代りに人を喜ばせ、人を助ける、それに依って同じ結果を得られるというわけです。そこで人を助けるには、やっぱり話や何かが上手く出来なければならないから、其為に御神書を読む。又御神書に依って、色んな真理を知りますから魂も浄まります。それと共に人を救う力もそれ丈出ます。そうして人を救い、喜ばせ乍ら、自分も向上するという事になるのです。大本教のお筆先に面白い事が言ってあります。艮の金神は神代の時に人から嫌われて押込められたのです。それで、今に返報返しを致すぞよ――仇討です。それ丈では神様も人間みたいですが、けれども「艮の金神は喜ばして返報返しを致すぞよ」そういうのがある。喜ばして返報返しをするというのが非常に面白いです。仇討と言っても、忠臣蔵の様に上野介の首を取るというのではないのです。先方を喜ばすというのですから逆です。これが本当です。ですから私は大祭の余興の時に、講談の貞丈に〝忠臣蔵をやってはいかん〟と条件を附けたのです。之は喜ばせて返報返しをするのとは逆です。私はそういうのは嫌いです。仇討という思想は非常に悪いのです。之を日本から絶対に除かなければいけないのです。けれども日本人はそれに非常に憧れるのです。曽我兄弟とか……と。その仇討思想を除らなければ、世界は平和にはならないのです。個人としても争が断(絶?)えないわけです。支那の言葉に「怨に報ゆるに徳を以てする」というのは非常に良いです。それから蒋介石が終戦後日本に非常に好意を持っているのです。日本に対しても良くしなければいけないというので、蒋介石は今以て日本から代償を取ろうとは思って居ないのです。其為に今も台湾丈でも地位を保って居られるというわけでしょう。そんな様な工合で、只信者は浄化作用というと、病気丈に限る様に思うきらいがありますが、それで話したのです。あらゆる苦しみというのは全部自分にあるという事を知れば良いのです。
時間が無いから短い論文を読ませます。
御論文 〔爆弾を抱いている現代人〕
爆弾を抱いている現代人
(栄光一八四号)
この題を見たら少し嚇しすぎるように思うかも知れないが、実は聊かも駆引のない正直な説であるから、そのつもりで読まれたいのである。これは信者はよく知っているが、現代人で兎も角健康らしく働いている人間を調べてみると、例外なく身体中何処も彼処も薬毒の固りだらけである。それが偶々或部分が溶け始めると、これが病気であるから早速医師に診て貰う。すると医師は診察をして、これは大変だ、今は大した事はないが、事によると大病の初めかも知れないといって、早速元通りに固めようとする。その固め手段が薬をはじめ種々な方法である。というようによく固る方法が進歩した療法と思っているのだから、大変な世の中である。
この様な訳で、今日の人間は毒が溜り放題溜って、それを念入りに固めてあるのだから、固太りなどといって健康人らしく見えるのが、実は危険な訳である。以前私はよく膿の塊が理窟をいって威張っていると笑ったものである。勿論今もその通り処か益々酷くなりつつある。何よりも今日の人間位病気に罹り易い者はないから、ヤレ衛生に注意しろ、風邪を引くな、暴飲暴食をするな、栄養食を食え、冷えるな、疲れるな、睡眠を充分とれ、手を洗え、含嗽をしろ等といって煩い事夥しい。まるで人体を毀れ物扱いである。忌憚なくいえば一種の恐怖時代といってもよかろう。併しこの儘で続いてゆけば結構だが、そうはゆかない事がある。それは霊界の変化である。変化とは段々毒が固らなくなる事で、いくら最新の医療や新薬でも、溶ける力の方が強くなるので、人間はバタバタ斃れる事になるのは、火を睹るよりも明らかである。併しこれを読んでも大抵な人は、そんな馬鹿な事があって堪るものか、嚇すにも程があるというかも知れないが、キリストは二千年前已に予言されている。それが即ち世の終りで、前記の通りである。
併しこれを信じたくない人は信じなくともよろしいが、只最後の断末魔が来た時、〝ヤッしまった。アレ程知らされていたのに俺は何たる馬鹿者であろう〟といって臍を噛んでも追っつかない。故に助かりたければ今の内だ。ではどうすればいいかというと、大して難かしい事はない。つまり一遍に毒が溶けるから命が危いのだから、なしくずしにすれば助かる。これが本教の浄霊法であるが、併し余りに簡単すぎるので、反って信じ難い点もあるし、それだけ価値もある。だが霊界の浄化が一日一日強くなる以上、遂には医療でも固らなくなる。だから一刻も早く目をさまし、本教へ来る事である。以上を一言にしていえば、現代人は全く毒の爆弾を抱いているのである。
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