よく御守護電報が来ますが、大抵熱の病気が多いです。之は良く分っているでしょうが、近頃は余計それが多いです。その熱の原因は殆ど頸の廻りです。頸のこの辺が一番多いです。つまり延髄の少し横の方です。ですからこのゴリゴリをみると直ぐ分ります。之をこの位(少し)離して、草臥れますから小指を当てて全然力を抜いて、只気丈をこっち(反対側)に通る様にするのです。そうすると良く治ります。熱がある時は此処( )をみると大抵熱があります。頭が重いとかボーッとするというのは大抵之です。それから人に依っては頸のこの辺( )迄ある人があります。此の辺だったら、斯うやれば良いです。それから前頭部、額です。此処を触ってみれば大抵熱がありますから、此処は遠くからやるのです。そうすると大抵の熱はそれで冷めます。で、よく肺病で胸が悪くて肺から熱が出たというが、肺から熱が出るわけはありません。あれはお医者が分らないからです。若し肺から熱が出れば肋間神経痛の場合です。之は圧すと痛いのです。息をしても痛いのです。肋間神経痛か肋膜です。肺自身から出ているのは肺炎です。肺炎は一旦毒が溶けて肺に入って行くからで、結核は肺から熱が出る事は先ずないとみて良い。処が、信者の古い人はそうでもないが、新しい人は、肺病というと胸の病気の様に思って、胸ばかりやっているから、それで治らないのです。肺病というのは大抵肩からです。頸の廻りの病気が肺病と思って良いです。というのは、此処から熱に依って溶けたものが肺に入るからです。それでお医者さんはラッセルやレントゲンで診て胸が悪いと言うのですが、そんな事はありません。頭から此処(頸の廻り)の毒が溶けて肺に入るのです。肺病という場合は胸は問題ではないのです。但し肋間神経痛は此処に熱があるのです。之は痛いから分ります。それから肋膜の方は息をすると痛いのです。肋間神経痛は身体を動かしたり、又じっとしていても痛いのです。それで、骨を一寸圧してみると痛いから直き分ります。それからよく喘息などで非常に強い痰が出ます。発作もそうですが、あれは肋膜の場合が多いのです。ですから喘息の場合は骨を圧してみて痛ければ、骨に絡んだ毒が溶けてそれを引上げる為に強い咳が出ると思っていれば良いです。その外に熱が出るのは腰ですが、之は微熱でそんなに強い熱は出ません。それから股から出る熱もありますが之も局部的で、全体に出るのは余程強い――横根か何かでなければ出ません。熱は大体今言った様で、それから頭の中心から肩と、その位知って居れば先ず熱は冷めます。私は時々家族の者等をしますが、可也り酷い熱でもやっている内に冷たくなって熱が無くなります。実に早いです。それから後向きにして、こっちから浄霊しても良いです。兎に角此処( )が一番急所ですから……。
それから色々な平和運動がありますが、それについて書いてみました。此間も仏教徒大会があったり、それから広島ではキリスト教の人達の平和会議がありました。あの平和会議というのは大変結構の様ですが、実はあれは共産主義のお手伝いをしているのです。ですから平和運動をする人は共産党と逆の様に思いますが、何ぞ知らんソ連の片棒を担いでいるのと同じ事になります。それを書いてあります。
御論文〔平和主義を考えてみる〕 【註 栄光一八四号】
平和主義を考えてみる
(栄光一八四号)
最近二つの民間平和会議が、然も日本を中心として開かれたのは特筆すべき一事であろう。そうして一方は東京での亜細亜における有力な仏教家の会合であり、他の一つは広島においての世界連邦平和会議で、これは主にキリスト教の有力な人々の会合であって、言うまでもなく両会共平和を念願とする人々の集まりであり、宣言や運動方法なども議題に上ったようだが、無論有意義な企てであって、我等も賛意を表するに吝かではないがこれについて聊か書いてみたいと思うことがある。
というのは、右の会合もそうだが、彼の平和運動の有力な団体としてのユネスコである。これは前者の如く宗教的ではなく、科学と道義を基本とした世界平和の実行運動であるから、これも大いに結構であるが、これについて深く考えてみなければならないと思うのは、鉄のカーテン内の国には聊かも関係のない事である。尤も、それは不可能であるから致し方ないとしても、今の処カーテン外の国だけの平和運動であるから、よしんばそれが思い通りに成功しても、所期の目的は達し得られないことは分っている。何となれば、その結果は逆になって、恐るべき事態を招来するからである。これについて先ず現在の世界情勢を見てみると、何と言うてもその根本は米・ソの対立である。しかも両国共力の限り戦備の強化に奔命しており、この侭続くとしたら、結局は最悪の事態にまで立至るのは議論の余地はあるまい。としたら、この二大陣営の融合こそ恒久平和の道であって、それ以外絶対あり得ない事は言うまでもない。
そうして、若し不幸にして第三次戦争が始ったとしたら、全世界の国という国は右のどちらかに属している以上、悉く捲込まれるのは勿論、如何なる小国と雖も中立は不可能であろう。としたら、これを想像した丈でも肌に粟を生ずるのである。それだからこそ平和運動の必要もあるわけだが、ここで気が附かねばならない重大事がある。それは何かと言うと、これ等の平和運動によって、鉄のカーテン外の国全部が平和の空気が濃厚になるに従い、自然軍備の面が疎かになるに決っている。処が相手の鉄のカーテン内の各国は、思い通り軍備が充実することとなる以上、イザという場合力ーテン外の国は一溜りもなく蹂躪されるに違いない。としたら、その時はどうなるであろうかを考えて見て貰いたい。恐らく平和主義者の理想などは忽ち吹ッ飛んでしまい、どんな悲劇が生まれるか判らないであろう。それについても、最近の外国通信によれば、キリスト教中の或る一派は、勝敗など全然問題にせず、自分等は絶対軍備反対であると称し、頑として聞かないので手がつけられないらしい。成程それも間違ってはいない。確かに信仰の筋道から言えば本当であるが、と言って、万一国が滅びるとしたらどうであろう。無論信仰を続ける事は出来まい。従って、右のような極端な非戦主義は戦争敗北主義であり、自殺主義でもある。
そうは言うものの、私はどちらの可否も決定はしない。何故なれば、現在の如き世界の動揺も危機も、深甚なる神の経綸に外ならないからである。いつも言う通り、神の仕組は人間の智慧や理窟で到底判断出来るような生易しいものではない。その奥には奥があり、実に端倪すべからざるものである。又若し分ったとして説明しても、人間の頭脳では理解出来ないから無駄である。大本教の御筆先の一節に〝細工はりゅうりゅう、仕上をごろうじろ〟という言葉があり、実に適切であると私は常に思っている。
ですから世界の平和というものは必ずスターリンが改心しなければ駄目です。第一番はスターリンがメシヤ教の信者になるという事です。そうすれば世界は一遍に平和になって了います。それ以外は何をやっても駄目です。それ以外としたら、先ず連合国の方がうんと軍備を強化して戦争でやっつけて了い、敗北させて了うという、之なら良いですが、併し之をやるには大変な犠牲を出さなければならない。それは原子爆弾の戦争になりますから、人間の死ぬのは何の位か分らない。色んなものはみんな壊れて了い、地球は墓場のようになりますから、そうしたくはないのです。メシヤ教信者にしたいけれども簡単にはいきそうもないですが、併し全然ないとも言えません。何故と言えばメシヤ教が世界的に拡がって、そうしてソ連が戦争でなく外の事で窮地に陥るのです。そうしてスターリンが手も足も出なくなった時、病気でもそうですが、神様に縋るとかいう様に心境が一変して来ないとも言えません。そうすると信者にならないとも限らない。之は神様の経綸ですから、どっちにしろ病貧争絶無の世界が出来るのだから、どっちかで本当の平和が生まれるわけです。
之は一寸面白い論文です。
御論文〔一人が百人〕
一人が百人
(「栄光」一九二号)
本教信者が、一生懸命浄霊や言霊によって一人の信者を作り、ヤレヤレと思うその時は、只手を引いて門内へ入れただけのことで、中々安心は出来ない。どうしても御座敷へ案内して、家の内部の肝腎なところを見せなければ、本教の信者になったとは言えないのである。これは経験者にはよくわかっているが、これについて言いたいことは、その人が一人のしっかりした信者を作るだけの力があるとすれば、百人を作ることは敢えて難事ではない。その又百人が百人の信者を作るとしたら、鼠算式に増え、遂には驚くべき数字に上るのは勿論である。
というとそんなに巧くトントン拍子にゆくとは思えないであろうが、それは今までの宗教を標準として考えるからである。ところが我救世教は全然異う。何となればその力に於て、今日までの宗教とは比べものにならない程高度な宗教であるからである。特に本教独特の浄霊法であるが、この方法による病気治しの成果は、到底信ずることは出来ない素晴しさであるのは、一度本教に触れれば直ちに分るのである。成程今日まで信仰的病気治しの行り方は色々あるにはあるが、それは神仏の間接的御利益と自力との二つであるばかりか、神仏といえども二流以下の資格であるから、ある程度以上の力は発揮出来なかったのである。ところが本教の主催神は主神である以上、揮われる力は絶対力である。何よりもすべての宗教が病院を造っているに拘らず、本教のみは造っていないにみてわかるであろう。
しかも本教に於ては、何百何千年前に出来た教義や行り方は殆んどないばかりか、寧ろその誤りを指摘しているくらいである。というようにすべてが新しく、しかも既成宗教が科学文化に冷淡であるに反し、本教はその点に於ても大いに批判し、その欠陥を暴露し高度の文化的標準を示している。従って何や彼や本教を非難する人がありとすれば、その人は未だ本教に触れていないからである。又本教が他の追随を許さない特異性としては大言壮語と過られる程奇蹟の多いことと、そのスケールの大きな点であろう。しかもそれが着々実現しつつあり、驚異的成果を挙げている。これは宗教に関心を持つ人は無論のこと、第三者の人々も近来漸く注目を払うようになったことである。
以上の如く本教は宗教でありながら、宗教は一部であって、目下のところだけでも医術、農業、芸術を主としての素晴しい成果を挙げている。勿論いずれは他の文化面に亘っても、劃期的事業を行う予定であるが、これを一言にしていえば、誤れる地獄的文化をして真の天国的文化に置き替えるのである。このような空前の力を有つ宗教としたら、一人が百人に増えるのも敢えて不思議はないであろう。
之も一寸面白いものです。太陽に譬えたのです。
御論文〔太陽の救い〕 【註 栄光一八三号】
太陽の救い
(栄光一八三号)
現在識者とされている人達程、必ずと言いたい程新宗教とさえいえば最初から色眼鏡で見る癖がある。〝どうせ近頃の出来星宗教であるから、時世に便乗して巧い教理をデッチ上げ、愚夫愚婦を迷わせて懐を肥し、教祖様などと納まりかえっているに違いない〟と決めているので、仮令病気に罹っても医者にもかからせず、おまけに〝血の汗絞って稼いだ金まで捲き上げられて有難がっているのであるから、困った世の中だ〟位に思っているらしい。成程それが事実としたらその通りで、吾々宗教人と雖も共鳴に憚らないのは勿論である。
併しそれも満更間違ってはいないと思う。というのは新宗教中二、三を除いては感心出来ないものも相当あるからである。その例として世間よくある、大きな声で経文を読み、鐘や太鼓拍子木等を叩き、近所迷惑などお構いなしでいい気持になっているのを見ると、一種の騒音罪悪であろう。
又衆人監視の中で、大勢の信徒が変な歌を歌い乍ら、妙な手附で何の会釈もなく舞い踊っており、宛ら夢心地の陶酔境である。これを見せつけられて余りいい気持のしないのは吾々のみではあるまい。としたらこれ等も社会的に見てどうかと思うのである。そうかと思うと、信仰に熱心な余り一人よがりになってしまい、他の宗教や無信仰の人達を軽蔑するばかりか、世間並の交際さえ嫌う人も往々見受けるが、極端になると神憑りを喜び、気違い染みた人間を造る信仰さえあるので、これ等もプラスよりマイナスの方が多いと見ねばなるまい。又罪のないのもある。髪を伸ばし、異様な服装を着け、生神様然と納まり返っている自称教祖などもよくあるが、これ等は全く嫌味タップリで、よく斯んな生神様を信仰する人もあるかと思うと、世の中は広いものである。
又昔から或種の信仰には附物の難行苦行であって、寒中の水垢離、深山へ籠っての断食や滝を浴びるなど夢中になっているが、成程御当人は大満足であろうが、吾々普通人にはサッパリその了簡(?見)が分らないので、寧ろ可哀想に思う位である。以上ザットかいてみたが、要するに世間離れのした行り方を宗教本来のものと思っているこの迷信も困りものである。これ等を見るにつけ私は、宗教人であり乍ら苦行をいいとする宗教など、実に嫌なものであると思い、常に人にも言っている。以上の如く今日低級信仰が巾っているので、最初かいた如く有識者ならず共、軽侮の念を起さざるを得ないのは当然である。
処が手前味噌ではないが、我救世教は右のような信仰とは全然異っている。先ず第一常識を重んずる事、生活も行動も一般人と少しも変らない事、如何なる人とでも親和を旨とし、円満を欠かない事等をモットーとしているので、この真相が分ったなら如何なる人でも安心して、本教の信者とならないまでも接近したくなるであろう。処が右の真相を知らない為、漫然と客観して前記のような常識外れの信仰と同一視せられるので、実に迷惑である。従って本教の発展を妨害する者は無神論者でも科学迷信者でもない、寧ろ右の如き好ましからざる新宗教といってもよかろう。然も意識的妨害ではないから、反って始末が悪い位である。この事は考えるまでもなく日本独特の宗教界のあり方であろう。というのは欧米に於てはどの国も大体キリスト教一本である事と、文化の発達が日本より早いので、宗教の見方にしても比較的公平であり、合理性に富んでいるから洵にいいが、日本は仏教あり、神道あり、キリスト教あり、然もそれ等が幾派にも分かれているので、実に正邪混淆雑然としているから、その点実にやり難いのである。
だがいつもいいう如く、我救世教は宗教ではなく超宗教であって、歴史肇って以来嘗てない救いの業であるから、何も彼も異っている。何人も本教の型破り的やり方にみても分る如く在来の宗教の頭では容易に吞み込めないのも無理はないが、併し一旦分りかけたが最後、今まで求めていたものはこれだなと知り、心の底から歓喜が湧いて来るのは例外はないのである。何よりも本教の発展振りをみれば分る如く、僅か数年にしてこれ程発展した事実である。それに就いて注意したいのは、最近数年間に素晴しく発展した二、三の新宗教もあるが、それは本教とは根本的に異っている。というのはそれらの宗教は既成宗教を土台とし、その団体の多数の信者を糾合して出来たのである。それに引替え本教は一から十まで独創的である以上、この点充分認識されたいのである。
そうして前記の如き非常識極まる宗教は、言うまでもなくその根本が小乗信仰であるから窮屈で自由がない。併し自由といえば宗教とは縁遠い様に一般は思っているが、この点ヤハリ現界と同様、民主的自由主義でなければ、今後に於ける一般大衆を指導する事は出来ないであろう。これを分り易くいえば斯うである。今日までの宗教は小乗本位であるから、世界と同様各国夫々の色が異うが如く、宗教もそうなっている。従ってその説く処も自家本位で一般性がないから、救いの範囲も狭いのは当然である。然も小乗信仰は厳しい戒律があるので、それに縛られて苦しむのを行としている。これ等は神の愛を拒否する事になり、気の毒なものである。これを私は信仰地獄といっている。処が本教は反対で、殆んど戒律がないから極めて自由であり、人生を楽しむ事を神の恵みとしているから、これこそ天国的信仰といえよう。以上の如く大乗的本教には宗教、哲学、政治、経済、教育、芸術、医学等々、人間に必要なものは悉く包含されており、丁度太陽が凡ゆる色をコントロールして白一色である如く、本教は昼の宗教であり、太陽の救いである。
それからよく祈願する場合に「光明如来様」と「明主様」と両方に祈願したり御挨拶しますが、あれは「明主様」丈で良いのですから、そういった場合はそういう風にすると良いです。之は本当の事を言ってなかったから無理はないのですが、つまり光明如来様は私の代理をやっているのです。一々私が信者の処に行っていては大変ですから、それで光明如来様を私の代理として、派遣すると言っては可笑しいが、祀らせてあるのです。その積りで……。ですから普通は光明如来に御願すれば良いのです。それで場合に依っては、酷い苦しみとか危急の場合は、それは明主様に直かに御願するとそれで良いのです。私の方はつまり製造元ですから、製造元に直接言って貰うという意味と思えば一番分り易いです。
それからもう一つは、今私がやっている仕事は伊邪諾尊の仕事をしているのです。というのは古事記にありますが、〝天の御柱を廻り合う〟と言って、柱を廻り合ったのです。そうすると伊邪冊尊は右廻りをしたのです。それは右進左退です。右が進み左が退くのです。処がその為にうまくなかった。世の中が治まらなかったというので、遂々伊邪冊尊様は、つまり夫神に助けを求められたのです。そこで伊邪諾尊様が「そうらみろ、オレが最初右廻りではいかんと言うのを、お前があんまり言うからオレは許したのだが、やっぱり左廻りでなければいけないのだ。それでは之からオレがやってやろう」と、左廻りをしたのです。やっぱり霊主体従です。つまり医学が機械や何かで治すというのは右進左退です。それで浄霊で治すというのは左進右退ですから、伊邪諾尊様のやり方です。それで伊邪諾尊が主神の代表神です。ですから非常に力が強いのです。それで此間多賀さんの奥さんに伊邪冊尊様が憑って〝自分は非常に間違っていた。だから之から大いにお手伝いする〟という様な事を言われました。
それから今世の中では天照大御神が一番尊い神様としてありますが、天照大御神様が此間出られて私の事を〝主神様〟と言ってましたが、「主神様が愈々お出になって御慶び申し上げたい」と言って「これから精々御守護を御願したい」という事を言われてましたが、之は本当の事です。之は神代史にある通り、天照大御神様は伊邪諾、伊邪冊尊から生まれたとなってます。ですからつまり天照大御神は私の子になるわけです。つまり長女です。それから其次に生まれたのが素盞鳴尊です。素盞鳴尊という神様は、私の本にも書いてありますが、物質文化つまりユダヤの祖先になるという事にもなってますが、本当はそうではないのです。そう言っても良いのですが、兎に角イスラエルの民族というものは素盞鳴尊の子孫ですが、それがユダヤになるのです。そこで今日の物質文化というものはユダヤ文化です。要するに素盞鳴尊が造られたものです。そこでつまりキリストは素盞鳴尊の子孫です。だからキリストは伊邪諾尊より生まれた神を祖先として、その後に生まれたのがキリストですから、私の弟子がキリストと同じ位の奇蹟が出来るというのは当然なのです。そういう事も細かく話すると中々面白いのですが、段々書く積りです。
之は一寸面白い論文ですから読ませてみます。
御論文〔活字の浄霊〕 【註 栄光一八四号】
活字の浄霊
(栄光一八四号)
この題を見たら一寸見当が附くまいが、左に説く処を読んでみれば、成程と合点がゆくであろう。それは、私の書いた文章を読む事によって、目から浄霊を受けるのである。では、どういう訳かと言うと、総ては文章を通じて、書く人の想念がその侭映るものであるからで、この点充分知らねばならないのである。これを霊的にみれば、つまり書く人の霊が活字を通して、読む人の霊に通ずるので、この意味に於て、私が書く文章は、神意その侭であるから、その人の霊は浄まるのである。
このように、読書というものは、読者の魂を善くも悪くもするものであるから、作家の人格が如何に大きな影響を及ぼすかは勿論である。従って、仮令小説のようなものでも、新聞記事でも同様で、この点作家もジャーナリストも大いに考えて貰いたいのである。と言っても、固苦しい御説教がよいというわけではない。勿論興味津々たるものでなくては、好んで読まれないから、役に立たないわけで、面白くて読まずにいられないというような、魅力が肝腎であるのは言うまでもない。
所が近頃の文学などをみても、売らん哉主義のものが殆んどで、単なる興味本位で、評判になり、本も売れ、映画にもなるというような点のみ狙っているとしか思われないものが多く、読み終って何にも残らないという、活字の羅列にすぎないのである。こういう作者は、小説家ではない、小説屋だ。人間で言えば骨のないようなもので、一時は評判になっても、いつかは消えてしまうのは、誰も知る通りである。
そうして現在の社会を通観する時、社会的欠陥の多い事は驚く位であるから、その欠陥をテーマの基本にすれば、取材はいくらでもある。私は映画が好きでよく見るが、偶々そういう映画に出合った時、興味津々たると共に、何かしら知己を得たような気がして嬉しいので、その作者やプロデューサーに頭を下げたくなるのである。然も、そういう作は必ず評判になって、世間からも認められ、本屋や映画会社も儲かるから、一挙両得である。以上思いついたまま書いてみたのである。
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