十二月二十五日

 新聞でも見られたでしょうが、裁判の判決はああいう工合でしたが、実に不思議なものだと思いました。この問題を信仰的に話をしてみると、これは又大変な違いがあります。それは、まるっきり罪がないとは言えないでしょうが、とに角それを材料にしてデッチあげられたわけです。

 昨日私が帰る時に新聞記者が御感想は如何ですと言うから、私は、今日はてっきり無罪だと思ってきたのに驚いたと言ったのです。私は結局無罪だと思った。しかしほとんど極刑に近いほどに重くしたのです。それは何と言っていいかお話になりません。では、神様が付いていながらどういう訳でそういう様な結果になったかという事を思うでしょうが、それはちゃんと神様のお知らせがあったのです。というのは霊界では私を恨んでいるというか、私と救世教全体ですが、恨んでいるのが大変にあるのです。その一番多いのはインテリです。ジャーナリスト方面です。〝岡田という奴は実にうまくやってやがる。終戦後の人心混乱を利用して、うまい教義とかをいろいろ作って、生神様然と構えて、多くの信者を瞞してうんと金を巻き上げて、立派な美術館を造ったりして実に太い奴だ。それから王侯に等しき生活をしてシャクに障る〟と思っている人間が大変なのです。それはみんなには分らないでしょうが。それから宗教です。既成宗教も新宗教もありますが、〝自分の方の信者が何時の間にか救世教の信者になってしまった、どうもひどい。それは向うの方が、それくらいなおったり理窟に合ったり、うまくやっているから仕方がないが、とに角(くや)しい〟というそういう恨みは沢山あるのです。それからお医者なども〝長年のお得意がこの頃さっぱり御用無しになった。酷い目に遭わせる奴だ〟という様な恨みもあります。そういう様にまだいろいろありましょうが、恨み、ねたみ、ヤッカミ、そういう霊は大変なものです。ですからそういう時に、仮に無罪になったとして〝それみた事か〟という様にしたら、そういった恨みの想念はいやが上にも高まってくる。そうするとこれが大変な邪魔になるのです。そこで〝とうとうあんな酷い判決をされた。まあわれわれも溜飲が下った〟というわけで、いろんな悪い想念が余程緩和されるわけです。ですからそういう様に考えると、そういう恨んだ人が余程いい気持になるだろうと思って、私も非常に気持がいいのです。これは負け惜しみでもなんでもありません。本当にそうです。それも長い間になったのならそうでもないが、急激に発展したので、そういった想念がくるのです。そこで神様は、前の脱税問題とか今度の事件とかいろいろありますが、あれはそういう恨みを調節するためにやられたわけです。ですから無罪になるよりか、こういう様になった方が余計発展するのです。何故かと言うと、無罪になるとそういう恨みの想念がいやが上にも高まりますから、その霊的の妨害というものは大変なものです。ところがこういった酷い結果になるとそういう霊がそこでずっと緩和されるから、妨害がそれだけ無くなるので、かえって発展するのです。今のが霊的の話でこれが本当なのです。それで神様から言うと、罪をよくする悪くするのは何でもないのです。一寸一ひねりすれば何でもありません。ところがそうしては今言ったとおりいけないから、今度は裁判官に神様がかかってやらせたのです。だから今度の裁判官というのは全然神憑りです。私は判決をよく見ましたが、こんな様な事はありません。それで揃いも揃って全部執行猶予です。これは検事連中も憤慨しているそうです。一人か二人は執行猶予でなく実刑の人間が無くてはならないのです。あの中で検事から随分酷い論告をされた者があります。そういうのは執行猶予などない筈ですが、その罪というのは作ったもので本当の根拠がないから、こういう様にしなければならないという様に考えられるのです。それで検事の論告にもありますが、私はあの事件に全部関係しているのです。〝岡田と誰が共謀してやった〟となっていますが、なんでも共謀なのです。建築問題が一寸起った時に金久平が来たから〝君いい様にして呉れ〟と、私は簡単に言ったのです。それが〝岡田の金が共謀の上でやった〟となんでも共謀なのです。そういう様な工合で今度の凡ての問題に対して、みんな私は共謀した事になっている。宗教でいろんな事業をするのは、みんな共謀でやると思っているのです。始終悪人を扱っているから、犯罪者は共謀するのが多いから、宗教でもそうだと思っているのです。

 それで恨みという事について、これは前に書いた事がありますが、昔から成金が没落するとか非常に出世した者が没落するとか、英雄が失敗する、という様な事はそういった想念がほとんど根本です。そこで割合に長く続いたのは徳川家康です。家康は逃げ逃げ天下を取ったという事になってますが、あれが大きな戦で敵に大打撃を与えたりすると、その恨みで結局没落になりますから、逃げてやるのです。結局負けるが勝ちです。家康の訓言に「堪忍の袋を常に首にかけ、破れたら縫え破れたら縫え」というのがありますが、あの人はそのくらい堪え忍んだのです。というのは戦に負けたり、人に言われたりするのを散散我慢して天下を取ったから、という意味でしょう。それから日本でもそうですが、この間の戦争のためにいろいろな恨みを受けましたが、特に朝鮮人は、今共産主義運動でも非常に悪質で、日本人を非常に恨みとしている様な酷い事をしてますが、あれも以前朝鮮を併合とか、力をもって略奪したから、その恨みというのが大変で、それが今日現われている。大震災の時も朝鮮人がああしたこうしたという事も、やはり人に恨みを受ける様な事をしているからです。伊藤博文がああなったのもそういう事です。

 それから大正天皇がああいう事になったのも、日清日露戦争で日本に殺されたいろんな沢山の霊がかたまってああいう事になったのです。だから人に恨みを受けるという事が一番悪いのです。これは数えあげたら幾らでもあります。そこでそういう様に考えてくると、ソ連の未来という事も分るわけです。どういう様な形になって出るか分らないが、とに角国家の恨みというのは、これは又人数が多いですから、大変な事になります。それと反対に多くの人から感謝されるとか、又一人の人からでも感謝されるという事は、如何に幸福の(もと)になるかという事も、信者の人はよく知ってますが、今言った様にあらゆる面に対して、体的の解釈と霊的の解釈と両方しなければならない。そこで神様がやられる事はそういう様に凡て深いのです。だから私は〝シャクに障る、けしからん〟という憤慨が起ると共に、神様が裁判官をみんなやっているのだから、それによってこっちにくる恨みが緩和されるのだから大変有難い。だからそういう連中はさぞ溜飲を下げているだろう、いい気持になっているだろうと思うと、私もやっぱりいい気持になるのです。だからそういう判決を受けて、普通なら憂鬱にならなければならないが、私は一面又愉快になります。そういう様に物事は二様に考えるのです。その又根本は神様ですから、憤慨したり怒ったりする事も非常に減って大変得です。仕合わせです。こういう問題についても、そういう一つの教訓を含んでいるのです。

 それから話は違うが、浄霊の時には指を附けた方が効果があります。というのは、こうすると(指をつける)霊がまとまっていきます。開けると間が隙きますから、くっつけた方がいいのです。それから場所によっては、指だけで(掌でなく)浄霊する時に効果がありますから、指を開けないでくっつける様にすると、ずっと効果があります。

 

 

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