一月六日

 今度秩父宮様がお亡くなりになった事で、私は思い出したのは、あの方に二度か三度頼まれた事があるのです。無論私は快諾して、話はかなり進んだところまでいきましたが、それっきり音沙汰がなくなったのです。そういう事がよくあるのです。かなり話が進んでもこわれてしまうのです。大抵はお医者に相談するのですが、医者に相談したら賛成する気づかいはありませんから、それでこわれたのです。それからこれは終戦前ですが、履歴を調査するのです。私は以前久弥宮様の妃殿下に頼まれて、何日に行くというところまで話は決まっていたがこわれてしまったのでよく聞いてみると、警視庁で身元を調べたところが、元大本教信者だというので、あの時分には大本教は不敬問題でひっかかった時代ですから、一も二もなく駄目になったのです。そういう事がよくあったのです。秩父宮様には終戦後も頼まれたのですが、これは不敬問題でなく、新宗教というもので病気などなおるものかというわけで、それを止める方法がてんで勝ってしまうのです。まだ五十才ですから、お年から言えばまだまだお若いのですから、非常に残念な様な気がします。病気というのは、結核でしばらく養生されていたのですが、その間に薬をのんでますから、その薬がだんだん胃の下の方に溜ったのです。ですから最初は膵臓が悪かったのです。それで膵臓の付近に薬毒が固まると糖尿病を起しますから、無論糖尿病も起っていたでしょう。それも或る程度溜って来ると、今度は右の方に溜って来る。だから今度の主因は肝臓による黄疸という事になってますが、ここに溜って肝臓を圧迫して胆嚢を圧迫して黄疸が起ったのです。ですからこれは全く薬毒病です。それはみんな薬毒病ですが、これは新しくこしらえた薬毒病です。要するに善意の殺人です。まあ、やられてしまったわけです。はっきり言うと実に恐ろしい様な話ですが、言わなければ分らないから言うのです。私は昔、医学というものは〝病気製造法だ、官許の殺人だ〟という事を論文に書いた事がありますが、それはあんまり正直すぎますから出さなかったのです。正直はいいと言っても、あんまり正直ではかえって問題でも起すといけないからよしましたが、考えてみると実に大変な世の中です。宮様でも、最初から何もしないで打擲らかしておけば、まだピンピンしてます。それで今までいろいろと本を書きましたが、医学について本当に書いた本はなかったのです。それで今度の「アメリカを救う」という本も、ごく簡単に書いてあるのです。予定になっているのは「結核信仰療法」ですが、これもいずれ出版しますが、なんとしても医学を本当に徹底して、少しも衣をきさせないで赤裸々に書かなければならないのです。なにしろ今までとは反対の説ですからして、よほど徹底しなければ理解できませんから、どうしても分らなければならないという様に書いた本を、今書き始めたのです。その序文とその次のが出来ましたから、それを今読ませます。

 御論文 医学革命の書〔序文〕

序文

(『医学革命の書』より)

 (およ)そ人間としての最大欲求は、何といっても健康と長寿であろう。他の(あら)ゆる条件が具備しても(これ)が得られないとしたら、何等(なんら)意味をなさないのは今更(いまさら)言う(まで)もない。従って人間生の執着(ほど)強いものはなく、(この)執着から離れられないのが人間の特性である。といってもそれを免れる事の不可能なるが為、今日迄(こんにちまで)(あきら)めていたに過ぎないのであって、(もし)(この)解決可能な方法が発見されたとしたら、(これ)こそ人類にとっての最大福音であり、大問題である。(ところ)が喜ぶべし、その欲求は完全に達せられたのである。即ち(すべ)ての病気は(いや)され、天寿を全うし得るという実に驚くべき新医術が、私によって創造された事であって、(この)医術が(あまね)く世界に知れ渡るに(おい)ては、既成(きせい)医学は当然革命されなければならないと共に、人類の理想たる病なき世界は(ここ)に実現するのである。そうして()ず現在に到る(まで)の医学の歴史からかいてみるが、抑々(そもそも)今日の医学なるものは、知らるる如く西暦紀元前、彼の有名な医聖ヒポクラテスによって創められ、その後欧羅巴(ヨーロッパ)(おい)ては医療以外、信仰、星占、霊療法等様々な治病法が現われ、東洋に(おい)ては古代から神儒仏の信仰による(いや)しの業をはじめ、(えき)(せん)(きん)(えん)等の外、支那(しな)漢時代に到って漢方医術が生まれ、支那全土は(もと)より、特に(さか)んに採入れられたのが我日本である。西洋医学渡来前までは、今日の西洋医学の如く漢方が一般に普及された事は衆知の通りである。

 (ところ)が十八世紀後半に到って、俄然擡頭(たいとう)したのが科学である。(これ)が素晴しい勢を以て欧羅巴(ヨーロッパ)全土は(もと)より、世界各地に拡がり、(つい)に今日の如き科学万能時代が現出したのである。それというのも(あら)ゆるものが科学によって解決され、それ(まで)不可能とされていた(あら)ゆるものが可能となる等々、(つい)絢爛(けんらん)たる近代文明が確立されたのである。従って(この)恩恵に浴した人類は、科学を以て無上のものと信じ、科学ならでは何事も解決出来ないとする一種の信仰的観念にまでなったのである。特に医学を以て科学中の最も重要な部門として扱われた結果、人間生命の鍵をも握って(しま)った事は、恰度(ちょうど)宗教信者が神に対する尊信帰依と同様で、他を(かえ)りみる事さえ異端視せられるというようになり、世は滔々(とうとう)として科学信仰時代となったのは知る通りである。

 (これ)によって医学は客観的には驚くべき進歩発達を遂げ、人類の福祉は一歩一歩増進されるかに見えるが、一度(ひとたび)冷静な眼を以てその内容を検討する時、(これ)(また)意外にも進歩(どころ)か、反って逆コースの道を盲目的に進んでいる有様であって、その(めい)(もう)なるいうべき言葉はないのである。何よりも事実がよく示している。それは病気の種類は年々増え、罹病率(りびょうりつ)も減る(どころ)か、益々増える一方である。その結果人間は常時病の不安に(おび)え、寿齢にしても一般人は六、七十歳が精々(せいぜい)で、それ以上は不可能とされている。上代の文献にある如き、百歳以上などは昔の夢でしかない事になって(しま)った。勿論(もちろん)百歳以下で死ぬのは(ことごと)く病の為であるから、言わば不自然死であるに反し、自然死なら百歳以上生きられるのが当然である。というように人間の健康は極めて低下したにも(かか)わらず、それに気付かず、(つい)に病と寿命のみは宿命的のものとして(あきら)めて(しま)ったのである。(しか)もそれに拍車をかけたのが彼の宗教であって、それは()う説いている。即ち死は不可抗力のものであるから、その(あきら)めが真の悟りとして(おし)えたのである。彼の釈尊(しゃくそん)が唱えた生病(しょうびょう)老死(ろうし)の四苦の中に病を入れた事によってみても分るであろう。

 そのような訳で現在の人類は、病の解決は医学の進歩による以外あり得ないとし、万一医療で治らない場合、止むなき運命と片付けて(しま)う程に信頼しきったのである。(ところ)(これ)こそ驚くべき(めい)(もう)である事を、私は神示によって知り得たのである。というのは医療は病を治すものではなく、反って病を作り悪化させ、(つい)に死にまで導くという到底信じられない程のマイナス的存在であるという事と(あわ)せて、(あら)ゆる病を治す力をも与えられたのであるから、(これ)によって(あまね)く人類を救えとの神の大命であって、今日(まで)不可能と(あきら)めていた夢が、現実となって(この)地上に現われたのである。現在私の弟子が日々何十万に上る病者を治しつつある事実によってみても、何等(なんら)疑う(ところ)はあるまい。万一疑念のある人は、遠慮なく来って検討されん事である。

 以上の如く(この)驚異的新医術の出現こそ、今日(まで)の如何なる発明発見と(いえど)比肩(ひけん)する事は不可能であろう。何しろ人類から病を無くし生命の延長も可能になったとしたら、彼のキリストの予言された天国の福音でなくて何であろう。(これ)が世界に知れ渡るに(おい)ては、一大センセーションを捲き起し、世界は百八十度の転換となるのは火を()るよりも明かである。最近の大発見として世界に衝撃を与えた彼の原子科学にしても、(これ)に比べたら問題にはなるまい。私は叫ぶ、最早(もはや)人類最大の悩みである病は(ここ)に完全に解決されたのである。故に(この)著を読んで信じ得られる人は天国の門に入ったのであり、(これ)を信ぜず躊躇(ちゅうちょ)逡巡(しゅんじゅん)、何だ()んだといって見過す人は、折角(せっかく)天の与えた幸福のチャンスを自ら逃して(しま)い、何れは(ほぞ)を噛む時の来るのは、断言して(はばか)らないのである。

 御論文 医学革命の書〔二、医学は迷信なり〕

医学は迷信なり(現代医学論)

(『医学革命の書』)


現代医学論

 この著を編纂へんさんするに当って、私は非常な決心をした。というのは医学なるものの実体を、ありのまま発表するとしたら、何人も驚嘆せずには居れないからである。これ程進歩したと思い、世界万民が謳歌おうかし、信頼している現代医学に対し、私は真向まっこうから鉄槌てっついを下すのであるから、人類救済の為とは言いながら、まことに忍び難いものがある。しかながら神は万人の生命を救うべく、私をしてその大任に当らせた以上、私といえども絶対者の命に従わざるを得ないと共に、現在病魔の為に地獄の苦しみに呻吟しんぎんしつつある人類社会を見る時、その原因が医学の誤謬ごびゅうにある以上、到底とうてい晏如あんじょたるを得ないのである。ゆえし現在のままのめいもうを続けるとしたら、人類の将来は果して如何いかになりゆくや、思うさえ慄然りつぜんとするのである。

 そうしてこれをかくに当っては、先ずその根本から明らかにせねばならないが、それにはず現代人の科学至上しじょう観念である。序論にもある通り科学さえ進歩させれば、何事も解決されるとする科学過信の思想であって、その為事実よりも学理の方を重視し、如何なる発見創造といえども、既成きせい学理に合わない限り拒否して取上げないとする偏見であって、これが文化的と思っているのであるから困ったものであるが、むしろ之こそ文化の反逆でしかない。何となれば文化の進歩とは、定型的学理を打破し得る程の価値あるものが発見されたとしたら、躊躇ちゅうちょなくそれを取上げる、ここに文化の進歩があるのである。ところがそれを頭から否認するという丁髷ちょんまげ思想であって、この代表ともいうべきものが現代医学であるから、偏見を通り越して科学にはないはずの新しい封建である。という訳でこの著を読んでも、余りの意想外な説に容易に信ずる事は出来まいと思うが、しかし事実が何よりの証拠である。それは今日の如く医学が進歩したにかかわらず、至る所病人の氾濫はんらんである。ヤレ病院が足りない、ベッドが足りないとの悲鳴は常に聞くところで、現代人残らずといいたい程何等なんらかの病気をっており、真の健康者はほとんど皆無といってもよかろう。これにみても分る如く、し現代医学が真の進歩であるとしたら、病気の種類も病人の数も年々減ってゆき、病院は閉鎖の止むなきに至り、医事関係者のことごとくは失業者とならねばならないはずであるにもかかわらず事実はその反対であるとしたら、ここに疑問が生ずべきだが、一向そういう気振けぶりはみえないところか、益々迷路を驀進ばくしんしている有様で、その危うさは到底とうてい観ては居れないのである。従って私はこれから徹底的に説くと共に、事実の裏付をも添えてある以上、如何なる人でもほんぜんとして目覚めない訳にはゆかないであろう。

 そうして現代人の病気を恐れるのはなはだしく、一度病にかかるや早速医師の診療を受ける。ところこれまた意想外であって、治るようにみえてもそれはある期間だけの事で、根治とはならない。そのほとんどは慢性か再発かのどちらかである。これを常に見る医師は気が付きそうなものだが、そうでないのはこれも迷信の為である。そこで見込通り治らない場合、仕方なしに他の医師に助勢を頼むか、他の病院へ行けと勧める。勿論入院すれば多くは手術を伴うから臓器は除去され、その病気は起らないとしても、必ず他の病気に転化するのは医師も常に経験するところであろう。右は最も普通の経過であるが、中には医師に確信がないまま入院や手術を勧めるので言う通りにするが、確信があってさえ治る事は滅多にないのに、確信がないとしたら駄目に決っている。その結果患者の方から金を出して、モルモットと同様研究材料にされる事も屢々しばしばあるが、殆んどは泣寝入りである。

 ところが手術も受け、あらゆる医療を続けつつも治らないのみか、益々悪化し、金はつかい果し、二進も三進もゆかなくなり、果ては自殺を図る者さえ往々あるのは、よく新聞に出ているが、そこ迄ゆかないまでも病気が原因となって、色々ないまわしい問題を惹起じゃっきするのは衆知の通りである。今日あらゆる悲劇の原因を調べてみれば、そこに必ず病ありで、昔から犯罪の陰に女ありを、私は悲劇の陰に病ありと言いたい位である。それに引換え我浄霊医術によれば、如何なる重難症でも短期間に、しかわずかの費用で快癒かいゆするので、これを医療と比べたら雲泥の相違であるのは、全く真理に叶っているからである。ここおいて如何なる無神論者といえども、今迄の不明を覚り早速入信、文字通りの安心立命を得るのである。

 次に知らねばならない事は、一体人間なるものは何が為に生まれ、誰が造ったかという事である。これこそ昔から誰もが最も知りたいと思っている問題であろう。勿論もちろん人間なるものは科学者が作ったものでもなく、造物主即ち神が造ったものに違いないのは、極端な唯物主義者でない限り、否定する者はあるまい。というのは人間は神のおん目的たる理想世界を造るべく生まれたものであるから、生きている限り健康で活動出来るのが本来である。しかるに何ぞや、病気にかかるという事は異変であって、其処そこに何等か真理に外れている点があるからで、この点に気付き是正ぜせいすれば治るのが当然である。ところこれに盲目なるが為、全然無関係である科学に持ってゆくので、治らないのが必然であって、肝腎な造り主を忘れているからである。

 そうして今日迄こんにちまでの病理は、大体左の如くである。即ち漢方医学においては、五臓の疲れまたは不調和の為であるとし、西洋医学においては黴菌ばいきん感染によるとしている。このどちらもまこと浅薄せんぱく極まるものであって、いささかも根本に触れていない迷論である。しかも後者は機械的ではあるが、科学的ではないといったら何人も驚くであろうが、それは事実が語っている。今日医師は患者からかれた場合、病理も病原も見込も、科学的に説明が出来ないのは医師も認めているであろう。つまり病気の真因が分っていないからである。そうして医学にける誤謬ごびゅうの根本は、何といっても病気苦痛の解釈である。即ち医学は苦痛そのものを以て人体を毀損きそんし、健康を破り、生命を脅すものとしており、苦痛さえれば病は治るものと解している。この考え方こそ大変な誤謬ごびゅうであって、今それを詳しくかいてみよう。

 抑々そもそも病の真の原因とは、体内にあってはならない毒素が溜り固結し、それが或程度を越ゆるや、生理的に自然排除作用が起る。これを吾々の方では浄化作用というが、浄化作用には苦痛が伴うので、この苦痛を称して病気というのである。故に病気とは体内清浄作用の過程であるから、之によって人体は浄血され、健康は維持されるのであるから、病こそ実は唯一の健康作用で、大いに歓迎すべきもので、これが真理である以上、この著を読めば必ず納得されるはずである。ところが何時の頃どう間違えたものか、これを逆に解釈して出来たのが医学であるから、この逆理医学が如何に進歩したとて有害無益以外の何物でもないのである。

 右の如く医学は病気即苦痛と思う結果、苦痛解消には浄化停止より外にないので、この考え方によって進歩発達したのが現在の医療である。そうして浄化作用なるものは、人間が健康であればある程起るのが原則であるから、これを停止するには健康を弱める事である。そこで弱らす手段として考え出したのが毒をませる事で、それが薬であるから、薬とは勿論もちろんことごとく毒である。即ち毒を以て浄化を停止し溶けかかった毒素を元通り固めるので、固まっただけは苦痛が減るからそれを治ると錯覚したのであるから、世にこれ程の無智はあるまい。従って医療とは単なる苦痛緩和法であって、決して治すものではなくむしろ治さない方法である。故に医師も治るとは言わない、固めるというにみても明らかである。

 右の理によって病を本当に治すとしたら、溶けかかった毒素をより溶けるようにし、排除をすみやかならしめ、無毒にする事であって、これが真の医術である。これなら再発のうれいもびょうの心配もなくなり、真の健康体となるのである。ところが一層厄介な事は、右の如く毒素排除を止める為の薬が毒素化し、これが病原となるので、つまり病を追加する訳である。この証拠として医療を受けながら、余病といって病が増えるのが何よりの証拠である。本来なら治療をすればする程病気の数は減るはずではないか。それがアベコベとしたら、これ程理屈に合わない話はあるまい。知らぬ事とは言いながら、医学は如何にめいもうであるかが分るであろう。

 以上の如き逆理によって、毒の強い程薬は効く訳で、むと中毒するぐらいの薬なら一層効くから、近来の如く注射流行となったのである。又近来続出の新薬も同様、中毒を起さない程度に毒を強めたもので、彼の有名な漢方医(蘭方医?)の泰斗たいと杉田すぎた玄白げんぱく先生は「病に薬を用いるのは、毒を以て毒を制するのだ」とったのはけだし至言である。従って熱、咳嗽せきたん、鼻汁、汗、下痢、熱尿、各種の出血等、ことごとくは排毒作用であり腫物はれもの、湿疹、きず火傷やけど後の化膿等も同様であるから実に結構なものである。故に何病でも何等手当もせず、放っておくだけで順調に浄化作用が行われ、速かにしかも確実に治るのである。

 

 かなり徹底して書いたつもりですが、まだもっと突込んで、本当に分らないわけにはいかないという様に書くつもりです。そうして附録として、御蔭話に批評を付けたのがありあますが、それが大分たまって七、八十出来ましたから、百にしてそれを附録にするつもりです。これは医学革命の書と言うのですから、結局において医学をどうしても革命しなければならないのです。それで結局これが根本です。どんな救いでもまず病気というものを無くすという事を前提とすれば、あとは楽なものです。むしろあとは自然でもよくなってしまうのです。ですから病気という事について、一番分らせる方法をこれからやるのです。病気というものはあらゆる悩みの根本です。ところがそれに対する医学の間違いの根本は薬なのですから、結局薬を無くする事です。ところが今の世の中では薬を盛んに宣伝したりしてます。アメリカなどは特に大わらわになってます。そういう点もありますから、今度の「アメリカを救う」の本は、本元に原子爆弾を投げ付けるというわけです。それで人間の不幸、不仕合せというものの原因は何かと言うと、薬なのです。ですから薬が無くなれば人間は幸福になります。幸福になれば世界はよくなるからミロクの世になるのです。ですから薬をなくすればミロクの世は出来ると思えば間違いありません。それほど薬というものは恐ろしいものです。それについて霊的に書いてみました。

 御論文〔薬が不幸を作る〕   【註 地上天国四十四号】

薬が不幸を作る

(地上天国四十四号)

 薬については今まであらゆる角度から検討して来たが、薬と不幸の関係については、まだ余り詳しくかかないような気がするから、ここにかいてみるのである。そもそも人間の幸不幸の原因はどこにあるかというともちろん霊界にあるので、この事が充分判らなければならない。では霊界なるものの組織をかいてみるが、そもそも霊界は百八十段階の層になっており、これがまた上中下六十段ずつに分けられている。もちろん下段は地獄界、中段は中有界、上段は天国界となっており、右の六十段がまた上中下二十段ずつに分れており、そのまた二十段中でも上中下があるのである。という訳で単に地獄といっても、下段に行く程最も苦悩がはなはだしくなるのはもちろんで、最低地獄に至っては難病、飢餓、闘争等が極度になっている世界である。これを神道では根底の国といい、仏教では暗黒無明、極寒地獄といい、ダンテは煉獄といっている。しかしこれが漸次上段に昇るに従い段々緩和され、中有界に至って始めて普通の社会状態になる。つまりここは苦も中くらい、楽も中くらいというその名称通りである。ところがそこを上方に突破するや、ここに天国界に入るのであって、こここそ仏語にある極楽浄土であるから、病なく貧なく、飲食(おんじき)豊かに和気藹々(あいあい)とした幸福に充ちた世界である。

 右のごとくであって、一般人の大部分は中有界に籍が置かれているのである。ところがそこは決して安心は出来ない、というのはその人の心と行い次第で上にも下にも行けるからである。だが多くは下に落ちるので現界もその通りである。以上現界と霊界との関係をザットかいたのであるが、いつもいうごとく万有の法則は霊主体従で、人間といえどもそうである以上、霊界における霊の地位いかんによって幸不幸が決まるのである。これが真理であるから、この事を知ってよく守りさえすれば、幸福者になるのも敢て難しい事ではない。という訳で現在いかに幸福と自分も思い、人に思われても霊界において天国に籍がなければ、その幸福は一時的で早晩在籍通りの地位に転落すると同様、現在いかに不幸であっても、その人が正しい信仰によって徳を施し、人を救うというように善事を行えば相応の地位に向上し、幸福者となるのである。

 そうしてこの根本原因であるが、それは霊が下段に堕ちるのは霊に曇りが溜り、霊が重くなるからである。従って曇りが減る程軽くなり上昇するから、それに伴って幸福も増すのである。つまり人間の幸不幸は霊の曇りの多少によるのであるから、この原理を知っただけで、その人は最早幸福者の仲間に入った事になるのである。これこそ霊界における千古不滅(せんこふめつ)の鉄則であるから信ずる外はない。

 では曇りとは何かというと、昔から宗教では罪穢としているが、これは誰も知っているから説明の要はないが、それは表面だけの事であって、その奥の深いところに大きな原因があるのでこれが曇りの本元である。それは何かというと、これこそ世人が最も結構なものとして、昔から現在までも旺んに使用している彼の薬剤である。といったら何人も仰天するであろうが、私は神示によって知り得たのであるから、絶対信じて貰いたい。すなわち薬を体内に入れればその毒によって血液が濁る。血液が濁れば霊体一致の法則によって霊が曇るのである。ゆえに薬程恐るべきものはないのである。つまり薬で霊を曇らし、重くなって、霊界における地位が段々下降し地獄界に堕ちる。そこで相応の理によって醜悪な行いをする人間が増える結果、病貧争氾濫の苦の娑婆となったのである。

 以上のごとく人間を不幸にする根本こそ薬剤であるとしたら、平和幸福の世界たらしむるには、何よりもまず世の中から薬剤を廃止する事で、ここに根本を開示して警告するのである。

 だから何事もうまくいかない、()が悪い、という事は凡てその人の霊が下にあるからです。つまり霊界の下段にあるのです。その下段というのは薬のための曇りですから、つまり薬が体から無くなるだけいいと思っていればいいのです。ですから今の人間で運のいい人はないという事は、みんな体に薬毒があるからです。理窟は簡単なものです。ところが薬とはいい物とされているから、信じにくいのです。ですから浄霊というのは薬をとる事です。薬が地獄をつくっているのですから、薬をとれば天国になるのです。薬というものはそれほど重要な役目をしているのです。重要な役目と言っても悪い意味の役目です。ではどうして人間はそういう物をのんだかと言うと、それは今私は「文明の創造」の本に書いてますが、人間に苦痛を与えて、その苦痛から脱却しようとするそれが物質文化の進歩になっているのです。それは神様が物質文化を進歩させるためにとった手段であったので、仕方がないのです。それで旧約聖書にある〝エデンの園におけるアダムとイブが禁断の木の実を食べ始めた〟という事は、禁断の木の実というのは薬の事です。それまでは薬は人間にははいってなかったのです。エデンの園みたいなものだったのです。しかしそれでは物質文化を発達させる事はできないので、禁断の木の実を食べさせて体を弱くして、それによって物質文化が発達したのです。それで今度は物質文化が発達したエデンの園が出来るのです。大ざっぱに言うとそういうわけです。その根本を知ると大体分ります。それで近頃日本人は寿命がのびて、平均男も女も六十才以上になってます。ところがそれは、あんまり縮めすぎたから少し戻ったくらいなもので、大体人間は百才以上に神様が造ってあるのです。さっき読んだ様に、壊れ物扱いにしているというのはとんでもない話で、みんな人間が薬をのんで体を弱らしていたのです。ですから薬の気がぬければ百才以上はなんでもありません。私は近頃世界美術全集という本のヨーロッパの中世期以後の油絵をみてますが、裸体の女は実に肉付きがいいのです。その時分には、今と違って純写生ですから、写真を彩色で画いた様な絵ですが、肉付きといい、色といい、艶といい、実にいいのです。ところが私はもの好きですから、今のアメリカとフランスのヌード写真もあるのでそれを見ると、裸体の女というのは、まるでガンガラで(ほね)(ほね)しく、男と同じというよりか男よりももっと酷いのです。それを見ても、ヨーロッパの女は昔とまるっきり違っているのです。実に汚たなくて、見ても何も反響が起らないのです。それから見ると日本の女の裸体の方がずっと魅力があります。魅力というと変になってしまいますが…。それは何故かというとやはり薬毒のためです。ですから日本の女の人も、若いのに年寄に見えたり、顔色が非常に悪かったり、なんだかしなびた様な、又いやに豚みたいに太っている、という様なのは、みんな薬毒のためなのです。ですから女でも、薬毒が抜けると実に美しくなるのです。救世教信者になった女の人はだんだん綺麗になってきます。ですから薬毒というものは如何に恐ろしいものかという事が分ります。そのために女の顔なども、つまりごまかし手段が発達して来て、それが化粧品の発達です。化粧品というものは、顔色の悪い者に頬紅を付けたり、色も変な色なので口紅を付けるとか、そういうごまかし手段が発達して来たのです。ですから私の昔の歌に「人工美が銀座の町を通っている」というのが「山と水」にありましたが、今の女の人は、人工美でどうやら綺麗に見えるのです。私は昔の平安朝時代の女は本当に綺麗だったろうと思います。小野小町などはどんなに美しかったかと想像されます。薬毒がなかったのですから……。そういう事によって若い女の人で信者になる人がずっと増えるだろうと思います。それは女というのは命よりも綺麗に見せるという方が、かえってそういう意欲の方が多いですから……。男でもそうです。いやに土気色をしているのはみんな薬毒のためです。人間は薬毒がとれると実に気持のいい晴れ晴れとした色になります。

 今読んだとおり、霊が曇ると罪悪を犯す事になります。ところが今の宗教は罪を犯してはいかんという事だけやかましく言って、では罪を犯す気持になるというのはどういう訳かという事は言えないのです。ところが罪の構成ですが、罪を犯そうとする気持は悪ですから、悪の発生というのは霊が曇って、つまり魂が汚ごれるからです。悪い事をする気持になるという事は、副守護神の活動が強くなるから、それで副守護神の意志のままに悪い事をする。それを押さえるだけの魂の力がないからそういう事になるのです。以前私が浄霊している時に、狐が出てこういう事を言ってました。「これほど医者にかからして、やっと死ぬまでにしたのに、貴様横から出て余計な事をして、とうとうオレの目的を邪魔して、ふとい奴だ」と言うのです。どっちが太い奴か分らないが……。ですから、医者にかからせ、薬をのませるという事は、副守護神がやっているという事がよく分ります。そこで薬をのむから霊が曇る。曇ると奴さんが働きよくなり、その人間を自由にあやつる事が非常にやりよくなるのです。ですから医者にかかったり薬をのむという事は、そういう先生が大いにそう思わせるのです。ですから薬は毒だ、薬という物が人間をそういう様に曇らせるという事を、人間は気が付かなくても、そういう動物霊の方がずっと分っているのです。そうなってくると、動物以下、動物よりも愚かという事になるから情ない話です。今の人間は虫けら同然だと私はよく言いますが、実は獣や動物の方が文句を言うかも知れません。〝オレの方がずっと上だ〟と。そういう事などが罪穢れの因ですが、今までの宗教はそれを看破できなかったところに大いに欠陥があるわけです。だからただお説教で押さえ付けるのです。やっぱり原因が分らないために結果に対する防止法が今までの宗教のやり方だったのです。私は、今度その根本を説くわけです。はっきり見せるわけです。ですから罪穢れを犯す人間にはこの事を分らせなければ、どうしても分らないわけです。これについて、面白い経験がありますが、いずれ話します。神様は実に行届いた事をされるのです。これはやっぱり大変な大きな経綸ですが、まだ話がすっかり決まりませんから、話が決まったらその話をします。

 それから注意したい事は、浄霊をするのにどうもまだ「一生懸命」にやるきらい(ヽヽヽ)があるのです。この「一生懸命」にやるのが一番いけないのです。「一生懸命」にやると人間の力が加わりますからできるだけ一生懸命にならない様にしなければいけません。春風に吹かれている様な気持で、少し極端ですが『面倒くさいが、可哀相だからやってやる』というくらいの軽い気持でやるのです。なおしてやろうという気持は結構ですが、それだからと言って一生懸命にやると手に力がはいるのです。ですからできるだけ軽い気持で、今言った様にするのです。私は浄霊をしても決して一生懸命になっていません。『みんなが可哀相だから』というつもりでやっているのです。そうすると非常に効き目があり、時間が短かくて済みます。これは普通とあべこべですからよく間違うのです。今までは何事も一生懸命にやる癖がついてますから、そこに注意して、どこまでも一生懸命にならない様に練習するのです。そうするとずっとなおりがいいです。これは大変な違いです。

 

 

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