二月二十六日

 自然栽培の報告が集まりましたが、やっぱりだんだん良くなって来て、今年の成績をすっかり集めてみると、もう何も心配のない成績が確実に現われたわけです。特に昨日来た佐渡の報告ですが、それは又非常に良いのです。最初の年からみんな幾らかずつ増えているのです。おまけにあんまり浄霊しないのです。ですからただ肥料をやらないで良く出来るというので、未信者の百姓がどんどん真似(まね)しているのです。大きな村でしょうが、今度村長もきり換える事になりましたが、その状態をみますと、まず数年で佐渡の島全部が自然栽培になりそうな形勢なのです。それについていろいろ総括して書きました。

 それから自然農法普及会という会もつくる事になりましたが、そういう事を詳しく書きましたから今読ませます。

 御論文〔自然栽培に就いて〕   【註 栄光一九八号】

自然栽培に就いて

(栄光一九八号)

 今までに本紙農業特集号を出したのは、一昨年と昨年と今回とをあわせて三回になるが、年々自然栽培耕作者が多くなると共にその報告も増え、今回のごときは付録〔略〕として四頁も増したくらいである。そこで報告書を一々読んでみると成績は益々よく、収穫が増すばかりか品質も良好となりつつある事で、これも当然とはいいながら喜ばしい限りである。それがためこの実績を見て今まで迷っていた農民達も、次々自然栽培に切替えるようになり、一村で一度に三十一戸の自然栽培者が出来たという事である。また新潟県佐渡ケ島での実績は揃って初年度から優良で、信者ならざる農民層がドシドシ増える状態で、この分でゆくと数年ならずして全島自然耕作となるのは、太鼓判を()しても間違いはあるまい。しかも別項のごとく東京食糧事務所業務第二課長農学士山川達雄氏のごときは自然栽培を知った二年前から、現地の状況をつぶさに調査の結果、予想外の好成績に、夢かとばかり驚嘆したそうである。何しろ今までの学理とは全然反対であるから、直に理解が出来ないため、頭脳の困惑に悩んだとの話であるが、さもありなんと思われる。

 以上によってみても、最早良いとか悪いとかの論議の時期は、すでに過ぎたといってよかろう。従ってもしまだ疑念を持つ人がありとすれば、その人は欲のない変人としか思えないのである。そこで大いに考えなければならない事は、現在我国における人口増加の趨勢である。アレ程骨を折っている産児制限を尻目にかけて、益々増える一方である。その上敗戦によって狭められたる国土の事をも思う時、到底安閑(あんかん)としてはおれないはずであるにもかかわらず、私は昨年も一昨年もこの特集号を農林大臣始め各大臣、国会議員、新聞社、全国の主なる農事関係者に配布したが、余り関心を持たれないとみえて、相変らずの誤れる農耕法を続けているのである。そのため一力年数百億に上る金肥は固より、農地改良費や奨励金等合計すれば、実に巨額な支出となるのはもちろん、増産何年計画などといって大童になっているが、サッパリ効果が挙らない事実である。しかもこのような計画は余程前から何回となく繰返しているが、いつも計画倒れに終っている。その証拠には昨年など豊作といいながら、平年作を僅か上廻ったにすぎないのであるから、最早従来の農耕法ではどんなに工夫し骨折ってみても駄目、との烙印を捺されている訳である。それだのに確実に大増産が出来る我自然農法を知らしても、蔑視してか研究しようとする気振もない。それというのも宗教から出たという取るに足らない理由からでもあろうが、まことに困ったものである。そんな訳で政府は何だかんだと種々の対策を立てては失敗し、年々巨額の人民の税金を無駄に費消しているのであるばかりか米の輸入も年々増え、現在ですら年二千数百万石の輸入と、その代金一千億以上を払うのであるから、寒心に堪えない国家的悲劇である。この悲劇の原因こそ長い間の肥料迷信のためである事で、別項多数の報告〔略〕によってみても充分認識されるであろう。そうして事実を目の前に見ながら、躊躇逡巡(ため)らう人も信者の中にさえ相当あるくらいであるから、その根強さは驚くの外はないのである。何よりも思い切って最初から私の言う通り実行した人は、予期通りの好成績を挙げ得たので、なぜもっと早く実行しなかったかと後悔するくらいである。

 何しろ本農法は、従来のやり方とは全然反対であるから、容易に転向出来ないのも無理はないが、といってこれ程事実が証明している以上、信ぜざるを得ないはずである。以下それらを一層詳しくかいてみよう。まず我国民が先祖代々長年月肥料を施して来た結果、我国農地全部は(けが)され切っており、そのため土は酸性化し、土本来の性能は失われ、人間で言えば重病人の体質と同様になっているのである。その結果作物は土の養分を吸収する事が出来ず、肥料を吸収して育つように変質化してしまったので、全く麻薬中毒と同様である。ところで今までとても農事試験場や農民の中にも、無肥耕作の試験をした事もあったが、何しろ一年目は非常に成績が悪いので、それに懲りて止めてしまったという話は時々聞くので、この事なども肥料迷信に拍車をかけた事はもちろんである。そんな訳で耕作者は肥料をもって作物の食料とさえ錯覚してしまったのである。事実自然栽培にした最初の一年目は葉は黄色く、茎は細く余りに貧弱なので、付近の者から嘲笑慢罵(まんば)、散々悪口を叩かれ、中には忠告する者さえあるくらいで、もちろん肥毒のためなどとは夢にも思わないからである。ところが栽培者は信者である以上絶対信じているので、幸い我慢をしながら時を待っていると、二年日、三年目くらいからようやく稲らしくなり、収穫は増えはじめ、しかも良質でもあるので、今度は嘲笑組の方から頭を下げ、自然組の仲間に入る人達も、近頃メッキリ増えたという事である。そうして肥毒が全くなくなるのは、まず五年はかかるとみねばなるまい。その(あかつき)私が唱える五割増産は確実であって、これが六年となり、七年となるに従い、驚異的増収となり、やがては十割増すなわち倍額も敢えて不可能ではないのである。というのは分蘖(ぶんけつ)は倍以上となり、しかも穂に穂が出るのでそうなったら倍どころではない、一本の茎の実付き千粒以上にもなろうから、到底信ずる事は出来ないのである。

 ここで米というものの根本的意味をかいてみるが、そもそも造物主が人間を造ると共に、人間が生きてゆけるだけの主食を与えられた。それが米麦であって、黄色人種は米、白色人種は麦となっている。それを成育すべく造られたものが土壌である事は、何人も否定する事は出来まい。としたら人口がいかに増えてもその必要量だけは必ず生産されるはずである。もしそうでないとしたら、必ずやどこかに大きな誤りがあるに違いないから、その誤りを発見し是正すればいいので、それ以外増産の道は絶対あり得ないのである。この意味において我国の人口が現在八千四百万人とすれば一人一石とみて八千四百万石は必ず()れるはずである。ところが現在は平年作六千四百万石としたら、二千万石は不足している訳で、この原因こそ金肥人肥のためであるから、その無智驚くべきである。ところが喜ぶべし私はこの盲点を発見し、ここに自然農法が生まれたのであって、これによれば五カ年で五割増産となるから九千六百万石となり、悠に一千二百万石は余る事になる。しかも肥料も要らず、労力も省け、風水害にも被害軽少で済み、現在最も難問題とされている虫害はほとんど皆無と同様となるとしたら、その経済上に及ぼす利益は何千億に上るかちょっと見当はつかないであろう。この夢のような米作法こそ開闢以来未だ嘗てない大いなる救いといえよう。私はそれを立証するため、数年前から多くの農民を動員し、実行を奨励した結果、予期通りの成果を得たので、ここに確信をもって天下に発表するのである。しかも報告者の宿所姓名まで詳記してあるから、不審のある場合、直接本人に打つかって訊けば何よりである。

 以上のごとく理論からも実際からも、一点の疑問の余地はないのであるから、農耕者としたら何を措いても一刻も速かに実行に取掛るべきである。そうしてここに誰も気のつかないところに今一つの重要事がある。それは硫安のごとき化学肥料や糞尿を用いる以上、それらの毒分は無論稲が吸収するから、今日の人間は毒入り米を毎日三度三度食っている訳であるから、その毒は健康上どのくらい害を及ぼしているか分らないのである。事実近頃の人間の弱さと病気に罹り易い事と、特に寄生虫患者が農村に多い事など考え合わす時、これが最大原因である事は考えるまでもあるまい。以上によって大体分ったであろうが、この肥料迷信発見こそ国家国民に対し計り知れない一大福音であろう。

 次に栽培法について誤謬の点が相当あるようだから、ここにかいてみるが、本教信者になって私の説を読んだり聞いたりしながらも、素直に受入れられない人もあるが、何しろ先祖代々肥料迷信の虜となっている以上無理もないが、この際それを綺麗サッパリ棄ててしまい私の言う通りにする事である。それについても種子であるが、報告中にある農林何号とか、旭何々などとあるが、これは何らの意味をなさないので、自然栽培においては一般に使う種子なら何でも結構である。つまり肥毒さえ抜ければ、どんな種子でも、一級以上の良種となるからである。要は肥毒の有無であって、信者中から何年か経た無肥の種を貰うのが一番いいであろう。その場合種子も近い所程よく、県内くらいならいいが、相当離れた他県などでは成績が悪いから止した方がいい。それと共に土の肥毒であるが、肥毒が無くなるにつれて快い青色となり茎は固くしっかりし、分蘖も数多くなり、毛根も増え、土深く根張るから倒伏も少なく、それらの点でよく分る。

 そうして堆肥について、まだ充分徹底していないようだが、最も悪いのは稲田に草葉を入れる事で、これは断然廃めた方がいい。稲作はいつもいう通り藁を短く切り、土深く練り込めばいいので、余り多くてもいけない。というのはそれだけ根伸びを阻止するからである。また度々言う通り藁には肥料分はない。肥料は土そのものにある事を忘れてはならない。つまり藁を使うのは土を温めるためで、寒冷地には使っていいが、温暖地には必要はない。これが本当の無肥料栽培である。それから土の良い悪いであるが、これも余り関心の要はない。なぜなれば悪土でも無肥なれば年々良くなるからで、連作を可とするのもこの意味である。また浄霊であるが、これは肥毒を消すためで、肥毒がなくなれば必要はない。以上大体気の付いた点をかいたのであるが、その他の事はその場所の風土、気候、環境、位置、日当り、灌漑、播種(はしゅ)と植付けの時期等適宜にすればいいのである。

 最後に特に注意すべき事がある。それは自然栽培と信仰とは別物にする事である。というのは信者にならなくとも予期通り増産されるからである。それが信者でなくてはよく出来ないと誤られると、せっかくの本農法普及に支障を及ぼすからである。事実信者未信者を問わず効果は同様である事を心得べきである。従って浄霊も余り度々行わなくともよい。なるべく人に見られないよう日に二、三回くらいで充分である。つまり出来るだけ信仰と切放す事を忘れない事である。

 最後にも書いたとおり、ちょっと考え違いをしている点がある様です。それは、信者にならなければ良く出来ないという事を知らせ様と思っている事が大変な間違いです。〝信者にならなければならないとすると、面倒臭い。だからもう少し見合せ様〟と躊躇(ちゅうちょ)しますから、そうするとそれだけ普及が遅れますから、日本の増産を妨げる事になります。それで佐渡では浄霊しないのですが、一番良くとれるのです。それは神様の御趣旨に合っているからです。その点が大事です。だから浄霊をすれば、肥毒を消すから良いには違いないが、しかしそのために未信者の農民が見て〝あんな事をしなくては良くとれないなら、面倒臭いからよそう〟という事になって拡まらない事になる。そうすると〝日本が現在困っている食糧問題を解決して、食糧増産をしよう〟という神様の御趣旨に反する事になる。そこで佐渡では浄霊しないで、最初の年から良くとれたという事は、神様の御趣旨に合うからです。だから根本的の考えでなければならないのです。上っ(つら)でなくて、この目的はどこにあるかという、つまり大乗的考えです。ところが中には、大いに信者をつくる一つの手段にしようと考えている人がある様ですが、それは考えなければならない。日本の大勢の人が困っているのを救うには、どうすればみんなが一番実行する様になるかという事が肝腎ですから、それに合う様にしなければならない。だから浄霊してもいいから、人に見えない様に、夜にでも浄霊するのです。つまりできるだけ人に見られない様にやるのです。それで浄霊も日に二、三度で沢山です。あんまり浄霊にこだわってはいけないのです。と言っても、病気の場合にその考えを起されると、それは困ります。病気の場合は浄霊するに限るのです。ですから自然栽培の場合と一しょにしない様にする事です。別々に考えなければならない。病気をなおす場合はできるだけ信者にした方が早くなおります。そういう様に別々に考えるという事にするのです。

 一昨日、熱海から出たこの前の代議士で小松勇次という人が来て、今度自分の友達で茨城県か何処かに居る人で大変な肥料を発見した、というので聞いてみると、薩摩芋を腐らして、それを肥料にすると非常に良くできるというので、是非賛成して力を貸してくれと言って来たのですが、私は頭から〝それはよしなさい。それは一時的には何割か増産するが、しかし何年かやっているうちに元のとおりになる、或いは元よりか悪くなるから〟と言ってやりました。それはどういう訳かと言うと、芋というものは、神様は人間の食物としてこしらえてあるのだから、それを腐らして肥料にするという事は神様の御意志に全然反する事になり、良いわけがないのです。だから凡て、これは神様の御趣旨、目的はどの点にあるか、どういう御意志かという事をはっきり分らなければならないのです。それで凡て一時的に良くなるものはいけないのです。薬でも、今言う肥料でも、一時的ですからいけないのです。それは硫安などをやると一時うんと出来ます。それで〝これはいい〟とう事になって、反対に悪くなってもそれに気が付かないのです。丁度猫が屋根の日の当る所で日向ボッコをしてますが、ところが日の当らない時にも、日が当ると思ってやってます。それと同じ事です。その時だけ良いと、ずっと良いと思って続けるのですから、猫を笑う事はできません。それも、猫ぐらいなら何も損はいかないからいいが、人間の方は大変な事になります。

 今米の輸入で払う金が一千億以上です。ところがビルマ、タイ、インドという所でもだんだん米が足りなくなって来たのです。それは人口が増えるためもありますが、あっちの方もやはり硫安を使い始めたからです。日本からも大分輸出してます。それで一時良くなるから、それに迷わされてやっているうちに悪くなって来たのです。だから最近は向うから輸入するのもなかなか骨が折れるのです。それで、向うでも苦しまぎれに黄変米などを出してますが、それを食べたら皆あてられましたが、この損も二億何千万というのですから大変なものです。それは虫を防ぐためか何かで、薬を付けたのでなくて、()すか、煙でやったのではないかと思いますが、なにしろあの毒というものは薬毒です。

 そういう様で自然栽培というものは、ひとり日本ばかりでなく、他国の間違った事も救う事になるのです。そういう様なわけで、今度はできるだけ早く日本を救わなければならないというので、自然農法普及会という会を作ろうと思っているのです。それは大体一村一支部という目標です。調べてみると、日本の村の数は一万幾らあるのです。その中でいろんな事情から、支部を作ってもいい村が一万はあるわけです。それで大体一万を目標にして、これから支部を作るべく運動をするつもりです。細かい事は教団の幹部会でいろいろ案を練って作るわけですが、支部長というのは全然信仰と関係のない人で、信者でなくていいのです。なるべく村の篤農家とか村長という様な信用のある人が一番いいです。そうしてそこで毎週座談会をやるとか、指導者が居て指導するとかして、急速に日本全国を自然耕作にしてしまうという事です。これは割合に早く行きます。なにしろ佐渡などの状態をみると、十年かからないうちに佐渡は全部自然農法になってしまいます。それで今度の報告の中にこういうのがありました。その人は一番早くからやっていて六年目です。それで六年目に、廻りの田からみると六割以上増産になってます。これは今度の特集号に出てますが、それは毎年だんだん増えて行って、丁度六年目に六割以上増産の数字が出てます。それから今度の御蔭話にはなかなか優良なのが沢山あります。質でも、一等賞、特等賞の賞状を県の農協や知事からもらった人があります。そういう様にいよいよ安心して大々的普及宣伝をしていい時期が来たわけです。ですからこれが本当に拡まったら大変なものです。まず肥料代でも何百億というのですから、それが無くなると一千億以上の輸入代がいらなくなるし、その外に労力も軽減するし、いろいろな虫害が無くなるから、一ヵ年間何千億の得という事になります。それだけ税金が減ったら、税金地獄からもぬけられる事になります。ですからこれは一つ大々的にやりたいと思ってます。病気の方を分らせるのはなかなか大変ですが、この自然栽培の方はとても楽ですから、これを早くやった方がいいと思ってます。

 農業の事はそのくらいにしておいて、ちょっと面白い論文を書きましたから読ませます。

 御論文〔天国的宗教と地獄的宗教〕   【註 地上天国四十六号】

天国的宗教と地獄的宗教

(地上天国四十六号)

 先ず宗教に就いてありの侭を書いてみれば、今日迄の凡ゆる宗教は、悉く地獄的宗教と言っても、敢えて侮言(ぶげん)ではなかろう。何となれば、主だった宗教程、開教当時(こうむ)った法難、受難に悩んだ事は例外ない程で、宗教に法難は附物とされている位である。然もその宗教の信者までも、迫害や受難の道を辿って来た事実は、史上教え切れない程であって、中には読むに堪えない慄然たるものさえあるのである。

 今日世界を風靡しているキリスト教の開祖イエス・キリストにしてもそうであって、十字架上の露と消えた事蹟や、パリサイ人共の迫害は有名な話であるが、日本に於ても大なり小なり、茨の道を潜らない宗教家はなかったと言ってもいい。只その中で、釈尊と聖徳太子のみが例外であったのは、言う迄もなくその出身が皇太子であったからである。

 そうして如何なる宗教の開祖にしても、勿論悪ではないどころか、凡人以上の善者であり、人並外れて愛が深く慈悲に富み、不幸な者を救わねば()かないという信念を以て、命を犠牲にしてまで救いの業を貫こうとしたのであるから、善の塊りとも言うべき聖者である。従って本当から言ば、その時の政府も民衆も、その労苦を(ねぎら)い感謝し、最大級の優遇を与えるべきに拘わらず、反ってその逆に悪魔の巨頭の如く憎悪し、迫害、圧迫、生命迄も絶とうとするのであるから、恐らくこんな不合理な話はあるまい。故にこれを冷静に批判する時、右の如く大善者を憎み、虐げ、葬ろうとするその行為は、その人達こそ悪魔という事になるのは、理の当然ではあるまいか。そうして本来人間という者は、善か悪かのどちらかであり、決して中間は存在しないのであるから、換言すれば神の味方か悪魔の味方か、どちらかである。とすれば、神を嫌い、無神思想を唱え善を行う宗教に反抗する人は、悪魔の僕ということになるのは当然である。そうして今日偉大なる宗教とされているその開祖にしても、初めの内は悪魔扱いにされ、極力迫害されたに拘わらず、遂に悪は負け善が勝ったのは歴史の示す通りである。

 キリストが受難に遭いながら〝我世に勝てり〟と言われたのもその意味であり、味わうべき(せい)(げん)である。

 故に既成宗教は、開祖の死後相当の年数を経てから漸く認められ、神と祀られ、仏と崇められたのが殆んどである。勿論その教えによって、人間に歓喜を与え、社会の福祉増進に寄与する処大であったからであろうが、開祖生存中に、そのように認められた宗教はないと言ってもいい位で、法難は当然のように思われ、信者としても苦難の生活を寧ろ喜ぶような傾向にさえなってしまったのである。特にキリスト教の如きは、キリスト贖罪(しょくざい)の受難を亀鑑(きかん)として、苦しみを覚悟の上蕃(蛮?)地深く分け入り、身を挺して活躍した悲壮なる史実も、これを読んで胸の迫る思いがするのである。だからこそ今日の如く、世界到る所にキリスト教程根強く教線の張られた宗教はないのである。日本に於てすら、彼の切支丹バテレンの迫害や、天草の乱などを見ても、思い半ばにすぐるであろう。

 処が、以上書いた事は、他動的、不可抗力による苦難であるが、そうではなく、自分自ら進んで苦難を求める信仰も少なくはない。即ち、キリスト教における一派の戒律厳守、禁欲主義者、修道院に一生を捧げる人達もそうだが、彼のマホメット教、中国の道教やラマ教、印度の婆羅門教なども同様であって、彼等は禁欲をもって信仰の主眼としている事である。

 又日本に於ける昔からある幾多の宗教にしても、それと大小の違いはあるが大体は同じであり、受難にしても、神道が散々仏教から圧迫され、一時は伊勢の大廟(たいびょう)に阿弥陀如来を安置した事や、神道行者の難行苦行もそうだし、仏者の受難も並大抵ではなかった事も、人の知る処である。その中での最も著名なものとしては、彼の日蓮上人であろう。彼の有名な龍の口法難の際、断罪に処されようとし、(やいば)を振り上げられた途端一大奇蹟が現われ、(あやう)く死を(まぬか)れた事などもそうである。又仏教の或派によっては、極端な程戒律を守り、求めて難行苦行に身を晒し、修業三昧に耽る信仰も、跡(後?)を絶たないのである。以上凡ゆる宗教を総括してみても、今日迄のその悉くは地獄的であって、苦難を以て宗教の本来と心得、魂を磨く手段とされて来たのであって、遂には苦しみを楽しみとする一種の変態的人間とさえなってしまったのである。

 これを忌憚なくいえば、その宗教の力が弱かった為、自力を加えねばならなかったのである。

 このような地獄的信仰の世界に、忽然として現われたのが我救世教である。何しろ本教の凡ては、今までの宗教とは根本的に違う処か、寧ろ反対でさえあり、地獄的苦行を最も排斥し、天国的生活を以て真の信仰であるとしているので、その説く処、は心も(おこない)も、既成宗教とは雲泥の相違である。

 然も本教輪郭の大なる事は、宗教も、哲学も、科学も、芸術も、悉く包含されており、特に人類救いの根本である健康の解決、農業の革命等、驚異に価するものばかりで、その悉くは地獄をして天国化する条件の、凡てであると言ってもいいので、これこそ真の神の愛であり、仏の慈悲でなくて何であろう。この意味に於て、難行苦行は邪道であり、歓喜溢るる天国的生活こそ真に救われたのである。これが世界全体に拡充するとしたら、玆に地上天国は如実に出現するのであって、以上の如く、本教のモットーである天国世界の第一歩は、先ず家庭からであり、そのような家庭が日に月に増えるとしたら、やがては世界全体が天国化するのは知れた事である。

 以上の真相が分ったとしたら、如何なる人でも本教を謳歌し、絶讃し、直ちに入信しなければならない筈だが、何といっても、或種の小乗宗教や無神思想の観念に煩わされているので、反って疑念を起したり、誤解したりするので、それだけ幸福を延ばしているわけである。併し乍ら本教の真相が必ず分る日の来るのは間違いないから、私はその時を待つと共に、今は神命のまま日夜奮励努力しているのである。

 

 

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