二月十五日

 今朝のラジオニュースによると、アメリカが急に朝鮮の大攻撃をやるとか言ってましたが、アイゼンハウアーは大分急ぐ様です。この間のうちは、台湾の中立解除をして国民軍を出そうとしましたが、神様の方から言うとそれは嘘なのです。やはり朝鮮を先にやらなければならないのです。それが順序なのです。それで今朝のラジオの放送によると朝鮮を先にやる様ですが、これは非常に良いと思います。それで朝鮮を片付けて、それから中国に行くというのが順序なのです。そして「世界夢物語」に出したとおりのああいう順序で行くわけです。しかし日本は今度は割合に恵まれるのです。これからは非常に金がはいる様になります。まあ景気が良くなるわけです。これは先の事ですが、日本には使いきれないほど金がはいって来る事になっているのです。それで世界の大変化がこれから始まって行くわけです。それから中国と、今度の京都の嵯峨とは非常に関係があります。私は四月に嵯峨に行こうと思ってます。そうしてごく最初の敷地の形だけをこしらえ様と思ってます。非常に仏教に関係があるので、いろいろと事情を考えた結果四月八日が丁度良い事になるので、四月八日に行く事にしました。それに四月八日はお釈迦さんの誕生日ですから意味があります。

 「若しもこの世界から悪が無くなったら」という論文を書きましたが、ちょっと面白いですから読ませます。

 御論文 〔若しもこの世界から悪が無くなったら〕  【註 栄光一九七号】

若しもこの世界から「悪」がなくなったら

(栄光一九七号)

 凡そ人間一切の不幸の原因を突きつめてみると、(ことごと)く悪にある事は今更いうまでもないが、そこで私はこの世界から若し悪がなくなるとしたらという仮定の下に想像してかいてみたのである。それは先ず第一病人がなくなることで、誰も彼も健康に恵まれ、仕事を休むような事はなくなってしまう。いつも言う通り病人の出来る原因は医学の誤りにあるので、いわば善意の罪悪であるから、結果からいえばやはり悪に属するわけである。成程昔から医は仁術なりといって、人の命を助ける立派な善の仕事と思っているのであるが、実はそれは大なる錯覚(さっかく)でしかないのである。

 従ってこのことがハッキリ分り、是正されるとしたら、ここに病無き世界が出来るのは当然で、人間は年中張切って働けるから、貧乏も争いもなくなり、幸福な家庭、平和な社会となるのは間違いないのである。というとまるで牡丹餅(ぼたもち)でホッペタを叩かれたようなうますぎる話だが、玆に困ることがある。というのはそうなるまでには一時的ではあるが、病気に関係ある一切の施設も機械も不要となり、人的には医師も看護婦も、それに附随する製薬関係者を始め、各方面の従業者悉くは失業するから、この解決が容易ならぬ問題である。しかしこの結果国家国民に及ぼす永遠な利益を考えたら、何としても我慢しない訳にはゆかないであろう。

 その暁人間病気の心配がなくなるとしたら、現在のようにヤレ風邪を引くな、冷えるな、食物に注意しろ、栄養が肝腎だ、外出から帰ったら(うがい)をしろ、食前には手を洗え、衛生に注意しろ、黴菌を防止しろなどという面倒なことは一切なくなり、人間は何等心配なく、伸び伸びとして多人数の中でも、空気の悪い所でも、薄着でも平気の平左で、いとも朗かに生きて居られるので、これこそ本当の自由人である。しかも毎月の生活費中、医療費がなくなるだけでもどんなに楽になるか知れないであろう。

 又各家の戸締りも要らず、汽車や電車に乗っても、掏摸(すり)置引(おきびき)の心配もなく至極気楽な旅となるであろうし、又金借りが来ても返すに決っているから、余裕さえあれば快く貸してやるから、双方気持がいいのは勿論であり、何の取引でも判証文や受取等も要らないから、手数も省け苦情や裁判沙汰等も起りようがなくなるし、家族一同健康であるから物資は豊かで、和気藹々(わきあいあい)たる家庭となり、家族連れの物見遊山なども大いに楽しみとなろう。主人は主人で大酒を飲んだり外泊したりしないから、妻君の心配もなく、家庭争議など昔の夢と消えてしまう。又子供も親に見習うから教えなくとも親孝行をするし、こうなっては民主主義も封建思想もヘチマもあったものではない。そんな面倒臭(めんどうくさ)いことは忘れてしまうからである。

 それから警察や裁判所は今の十分の一で事足りるであろう。というのは悪と雖もそう早くなるわけにもゆくまいから、やはりある程度の争いや犯罪者も出るには出るであろうが、今日のそれとは比較にならない程少くなり、殆んどは軽犯罪位で済むであろう。しかも警察官も裁判官も、今日のような面目や感情などにこだわる事なく、至極公平に裁くと共に、被告も嘘や誤魔化しをいわないから、弁護士の必要もなくなり、簡単に迅速に運ぶのは勿論、贈収賄などもなくなるから、官公吏、会社員、学校教員なども、何等気が(とが)めることなくいつも明朗であるから、仕事の能率は上り、今までの何分の一の時間で片附くであろう。

 ここで最も大きな幸いは戦争がなくなることである。戦争こそ最大なる悪であるから、これがなくなるとしたら、世界は凡ゆる面に於ける好変は想像もつかない程大きなものがあろう。第一各国民の経済的負担は今より何分の一に減るであろうから、いやでも人間は幸福となり、住みよい社会となるのは勿論である。

 以上悪のなくなった世界をかいてみたのであるが、まだ少しかき残したことがあるからかいてみるが、先ず何よりも一切の労力が何分の一に減ることである。考えるまでもなく、今日の社会は悪による労力の無駄(むだ)は誰も気附かないが、実は大変なものであろう。従って悪が一割減ったとしても、国家はそれだけ楽になる。今年の政府予算九千九百六十億というのであるから、一割減っただけでも約一千億はプラスになるわけで、その割で税金も減ることになるから税金地獄からも救われるであろうし、その上二割となり、三割となるとしたら、金も物資もあり余って、人間は今までの半分以下の働きで充分であるから、先ず一日三時間働けば済むことになろう。そこで後の時間は夫々自己の趣味(しゅみ)や勉強の時間に当てればいいので、ここに初めて人間としての生甲斐ある人生となり、文字通り鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の世の中となる以上、到る所壮麗なる大建築が出来、華麗な劇場や凡ゆる娯楽機関の発達は固より、百花爛漫(らんまん)たるパラダイス、山水を取入れた大国立公園や植物園、特殊の私的庭園等々も続々出来るのは勿論、半公園式街路も方々に出来、交通機関の発達と相俟って、人間旅行の楽しみは今日の何倍となるであろうし、壮麗な美術の殿堂は各国競って設けることになるから、文化の光は地上に漲るであろう。

 そうして人間は健康と肉体美増進の為と、競争意識を満足させる為等でスポーツは益々(さか)んになり、大グランドは各地に設置されるであろう。以上の如き世界となるとしたら、人間は今日の如く機械的に扱われる事なく、自己意識の儘に働くから寧ろ楽しみとさえなるのである。又食生活に於てもその進歩は素晴しく、豊富なる食料と調理の進歩と相俟って、一般人民の食生活は現在とは比較にならない程改善されるであろう。

 先ずザットかいただけでこの位であるが、これを読む人は成程そうなったら結構には違いないが、それは単なる夢であって実現の可能性はあるわけがないから、絵にかいた御馳走にすぎないというかも知れないが、私はその可能を断言するのである。それには前記の如く悪の絶滅が根本条件であるから、問題はそれ次第である。処がそれこそ今や正に来らんとする最後の審判(しんぱん)であって、これによって悪は全く追放されるのである。只そうなるまでには一大難関があるので、それを突破してこそ真の幸福者となるのである。その救いとして現われたのが我救世教であるから、本教こそ幸福の門を開く鍵である。

 つまりこれがミロクの世の姿なのです。夢の様な話ですが、世界の大掃除が済むと、こういう世の中の建設になるわけですから、今生まれた人は……ただ生まれただけでは仕様がないが……救世教信者になった人は、仕合せも仕合せですが、面白いです。この大きな変化を安心して見物できるわけです。しかし見物と言っても、じっとしている見物ではないので、大いに仕事を与えられながら見られるのですから、どんなに愉快か分りません。

 今度「救世教奇蹟集」という本を出すつもりで、その序文だけ書きました。そして今まで発表しただけの奇蹟の素晴しいものを出します。それで結局宗教の価値という事ですが、つまり宗教では大した奇蹟はないので、宗教以上のものでなければならないのです。宗教以上と言うと救世教より他にはありません。そこで救世教では他の宗教にない奇蹟が現われるわけです。今までの宗教でも奇蹟があるにはあったがごく少ないのです。もっとも日蓮上人の様な傑物になると顕著な奇蹟はあるが、一般信者にまではそれほど大きな奇蹟はありません。しかし救世教では、私の弟子がキリストがやった様な奇蹟も行うし、他の宗教の教祖がやる様な事は、信者さんでも充分現わせるのですから、そこに違いさがあります。だから奇蹟の顕著な事と多い事が宗教の値打です。ところが既成宗教ではそういう事がないので、だんだん理窟の宗教になっていったのです。一般に対してはお説教宗教です。大体お説教というものは宗教ではないのです。それは道徳です。〝人間はこういう気持をもて〟とか〝こういう行いをしなければいけない〟と言うが、そういう道理を説いて心を良くするという事であっては、本当は宗教より以下のものです。つまり道徳です。ところが奇蹟を現わす事ができないから、そういうやり方でお茶を濁していたのです。黙っていて立派な人間にするというのが本当の宗教です。だから私の方では、あんまりお説教はやりません。しかしそれも少しは結構です。ところが今までの宗教はお説教専門なのです。又、〝こういう様に養生しなければならない〟〝こういう物を食って、こういうやり方でなければ、人間は病気がなおって健康にはならない〟というのでは本当のやり方ではないのです。そういうのでは仕様がありません。黙っていても、疑っていても健康になる、というのが本当のものです。というのは、やはり宗教が持つ力です。その力を現わしたものが奇蹟となるのです。それで奇蹟は科学的にも説けるのです。だから本当は奇蹟ではないのです。よく奇蹟が現われると言うが、それはどうしても理窟がつかないので〝ただ不思議だ〟というだけです。けれども本当は理窟がつくのです。

 それで〝いろんな不思議な事があって命が助かる〟という事は、正守護神がやるのです。正守護神でも、信仰と霊的因縁によって力の強いのと弱いのとがあります。それから又正守護神は一人々々人間を護っているが、その人間が徳を施し良いことを沢山すると、その恵みが正守護神にも授けられます。その人が良い事をするのは正守護神が蔭で手伝うからですから、正守護神もそれだけ御神徳を受けるわけです。そうすると力を増すから、力が増すと、思う様に助ける事ができるのです。ですから奇蹟も沢山現われるという事になります。だからこれは正守護神がやるのです。ところが中には、正守護神で神格を得ているのがあります。神格というのは、神様の位を貰った正守護神なのです。そういうのはすばらしい力があります。それから又その人の系統によって、祖先が古くから産土神様に祀られている人は、その産土神様の力を分けてくれますから、そこでその人の働きも大きくなれば、又奇蹟も大きくなります。だからその関係が分れば、奇蹟というのは不思議ではありません。ただ目に見えないから奇蹟だと思うのです。きわどいところで、死ぬと思ったものが助かるという事がありますが、それは正守護神がやっているのですから、別に不思議はありません。奇蹟集の序文だけを読ませます。

 御論文 救世教奇蹟集〔序文〕   【註 栄光一九六号】

序文

(栄光一九六号/『救世教奇蹟集』)

 この著は科学に対する原子爆弾であり、現代人に対する啓蒙書であり、天国の福音でもある。今その理論を説くと共に、裏附けとして我救世教に於ける数多くの奇蹟中から、百二十例を選んで載せてあり、これを読むとしたら余りの超現実的なものばかりで、直ちに信ずることは出来ないであろう。何となれば古往今来これ程素晴しい奇蹟が多数ある例はなかったからである。そうして昔から宗教に奇蹟は附物とされているのは普く知られているが、その眼を以て見ても本教奇蹟の余りの不可思議さに到底理窟はつかないと共に、その一つ一つが体験者自身の手記である以上、一点の疑う余地はあるまい。としたら日本の一大誇りとして、一日も早く全世界に発表する義務があると思うのである。

 然もこの事は二十世紀後半、今日迄何人も夢想だもしなかった処の一大驚異であり、これが私という一個の人間を通じて行われるとしたら、実に神秘以上の神秘といってよかろう。と共に其処に深い意味がなくてはならない筈である。ではその意味とは何かというとこれこそ宇宙の主宰者たる主神の御目的の一つの現われであって、その理由としては現在の文明に一大欠陥があり、それが文化の進歩に甚大なる障礙(しょうげ)となっている以上、これを根本的に除去しなければならないからである。何よりもこれ程文化が進歩発展したに拘らず、人間最大の慾求である幸福はそれに伴なわないのみか、反って不幸は益々深刻になりつつある現状である。ではその欠陥とは何かというと、これこそ科学至上主義であって現代人が科学によらざれば何事も解決出来ないとする科学過信というよりも科学迷信に捉われている事である。玆に於て神はこの迷信を徹底的に打破し、真の文明のあり方を私を通じて教えるのであって、これも全く時の然らしむる処である。勿論この迷信発生の動機こそ、見えるものを信じ見えざるものは無とする唯物一辺倒の考え方に外ならないので、この誤った考え方を是正し、今日迄不可視とされていた霊なるものの実在を認識させるべくその方法としての唯一なものが奇蹟である。

 玆で重ねて言いたい事は若し唯物科学が真理であるとしたら、これが進歩するに従い人類の苦悩は減り、幸福は増さなければならない筈であるのに、現実はその反対であるとしたら玆に疑問が生ずる。成程絢爛(けんらん)眼を奪う文化都市、交通の至便、進歩的生活、一切の機械化等々唯物的には確かに幸福は増したに違いないが、肝腎な精神的幸福は零でしかないのが事実である。

 とはいうもののこれも深甚なる主神の経綸であって、今日迄はそれでよかったのである。即ち神の御目的である理想世界を造るには、その条件として先ず物質文化を或程度発達させなければならないからで、それには唯物観念が必須だったのである。今日迄治乱興亡限りなき人間争闘の歴史も、人類が経験し来った凡ゆる苦難も、その為であったのは言う迄もない。併しこの事は無限ではない。いつかは是正される時の来るのは必然であって、それが今日であるから、唯物科学は最早二義的存在となり、唯心科学が一義的存在に転化するのである。右の如く唯物、唯心の両科学が霊主体従の法則に従い歩調を共に前進する事こそ平和幸福の文明世界を生むべき根本真理である。換言すれば宗教と科学が一致する時代でもある。それには何よりも霊の実在を認識させる事であるから、その手段としての奇蹟であり、その担当者としての私という事が分って貰えばいいのである。そうして次に言いたいのは宗教史上顕著とされている彼のキリストの奇蹟である。盲の眼を開き、足蹇(あしなえ)を立たせ、悪人から鬼を追い出し、集った数十人の信徒に水を葡萄酒にして飲ませた事なども、葡萄酒の件だけは後世誰かが作ったものであろうが、その他は勿論あったに違いない。処が本著にある殆んどの奇蹟はキリストと同じ程度か、それ以上のものさえあり、その悉くが私の弟子が現わすのである。としたら正直にいって実に歴史を覆えす程の大問題であろう。

 又キリストの曰われた〝世の終り〟とはこの唯物文化時代の終りであり、ついで〝天国は近づけり〟の予言は、今や生まれんとする高度の文化時代を指したものであろう。従ってこの事が信じられる人にして、真の幸福人たり得る事は、何等疑う処はないのである。私はこれ以上かきたいが、それでは純宗教書になるからこの辺で止めておくとして、この意味に於て読者は本教を目す場合、従来の宗教観を捨て宗教以上の超宗教として寓せられん事である。

 それから知っておかなくてはならない事は、漢方薬というものを一般人は割合に軽く見ているのです。あなた方もそうですが、病人に〝あなたのは薬毒だ、薬は随分のんだでしょう〟と言うと、〝いやそんなにのみません〟という事がよくありますが、答える人は漢方薬を薬の様に思っていないのです。それでだんだん問いつめていくと、〝若い時に煎じ薬を少しのみました〟と答えるが、漢方薬というのは一回のんでも大変なものです。土瓶一ぱいでも大変なものです。それで今浄化する人をみると漢方薬が非常に多いのです。西洋の薬よりも漢方薬の方が余計害を与える様です。前にも言ったとおり、漢方薬のうちでも非常に毒の多い少ないがありますが、一番毒の強いのはげん(ヽヽ)()しょうこ(ヽヽヽヽ)です。げんの(ヽヽヽ)しょうこ(ヽヽヽヽ)を少し余計のんだ人は請合(うけあ)ってはいけないと言った事がありますが、それはそういうわけです。その次はどく(ヽヽ)()()が非常に悪いのです。それから顔色の悪い人はまず漢方薬中毒と思っても大抵間違いはありません。それで中国人は顔色が悪くて黄色い顔をしてますが、それはやはり漢方薬です。だから顔色の悪い人に聞いてみると、必ず漢方薬を沢山のんでます。それで漢方薬中毒が人間の寿命を縮めるのです。近頃日本人の寿命が延びたとか言ってますが、これは漢方薬をやめて西洋の薬をのむ様になったので、それが一番の原因です。そのくらい漢方薬というのは恐ろしいのです。ですから、よく田舎の人などは一々お医者に行くのは不便だというために、草根木皮を持薬と言ってのむ癖がありますが、そこで田舎の人は割合に顔色が悪く、黄色い顔色をしている人が多いのです。これは大抵漢方薬中毒です。それを今書いてます。これをよく心得ておいて、これからはその点をよく注意する事です。なにしろ量が多いのですから、浄霊して溶け出すにも長くかかります。そこにいくと西洋の薬は害が少ないから割合に早く済みます。だから比べると、むしろ漢方薬の方が長くかかりますから始末が悪いのです。漢方薬中毒を大いに注意しなければいけません。

 それで漢方薬にもいろいろありますが、私の父というのは、五十六才で死にました。割合に早死にでしたが、やはり漢方薬中毒です。というのは若い時分から便秘症なので、大黄(ヽヽ)という薬を焼く三十年くらいのんだでしょうが、今考えてみますとその中毒で死んだのです。そういう様で漢方薬の下剤なども非常に怖いのです。それから花柳界の人などはどく(ヽヽ)()()を沢山のんでます。だからそういう人はとても長くかかります。いくら溶かしても溶かしても、薬毒がほとんどきれないほどありますが、それはほとんど漢方薬です。それだけを心得てやればいいのです。

 

 

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