九月二十三日

秋 季 大 祭 御 教 え

〔九月二十三日〕

 今日は二回目の秋季大祭です。去年初めて秋季大祭をやったけれども、何しろ去年は、あの事件から間もない頃だったので、何処となく気がさっぱりしない様な点が大いにありましたが、今年は大分明るい様な感じがして、大いに喜こばしいと思って居ります。

 それで、この御神業の方も、未だ具体的には目立つ様な事はないけど、言わば、底を流れていると言いますか、一大飛躍の準備と言う様な形成が段々濃くなって来た。一番目につくのが、この神仙郷です。あと美術館と、今迄手をつけなかった処を、この頃手をつけ始めました。美術館と裏の庭園の方は来年の夏迄には完成させます。そうすると、ここの仕事や終る訳です。それと同様に熱海の方も大分進展しました。大体、庭園の方は今年一杯で出来る積りです。土地の方は(あら)(かた)形がついたんですが、色んな木を植えるんですね。それが、今年一杯になる積りで、幾らか春に残るかも知れませんが、唯熱海の方は新しく手に入れた土地ですね。晴々台の左手の方に大きな山が出来ます。それで大体土地の方は形が出来るんです。そうして植木の方は、真中の山にツツジを二千本植えている。大体、今年一杯に植わる筈です。ツツジが二千本と言うと、恐らく日本中にないと思います。如何に壮観であるかは、一寸想像は出来ない位です。之がおかしいので、丁度三、四年前に、箱根の芦の(ノ?)湖の傍に岩崎の別荘があり、庭にツツジが沢山ある。植えた時から二、三十年位経っている。大きくなり過ぎている位で、半分買って呉れないかと言うので、買おうと言った。別に何にも予定はないんですが、神様がいずれ要り用があるだろうと思って買ったんです。可成り大きいです。このテーブルより大きいです。この倍位ある。周囲を見ると、二本三本と寄せ植になっている。だから、本数にすると二、三千本になる。それを移植して、一本々々移植すると、段々大きくなって、今丁度良い。箱根にもあるし、熱海にもある。それが、丁度二千本で間に合う訳です。その様に、山とか――上の土地なんかと言うのは夢にも思わなかった。それが、今日になってみると、その時神様が準備されたと言う事が良く分る。こう言う事は良くある。私が、何だか分らないで買ったり――買わなければならない事があるが、それで、理窟もなく買って了うんですが、それが、何年も経つと大変な重要な事になる。之でみても、自分がやっているんじゃない。神様にやらされている事が良く分る。ですから今度熱海の庭が出来ると、建物と言う事になって、この建物になると、素晴らしいものが出来るんですから、大変な金が要るんです。処が、その時になれば、金は必ず入ると確信しています。そんな様な具合で、そう言う色々な経綸は大抵前から分る。こう言う様な順になると見当がつく。それが、今表面に現われ、具体的になると素晴らしいものです。

 今日の歌にもあるが、それが来年あたりから表面的に現われて来る様な、丁度良い頃になる訳ですね。

 それから、予て良く言ってある文明の創造ですね。あれも、約半分位出来たんです。医学篇――科学篇の医学ですが、科学篇の中と言っても、医学が主なものですが、それが完成した。今宗教篇を書いている。最近ぼつぼつ読み始めましたが、宗教篇が出て、その次が天国篇と言うのが出来る。天国篇と言うのは、五六七の世の色々な構想ですね。政治、経済、教育、芸術――凡る方面の様相ですね。中々興味がある事です。それで完結するんです。大体今年一杯位の予定です。それから、発表する方法は、その時になると、色々出来るだろうと思います。そう言う様な状態です。

 それから、今迄病貧争絶無の世界と言う主旨に従って、病気の事は遺憾なく知らした積りですが、それから、又、自然農法もですね。農業の方も可成り、皆分っただろうと思うんです。之に就いても、最近発表したアメリカのロデールと言う人ですが、あの方から、つい二、三日前に手紙が来まして、自分の主義の共鳴者が日本に出来たと言う事は非常に喜こばしい。之から大いに提携してやりたい。と言う様な、非常に希望にあふれた――そう言う返事が来たんです。大いにこの農業革命ですね。之は世界的になっていくだろうと思ってますが、それで、日本だけにみても、今年あたりが、六千四百万石ですか――大体その位の収穫はある。農林省で発表してます。処が、日本で足りないのは二千万石。二千万石と言うのを外国から買うんです。大変な金です。何百億――一千億以上になるでしょう。すると、何よりこの解決が勝負の急所なんです。処が自然農法で五年間続ければ、五割の増産は確実なんです。そうすると、六千四百万石で、五割増産になると、九千六百万石になるんですから、この五、六年間で、九千六百万石穫れるとすれば、幾ら食っても余る訳です。あべこべに、輸出しなければならない。そんな結構な事が分っているに拘らず、それを実行させるのが大仕事です。それは、皆さんが大いに働かれると言う事より他にしようがない。

 最近、それに就いて、色々な理論や実際報告とかを一つの本に拵えて、之を農業関係者に――政府は勿論ですが、各農会ですね。全国のそれに、只で配ろうと思ってます。それで、一大輿論ですね。農業講演会を開き、それを起して、早く分らせ様と言う計画が、今あるんです、それには、今年の収穫を発表したいと思って、材料としてね。と言うのは、年々肥料が抜けていく程良くなるんですからね。今年は今迄より一番成績が良い筈ですから、その成績を書き入れた方が、大いに効果がある。十一月あたりになったら大体分るでしょう。それ次第で、本を作って、今言った様にする積りです。

 本当は医学の方です。大いにそうしたいが、この方は、農業の様に容易にいかない。色んな方面で大変な影響があるし、それで又、日本ばかりじゃない。西洋医学はアメリカの方でも一生懸命になっているんですから、之はそう軽々しくは出来ない。之は追々やる事になっている事は皆さん知っている通りです。

 そこで、病貧争絶無の世界と言うと、病気は解決して居る。又食うものは充分穫れるが――それだけでも、大体農村は経済的に救われますからね。沢山穫れるばかりでなく、肥料も要らないし、虫害、風水害は絶対に減るし大いに惠まれる。日本の農民は国民の七、八割を占めている。それが、懐があったかくなると、貧乏を解決する一番の根本原因になる。そこで唯一つ困るのは戦争です。「病貧争」の中の「争」の戦争です。戦争がなくならなければ駄目です。今、世界中で一番恐れているのは戦争です。第三次戦争です。之を解決しなければならない。何うするかと言うと、立派に解決する方法がある。それを今書いたんですよ。

 

第三次戦争は免れる事が出来る

(栄光一二六号)

 今最も世界人類に脅威の的とされているのは何といっても第三次世界戦争であろう事は、今更言うまでもない。現に日本は固より、全世界の識者という識者は、夫々の立場からこれを防止すべく、全智能(ぜんちのう)(しぼ)って筆に口に論議しつつあるのは、人皆知る通りである。処がどうした訳か、独り宗教家に至っては、それに対し何等の発言をする者のないのは、実に心もとない限りである。

 そこで先ず考えてみて貰いたい事は、一体宗教の目的は何であるかという事である。言うまでもなく、戦争のない平和時代を実現するにあるのは分り切った話である。としたら現在の如き、第三次戦争必至というこの危機に直面していながら、手も足も出ないのか、全然沈黙しているという状態は不可解(ふかかい)の外はあるまい。成程宗教家たる以上、政府の命令のない限りと、又年齢的にも武器をとる事は出来ないとしたら、宗教家は宗教家なりに、相応した平和的手段を以て、戦争防止の為一役買うべきではなかろうか。この意味に於て私は、戦争発生の原因と戦争防止、否人類から戦争を絶無(ぜつむ)にする事の可能であることと、その原理をかいてみようと思うのである。

 それに就いて、最も分り易くする為、病気を健康に就いての事をかいてみるが、いつもいう通り、病気とは人間の霊に曇りが溜り、その排除作用が肉体に映って生ずる苦痛であるから、人間の如何なる苦痛と雖も、原因は悉く霊の曇り、即ち肉体的に言えば汚濁の排除作用であるから、その苦痛を免れたいとしたら、汚濁を()めないようにすると共に、既に溜っているそれを排除する以外、解決する事の出来ないのは当然である。

 この理によって、集団的苦痛、即ち風水害、火災、地震、社会的暴動等も、悉く病気以外の浄化作用である。としたら、これの大きくなったものが勿論戦争である。従って、戦争が起らないようにするには、人間個人々々の霊の曇りを無くす以外方法のない事は余りにも明らかである。

 万一第三次戦争が起るとすれば、それは全く霊の曇った人間が増え切って、どうにもならない状態(じょうたい)となったからで、恐らく世界の殆んどは、現在汚濁人間で充満していると言っても過言ではあるまい。としたら何故この様に汚濁人間が増えたかというと、それこそ悪による罪が堆積したからであって、その根本原因こそ神の実在を無視する教育を受けて来た為であって、これが唯物教育であるから、この観念を是正(ぜせい)する事によってのみ解決されるのである。では何故そうであったかというと、つまり唯物教育によって、人間の魂を極度に曇らせ、盲目(もうもく)同様にしたからで、寧ろ当然な結果である。

 そうしてここで知らねばならない事は、万有の法則は汚濁の溜まる処、必ず自然浄化作用が発生する。例えば伝染病が流行するという事は、病菌発生が直接(ちょくせつ)原因(げんいん)であるとしたら、その原因は何かというと、それは浄化の必要ある人間が出来たからで、相応の理による自然発生である。処がこの理は何物にも共通する。即ち地上にある凡ゆる物質、例えば如何なる大都市でも、建造物でも、凡そ物質と名のつくものは悉くといいたい程、現在のそれは悪によって作られたものである以上、言わば罪の塊であるから、いつかは清算されなければならない運命におかれているのである。

 としたら人間も物質も、地上にありとあらゆる汚濁分子が一挙に浄化される。それが大戦争であって、これが宇宙の鉄則であるから、どうしようもないのである。この意味に於て第三次戦争を免れんとするには、この大浄化作用発生の必要のないまでに、人間はじめ地上一切のものが清浄化されなければならないのは分りきった話である。ではそのように一切を清浄化すべき方法はありやというに、私はありと答える。それが我救世(メシヤ)教の使命であって、この事の為に我救世教は生まれたのである。

 ここで別の説き方ではあるが、世界とは個人の集団であるから、個人々々が浄化の必要のないまでに立派な人間になりさえすればいいのである。立派な人間とは、勿論霊肉共に汚濁のない人間であって、そういう人間を造り得る力こそ、我救世教をおいて世界広しと雖も、決して存在しない事を私は知らせたいのである。これは理窟(りくつ)ではない。本教が現在行っている浄霊法を見ても分る。この方法が如何に絶大な効果があるかは、唯物医学で治らない重難病がドシドシ全治し、死を宣告(せんこく)された者が蘇生する等、無数に上る事実である。これだけでも多くを言う必要はあるまい。従ってこの空前の事実こそ、世界人類が救われ、地上天国出現の時期となった事の示唆でなくて何であろう。我救世教が全世界に拡がるとしたら、最早戦争による浄化の必要がなくなるから、戦争は起らないに決っている以上、ここに人類待望(たいぼう)の平和時代が実現するのである。

 これで大体分ったであろうが、要するに第三次戦争防止の手段こそ、我救世教を措いて絶対他にない事を断言して憚らないのである。故に万一それが間に合わないとしたら、第三次戦争勃発(ぼっぱつ)となるのは、免れ得ない運命として、何人も覚悟すべきであろう。

 

(御論文「第三次戦争を免か(が?)れる事が出来る」のあとの御教え)【註 栄光新聞一二六号】

 今読んだ通り、随分大きな事を言う訳ですけれど、之に就いて、最近聞いたんですが、進駐軍関係のアメリカ人で、大分メシヤ教の研究をしている集りがあるそうです。で、非常に共鳴と興味とを持って、こっちで発行したものを翻訳しているんですが、面白いと思います。若しアメリカあたりのニューヨーク方面にでも進出したら非常に良いと思います。今言う通り、戦争は大浄化作用です。浄化作用と言う事は、色んな罪穢れが溜っている。世界的に溜っている。そのお浄めですからね。だから、浄化作用が起らぬうちに、人間の方できれいになって了えば良い。と言うのは、人間の霊が浄まっていけば良い。そうすれば必要がないですからね。大体、人間が苦しむと言う事は、苦しむべき種がある。種をなくすれば良い。だから、個人々々の魂の汚たない処を取れば良い。そうすれば、戦争は起そうと思っても、起るものではないし、又、他で起そうとしても、何んとか故障が起ったり――色々して、起す事が出来ない。起せると言う事は、浄化するだけの汚たないものがあるからです。汚たないものを取ると言う。それ以外に戦争の妨(防?)止はない。それを知らないから、今の処は、強力な武器を作って、戦争をしかける人達を防せがなければならない。之は仕方がない話です。それは結局、一時的で永遠に戦争を無くする事は出来ない。出来ないどころか、何年か何十年か後には何うなるか分らない。それから、武器を大いに作った処で、又相手も作るから、結局衝突する日が来ると言う事にならない訳にはいかない。今迄の戦争でも皆そうです。従って、共産国家の方と自由国家の方は、この儘でいったら、何うしても衝突しなければならない。それを無くするのは、個人々々の魂を浄める。それには力がなければならない。その力はメシヤ教より他にはない。だから、之は何んな大きな声をして世界中に呶(怒?)鳴っても、何等不思議はないんです。それで、有りの儘と言う訳です。別に大きく言う訳ではない。むしろ小いさく言う位なんです。それで、之も大いに世界中の新聞とか雑誌とか、或は単行本とかによって世界中に宣伝したい。そう言う様にするには金が要るから、一寸やそっとじゃ中々追っつかない。そこで、そう言う資金を神様の方で、何とか出して呉れると思っている。だから、それが手に入り次第、世界的にやる。こんな意味です。

 それから、医学の革命もやろうと思っている。それが、大体来年あたりから手をつける様な事になるだろうと思っている。未だ時間がありますからね。文明の創造中の宗教篇。それで、話は一寸元に戻るが、今言った様な、世界的に大いに救うべき方法ですね。救わるべき原理ですね。それを頭に入れなければならない。と言うのは、文明の創造の著述ですから、世界的に宣伝するのは、丁度その本が出来た頃です。それが、多分――来年の予定ですが間違いないでしょう。それから、宗教篇ですね。宗教篇と言う処で――結局、東洋は仏教、西洋はキリスト教ですが、キリスト教の方は日本人どころじゃない。白人の方で良く分っている。唯、キリスト教と言うのは、何故生れたか、一体キリストと言うのは、何の御魂か、何う言う訳で生まれたかと言う事を書く積りです。それだけで、そう余計に書く事がない。処が仏教の方は中々あるんです。その中の仏教の起原ですね。一体仏教は、神様の方から言うと、何う言う訳で出来たかと言う事を書いてありますが、仏教は日本で出来た。日本人が仏教をつくった。日本に弘めるのは具合が悪い事があったので、神様は印度に行かれて、仏教を始めたんです。それで化身――化仏と言う訳ですね。化仏と言うのは、日本の神様が印度に行って仏になったから化仏と言うので、それが本当です。

 

   仏教の起源

(地上天国二九号)

 観世音菩薩の御本尊は伊都能売神である事は、以前から私は度々知らしてある処であるが、これについて分らねばならない事は、元来仏身なるものの根本である。単に仏といっても実は二通りあって、本来の仏身と神の化身との両方ある。そうして本来仏とは約二千六百年以前、釈尊の時から生まれたものであって、その頃までは今日の印度は、当時月氏国とも言われたので、同国に於ては余程以前から彼の()羅門(らもん)教が隆盛を極めていたのであって、この婆羅門教なるものは、教義のようなものは更になく、ただ肉体的難行苦行によって、宇宙の真理を摑もうとしたのである。今日でも絵画彫刻等に残っている羅漢等は、その苦行の姿であって、この姿を見ても分るごとく、樹上に登って鳥の巣の如きものを拵え、それに何年も静坐をした。当時の高僧鳥巣禅師等もそうであり、又掌の上に塔の模型の如きものをのせたまま、何年もジットしていたりする等、何れも一種異様な形をし乍ら、合掌坐禅をしており、一々見る者をして奇異の感に打たれるのである。酷いのになると板の上に沢山の釘を打ちつけ、その上で坐禅を組むので、釘の(さき)臀部(でんぶ)に穴が穿()き、出血と共にその苦痛は名状すべからざるものがあろう。併しこの我慢が修行なのであるから、到底今日では想像も出来ないのである。

 彼の達磨大師にしても、面壁(めんぺき)九年という長い歳月坐禅のまま壁に向って、瞑想(めいそう)を続けていたのであるから、その苦行は並大抵ではあるまい。茲で一寸達磨についての説であるが、右の印度の達磨大師とは別に、今から千二、三百年前、支那にも同名異人の達磨が現われたので、これがよく混同され易いようである。支那の達磨は聖徳太子の時代日本へも渡来し、太子に面謁(めんえっ)されたという相当確かな記録を私は見た事がある。

 話は戻るが、婆羅門の行者達は、何故それ程の難行苦行をするかというに、これについてはその頃多くの求道者達は、競って宇宙の真理を知ろうとして、その方法を難行苦行に求めたのである。丁度今日学問の修業によって、博士号や、名誉、地位を得ようとするようなものであろう。そうして達磨についての今一つの面白い話は、彼は面壁九年目の或夜、フト満月を仰ぎ見た時、月光が胸の奥深く照らすと思う一刹那(せつな)豁然(かつぜん)として大悟徹底したので、その喜びは絶頂に達したという事で、それからの達磨は見真実の如くに如何なる難問にも明答を与え、当時抜群の行者として、多くの者の尊信を集めたという伝説がある。

 そうして当時の印度に於ては、日本でいう天照大御神と同様、人民の最も畏敬(いけい)の中心となっていたのは、彼の大自在(だいじざい)天神(てんじん)であった。その外大梵天(だいぼんてん)帝釈天(たいしゃくてん)等々、色々な御名があるが、これは日蓮宗の曼陀羅(まんだら)に大体出ているから見ればわかるが、兎に角バラモン教が圧倒的に社会を風靡していた事は間違いない。処がその頃突如として現われたのが、言う迄もなく釈迦牟(しゃかむ)()如来(にょらい)であった。この経緯は後にかくが、兎も角、皇太子であられた(しっ)()太子(たいし)が、修行終って大覚者となり、出山したのである。太子は幽現界の真相を会得し、燃ゆるが如き大慈悲心をもって一切衆生を済度せんとする本願を立てた。そうしてその手段として、先ず天下に開示されたのが経文を読む事によって覚りを得るという方法で、これを大衆に向って大いに説諭されたのだから、当時の社会に一大センセーションをまき起したのは勿論である。何しろ当時婆羅門式難行苦行を唯一無二のものとしていた事とて、喜んだのも無理はない。何しろこれに代るべきものとしての読経という安易な修業(行?)であるから、茲に大衆は釈尊の徳を慕い、日に月に仏門に帰依する者続出するので、遂に釈尊をして印度の救世主の如く信奉の的となったのは無理もない。その様な訳で、遂に全印度を仏法化してしまったので、これが仏教の起源である。それからの印度は、さしものバラモンの勢力も漸次萎靡(いび)不振(ふしん)となったのは勿論であるが、といって全然消滅した訳でなく、今日も一部には尚残っており、同宗行者は中々の奇跡を現わしているという事で、英国の学者中にも、研究の為印度に渡り熱心に研究する者もあるとみえ、私は先年その記録を読んだ事があるが、素晴しい奇跡の数々が掲載されていた事を今でも憶えている。

 

(御論文「仏教の起原」のあとの御教え)【註 地上天国二九号】

 「幽現」と言うのは、「神幽玄」と三つにならなければ本当じゃない。「神界」は分らない。「幽界」だけが分っていた。ですから、お釈迦さんが説いた事は、地獄、極楽と言う、それから下で、それ以上の神界は説かないんですね。そこで「幽現」と書いた訳です。

 

(御論文「伊都能売神」)

   伊都能売神

(地上天国二九号)

 前項に述べた処は、大自在天なる言わば婆羅門宗盛んであった頃の、主宰者を表わしたのであるが、その当時曩に述べた如く、日本古来の神々は印度へ渡航し、化身仏となられたのである。その化身仏の総領が伊都能売神であって、当時日本に於ける最高の地位であられたのである。処がその頃素盞嗚尊を中心とする朝鮮の神々が渡来され、伊都能売神の地位を狙って要望したが、容易に応諾(おうだく)されないため威圧や迫害等から進んで遂に生命にまでも及んで来たので、急遽御位を棄てられ、変身によって眼を()らし、(ひそ)かに日本を脱出し、支那を通って印度へ落ちのび給うたのである。そうして観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)の御名によって、当時印度の南方海岸にある補陀落洛(ほだらか)補陀落(ほだらく)?)という名の、余り高からざる山の上に安住せらるべく新たなる清き(やかた)を建てられたのである。この事は悲華経の中にある。曰く『観自在菩薩は補陀落洛(ほだらか)補陀落(ほだらく)?)山上柔かき草地の上に、二十八部衆を従え、金剛宝座に結跏趺(けっかふ)()して説教をされた。云々』とある。当時まだ(ぜん)(ざい)童子(どうじ)という御名であった若き釈尊は、この説教を聴聞して、その卓抜(たくばつ)せる教えに感激と共に心機一転し、それ迄での悉達太子という皇太子の御位を放棄し、一大決意の下に、当時紊れていた俗界を離脱し、直ちに(だん)(とく)の山深く別け入り、菩提樹(一名橄欖樹(かんらんじゅ))の下、石上に安坐(あんざ)し、一意専心悟道に入るべく、修業(行?)三昧に耽ったのである。この修業(行?)の期間について、諸説紛々としているが、私は七カ年と示された。

 そうして行成り出山するや、愈々釈迦牟尼如来として仏法開示にとりかかられたのであるから、実際上仏法の本当の祖は、日本の伊都能売神であった事は確かである。

 そうして今一つ日本から仏法が出たという証拠として見逃し得ない一事がある。それは仏教でよく称える本地(ほんち)本地(ほんじ)?)垂迹(すいじゃく)という言葉である。これは私の考察によれば、本地とは本元の国即ち日本であって、垂迹とは勿論教えを垂れる事である。即ち最後に至って、故郷である日本全土に一度仏の教えを垂れると共に、仏華を咲かせ、実を生らせなければならないという密意である。又今一つは観世音の御姿である。その最も特異の点は漆黒(しっこく)の素直な頭髪であって、これは日本人特有のものである。それに引換え釈迦、阿弥陀は全然異った(あか)(いろ)、縮れ毛であるにみても、両如来が印度人であった事は明らかである。

 又観世音の王冠や首飾り等も、高貴な地位を物語っており、頭巾を被られておられるのは御忍びの姿である。そうして又、釈尊の弟子に法蔵菩薩という傑出した一人がいた。彼は一時釈尊から離れて他の方面で修業(行?)し、行成ってから一日釈尊を訪れて言うには、『私は今度印度の西方に一の聖地を選びて祗園精舎を造り、これを極楽浄土と名附けた。その目的は今後世尊の御教えによって、覚者即ち仏の資格を得た者を寄越して貰いたい。さすれば右の極楽浄土、別名寂光の浄土へ安住させ、一生歓喜法悦の境地にあらしめるであろう』といって約束をされたのである。寂光とは寂しい光であるから、月の光である。処がこの法蔵菩薩が他界するや、阿弥陀如来の法名となって、霊界に於て一切衆生を救われたのである。つまり現界は釈迦、霊界は阿弥陀が救うという意味である。

 そうして観自在菩薩は、終りには観世音菩薩と御名を変えられたのである。これは梵語(ぼんご)ではアバロキティシュバラの御名であったが、後支那に於ける鳩摩羅什(くまらじゅう)なる学者が訳され、観世音と名附けられたという事になっている。処がこの観世音の御名については一つの深い神秘があるから、それをかいてみよう。

 

(御論文「観世音菩薩」)

     観世音菩薩

(『文明の創造』より)

(御論文「伊都能売神」「観世音菩薩」のあとの御教え)

 こんな具合で宗教篇も未だ色々あるんですが、色々実際上の事を根拠として書いてありますから、信じ易い訳ですね。

 最後に浄霊ですね。之は、今迄振ってましたが、之からはやめなくてはいけない。どうしても、こう(振る)すると力が入る。そこで、どうしても力が入らない様にするには、じっとしているんです。ですからそう言う様にして貰いたい。その代り、じっとして――少し位は動かしてもいいが――大体原則としては動かさないと言う事です。そうして、出来るだけ力を入れないで、ぼやっとしているんです。びんとしない。之は逆ですからね。一生懸命に治そうとすると力が入る。ここの処を間違わない様に。力を抜く事をやる様に。そうすると、今迄よりか何倍も良くなる。そうすると、今のお蔭話にあるが、一時間やったとか、二時間、三時間やったとか言うあれば嘘です。あなた方がやっても、二十分か三十分位で治ります。

 

 

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