もう大抵な人は見たでしょうが、「結核信仰療法」はまだ幾らにもならないが、大分出そうです。あれを関係者の人が見たら、随分驚くだろうと思います。御神業というものは、やはり霊的の戦さなのですから、今まで長い間、なにしろ敵はなかなか大きいし力があるから、それで負け戦さだったのです。始終こっちが負けどおしで手も足も出なかったのです。それが、やられやられしながらもだんだん力が出て来て、今年からいよいよ勝ち戦さになったのです。それで「アメリカを救う」と「結核信仰療法」という武器がこっちにも大いに出来てきたのです。それで「結核信仰療法」の本は原子爆弾です。この爆弾で医学の方は息が止まってしまうのです。しかしなにしろ相手はまだ大変な力を持っています。しかし力を持ったところで真の力ではないので、ただ形だけの物で内容は空虚な物なのです。そこであれを見たら黙まっては居られません。何とかこっちに質問するとか、反抗しなければならないわけです。そこでこれからだんだん、医師会とか又当局の方でも大いに考えて、智慧をしぼって、〝救世教の奴は太い奴だ、何とかやっつけてやらなければならない〟という様な相談が起るだろうと思います。何故ならば、あれで向うが沈黙して居れば黙認した事になります。容認した事になりますから、それでは大変です。医学が負けてしまいますから、何とかしなければならないと思って、よりより随分と相談したり考えたりするに違いないです。そうかと言ってこっちは実際ですし、あの百の例を見れば、何とも言えません。そこで結局において黙まって我慢してしまうより外にしようがないだろうと思います。そうすれば神様の方が勝ったわけです。つまり科学と宗教の戦いですが、宗教が科学に対して勝つわけになりますが、ここに大変な意味があるのです。というのは今まで宗教は科学に負けていたのです。だから宗教は始終科学から非難されたり軽蔑されたりし、又世の中の人も宗教、特に新宗教は迷信と片付けて、科学でなければいけないと、何にでも〝科学的〟という言葉を使うと、それが立派に見え、信用できる様に見えるのです。科学というものを頭に付ければ、それで信用するのです。だから何かというと〝それは科学的でないから駄目だ〟と言い、〝これは科学的に見てこうだ〟と言うと大変立派に見えるのです。〝それは宗教的だ〟と言うと、もう迷信臭くなって、何となく軽蔑してしまうのです。そういう状態だったのです。そこで私は科学が迷信だという事を唱えるのです。しかしそうは言うものの、それにも理窟はあるのです。実際今までの宗教は力が無かったのです。科学より力が無かったのです。そして結局戦いは力ですから、力の強いのが勝つのです。これは殴り合いと同じで、力のあるのが勝つのです。ただそういう肉体的力の暴力でなく、要するに霊の力です。霊ですから、今までの普通の戦いの勝ち負けとは違うのです。ところが今までの宗教は霊の力が無かったから、科学つまり体に負けたのです。まあ、霊主体従であるべきのを、体主霊従であったのです。それで今度こっちは霊主体従の実を示すのです。そこで科学に向って挑戦し、そうして科学が宗教に負けるという結果になるのです。だから今やりだしたああいう本の意義というものは大変なものです。いよいよ宗教が科学より上だという実を見せるわけです。ですから医学の方の説というものは、実に曖昧極まるものです。今朝もラジオの第二放送で喘息の話が出てましたが、はっきりとした事は言えないのです。その喘息の原因がいろいろありますが、滑稽なのは桧木作りの家にはいると間もなく非常な喘息の苦しみが起ったというのです。そこでだんだん調べてみると床に米松を張ってあったのに気がついて、これだなと思って、それから床板を外の板と取り替えたのです。それで良くなったというのです。これが喘息の原因なのです。又こういうのがあります。日本はまだ良い方ですが、西洋では壁の色が影響するというので、いろんな色を塗って、べつに大して苦しみがないと、この色が良いという事になるのです。われわれからみると、まるで茶番です。そんなに情ない医学です。だから今朝の放送を聞いても、お医者さんもうまい事を言ってます。〝この薬で、この注射をするとなおる事になっている〟と言い、なおるとは言わないのです。又〝この注射をすれば効果はあるのだ、しかしこのためにかえって悪くなる人も偶にはあるから、これでなおるとは安心はできない〟という言い方です。医学を子供とすると、こっちは横綱の様なものです。片手でひねり出すくらいの力があります。しかしそれだけなら良いが、そのために何万何十万億の人間がその被害者になって命まで取られてしまうのですから、これは大変な問題になりますから、どうしても救わなければならないのです。実に可哀想なもので、お蔭話などを見て、何時も涙がこぼれるくらいです。余りに酷い目にあってます。それを世の中の人の一人でも余計に知らせなければならないのです。そのために今度いろいろな本を出したわけです。それから自然栽培にしても理窟は同じ様なものです。
それからだんだんに政治、経済、教育という方面にまで革命するつもりで居ます。結局救世教の目的というものは、世界の文化を革命するという事です。それで政治について、この間こういう話があったのです。これは信者の人は知っているでしょうが、信者で衆議院議員三人と参議院議員の人が一人居ましたが、毎月十六日にその人達と質疑応答をやる事になっているのです。政治界の事や社会のいろんな事を知る上において参考になりますし、先方も又現界の知識ではなく霊界の知識を大変に得ますから、面白いのです。私はその時こう言ったのです。なにしろ今の政治というものは見て居られない。それで政党を作ってもいいが、その代り信者で代議士が三十人以上できれば政党を作るといったのです。私が総裁になるわけではないが、誰かを立てて、その人を総裁にして相当にやってもいい、その代り無論選挙も別に変な事はするはずはないが、ただ印刷物をもって政見発表をするのです。あとは地域的に演説をするという、それだけで、外の不正な事は絶対にしないのです。そうして政党として行動する場合、間違った政策とか情実という事は絶対にしません。徹頭徹尾公平です。ですから反対党の方でも説が良ければ賛成するし、それから政府の案でも絶対に国家人民の幸福になる事なら賛成するという様にして、要するに模範的な政党にするのです。それが本当に分れば第一党になるかも分りません。何となれば人民の方で、〝誰に投票しよう、どの当が良いだろう〟という場合に、何党にしても安心のゆくものはないのです。〝どうせ蔭では何かやるに決まっている、政権を握っても蔭では何をやるか分らない〟と、絶対に信用のできるものはないのです。しかし若しこっちの方でやるとすれば、すべて安心のできる事をやるから、どうしてもこっちの政党に多数が投票する事になるから、かえって非常に多数の投票がはいって、或いは第一党になる時期が来るかも知れないと言ったら、大いに共鳴してましたが、或いは実現するかも知れない、というよりか、実現するでしょう。そうなれば本当に良い政治ができるわけです。今までは間違っていたのです。それで本当言うと選挙だけでは駄目なのです。いくら宗教が威張ったところで、とに角政府が監督しているのですから、政府が良い政府なら良いが、若し間違った政府なら、その宗教をやっつけるのはわけはありません。今は民主的になったから良いが、終戦前は政府の方では、ただ好き嫌いで決めてしまうのです。〝あいつはどうも虫が好かない、ではやっつけてしまえ〟と、何でも実に危ぶないものです。そのくらい宗教には力が無かったのです。これはむしろ古い時代には宗敎の方がずっと権威を持っていたのです。それは坊さんというと大変な権威を持っていたのです。昔の坊さんというものは、天皇とか将軍、公方様よりも上におかれていたのです。ですから何かの場合に坊さんの言う事を聞いたり、坊さんの一言で決まったりするのです。なにしろ元弘の乱の時、北条時政が禅宗のその時の有名な坊さんに教えを乞うて決心したという話がありますが、そのくらい尊ばれているのです。ところが明治以後の今日では非常に値打を下げられたのです。しかも新宗教とくると、まるでインチキものの様に見られ、今もって一般から軽蔑されているわけです。だからいくら宗教が良い事をして、無神論者に神を認めさせようとしても、政府が手伝わないどころか、むしろ無神屋の方に味方しているくらいですから、こういうものをだんだん直さなければいけないと思います。だから或いは神様の方では政治まで改革されるかも知れません。なにしろ如何に宗教が情ないかという事は、今は宗教は政治に関係しては絶対にいけないのです。最近は大分なくなって来たが、私が前に光新聞をやっていた時に、政治についてちょっと書いた事があります。そうすると、政治には絶対に干与するなという事を注意された事があります。しかし宗教家とは言えども政治家の政治の下に居る以上、社会人と同じで、政治に対して非難しても良さそうなものですが、いけないのです。ですから私は、書きたい時には寸鉄でいくらか気を吐いたわけです。それは宗教が政治に干与して非常な悪影響を及ぼしたという事は西洋にはあります。それはローマ時代には確かにあるが、日本にはそういう事は今までにないのです。それを直訳してしまって、そうして政治に干与すべからずという事になったのだと思います。だから何か方法をもって、宗教の一つの権威というものをだんだん作らなければならないのです。それにはやはり科学の上に行かなければならないのです。それで私は始終科学の方が宗教より下だという事を唱えているのです。ところがそういう考えを持つ宗教家は居ないのです。なにしろ皆が病院を作っているくらいですから、科学に負けているのです。しかしこっちはこれから、科学を下にするという様な仕事をして行くわけなのです。それで「結核信仰療法」なども、やはりその一つのものなのです。
それから私は「墳墓の奴隷」という論文を書いてます。墓所の奴隷というのですが、それはお墓にはいった人が作った宗教とか学問とか、文化的ないろいろな物がありますが、その中で役に立つ物は採用して続けて結構ですが、役に立たない物が沢山あるのです。そうすると役に立たない物を今有難がっているとすると、墓の奴隷になっているわけです。ところで宗教方面でもその墳墓の奴隷が多いのです。何百年何千年前に死んで墓の中にはいった人の教えとか、説いた事を、今有難がっているのです。それは役には立たないのです。それにお辞儀をしたところで病気はなおらないのです。それでも、なおると思って一生懸命にかついでいるのですが、それが結局墳墓の奴隷です。ですから古い役に立たない宗教を信じている人は墳墓の奴隷になっているのです。言い方は少し酷いですが、この方が一番はっきり分ります。そういう様ですから、新しい宗教と言えば救世教だけです。私が何時も言うとおり、今まであるものは私はやらない、何故と言えば、もうやってしまったのだから必要がないのです。ただ幾分改良する事がなければならないから、それは結構だが、しかし今までやった事がない事をやってこそ意味があるのです。そういうわけで私のやる事は何でも新しいのです。ただ新しいと言っても、前の物より良くならなければならない。前の物と同じか、それ以下のものだったら、やらない方が良いのです。前の物より良くて新しいという物を大いに作らなければならないのです。ところが口で言えばわけはないが、なかなか難かしいのです。人間というものは古いものに癖になっているのです。汚ごれた着物を着ているから、それは気持が悪いから新しいのをと言っても、まあまあと言って放っておきますが、それと同じ様なもので、良いとは知っておりつつも古い着物はぬぎ難いのです。だから救世教は確かに良いという事は分っていても、それに直ぐ飛び付く事ができないのです。しかし古い古いと言っても、宗教ばかりではないので、医学がそうです。救世教は確かに良い、しかし今まで飲みつけた薬を止めるのは決心がつかないという事は、今まで汚ごれて穴のあいた着物を着て満足している様なものでしょう。だから新宗教でも、かえって外の宗教の古いのにかじりついて満足している人も沢山あるのです。だから新しいものを、前のより良いのだから、早くこれを拝んだらいいだろうという事も、なかなか簡単にはゆかないものなのです。今言った様に本当に新しい宗教は救世教以外にはないのです。外の宗教は形だけが新しく出来たというので、内容は古いのです。丁度、救世教は新規に揃えた着物ですが、外の宗教は色抜きをして、染返しです。これは此処だから言えるのですが、新宗教の方に分る所ではあんまり言えません。そのつもりで、ただ心の中にしまっておけば良いのです。〝君は大変良い物を着ているが、それは古いのだよ、染返した様なものだよ〟と言えば怒ります。
それから美術館は今年は去年とは余程変ると思います。それで箱根の宿屋や登山電車の方で早くしてくれと言って非常に頼みに来たりするし、それから又外の方でも大分評判になって来て、早く聞いてもらいたいという声も大分あるので、四月二十一日に開く事にしました。そして特別展としてエジプト、ギリシャ、ペルシャ、インドの物を出します。中国のは無論ですが、去年とは大分違ってます。去年は陶器に絵画ですが、今年は銅器も出します。これはすばらしい物で、大抵二千年から三千年前後の古いのが多いのです。周時代と、その前の商、殷という頃の物です。そういう銅器も大分出ます。それから面白いのは、日本では西洋の古い骨董品は見る事ができないのです。というのは博物館はあれに手を出さなかったのです。これは前に帝室博物館、その次に国立博物館となったので、とに角日本の物を専門にしたのです。ただ支那の物は混ぜたくらいです。そこで外国の物までは手を出さなかったのです。ところが調べてみると日本にはそういう物がなかなかあるのです。それが今年になってから非常にはいってくるのです。私はそういう事には全然関心を持っていなかったが、不思議にはいって来るのです。それで神様がこの展覧会をやらなければいけないという意味なのです。それで一部屋だけそういう美術品を並べる所ができるわけです。もう三十点くらい集まりました。それがなかなか面白いのです。私はあんな古い物で、しかも西洋で、そんな良い物が出来るとは思わなかったのですが、すばらしい物が出来てます。なにしろエジプトの三千年前の物でも見るべき所があるのです。そういうのを陳列します。そして六月から浮世絵展をやるつもりです。今度出来る別館を主にして浮世絵展をやるつもりです。浮世絵も又去年の夏あたりから非常に集まって来たのです。ですから今までの浮世絵展としたら一番だろうと思います。実に良い物が集まったのです。ただ版画は私は最初にあんまり興味がなかったので、割に数が少なかったのです。ところがこの間博物館ですっかり調べに来てくれて、私の方で足りない分は博物館のを貸すという事になってますから、とに角非常に充実した浮世絵展ができると思います。それから仏に関した物もなかなか良い物がはいって来ています。これらも神様がやるだけに実に不思議な品物です。多分出ると思いますが、日本一の物というのがはいってます。それは法隆寺にあるのより上なのです。これが民間にあったという事は不思議なのです。もっともこれは或る有名な寺の本尊さんです。やはり天平時代の物ですが、それと同じ物で法隆寺のはもっと小さいのです。私の方は大きいのです。それは日本一ですから、無論世界一の物です。そういうのも出すつもりです。ですから仏像の中でも相当に良い物が出ます。それから現代の美術品はどうも人気がないので今年はやめるつもりです。そういう様で、去年よりも相当充実したものになります。去年はただきれいだったのです。全般的にわたった物をやったが、今年は非常に面白味がある展覧会になるだろうと思いますから、そのつもりで楽しみにしてもらいたいと思います。
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