スターリンが危ぶないという外電がありましたが、どうせ脳溢血の相当重いので、ロレツが廻らないのだから、或いはもう死んでいるかも知れません。脳溢血で一番重いのはロレツが廻らないのです。これは重いのです。ごく重いのは動く(手が震う)のです。しかしこれは滅多にありません。普通はロレツが廻らないのと、意識が不明になるのとです。それで右の手足が動かないというのですから本格的の脳溢血です。私は何時かスターリンが死ぬのはそう長くないという事は言ってありますが、しかし思ったより早かったです。まだもう一、二年は生きると思ってましたが、やはり神様の方では急がれるのです。どうせアメリカの方では中共をやっつけるのですが、それにはスターリンが居ない方が、アメリカの方はずっと有利なのは当り前です。とに角スターリンという人物は傑物でした。なにしろ大きさもあるし、非常に危ぶなげがありません。そのやり方をみると、考え方が余程深いのです。それに比べるとヒットラーという人は全くオッチョコチョイでした。それはヒットラーも非常に大胆で偉い所があるが、考え方が浅かったのです。それに比べるとスターリンの方は考え方がずっと深いのです。だから戦争も決してしかけるという事はしないのです。この事は私は前から認めてます。決して積極的には出ません。悪く言えばずるさがあります。それは実にずるいです。朝鮮問題にしても、うまく中共を踊らして自分の方は一兵も損じないであれだけの戦をしているという事は、その点においてはアメリカも敵いません。とに角アメリカは自分の国の兵隊を動かして表面に立ってやるのですから大変な損です。おまけにソ連の方は非常に近いのですが、アメリカは遠いからして、遠くから兵隊にしろ武器にしろ運ばなければならないから、それはソ連とは比べ物にならないほど割が悪いのです。そこでアイゼンハウアーは、早く片付けなければ大変なマイナスだと積極的に出たわけですが、そういう様であのやり方の考えの深さはスターリンの方がずっと上です。アメリカのやり方でまずかったのは、日本の軍部をあまり恐れ過ぎたのです。この見通しができなかったのです。それはマッカーサーにも責任がありますが、日本の軍部に対するあれほどまでの恐怖は不必要だったのです。必要以上に軍部を恐れたのです。敗戦であれほどまでになった後では、何もできるわけはないから、あれほど極端に恐れなくてもいいのです。だからもっと緩和政策をとって、軍部の相当の地位の人までは残しておけば良かったのです。そうすれば今度の朝鮮問題に対してのやり方にも非常に役立ったのです。今になって大佐階級の軍人を目立たない様に引張ってます。だからいよいよ始まる日になると、向うに対する強圧手段としても、日本の軍人のいいところの人を、それだけの地位におくという事が非常に必要なのです。ところが何故そうしなかったかというのは、ソ連というものに対する見通しがつかなかったのです。将来ソ連は野心を持っているという事は知っていたが、中共をこれほどにして、おまけに朝鮮までに手を出させるという事は、アメリカとしても予想しなかったのです。そこに手ぬかりがあったのです。それを予想していたら、日本をあんなにやっつけるわけはないのです。そこにトルーマンという人の限界が小さかったのです。どうも、ただ局部のごく小さくしか見えなかったのです。そこで朝鮮問題というのもあんなに焦げついてしまって、何とかしなければならないという事になってアイゼンハウアーが大統領に当選したわけです。まあ、国民がそういう点を感じて来たのです。ところがスターリンが死んだとすると、あと一時的にはモロトフが主脳者になるという事もあるでしょうが、強い所はありますがそれはとてもスターリンの様な大きさはありません。それからよく話題に上るマレンコフですが、まだ五十二才ですから若いがなかなかの切れ者らしいですが、まだとてもスターリンとは格段の違いです。そこで当分は合議制でやるだろうと思います。そうかと言って、今までの方針を変える事はできないから、やはり中共を援助して、当分は現状維持という方針にするでしょうが、そんな事をしているうちにアメリカの方はだんだん準備します。二、三日前の新聞かに、台湾で国民軍の兵隊に上陸作戦の演習を二週間前からさせているという事がありましたが、これが支那本土に上陸する予定なのでしょう。それからもう一つは、鉄砲の弾を何千万発とか言ってましたが、価格で二億二千万円というものを日本で引き受けて契約済みになりました。そういう様で、アメリカでは着々と準備してます。私が「世界夢物語」に書いたとおり、準備にはまず半年乃至一年はかかるだろうと書いておきましたが、早くて半年、普通からみれば一年くらいで火蓋を切るのは、まず間違いないでしょう。それには、スターリンが死んだという事はアメリカには非常に有利なのです。神様はどうしても「夢物語」にある様な順序で、まず最初の目的は中共を目茶々々にして、蒋介石の方を元どおりに立てるというわけですが、その方策を実現する上から言って、スターリンの死という事によって、非常に促進され、楽に行くわけです。これはやはり神様の経綸です。
日本の政界での、吉田さんの「馬鹿」野郎問題ですが、余程頭がどうかしていると見えます。あれは男らしくありません。〝全く間違っていた〟と責任を負って辞職すればいいのです。そうするとずっと形がいいのです。それを今もってしがみついて、何とかしようというこの態度がいよいよ恥の上塗りという結果になります。これは確かに間違っているどころではなく、あんまり酷過ぎます。総理大臣とも言われる者がああいう言葉を発するという事は、少し頭がどうかしたとみるよりありません。吉田さんという人は偉いのですが、何んでも彼んでも自分の事を押し通そうとするのが欠点です。「負けるが勝」という戦法を本当に知らないのです。又知っていても実行できないのです。だから悉く自分でそういう種をまいているわけです。つまり正直過ぎるのです。もっと喰えない人間にならなければならないのです。この点があの人の欠点です。前の福永問題とか最近の広川問題でも、ああいう事をしなくても、ちょっとやればフッと治まってしまうのです。それを妙な所で意地を張ってしまうので、非常に損をしてます。そのために今度の問題も、泥沼に端を突込んだ様に、ぬきさしならぬ事になり、結局辞職か解散です。それで解散でおどかしてますが、しかし解散したら、一番損なのは自由党です。今度総選挙になったら、金が大変ですから……。それであの人の一番惜しいと思う事は、時期という事を知らないのです。つまり講和問題でアメリカに行った時が、丁度花の盛りなのです。あれからだんだん花が散って、もうほとんど凋落して、葉まで落ちて来たのだから、もう自分の運命を覚らなければならないのです。それを相変らず花を咲かせ様としているのですが、そこに間違いがある。こうなると自由党の頭数は、この間の投票でも分るとおり、数が足りないのです。そうしてみると、もう一日一日凋落しているのです。だからここでいさぎ良く(潔く?)引き渡すという事が、終りを全うする最もいい事ですが、それを今もってしがみついているのは、まず時を知らなさ過ぎます。まるで時局講演の様になりましたが、このくらいにしておきます。
それから「アメリカを救う」の本も予想どおり非常に良く売れるのです。今もって売れているそうです。ですからベストセラーになるでしょう。この次は「結核信仰療法」を出そうと思ってます。これも随分売れるだろうと思います。というのは結核で散々お医者にやってもらってなおらないので、何か外の良いやり方はないかと思って迷っている人がどのくらいあるか分りません。その人達の中には、こうなっては何か神仏を信仰したいと思う様な人が随分あるだろうと思います。しかしただそれだけでは何を信仰して良いか分らないが、そこに〝信仰療法〟というのですから、まずこれを読んでから腹を決め様という人が沢山あるでしょうから、それにピッタリするわけです。やはりその時期と、それに合わせる方法がピッタリ合うのでうまく行くのです。だから「アメリカを救う」なども時期がごく良かったのです。講和後少したって、日本人は劣等感が強く、しかも最近はアメリカ医学を崇拝し、アメリカの薬を非常に欲しがってますから、丁度時期が良かったのです。それから標題が良いという事は皆が言ってます。これはつい読みたくなると言ってます。今はみんな、アメリカより日本の方が文化が低い、遅れている、負けている、という様な状況です。その中で、こっちは、それを救うというのです。アメリカよりずっと上になる事を言うのですから、アッと思わせるのです。若し私が商売をやっているとすれば、うまく人気をとり、金を儲けるのはうまいという事になります。
それから「結核信仰療法」の次に出すのは、「救世教奇蹟集」というのです。奇蹟は栄光に始終出しているから読んでいるでしょうが、素晴らしい奇蹟を世の中の人に知らせたいのです。しまっておくのは惜しいのです。それを百例選りぬいて、それを裏付けとして、奇蹟の理論と実際の裏付という事で書きます。これはまだ少し間がありますが、いずれ出そうと思ってます。この標題には〝科学への原子爆弾〟として、そうして〝救世教奇蹟集〟とします。それについてこの間その序文を書いて出しましたが、次のもそう長いものではないのですが、出来ただけを今読ませます。
御論文〔一、奇蹟とは何ぞや〕
奇蹟とは何ぞや
(『救世教奇蹟集』)
一体奇蹟なるものは、何であるかというと、勿論あり得べからざる事が現実にある事をいうのであって、それが理窟でも科学でも経験でも解釈出来ないところに、奇蹟の奇蹟たる所以があるのである。然も常時ある訳ではなく、予期しない時と所に突如として起るので、よく偶然と間違えられ易いのは衆知の通りである。又奇蹟は昔から信仰者に多いとされているが、そうばかりともいえない。無信仰者にも往々あるにはあるが極く稀で、多くは見逃してしまうのが常である。又宗教的奇蹟といっても、宗教によって大中小様々あり、多い少ないもあるから一様にはいえないが、奇蹟が著しく、数も多い程、卓越せる宗教であるのは言うまでもない。
処が我救世教に至っては、奇蹟の多い事は恐らく世界に例があるまい。全く奇蹟の宗教といってよかろう。そうして社会一般の通念からいえば、信仰心が強ければ強い程、奇蹟的現当利益に富むとされているが、その点本教は大いに異っており、寧ろ反対である。というのは最初から神を否定し、何程疑っても必ず奇蹟が起るのである。例えば医師から見放された重症患者が本教へ来る場合、疑ぐり抜いても効果に変りはない。即ち浄霊を受けるや忽ちにして偉効現われ、愕然とするのである。又本教信者に繋がりのある近親者なら、信仰がなくとも奇蹟的恩恵を受ける事も屢々ある。
では以上のごとき奇蹟の本体は何かというともちろん偶然は一つもない。起るべき理由があって起るので、それをこれからかいてみるが、現代人に分り易くするため、科学の方式に則って説明してみよう。先ず科学上新しい発明発見をしようとする場合、最初理論科学が出来、それを基本として実験科学に移り、実験の結果その裏附けとなるべき物的現象が現われ、初めて確認されるのである。彼の湯川博士の中間子論にしてもそうで、氏の発見した理論科学の裏付けとなったのが、一米国の科学者が偶々宇宙線撮影の際、数個の核が映ったので、これが中間子と分り、玆に世界的発見となったのである。処が私はそれと同様どころか、寧ろそれ以上で理論と実際とを同時に発見し把握したのである。即ち神霊理論科学とその裏附けとしての実証である。それが本著に載せてある百二十の実例で、これが全部本人手記であるとしたら、何をか言わんやである。故に信仰は別としても、科学的に証明されたのであるから、これこそ現代科学のレベルを遥かに抜いた最高科学といっても過言ではあるまい。実に文化史上空前の大問題が提供された訳である。
御論文〔二、霊主体従〕
霊主体従
(『救世教奇蹟集』)
そうして現代科学といえば勿論唯物科学であり、唯物科学とは目に見え、手に触るる形あるものを対象として研究し進歩したものであるから、あらゆる物象の表面だけが或程度判ったに過ぎないのであって、その内面に存在する重要な或物に気附なかったのである。この或物とは何かというと、これこそ無に等しいもので、名附けて霊という。この霊なるものこそ凡ゆる物象の主体であって、この事の認識が出来ない限り、何程科学が進歩したといっても、それは半分の進歩であり、跛行的でしかない以上、正しい文化の生まれる筈はないのであるから、この事が明らかになって初めて今まで不可解とされていた凡ゆる問題も、容易に解決されるのである。何となれば一切は霊が主で体が従であり、霊主体従が万有の法則であるからである。一例を挙げれば人間が四肢五体を動かすのも、眼に見えざる意志の命によるので、決して五体が勝手に動くのではないと同様である。故に奇蹟と雖も本原は霊に起り、体に移写するのであるから、この理を先ず確認する事である。それには病気が最も分り易いから、これによって説明してみよう。
元来病気とは肉体に現われた現象であり、結果であって、勿論本原は霊にある。即ち最初霊の一部又は数個所に曇りが発生し、それが体に映って病気となるのであるから、この曇りさえ払拭すれば治るのは明らかである。この様に病原は霊にある以上、体のみを対象とする医学で治らないのも当然であり、対症療法の名がそれである。これにみても現代医学は全く見当違いである以上、一日も早くこれに目覚めて、再出発されなければならないのである。然もこの無智の結果、如何に多くの犠牲者が作られ、悲惨な運命に泣いている現状は、到底黙止出来ないのである。処が喜ぶべし、玆に神の救いは現われたのである。即ちこの誤れる医学を革正すべき大任を、神は私に委ねられたのみか、この過誤はひとり医学のみではない。凡ゆる文化面に亘っているのであって、今一つの例を挙げてみよう。それは多くの犯罪である。これも病気と同様表面に現われた結果であり、その病原は霊即ち魂にあるに拘らず、それに気がつかない為、これも医学と等しく対症療法即ち刑罰を以て解決しようとしているが、これも一時的膏薬張りでしかないから、何程骨を折っても犯罪は依然として浜の真砂である。故にこの魂の改造こそ、宗教以外にはあり得ないのであるから、この事も早急に気附かねばならない。以上の如き二大事実によっても明らかな如く原因は霊を無視する処にあるので、これを徹底的に知らせる手段としての奇蹟である。
これは何時も言ってますが、ちょっと面白から読ませます。
御論文〔天国的宗教と地獄的宗教〕 【註地上天国 四十六号】
天国的宗教と地獄的宗教
(地上天国四十六号)
先ず宗教に就いてありの侭を書いてみれば、今日迄の凡ゆる宗教は、悉く地獄的宗教と言っても、敢えて侮言ではなかろう。何となれば、主だった宗教程、開教当時蒙った法難、受難に悩んだ事は例外ない程で、宗教に法難は附物とされている位である。然もその宗教の信者までも、迫害や受難の道を辿って来た事実は、史上教え切れない程であって、中には読むに堪えない慄然たるものさえあるのである。
今日世界を風靡しているキリスト教の開祖イエス・キリストにしてもそうであって、十字架上の露と消えた事蹟や、パリサイ人共の迫害は有名な話であるが、日本に於ても大なり小なり、茨の道を潜らない宗教家はなかったと言ってもいい。只その中で、釈尊と聖徳太子のみが例外であったのは、言う迄もなくその出身が皇太子であったからである。
そうして如何なる宗教の開祖にしても、勿論悪ではないどころか、凡人以上の善者であり、人並外れて愛が深く慈悲に富み、不幸な者を救わねば措かないという信念を以て、命を犠牲にしてまで救いの業を貫こうとしたのであるから、善の塊りとも言うべき聖者である。従って本当から言ば、その時の政府も民衆も、その労苦を犒い感謝し、最大級の優遇を与えるべきに拘わらず、反ってその逆に悪魔の巨頭の如く憎悪し、迫害、圧迫、生命迄も絶とうとするのであるから、恐らくこんな不合理な話はあるまい。故にこれを冷静に批判する時、右の如く大善者を憎み、虐げ、葬ろうとするその行為は、その人達こそ悪魔という事になるのは、理の当然ではあるまいか。そうして本来人間という者は、善か悪かのどちらかであり、決して中間は存在しないのであるから、換言すれば神の味方か悪魔の味方か、どちらかである。とすれば、神を嫌い、無神思想を唱え善を行う宗教に反抗する人は、悪魔の僕ということになるのは当然である。そうして今日偉大なる宗教とされているその開祖にしても、初めの内は悪魔扱いにされ、極力迫害されたに拘わらず、遂に悪は負け善が勝ったのは歴史の示す通りである。
キリストが受難に遭いながら〝我世に勝てり〟と言われたのもその意味であり、味わうべき聖言である。
故に既成宗教は、開祖の死後相当の年数を経てから漸く認められ、神と祀られ、仏と崇められたのが殆んどである。勿論その教えによって、人間に歓喜を与え、社会の福祉増進に寄与する処大であったからであろうが、開祖生存中に、そのように認められた宗教はないと言ってもいい位で、法難は当然のように思われ、信者としても苦難の生活を寧ろ喜ぶような傾向にさえなってしまったのである。特にキリスト教の如きは、キリスト贖罪の受難を亀鑑として、苦しみを覚悟の上蕃(蛮?)地深く分け入り、身を挺して活躍した悲壮なる史実も、これを読んで胸の迫る思いがするのである。だからこそ今日の如く、世界到る所にキリスト教程根強く教線の張られた宗教はないのである。日本に於てすら、彼の切支丹バテレンの迫害や、天草の乱などを見ても、思い半ばにすぐるであろう。
処が、以上書いた事は、他動的、不可抗力による苦難であるが、そうではなく、自分自ら進んで苦難を求める信仰も少なくはない。即ち、キリスト教における一派の戒律厳守、禁欲主義者、修道院に一生を捧げる人達もそうだが、彼のマホメット教、中国の道教やラマ教、印度の婆羅門教なども同様であって、彼等は禁欲をもって信仰の主眼としている事である。
又日本に於ける昔からある幾多の宗教にしても、それと大小の違いはあるが大体は同じであり、受難にしても、神道が散々仏教から圧迫され、一時は伊勢の大廟に阿弥陀如来を安置した事や、神道行者の難行苦行もそうだし、仏者の受難も並大抵ではなかった事も、人の知る処である。その中での最も著名なものとしては、彼の日蓮上人であろう。彼の有名な龍の口法難の際、断罪に処されようとし、刄を振り上げられた途端一大奇蹟が現われ、危く死を免れた事などもそうである。又仏教の或派によっては、極端な程戒律を守り、求めて難行苦行に身を晒し、修業三昧に耽る信仰も、跡(後?)を絶たないのである。以上凡ゆる宗教を総括してみても、今日迄のその悉くは地獄的であって、苦難を以て宗教の本来と心得、魂を磨く手段とされて来たのであって、遂には苦しみを楽しみとする一種の変態的人間とさえなってしまったのである。
これを忌憚なくいえば、その宗教の力が弱かった為、自力を加えねばならなかったのである。
このような地獄的信仰の世界に、忽然として現われたのが我救世教である。何しろ本教の凡ては、今までの宗教とは根本的に違う処か、寧ろ反対でさえあり、地獄的苦行を最も排斥し、天国的生活を以て真の信仰であるとしているので、その説く処、は心も行も、既成宗教とは雲泥の相違である。
然も本教輪郭の大なる事は、宗教も、哲学も、科学も、芸術も、悉く包含されており、特に人類救いの根本である健康の解決、農業の革命等、驚異に価するものばかりで、その悉くは地獄をして天国化する条件の、凡てであると言ってもいいので、これこそ真の神の愛であり、仏の慈悲でなくて何であろう。この意味に於て、難行苦行は邪道であり、歓喜溢るる天国的生活こそ真に救われたのである。これが世界全体に拡充するとしたら、茲に地上天国は如実に出現するのであって、以上の如く、本教のモットーである天国世界の第一歩は、先ず家庭からであり、そのような家庭が日に月に増えるとしたら、やがては世界全体が天国化するのは知れた事である。
以上の真相が分ったとしたら、如何なる人でも本教を謳歌し、絶讃し、直ちに入信しなければならない筈だが、何といっても、或種の小乗宗教や無神思想の観念に煩わされているので、反って疑念を起したり、誤解したりするので、それだけ幸福を延ばしているわけである。併し乍ら本教の真相が必ず分る日の来るのは間違いないから、私はその時を待つと共に、今は神命のまま日夜奮励努力しているのである。
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