今度五日がかりで京都に行って来ました。大分至る所信者が増えて、なかなか活気があるように見えました。京都ではほとんどお寺廻りで、毎日お寺ばかりをグルグル廻って居ました。それで何処の寺も実に疲弊しきって気の毒なようです。全く仏滅の有様がよく現われてます。非常に財政も逼迫しているとみえて、お寺にある仏像やいろいろな物を売りたがってます。なかなか相当な寺でも本尊様を売りたいというのがありました。それで二、三日中に持って来る事になってますが、それは掛物です。本尊様を売って、あとは何うするかと言ったら、代りの物を探してますと言ってましたが、非常に便利です。全く仏滅です。あっちでも大勢の前で講演をしましたが、私は嵯峨に別院を造るのは、つまりそういった各寺々の仏様の霊を救うためもあるという事を言ったのです。それで各寺々にある本尊様は無論ですが、いろいろな絵や彫刻に、その仏様の霊が憑るのです。無論いろいろ働きますが、働いて、そうして休む時は、その仏像なら仏像に憑るのです。ああいう物は非常に意味があるのです。みんなはよく大黒様を祀りますが、祀ると大黒様の霊がそれに憑って働くのです。それでその仏様なら仏様の霊が憑って、そうして人が拝みますが、拝めば拝むほど、人間の有難いという想念が仏様の方に行くのですが、それが沢山行けば行くほど仏様の力、光が増えるのです。人間が構わないで拝みもしないと、仏様はだんだん光が薄くなり、威力が薄くなるのです。沢山の人が拝む仏像は、それだけ力も増えるから御利益も増えるというわけです。ですから人によっては、仏像を見て、これは沢山拝まれた仏様だと言う人が居ります。どうして分るのですと言うと、このお顔を拝見すると、何処か違うと言うのです。沢山拝まれた仏様と、拝まれない仏様は、つまり拝まれた仏様は何処か賑やかなのです。拝まれない仏様は何処かさみしいというので、実に不思議なものです。それから仏様の中でも、何も霊がないのに、観音様なら観音様として拝みますと、そうすると人間の想念で、お釈迦さんなり阿弥陀さんなり観音様なりのお姿、或いはそれだけの威力が作られるのです。その代りそれを拝まないと、それがだんだん消えて行くのです。それから仏様の御分霊が憑って拝まれたのは、それが拝まれなくなっても無くなりはしないのです。それがさみしく残っているのです。そこが違います。それで京都あたりの仏様は沢山拝まれているから、何処か賑やかな威力を持っているのです。それがだんだん仏滅になるについて、仏様と言っても元々神様の化身ですから、元の神様に帰って救世教のために大いに働こうとしているのです。それは多賀夫人のあれが地上天国に出てますが、ああいうように働かれようとするのです。それにはやはり霊が残ってますから、それが或る程度浄まらなければ働けないのです。ですからみんな私に縋り付いて来るのです。ですからそういう仏様が、仏像などでこれから手にはいります。そうして更に仏教美術館を造ります。それについてこっちは、借りたり買ったりした仏様の霊を浄めて働かせるのです。と共に、あとは彫刻美術として、或いは絵画美術として、それを多くの人が見て楽しむというわけです。そうするのが本当なのです。それで今のように霊のあるうちに方々の展覧会に出すという事は、仏様としては情ないのです。自分は人から美術的に鑑賞されるつもりは少しもないので、やはり人を助け慈悲を施すというのが仏様の本当の気持なのです。そこで霊を神様の方に戻して働くというようになれば、あとは本当の美術品ですから構わないのです。私はだんだんそういうようにやるつもりです。そうしてその仏様達が働き出すと、いろんな宗教の信者がみんな救世教の信者になって来るのです。南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でもそうなります。教祖が大いに働き出す以上、救世教信者にならないわけにはゆかなくなります。ですからその根本は、その開祖なり教祖を救わなければならないのです。それが今度の嵯峨の仕事になるわけです。それで、それが済めば無論キリスト教の方もそういうように救って行きます。キリスト教の昔からのいろんな偉い牧師も救いますから、これは世界的に働かなければならないのです。だからただ信者を増やすといったところで、その根本の中心的のその霊を救うという事の、本当の結果が出るわけですから、やはり急所はそこにあるわけです。ですから面白いものです。しかしこういう事は今まで誰も知らないので、聞いてみて、ああそういうものか、と思うくらいなものです。それから面白い事にはそういった仏様なら仏様の霊が憑る場合に、作の良いほど良い仏様が憑るのです。ですから、ごく作の良いのは、〝生きているようだ〟と言われるのは本当の霊がはいっているのです。これは仏様ばかりでなく動物でもそうです。よく左甚五郎の猫が鼠を食ったとか鳥が飛んで行ったとか、いろいろな事がありますが、やはり良く出来たのは、そういう形のとおりの霊が憑くわけです。だから救世教では大黒様を祀ってますが、あの大黒様にやはり大黒様の霊が憑るのです。そうして働くのです。その場合大きいほど働きが大きくなるのです。そうかと言って、相応の理ですから、そこの床の間や御神体に対して丁度釣合のとれた大きさが良いのです。あんまり小さいのはお働きがまだ小さいのです。それから作の良い物ほど階級の良い大黒様が憑るわけです。私は大きいのが良いと言ったので、渋井さんが大きいのを持って来た事がありました。なにしろトラックで何人かで運んだのです。もっともその当時は渋井さんの金のはいるのは大変なものでしたから、やっぱりそれだけの御利益はあったのです。ではオレの所も大きいのを、と言っても、それはいけないのです。それはやっぱり相応の理ですから、大き過ぎても困るのです。まず丁度良い範囲において大きいというのが良いのです。それから絵や文字もそうです。面白いのは、龍神が居所がない場合に絵や文字に憑るのです。龍という文字には無論憑りますが、そうでなくても、水に関係した文字に憑ります。サンズイのついた文字によく憑ります。それからどうしても無い場合には、絵や字をかいた作者の名前のサンズイに憑る場合もあります。龍神は水さえあればそこに居られますから。実に微妙なものです。それから人間の名前でも水に関係のある名前の人には龍神が憑りやすいのです。やはりその人は水の働きになるからです。それは実に微妙なものなのです。
それから京都はつまりお寺の都会です。だから京都という都市自体が非常に疲弊してます。今度私は方々廻る時に注意してみると、京都は壁の多い所ですが、実に壁の落ちている所が多いのです。それは随分酷いです。商家が並んでいる町の中はそうでもないが、商家がない所に行くと、五軒に一軒か十軒に一軒は必ずあります。中には板まで破れている所があるが、実に酷いです。これはお寺が疲弊しているために影響したのだろうと思います。だから京都という所は良い所ですが、さて多くの人を集中するという観光地としての形が備わっていないわけです。そこで私は嵯峨を中心にしたあの辺を一大観光地でもあり、地上天国的のものを造ろうと思って考えてます。それには非常に大きくしなければならないから、今の所は二万坪くらいですから、そういうものを造るには到底狭いのです。どうしても十万坪はなければならないのです。ですから私は最初に、土地を見付けるについて、五万坪から十万坪の所が良いと言ったが、そんな広い所はなかなか一度にはないし、金も大変ですから、取り敢えず今の所にしたのです。二万坪というと随分広いですが、本当の世界的の観光地としたら、少なくとも十万坪はなければならないのです。そうなったら、日本に行ったら是非京都に行かなければならないという事になって、非常なものだと思います。そうなると京都という都会も相当な所になり、壁の落ちた所はないようになります。神様が良いようにやりますから、べつに気をもむ事はないが、人間の方から考えてもそうしなければならないし、神様の方から見ても無論そのつもりに違いないです。
それから新聞やラジオで分ってますが、ソ連は今後どうなるかという問題です。一体朝鮮問題はどうなるか、スターリンの死後のソ連政府はどういう方針で行くかという事が、一番大きな問題であり世界中の人が関心を持っている事です。それはこれから非常に複雑ないろいろな変化をするのです。というのは第一今の休戦問題は、どうやら行くらしいが、そうかと言ってそれだけではべつに大局の問題の解決にはなりません。北朝鮮は、アメリカの方では何時も言うとおり、南北を合併してもとの朝鮮の独立国にしようという計画ですから、そうすると折角今まで金や人間の命を犠牲にしてきた中共の目的、仕事に対して全然無駄になりますから、オイソレとはゆかないのです。しかし現にアメリカは今南の方から北に向って平壌の線まで北の方に行かなければというような事を言ってます。それを中共の方で承知するわけはないから、これが又大変な問題になって来ます。次に台湾の蒋介石があのままにはできないのです。中共全部を急にどうという事はできないが、どうしても或る程度進出しなければ収まりがつかないだろうし、そうすると中共の方でも黙まってはいないから、この二つの問題でも大変だろうと思います。その次に現に戦っているインド支那でも、ホー・チーミン軍が非常な勢いで、仏軍を撤退させるほどの攻撃力が現われてますから、これも又大変な事です。というような事がありますから、なかなか簡単には行かないとう事と、もう一つの大きな事は、結局だんだんソ連の共産主義というものは蔭(影?)が薄くなって来るのです。それでスターリンという者は非常な力があるのです。悪ではあるが、とに角力のあるのは大変なものです。スターリンの死後、スターリンの半分でも仕事ができる者はないのです。マレンコフでもモロトフでも知れたものです。だからソ連というものはガタガタになって来るのです。ソ連がガタガタになるという事は、共産主義というものがガタガタになって来ます。それは救世教団にちゃんと型が出てます。知っている人は知っているでしょうが、これはあんまりはっきり言えない事だから、覚るよりしようがありません。だから共産主義というものは亡びる段階にはいったとみて良いです。そうなると、ではアメリカはどうだというと、アメリカは大いに思いどおりになったから、これから良いだろうと思うかも知れないが、ところが神様の経綸から言うとアメリカが大変な事になるのです。或いはソ連以上に苦しむ時代が来るかも知れない、でなくて、すぐ来るのです。それはまだはっきり言いませんが、とに角アメリカ開国以来ない事があるのです。それで神様の経綸から言うと、アメリカ、ソ連は勿論ですが、素晴らしい大変化があるのです。これはおいおい話しますが、それがそう長くはないのです。今年中に現われると見てます。これが破壊と建設、建替え建直しというわけで、それがあってから救世教というものが本当に仕事をし、本当に世界的に現われるのです。ですから今はその時の準備の仕事をしているわけです。これはあんまり詳しくは言えませんから、今日はこのくらいにしておきますが、スターリンの死についてちょっと書いてみました。
御論文〔英雄の死について〕 【註 栄光二〇五号】
英雄の死に就いて
(栄光二〇五号)
今度のスターリンの死について、考えるまでもなく、この人は今世紀における最も偉大なる存在であった事は今更いうまでもない。兎に角彼の来歴をふりむいても分る如く、ロシヤ帝政時代の、アノ圧制極まる帝国主義を、根底から覆えしたレーニンの後を継いで、善い悪いは別としても、兎も角今日の如き共産大帝国を作り上げたその手腕は驚異に値するといってもよかろう。然も僅々三十余年にして、現在見るが如き、強大なる米国と相対峙してビクともしない大勢は、全く世紀の巨人として英雄の名を冠してもいいであろう。
にも拘らず、彼の死に対し心から哀悼する者は世界中果して幾人あるかであろう。これは今始った話ではないが、昔から幾多の英雄が死ぬ場合、大多数の感想をいえば、成程外形的には輝かしい存在としてその卓越せる鉄腕には感歎せずにはおれないであろうが、只そうなるまでには数え切れない程の多くの犠牲者が出たことである。これだけでも無条件に褒める事は到底出来ないのである。というのは、それ等被害者の怨恨は深刻なものであり、その儘では霊は承知しないからである。つまり目的のために手段を択ばず式の英雄特有の利己的観念を見出すのであって、この観念の根本こそ全く彼等の無神思想から生まれたものである。とすれば世に無神思想程恐るべき、幸福の破壊思想であり、文明の敵であるのは言うまでもあるまい。
右は英雄と無神思想についてかいたのであるが、このことは英雄ならざる一般人民に対してもいえる。すなわち目的のために手段を択ばず、勝てば官軍式の考え方で、この種の人間が現在余りにも多いのである。然もそういう人間が成功者として崇められるのであるから、それを見習う人間が増え、社会悪がドシドシ作られるのである。この悪思潮に対し、それを防止するには宗教以外にないのは知れ切った話である。これによってみても宗教なくしては、到底明るい住みよい社会は出来る筈はないのは勿論である。この様に、宗教が社会不安の防止に役立っているかは計り知れないものがあるに拘らず、世の識者の殆んどはこれに気が附かず、反って宗教を以て無用の長物視しているので、実に情ない話である。この原因こそ全く科学中毒のためであって、不知不識人間の幸福を阻害し、それが文化人と思い得々としているのが今日の有様である。
そうして無神主義を以て、望み通り英雄に祭り上げられたとしても、その歓喜と満足は到底長く続くものではない。これは歴史がよく物語っている。すなわち、英雄と名のつく者で終りを全うした者は殆んどないといってもよかろう。事実英雄が死に際会して安楽な往生を遂げた者はなく、今度のスターリンの如きは、珍しい平穏な死を遂げたといえるが、併し彼の死後現在の大ソヴィエトはいつまで続くかという疑問である。というのは、彼によって歓喜幸福を与えられた者の数よりも、彼の為に生命を奪われ、不幸に陥った人の数の方がどれ程多いか判らないであろうからで、何ずれは多数者の怨霊の塊りは、同国を倒さずにはおかないと共に、霊界の鉄則としてそういう大きな罪人が死後霊界に往くや、暗黒無明の地獄界に転落し、名状すべからざる悲惨な境遇に落ち、その罪を赦されるまでには、少くとも数百年はかかるのである。従ってこれを知るや如何なる英雄豪傑でも一溜りもなく後悔するが、時既に遅しでどうにもならないのであるから〝哀れなる者よ、汝の名は英雄也〟と言いたいのである。
それに引換え、神を信じ、一人でも多くの人を救い、歓喜と安心を得させる吾々こそ、永遠なる栄光の下に真の幸福者たり得るのである。
新宗教についてこの間も話したが、ちょっと書いてみました。
御論文〔新宗教とは何か〕 【註 栄光二〇三号】
新宗教とは何か
(栄光二〇三号)
近頃新宗教の言葉は、社会各方面の話題に上って来たと共に、新聞雑誌等も割合重く扱われるようになった事は喜ばしい限りである。併しこれ等をよくみると、只漫然と、新しく出来た宗教だから新宗教というまでの事で、その内容に至っては殆んど無関心のようである。しかも新宗教に携わる人でさえそうであるのは洵に遺憾である。これに就いて私の言いたい事は、看板だけ新宗教であっても、内容がそれに伴なわないとしたら意味をなさない訳である。というのは、古くからある開祖の教えや文献等、長い間言い旧され、誰にも知られているような説を、その人の主観で変(替?)えたり色を着けたりしているだけでは、新しい宗教とは言えまい。その上建造物、形式等万事が昔のままであって、しかも開祖の教えに返れなどというに至っては、寧ろ時代と掛離れるばかりであり、それに対し怪しむ者のないのも不思議と思わざるを得ないのである。
何となれば、現代の如く高等教育を受け知性の発達した人々を相手にするとしたら、黴臭い教典を有難がらせようとしても受入れる筈はあるまい。特に青年層などは尚更そうである。というように今日既成宗教の大部分の信者は、伝統的、観念的に引ずられているにすぎないと言えよう。処が新宗教の信者はそれと異って、何等か新しいものを求めて入った人々に違いないからいいが、それでも真の不動の信者は割合少いようである。としたら、現代人を心の底から信じさせるには、どうしても理論的には筋が通っており疑い得ない現当利益が伴なわない限り、先ず駄目といってよかろう。従って単なる流行を追うような宗教信者では、一時的で長続きしないのは勿論である。次に言いたいのは、現代人とても決して信仰心のない訳ではない。只現代的感覚からみて、信じ得る宗教が余りないからで、ありさえすれば必ず信ずるのは、私の経験によっても確かである。寧ろそういう宗教を求めている人が大多数といっていい。
処がそういう宗教が見当らない為、止むなく無信仰者となっており、それに対し何といっても科学の方は手っ取り早く、目に見えて、人間の要求を満してくれる以上、自然依存する事になるのは致し方あるまい。という訳で、無信仰者を非難する事は出来ないと思う。処がここに問題がある。というのは、それ程信頼する科学でも解決出来ず、そうかといって宗教でも解決出来ない事もよくあるので、ジレンマに陥ってしまい、その上先の見通しもつかないので、智識人中の或者は懐疑に陥り、或者は希望を失い、その日暮しになったり、自暴自棄的となって、懐都合のいい者は享楽を求めるという結果になるので、これが現在の世相であろう。今一つ言いたい事がある。それは今迄現われた処の歴史的宗教偉人より以上のものは最早絶対出ないと決めている事で、この考え方も絶望に拍車をかけているのである。中には半ば諦め、半ば現実と遊離した人達は、骨董的教説を研究思索している等々もあり、現在思想界は全く混沌として帰趨を知らない有様である。
処がこの無明の闇を破って突如出現したのが我救世教である。そうしていとも大胆に既成文化の凡ゆる部門に渉って大鉄槌を下し、一々の誤謬を暴露し、真の文明のあり方を教え、着々として実行力を発揮しつつあるのであるから、公平に言って二十世紀の驚異であろう。そうしてこの根本こそいつもいう如く、今日までの世界は夜であり、僅かに月光を唯一の光としていたにすぎなかったが、そこへ太陽の光が現われたので、今まで見る事を得なかった不要有害物の悉くは、ハッキリ浮かび上ったのである。昔から〝東方の光〟とはこの事であって、時の進むに従い太陽は徐々として天心に昇り、全世界を照らす事になるので、現在はその黎明期である。
この理によって私が説く凡ゆる説は、今まで誰も知らなかったもののみであるから、驚嘆し、中には誤解する人さえある位である。何しろ長い夜の世界が続いて来たので、それに慣れた目には、突如として現われた昼の文化であるから狼狽するのも無理はない。処がここに問題がある。それは昼の世界になった以上、夜の文化中から、神は有用なものを残し、不用なものは揚棄せざるを得なくなるのである。しかも太陽の光は月光の六十倍に当るから、今日まで不明であり、治癒不可能とされていた病気も難なく解決されるのである。本教浄霊が日々現わしている事実によっても明らかである。なおこれを分り易く言えば、愈々赫々たる太陽の出現によって、月は光を失う如く文明の大転換となるのであるから、この任に当る本教こそ如何に偉大な事業であるかが分るであろう。
(*実際の太陽の明るさと月の明るさの違いは、39万8千倍)
それからこの間は精神病について話しましたが、今日は面白い事を教えます。女の病気というと婦人病によるように思うが、そうではないのです。仮りにヒステリーとか頭痛とか、頭に関係したいろいろな病気ですが、その時の浄霊は、頭や首の廻りも肝腎ですが、その外に子宮を中心としてのその辺が非常に関係があるのです。ですからその辺を浄霊すると頭がなおるのです。そういう場合には女の肝腎な所を浄霊するのです。そうすると頭が非常に良くなるのです。とに角女の此処(股間)が因です。早く言えば急所ですから、此処に毒があると浄化の熱が出たり、いろいろな溶ける作用が頭に響くのです。それについて知っておくべき事は、全部前の方は前頭部に関係があり、後の方は肛門に関係があるのです。ですから下痢や赤痢というのは後頭部附近の毒が出るのです。それから前頭部の毒は前の方から出るのです。コシケなどになったりするのです。特にコシケなどは多いのです。そこで天地と言いますから、此処(前頭部)を良くすると下の婦人病が良くなるし、此処(股間)を良くすると頭が良くなるというように非常に関連してますから、そういうような事を知ってやると大いに効果がありますから、試して御覧なさい。あんまりカカアが言う事を聞かなくてヒステリーを起した時には此処をやるのです。それで円満になるのは結構です。此処もいろいろな意味が非常にあるのです。しかし場所が場所だけに医学の方の婦人科か何かなら言えますが、もっともこっちは霊的ですから、そう詳しく知る必要はないが、こういう事も知っておかなければならないのです。夫婦別れになったり、それから親父が妾をこしらえたり、いろんな事で非常に悲劇ができますが、それは男ばかりをせめる事はできないのです。というのは女によっては此処の欠陥のために夫に満足させる事ができないのです。又それが割に多いのです。ですから夫ばかりでなく妻にも罪があるのです。それをなおすにも浄霊によるよりしようがないのです。私は昔不感症をなおした事がありますが、これはなおるのです。ただ困る事は、〝どうですか〟と言っても、〝お蔭で良くなりました〟とは言わないのです。しかしそういうのは顔色で分ります。ニコニコとしますが、それならもう良いのです。
それからよく結婚を嫌う娘がありますが、これは此処が大変関係があるのです。それは膣痙攣と医学の方で言いますが、ちょっと触っても飛び上がるほど痛いのがあります。そういうのが、私は一生独身でいると言うのです。それは本当の事を言いませんから……。そういうのも浄霊でなおります。それから無毛症と言って毛のないのがあります。これも皮膚の内部に毒が固まって発毛を邪魔しているので、これもなおります。まだいろいろありますが、そう詳しく言わなくても分ると思いますから、これだけにしておきます。
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