五月十六日

 信仰について一番肝腎な事は、今まで宗教ではあんまり徹底してなかったのです。仏教にしても、仏教の「教」の字が間違っているのです。お釈迦さんが作った時には仏法と言って「法」なのです。それをどう間違えたものか、仏教という「教」になってしまったのです。ですから佛という字は人偏に弓という字を書いて棒を入れるので、弗という字ですが、弓というのは月の形になるのです。弓をしぼった時、或いはしぼらない時、これは月の形なのです。佛という字は、人間の法なのです。ですから人偏に弓を書いて霊体二本で貫ぬくのです。それが法になるわけです。それで法というのは何かというと、文字の解釈から言うとサンズイに去というのです。ですから水を去るのです。それで法というのは火で経なのです。ですから法は曲げられないと言います。つまり法は真直でなければならないのです。そこで佛の「法」は月ですから水になるわけです。そうして下の「法」が火になるわけです。ですから水火ですが、これは逆になるわけです。火水が本当だが、つまり夜の世界は水が上になって火が下になるわけで、逆になっているわけです。ですからどこまでも「法」というものが根本になるわけです。それを「教」の字にしてしまったという事は一つの間違いだったのです。だからだんだん仏教がくずれて来たというのは、これは「法」の力がないからです。それで「法」というのは何かというと、つまり乱れさせない事です。という事は間違いはさせないという事です。ですから何事にも法があるのです。日常生活にもチャンと法があります。これは前によく言いましたが、人間の行でも言葉でも、小いさい法があるのです。ですからそれに合わなければいけないのです。要するに理屈に合う事です。神様の事は理屈に合えば良いのです。ちょっとおかしく思っても、根本が理屈に合っていればそれでよいのです。理屈に合わない点が一つの間違いになるわけです。今話をしたのは再浄化についての一つの前提です。再浄化というのは一旦なおったのが再び悪くなるというのですが、これをよく考えてみると、どんな重難病でもなおったとしますと、今まで寝たきりだったり何も出来なかったりした人が、普通人のような行動ができるのですから確かになおったのです。それで再浄化というのは残りの毒素が排除されるための浄化作用ですが、そうすると最初の時よりもっと軽いのは決まってます。ところが最初の時よりも重くなって死ぬ事さえあるのは、これは理屈に合いません。ではそれはどういうわけでそうなるかという事を書きましたから、今読ませます。

 御論文〔信仰の合理性と再浄化〕     【註  栄光二一〇号】

信仰の合理性と再浄化

(栄光二一〇号)

 抑々信仰の根本は、合理の二字にある事を忘れてはならない。如何に信仰上もっともらしい説を立てても、道理に合わないとしたら真の信仰とはいえないのである。この意味に於て神様というものは、理窟りくつに合えば何程でも御守護があるが、理窟に合わなければ如何に拝むとても御守護はないのである。この点が最も肝腎かんじんであって、再浄化の意味もこれに外ならないのである。

 散々医療を始め凡ゆる療法を受けても治らない結核患者などが、浄霊によって忽ち治ったので喜んで入信することとなる。そして暫くしてから再浄化が起る人がよくあるが、これはどういう訳かというと、勿論理窟に合っていないからである。即ち医者から見放された病気が、神様の御蔭で治ったとしたら、神様から無い命を頂いた訳であるから、何程感謝してもし切れない程であるに拘らず、中にはその当時の感激もいつか忘れて、最早治った以上それで済んだと思ってしまう。そうなると信仰前と同じでないまでも、感心出来ない生活態度となってしまうが、それで何事もなければ万々歳だが、どっこいそうはゆかない。というのは長い間散々薬毒を()ぎ込まれているため、健康快復に(とも)ない、(たま)りに溜っていた薬毒の排除(はいじょ)作用が起る。これが再浄化である。しかしいつもいう通り右は体的面だけの事だが、実は霊的面の方に体的以上重要な問題があるのである。しかしこの事に就いては今まで少しも知らしていなかったが、最早それが許されない時となったので、その根本をかくのである。

 では何故今まで知らせなかったかというと、未信者や新しい信者などには誤解(ごかい)(まね)(おそ)れがあるからで、出来るだけ言わないようにしていた。処が段々浄化が強くなるにつれて再浄化の人も増える事になるから、ここにハッキリさせるのである。抑々世の中の事は一切相応の理によって動き、道理に合うように出来ている。特に信仰にあってはそれが顕著(けんちょ)である。かの釈尊の言われた生者必滅、会者定離とは、これを一言に喝破(かっぱ)したものであり、因果律とか因果応報などもその意味に外ならない。

 これによっても分る如く、死を覚悟し絶望的となった重病患者が全治したとしたら、何を()いても力の限り神様に御恩報じをするのが当然であり、これが合理であるに拘らず、忘れるとしたら御蔭の取りっ放しであり、恩知らずも甚だしいのである。この理を一層分り易くいってみると、例えば生命の価値を十とすれば、十の感謝ならプラスマイナスであるが、十以上であればその余分だけはプラスになり、神様はその何倍にも当る御恵みを下さるものである。それと反対に感謝が五とすれば、差引五だけマイナスとなるから神様への借金となる。そこで一日も早く御返しすればいが、それを(おこた)るとすると利息が(かさ)んで借金は増えていく。この点現界と少しも変りはないので、これも相応の理である。そこで借金が溜って或程度を越えると、神権(しんけん)裁判所から督促(とくそく)や差押えが来る。これが再浄化であるから、それに気が附き心からお詫びをすると共に、元利合計御払いすれば助かるのは当然である。処が中には飛んでもない考え違いを起す人がある。それは信仰で治ったと思ったのはヤハリ一時的で、本当に治ったのではないとして迷い始める。そこへ周囲の者などが、それ見た事かと言わんばかりにしきりに医療を勧めるので、ついその気になって医者へ行く事になるが、もう斯うなったらお仕舞で、十人が十人悪化の一路を辿(たど)り、遂に彼の世往きとなるのは常に経験する処である。ではそうなる原因は何処にあるかというと、霊界に於ては悪魔は人間の心の(すき)を狙いつめており、一寸でも油断があると忽ち憑依(ひょうい)し、その人をワヤにする。この点注意の上にも注意をしなければならないのである。

 そうして感謝の誠を捧げる場合、仮に金銭にしても、多い少ないは問わない。分相応の最大限度であればいいのである。神様は何も彼も御存知だから、無理をせずとも御許しになると共に、その上一人でも多くの人を救い信者を作れば尚更結構であって、要は実行である。そのように総てが理窟(りくつ)に叶えば、先ず再浄化は起らない筈で、仮令(たとえ)起っても軽く済み、命に関わるような事は決してないのである。話は違うが世間多くの宗教の中には、御蔭を頂かない内から、これだけ献金すれば助かるなどといって、御礼の先取りをする事があるが、これなどは欺瞞(ぎまん)行為であるから御利益のあろう筈はない。全く取次先生の考えが誤っているからである。そこへゆくと我救世教は御利益があってから分相応の感謝をすればいいので、至極合理的であるに拘らず、それを怠るとしたら全く人間の方が間違っており、お気附けを頂くのは当然である。それでも気がつかないから命まで召上げられるので、何処までも不合理は(ゆる)されないのである。今一つ肝腎な事は、神様が命を下さる御目的はその人を御神業に働かせる為であるから、それを覚って実行すれば健康は益々よくなり、幸福は何程でも恵まれるが、それを裏切るとしたら折角の救いを自分から拒否する訳である。

 それからハワイの方は非常な勢いで発展しつつあります。なにしろアメリカ式ですから、やたらに手術をし、盲腸をとる扁桃腺をとる子宮をとる、という工合で、ハワイの人のほとんどは手術しており、それを固めてあるから、みんなビクビクしているのです。それで救世教の事が分るにつれて、とても大変なのです。ですから今樋口さんも安食さんも寝る間もないくらいなのです。最近来た報告を今読ませますが、その前にその批評を書いたので、それを読ませます。

 御論文〔病人氾濫の布哇(ハワイ)〕      【註  栄光二一一号】

病人氾濫の布哇(ハワイ)

(栄光二一一号)

 本教海外宣伝の第一歩として選んだのが彼の布哇ハワイであって、約二カ月前から、樋口、安食の両布教師が同地を根拠として活躍し始めたのは已に知る通りであるが、最近の別項通信にある如く、予期以上の成果を挙げつつあるのは、まことに慶賀の至りである。そうして文中にもある如く、布哇在住の人達の健康の余りに酷い事実で、全く日本人以上とさえ思えるのである。これこそ誤れる医学の為であることは言うまでもないが、私は予てから同地の文化は大体米国式である以上、医学による被害者も定めし多いだろうと想像はしていたが、これ程とは思わなかったので、愕然がくぜんとしたのである。従ってもし本教の救いがなかったとしたら、どうなったか分らないと思う時、慄然りつぜんとせざるを得ないのである。何よりも一度本教の出現によって偉大なる神の力を知るや、旱天かんてんの慈雨に遇った如く、大衆の救いを求める声は騒然そうぜんとして起り、燎原りょうげんの火の如き勢を以て拡がりつつあるその状況は、洵に素晴しいものがある。その為日々活躍しつつある両君が嬉しい悲鳴を挙げているというのであるから、この勢いを以て進むとしたら、近き将来布哇全土は世界最初の地上天国となるかも知れないとさえ期待が湧くのである。

 この事実によって推察出来る事は、米国の現状である。無論罹病者の多い事は布哇と同様か、或いはそれ以上かも知れないと思う。そうして予定の如く近々ロスアンジェルスを根拠として、同国への救いの手も延びる事になっているから、始ったらこれ又予想以上の成果を挙げるであろう。これについて先頃発行した彼の〝アメリカを救う〟の著書であるが、この著を編集の時私は不思議に思う程気が()いて、約一カ月で出来上った位で、今迄こんなに早く出来た例はなかったのである。今これを考えてみても、全く神様が非常にお急ぎになったとしか思えないので、これによってみても米国に於ける健康的危機は、一日も猶予(ゆうよ)出来ないからであろう。併し人間的には何程急いでも、同国の法規や宗教関係、何や彼や相当の難関もあるので、全アメリカ人の耳へ入るようになる迄には相当の時日を要すると思われるが、これも亦止むを得ないのである。

 何しろ知っての通り、今日同国が医学の進歩を誇示(こじ)し、唯物的方法、諸般の施設等々至れり尽くせりで、特に近来の如く新薬の続出、手術の進歩等にみても、同国人の健康状態は非常な速度を以て悪化しつつあるのは想像に難からないのである。一方霊界は日に日に明るくなりつつあり、浄化は愈々旺盛となる以上、危機は刻々迫り、最後に到ってはどうにもならない事態となり、病に(たお)れる者数知れずという一大恐怖時代が出現するのは勿論である。併し今日このような事を言っても、私の頭脳を疑いたくなるだろうが、私は確信を以て今から警告するのである。故に万一私のいう事が的中したとしたら、第三次戦争処の騒ぎではない。キリストの言った世の終りは愈々来たと思う事になろう。

 玆で日本人にも警告したい事は、その時になってこの大惨事を対岸の火災視する事は出来ない。というのは、アメリカ程ではないにしても、日本も相当惨害は免れないからで、予め覚悟をしておく必要があろう。併し幸な事にはそれを予知している本教は、この大危難を救うべく幾十万もの救いの戦士を準備しているから、大いに意を強うして可なりである。故に米国とは比較にならない程多く助かるので、この点日本は大いに恵まれている訳である。処が今まで右の様な大異変の来る事と、その救いの大使命を帯びている本教の実体を知らないが為、本教を世間並の新宗教と思い蔑視(べっし)している人々や、その謬見(びゅうけん)に引掛っている人こそ憐れなる小羊である。然もこういう人はインテリ側に多い現在、この人達こそ洵に気の毒なものである。従ってこの文を読んだ人は速かに本教に来って、来るべき大危機を免るべく素直に信ずる事である。併しこんな事を今日言っても、信仰を弘めんが為の(おど)し文句位にしかとるまいが、本教に限ってそんな必要は聊かもない。何故なれば本教の病気治しは医学とは比較にならない程素晴しいので、ドシドシ発展しつつある現状であるからである。

 (ハワイ通信  その四)     【註  栄光二一〇号】

 大本教のお筆先に“遅れただけは一度になるぞよ”というのがありますが、ちょうどハワイがそういう工合です。つまり遅れていたわけです。その遅れていた原因はやはり日本の官憲やジャーナリストの誤解のためにこっちの準備が遅れたわけです。それからお筆先に“燈台下は真暗がり、遠国から解りて来るぞよ”というのがあります。日本の方が遅れているのは燈台下だからで、お筆先どおりなわけです。それでアメリカの方はなかなか厄介なのです。というのは「アメリカを救う」の本も出来てますが、まだ向うに発表しないのです。というのは宗教で医学に関与するという事はいけないというような建前になっている事と、それから向うはカトリックが盛んで、ほとんどカトリックですから、これが又新しい宗教を非常に嫌うのです。キリスト教以外は全部邪教という工合に信じ込ませているために、救世教のように非常に素晴らしい宗教とすると非常な脅威ですから、どんな妨害的行為に出るか分りません。アメリカの偉方(えらがた)のほとんどはカトリックですから、なかなか慎重にやらないと、かえって後がやりにくくなりますから、ゆっくり発表しようと思ってます。とに角その点においてハワイは非常によいです。ですからハワイにおいて救世教というものは、非常に大変なものです。今のところはアメリカ人はまだ無いので、教修者はハワイ在住の日本人、それからアメリカインディアンというような黒人、それから支那人、朝鮮人というような人達です。それで非常に素直で、実際の効果さえ見れば直ぐ安心して縋って来るのです。この点が日本と非常に違います。日本はどんなにお蔭があろうと、どんなに奇蹟があろうと、余程の事がない限り疑いが解けないのです。それこそお蔭話にありますが、重難病が助かって有難がっているが、再浄化とか家族の者が病気になると、やっぱりお医者に行ってしまうのです。実に訳が分りません。それでお医者に行って悪くなって、やつぱり救世教でなければならないというので、又こっちに来て、それから信仰にはいるというのが非常に多いです。こういうような点はハワイは断然違います。そこにもっていって日本は官憲が宗教を嫌いです。信仰が嫌いなのです。私は時々書きましたが、アメリカの偉い人、アイゼンハウアー、トルーマン、マッカーサーという人達は必ず“神”という事を言ってます。ところが日本の大臣や政治家にしても“神”という事は決して言いません。“神”と言う事は恥になるかのように思っているように見えます。そのくせ“馬鹿野郎”とは平気で言います。どうも“神”とか“信仰”というような事をああいう偉い人が言うと安っぽくなるように思うらしいのです。日本という国はそのくらい信仰嫌いです。それで又ジャーナリストというのは何か書くにしても、宗教をけなした方が偉く見られるのです。信仰という事を書くと時世遅れというのです。そういう事を無自覚に思われているのです。彼等の心境というのは安易なものです。それも無理がないところもあります。というのは日本の新宗教には実に馬鹿々々しいのがあります。踊る宗教とか爾光尊とか、近頃盛んになった立正交(佼?)成会も、妙法蓮華経を(うな)っている恰好を見たらわれわれでも(いや)になります。妙法蓮華経もよいですが、それを何時間も唱えて一体何になるかという事です。一つ事をそんなに唱えていて何になるかです。実際時間の空費にしかなりません。ですから新宗教というのは下らないものだという事になるのです。他教を悪く言うのは(いや)ですが、悪く言うのではなくて、有りのままを言っているのですが、救世教の人ばかりですから差し支えないでしょう。PL教団はダンスが非常に御自慢になってますが、ダンスというのは、とに角常識から考えても、神様の前で男女が手を組んで踊るという事はどういう意味か分りません。それであそこの根本は「宗教は芸術なり」と言うが、それはそれに違いないが、宗教は芸術なりという事をどういうように具体化するかというと、それはお題目ばかりで実行はありません。それでこっちの方も宗教は芸術なりと言いますが、実際においてそれを現わしているのです。ですから理論と実際とが合っているわけです。尤もPL教団でもそれは知っているに違いないですが、芸術という事を具体的に現わすという事は非常に金が要りますから出来ないのでやらないというのですから、これはやむを得ません。だから宗教は芸術なりという事は非常に結構なので、それはべつに非難する事はありませんが、宗教は芸術なりと言ってダンス専門にすれば、ダンスが芸術という事になります。尤もこれも舞踏の芸術と言えば言えますが、どうもピッタリ来ません。それで新宗教のうちで一番多いのは日蓮宗です。ところが日蓮宗をやるのは結構ですが、しかし新宗教とは言えません。生長の家なども、私は前に「生命の実相」なども読んだ事があります。うまい事を書いてありますが、それも結局キリスト教と仏教です。お釈迦さんの言った事をうまく取り入れて、一つの説を作ってあるのです。ですからこれは普通の宗教学としてなら立派なものですが、新宗教という新しい点はありません。つまり綜合したという事が新しいと言えば言えますが、それでは根本が新しいのではなくて説き方を新しくしたというに過ぎないのです。どうも新宗教と認めるという事はちょっと難かしいわけです。これは何時も書いてますから信者の人はよく知っているでしょうが、とに角日本のそういうようなものを見ていると、インテリやジャーナリストが新宗教を軽蔑するのも無理はありません。若し私が、救世教教祖でなく普通人としたら、やはりそういうように新宗教を軽蔑するに違いないです。だから救世教の真髄が世間に知られていないから、こっちも十把一からげに見られるので、これも仕方がないが、しかしやっぱり良いものは良い、悪いものは悪いのですから、これも時の問題です。その時の問題として一番良いのは、アメリカに救世教が広まって行く時期になれば、それによって日本の知識人が分るという事になり、これが一番効果的です。そうなると日本人は、アメリカで騒ぐならこれはもう良いものに違いないと丸のみになってしまいます。それよりかしようがありません。尤も神様がなさる事ですから素晴らしい方法をやられるに違いないから、べつに気をもむ必要はないが、大体そういうような経綸になって行くわけです。

 話は変りますが、救世会館の晴々台の横の所に土を捨ててますが、その土がだんだん溜まって、最近行って見ると、とても広い良い地所が出来ているのです。ああいう土というものもなかなか捨場が要るのです。ところがあそこを捨場にしてやったところが、とんでもない良い地所が出来て、千坪くらいはあります。ちょうど晴々台の敷地くらいの広さになります。それで私は、これは神様の方で何かあるに違いないと思って考えてみると、やっぱり大変な必要があったのです。というのは会館が出来て、椅子席が千七、八百で二千は難かしいのです。それで廻りに立つとしても、会館の中だけで三千です。それから会館の(ひさし)のある所に二千として、結局五千で一ぱいです。ところが今お祭になると一万よりもっと来る事になるでしょうから、それでは困ると思っていたのですが、そうなると今言った地所が千坪になりますから、此処にテントを張れば、優に五千や一万ははいれる場所が出来ますから、其処に簡単な椅子でもおけば、まず相当に増えても心配ないというわけです。その時の私の話はマイクをつければ皆聞けますから、その点において大いに安心できたわけです。そうしてみると、やはり神様はそういったようにチャンと準備をされた事がよく分ります。そういうようで何時もながらの事ですが、神様の用意周到なのにはただ驚くばかりです。それに良い風景で、実に大したものなのです。ですから経済的に言っても、そんな良い所を只貰ったようなものです。土の捨場が自然に立派な物になってしまったのです。あの辺は価格としてはどうしても坪五千円の地価でしょうから、千坪として五百万円の物が只で出来てしまったのです。そういうようで驚いたのです。それで会館と展望台は一緒に出来てしまいます。それが出来ると共に、そういった足場がある時にやると余程安く出来るというので、場合によっては美術館もやってしまおうと思ってます。それはまだ決まったわけではないので、その時の模様でやるつもりです。

 箱根の美術館は大抵見たでしょうが、今月の二十五、六、七日に信者さんに先に見せようと思って今準備してます。やっぱり神様がやっているから浮世絵のいろいろな良い物でもチャンとうまい工合に出すだけの物が充分集まりつつあります。なかなか良い物が集まって来ました。それも桃山時代から現代までの物です。私は知らなかったが、現代と言っても、戦後はあまり無いが、昭和の初め頃にも版画で良い物があるのです。伊東深水(いとうしんすい)の物で、実に良い物があります。そういう物を見ると、最近でもこんな良い物が出来るかと、実にびっくりします。

 

 

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