七月十七日

 今の医学は黴菌説ですが、つまり黴菌を殺せばよいとしているのです。ところが黴菌よりもっとずっと細かいもの、顕微鏡で見えないくらいの細かいもの、無限といったものが病気の原因になるのです。ですから今の黴菌説は非常に粗いものです。それを殺そうとしているのですから、間違っているどころでなくてとんでもない事で、実に幼稚なものです。その事を書いてみました。

 御論文〔科学では病気は治らない〕

科学で病気は治らない

(『医学革命の書』より)

 科学の進歩は、科学発見以前の世界と較べたなら、比較にならない程素晴しいのは今更言う迄もないが、さりとて向後百年、千年後を想う時、それは想像も出来ない程の超驚異的文明世界である事も勿論である。そこでよく考えてみると、今日迄の科学の進歩は、端的にいえば光学の進歩でしかない事である。即ち小さなものが拡大して見える硝子(ガラス)玉の進歩である。大は天体観測の望遠鏡から、小は微生物発見の顕微鏡に至るまで、つまり大と小の極端の進歩で、中間は殆んどないといっていい。そこで医学に関する面を主としてかいてみるが、現在の(ところ)電子顕微鏡で見得る限度は二十万倍とされている。(この)限度内で把握された微生物即ち黴菌(ばいきん)、又はウイルスを病原としているのが医学の考え方である。そこで医学は此菌を殺滅すれば、病は治るものと信じ、それを建前として研究を進めているのは言う迄もない。

 (ところ)で考えねばならない事は、右の如く二十万倍以下の菌を対象としており、それ以上の菌を重視しない事である。としたら(ここ)に問題がある。それは真の病原は二十万倍処ではない。百万倍か、一千万倍か、科学者は想像もつかないであろう。それのみか仮に一千万倍の菌が見えるようになったとしても、それで根本的治病が可能なるかというと、之も分りよう(はず)がない。(あるい)は真の病原は菌の大きさ(どころ)ではなく、無限であるかも分らない。としたら科学が如何に進むとしても、病気を治す事は絶対不可能であるのは断定しても間違いはない。それに()いて言いたい事は、医学は紀元前彼のヒポクラテスが創始したものであって、(すで)に二千有余年を経ている今日、今以て病気は解決出来ないのである。(しか)し言うであろう。十八世紀後半俄然として科学が勃興(ぼっこう)し、それに伴って医学も発達したのであるから、此儘(このまま)漸次(ぜんじ)進歩の(あかつき)、理想的医学となるに違いないから、それを期待しているのである。

 (ところ)が医学の病理の如く、病原は(ことごと)黴菌(ばいきん)としている以上、前記の如く顕微鏡が如何程進歩し、微生物の極致まで発見されたとしてもそれで解決出来ないのは右によっても明かである。(また)別の面から見ても、人間の生命は造物主が造られた万有中、最も神秘極まるものであって、他の物質とは根本的に違っている事を知らねばならない。(これ)は説明の要はない程高級な存在である。言うまでもなく智性、思想、感情等の思想的面は他の動物には全然ない。(この)意味に(おい)て人間以外の一切(いっさい)は、科学によって解決出来ると共に、益々進歩発達させねばならないのは勿論(もちろん)であるというのは一切(いっさい)の物質は人間よりレベルが低く、従属されているものである。

 従って人間が同一レベルである人間を、自由にする事は真理に外れているから、どうしても人間以上である(エックス)の力でなければならない。だとすれば人間が作った科学を以て、人間の病気を治そうとするのは、如何に見当違いであるかが分るであろう。故に治らないのが当然である。標題の如く科学で病気の治らない訳は分ったであろう。(また)次の例を挙げてみると一層ハッキリする。昔から至大(しだい)無外(そとなし)至小(ししょう)無内(うちなし)という言葉がある。勿論(もちろん)大も小も無限という意味である。例えば大空の無限大と共に、微生物の本質も無限小である。(これ)を人間に(たと)えれば想念の無限である。宇宙一切、森羅万象如何なる事物でも想念の届かぬ(ところ)はない。(これ)によってみても人間は如何に高級であり、神秘な存在であるかが分るであろう。

 従って人間の病気と(いえど)も、有限である科学では治し得ないと共に、無限の力によらなければ治し得ないのは明々白々たる事実である。(この)理によって医学の誤謬(ごびゅう)の根本は、人間と他の物質との違いさを知らない(ところ)にある。としたら、その幼稚なる未開人的といっても過言ではあるまい。以上思い切って科学にメスを入れたが、現在の(ところ)私の説は到底信じられないであろうが、科学の理論物理学が実験物理学によって確認されると同様、私の唱える理論が実験上確認されるとしたら、(これ)こそ真理である。(ただ)私の説が余りに飛躍しすぎているので、直に受入れられないだけの事で、承認されるのは時の問題でしかあるまい。

 以上の如く無限の病原を、無限力によって万人を救う例として、現在日々数万の患者が救われている。例えば医学では絶対不治とされ、死の宣告まで受けた患者が、医学の医の字も知らない人々が数日間の修業によって得た方法を以てすれば、(たちま)ち起死回生的に全治する。(また)彼の盲腸炎の激痛でも、術者が数尺離れた所から、空間に手を(かざ)すだけで、二、三十分で痛みは去り、間もなく下痢によって排毒され全治する。結核菌を()んでも感染しない、感冒に(かか)る程健康は増すとしての喜び、目下(もっか)流行の赤痢、日本脳炎など、数日間で全治する等々、例は何程でもあるが、(これ)だけで充分であろう。従って(この)著を読んだだけでは余りの偉効に到底信ずる事は出来まい。恰度(ちょうど)幼稚園の児童に、大学の講義を聴かせるようなものである。(この)大発見こそ夢の現実化であり、不可能が可能となったのである。私は断言する。何人と(いえど)(これ)を身に着ける事によって、完全健康人となり、安心立命の境地になるのは断言する。

 故に(この)事が全世界に知れ渡るとしたら、空前の大センセーションを捲き起すと共に、文明は百八十度の転換となるであろう。その時になって(ほぞ)()むとも間に合わない。(この)例として明治以後西洋文明が国内を(ふう)()するや、今迄嘲笑され下積になっていた人達が、一挙に新時代を受持つ栄誉を担うに反し、旧思想に捉われ頑迷(がんめい)丁髷(ちょんまげ)連中は、(あわ)てて後を()うとも追いつかなかったのと同様である。(しか)(この)大発見たるや、それよりも幾層倍、(いな)幾十層倍大であり、永遠性があるとしたら、(いたず)らに躊躇(ちゅうちょ)逡巡(しゅんじゅん)バスに乗遅れないよう(あえ)て警告するのである。

 今読んだようなわけで、つまり今の文化が発達したというのは顕微鏡の発達が根本です。いろいろな発明発見にしても、結局細かいものが見える、今まで見えなかったものが見えるという事が根本です。そこで他の事は結構ですが、医学だけは、なにしろ相手が人間ですから、電気の機械や他のいろいろな機械の科学ではないのだからして、人間の生命というものは一番高級、上等なのです。だから細かさから言っても一番細かいのです。たとえてみれば人間の想念ですが、想念も結局細かい粒子なのです。ですからその粒子というものの細かさというものは、天文学的数字でも現わせないのです。無限微なのです。だから顕微鏡で見る何倍とか何百倍とか何万倍とか言っても、それはごく粗いものです。ごく細かいものは見えないのが本当です。やはり無限です。丁度大きくたとえてみれば直ぐ分ります。それは大空に境界線はないようなものです。いくら大空を見ても壁はありません。それは大きな方の無限です。それと同じで、小さいのも無限なのです。その無限の細かい所に病原があるのだから、顕微鏡で見て〝これが病原だ〟〝これを殺せば治る〟という事は、粗過ぎてテンデ話になりません。それを医学者は研究室にこもって一生懸命にやっているのですから、実際馬鹿げていて可哀想なくらいです。それで病気が治るとか治そうとか、ヤレ伝染病が流行るから大いに防がなければならない、どういう施設をするとか、ヤレワクチンの注射をしろとか、いろいろな事を言ってますが、神様の御目からみればテンデ可哀想なほど幼稚なのです。そこでどうすれば治るかというと、治す方の道具もやはり無限なるものをもって治さなければならないのです。それで浄霊で掌から放射される光の力というものは無限なのです。だから無限な悪いものを無限なるもので焼いてしまうという事が浄霊の原理なのです。それで火素というものは粒子には違いないが、到底粒子という名はつけられないものでしょう。一つの気体です。ですからこの力というものは大変なものです。二、三日前に読んだお蔭話で、お守をかけているとレントゲンがどうしても写らないのです。それでレントゲンに写ったものが必要なので困って、お守をとってお願いして写してもらったところが、はっきり写ったのです。そこでお守から発する光というものは大変なものなのです。この前もそういう事が二度あって栄光に出してありますが、今度は三度目です。三回ともレントゲンを遮断するという事が実験されたようなものですから、三回の実験でそうなら科学では確定したわけで、定説になったわけです。だからレントゲンの光線を遮断するというと、レントゲンというものはとに角今までの光では一番強いのです。なにしろ大抵な物は通過してしまうのです。けれども科学の力だからして無限ではありません。通過しない物もあるのです。大抵な物は通過するというのですから強いのは強いです。しかしその光線を通さないほどこっちの光は強いのだから、病原である一つの汚いもの、悪いものくらいを殺すのは何でもありません。レントゲンでは骨を通す事はできませんが、浄霊の光は骨でも何でもドンドン通してしまいます。そういうようでこの光が如何にその効力が強いかという事が科学的にも分るわけです。それについてこれから、もっといろいろな角度から突込んで書きますが、それによって今の科学というものはごく幼稚なものだという事を浮び上がらせるつもりです。ではこの掌から出るレントゲンより強い光線は一体どういう経路を通じてかというと、無論元は神様ですが、ただ慢然と神様の光が人間の体を通すという事では説明が不十分ですから、もっと徹底した説明をしようと思ってます。今の指導者階級そういったインテリの人をだんだん分らせなければならないと思ってます。しかしそういう方面も大分首をひねる人ができて来たようですが、しかしまだなかなか容易な事ではありません。それでとに角救世教では病気が治るという事は大分知れて来たようで、お医者仲間で大問題になって来たのです。とに角一番よい事は医者が分る事です。その次にはインテリです。それについてちょっと書いてみました。

 御論文〔世のインテリ族に物申す〕     【註 栄光二二〇号】

世のインテリ族に物申す

(栄光二〇二号)

 およそ世の中に命の要らない人は一人もあるまい(自殺者は別だが)。ところがこれ程尊い命が救われ、その原因である病気が治ってしまうとしたら、それで問題解決何も残らないはずである。とはいうもののそんなドエライ治病法がこの世の中にある訳がないから、そんな(たわ)けた事をいったところで始まらないと誰しも言うであろう。もちろん科学の努力といえどもこの事以外にはないが、今日までのところそれは全然不可能であった。ところがこの解決方法が発見されたとしたら、これこそ二十世紀の大問題でありしかもその発見者が我救世教であるという事が判ったなら、何人も驚嘆到底信ずる事は出来ないであろう。それは事実が証明している。例えば医学で見放された重難症患者が、疑っても信じなくとも容易に全治するという素晴しい医効は、古往今来絶対あり得ない事で、全く夢の現実化である。むしろ余りの偉効に逆に疑いを抱く人さえあるが、それも無理はない。何しろ現代人は子供の時から、病気は医者と薬で治すものと教育され、常識となっているからである。従って本教浄霊医術は、原子爆弾がブッ放されない以前、いくら説明されても分らないと同様であろう。

 そのような訳でインテリ族中の丁髷の人々はどんなに説明しても事実を目の前に見せても、信じ得ないその頑迷さは全く不可解である。それどころではない、専門家の医師でさえ自分で見放した病人が浄霊で助った奇蹟を見せられても、ただ首を捻り溜息を吐くばかりで、進んで研究しようともしないロボット的態度である。恐らくこれ程の迷信は人類史上類例があるまい。ところがそれと同様の不思議さがまだある。それはインテリ中の宗教学者である。彼らはいわく、元来宗教が病気を治すのは間違っている。元々宗教は精神的救いであって、肉体的救いは医師の領分であるというのである。なるほど一応はもっともらしく聞えるが、一歩退いて考えればこうなるであろう。それは医学で真に病気が治るとしたら問題はないが、事実は何程医学を信じ、博士や大病院にかかり、言う通りに最新の療法を受けても一向治らないどころか、反って益々悪化し、命までも危うくなるので、医療を諦め吾々の方へ来るのである。ところが浄霊を受けるやたちまち奇蹟的に全治するので吃驚して入信する。という訳でそれを聞き伝えた人々は後から後から来る。これは当然であって何ら不思議はない。本教異常な発展がそれをよく物語っている。

 これを春秋(しゅんじゅう)の筆法でいえば、新宗教少なくも本教の発展は、全く医学の無力のためであるから、結果からいって医学が新宗教を発展させている訳である。ゆえにもし医学が吾々の方で治らない病気を治すとしたら、患者は何を好んで世間から疑惑に包まれている吾々の方へ来るかという事である。そうして医学も宗教も、その目的は人間の不幸を除き、安心立命を得させる点において同様であり、その根本が健康である以上、他のいかなる条件が具備しても(ゼロ)でしかあるまい。この意味においてどんなに有難い経文でも御説教でも、立派な学説でもそれだけでは幸福は得られない。単なる精神的慰安でしかないのは、今日の既成宗教を見ればよく分るごとく、そのほとんどが衰退の一途を辿っている。これに気付かない限り、ついには潰滅の運命あるのみと言わざるを得ないのである。

 それに気が付いてか付かないでか、宗教学者は口を開けば現当利益は低級なりと非難し、額へ八の字を寄せなければ読めないような活字の羅列をもって高級宗教のあり方としているが、これこそ現実離れの御道楽か、自己保全の御念仏でしかあるまい。もしこれで救われるとしたら、それは大衆ではなく、一部の食うに困らない閑人か、都会の仙人くらいであろう。君らがそういう原稿を書きつつある間にも、大衆は病に悩み、貧に苦しみ、押寄せる社会不安に怯え、東奔西走しているのが現実である。しかもこれに対し数百数千年以前の教説の焼直しをしたとて、何の役に立つかと言いたいのである。

 以上思うままをかいたが、これも世を憂うるの余りで(りょう)して貰いたいのである。ここで重ねて言いたいが、医学でも宗教でも他のいかなるものでもいい、とにかく人間の最大脳みである病を治す事で、ただそれだけである。先年毎日紙で懸賞募集した標語の第一等は「先ず健康」の四文字であった事を覚えているが、これだけで多くを言う必要はあるまい。

 今書いている「お守」に対する原稿ですが、この次あたりに読ませますが、私がお守を書く場合に、丁度半紙大の紙に「光」という字を書くのですが、一枚書くのに七秒です。この間は急ぎだというので五百枚を五十分で書きました。それで普通宗教でお守りなどを書くというと、もう斎戒(さいかい)沐浴(もくよく)して、羽織袴でチャンと御神前にぬかづいてお願いして書くものです。ところが私は、今時は暑いから上は裸です。まさか褌一つではみっともないからしませんが。それから私は、ただ光を書くだけでは退屈でいけませんから、必ずラジオを聞きながらやるのです。それで早いですから三人がかりで手伝っているのです。そして時によると左の手に煙草をくわえて、右の手で書いたりしてます。だからお守を作っているとは甚だ思えません。それで書き上がって、たたんで、三十枚を一束にして、それに私が霊を入れるのですが、この霊を入れるのは厄介なのです。割に力は全然入れないのですが、やはり相当に疲れます。だからこれは一度に沢山入れるわけにはゆきません。一回霊を入れるのに、丁度三包、九十体ずつをやるのに、一つに五分ですから十五分くらいかかります。それで丁度一ぱいです。それ以上は疲れます。しかしそれだけでレントゲン以上の力が出るのですから、ちょっと理窟はつかないくらいなものです。それで今まではそういう場合に神様にお願いしたりお祈りするのは、つまり神様と人間の方とが離れてますから、どうしてもそうしなければならないのです。ところが私は自分の腹の中に神様が居るから、私がこうやっているという事は、私の体、腹に御座る神様が道具として使っているのです。ですからそういう場合の私の腕というものはやっぱり筆と同じようなものです。筆と墨のもう一つつないだ元の方が腕みたいなものです。そこで他の余計な事は何も必要がないので、ただ書きさえすれば腕を通し筆を通して紙に光がはいって行くのです。そういうようなわけですから、今までの宗教の教祖という人達がやった事とは全然違うわけです。ですからキリストにしろ、天の父つまりエホバとかゼウスとか、神様にいろいろ憐みを乞うというか、そういう形式をしますが、私はそういう必要はありません。昔から言う神人合一です。神と人と別に分離していないで、一致しているのです。ですからそういった形式はしないのです。私は神様を拝まないという事はそういうわけです。拝むのでなくて拝ませるわけです。今までこういう事を言わなかったのは誤解するからです。あいつは誇大妄想狂で、頭がおかしいのだと言います。よく知っている信者の人はよいですが、第三者としてはあまりに超越しているから誤解を受けるのです。又これは信者になってチャンとなれば分りますから、それであんまり言わないのです。けれども説明してみれば今のようなわけです。そういう事を面白く書いてみようと思ってます。

 それで光についても或る程度知っておく必要があります。要するに、つまり光と光の戦いです。邪神の光と神様の光との戦いです。邪神の光というが、邪神にも光はあるのです。今のレントゲンの光は邪神の光です。ですから光の喧嘩です。ところがあれは邪神の作ったものだが、邪神にもやっぱり偉いのと偉くないのがあって、大体神様の方の光を押さえる(にせ)の光というものがあるのです。しかし根本において違うわけです。では邪神の光はどういう働きをするかというと、固める働きをします。今までのいろんな事、霊術師とか宗教というのは固める力なのです。固める光です。つまり邪の光、邪光です。だから今までは信心してよく病気が治る場合もありますが、それは固める治りであって、溶かす治りではないから、御利益があったと喜んでいても、こっちで治すのと違い、いろんな排泄物は出ないから、一時治るのであって、根本において医学と変りはありません。物質的光です。だから固める光というが、固める光というのは月の神様から出た光です。ところがだんだん霊界が昼間になって来ると固まらなくなって来たのです。そこで既成宗教というのはだんだん病気が治らなくなって来たというので、どんな宗教でもみんな病院を作った原因なのです。そういうようで、これからだんだん霊界が明かるくなるに従っていよいよ治らなくなるという事は、最近医学の方でも大分現われて来てます。最近の新聞に出てますが、レントゲンを扱った人がだんだん死ぬというのです。その死に方がだんだん早くなります。結局少なくとも、もう数年ならずして扱う人は無くなるかと思います。それまではレントゲンというものは固める力ですから、実によく固まります。それは石のように固まってしまいます。私が何時か治療した人で、瘰癧の人でレントゲンで固めて、砂利がはいっているように固まってます。その時はなかなか溶けなかったですが、今は神様の溶かす力が強くなったからそうでもありませんが、その固める力は素晴らしいものです。ですから今までの信仰でも放射線療法でも、固める事が効果があるという事で用いられたのです。それがだんだん固まらなくなり、それでレントゲンを扱う人はそうなるという事は、固めたものが溶けるから死んでしまうのです。それから溶ける前には一層固まるという事もあるので、これは心得ておかなければなりません。大抵肩などが溶ける前には余計固まるものです。それから浄霊してかえって固まる事があります。これは或る程度まで固まってから溶けるという事が一つの原則なのです。それは少ないですが、ごく固まりきったものは溶けるのに楽なのです。というのは固まりきると、強い熱が出るのです。それからだとよく溶けるのです。ですから溶けるのも限度があるのです。或る程度まで固まって、それから溶けるのです。病気に対してのそういう事もだんだんに説明してゆきます。

 この間肩を柔らかくしろという事を言いましたが、それはつまり食欲が一番出るという事なのですが、どのくらい柔らかくすればよいかというと、触ってみて、或いは本人でも分りますから、本人が触ってみて、フカフカになればよいのですが、ところがそうなるにはなかなか大変です。何処かしらに必ずあるものです。あるばかりではないので、柔らかい所はないくらいなものです。それがうまく一ぱいに固まってますから、それが当り前のように思うのです。それで或る程度半分くらいに溶けて来ると食欲が大いに増えて来ます。そうすると肥って来ます。痩せているという事は肩です。〝肥るのも痩せるのも自由自在だ〟という事を前に言った事がありますが、それは肩を柔らかくする事だけで肥ります。それが分れば痩せている人は助かります。これは大体人にやってもらわなくても、自分で溶かすと溶けます。手をくっつけないように少し浮かしてやるのです。私も始終やっていますから大分柔らかくなりました。それから上からやってもよいです。とに角食欲さえあれば結局何でも治ります。浄霊すればどんな病気でも治るに決まっているので、ただ治るまでに衰弱で倒れるので、衰弱は食事ですから、そこでこれによって衰弱を防ぐという事になりますから、根本的の事です。

 それから一番厄介なのは必ず此処(延髄)に固まりがあるので、此処にない人というのはありません。多い少ないはありますが、必ず棒のような人とか石がはいっているようなのがあります。全部柔らかいという人はありません。だから今の人は全部病人です。大体今の人で長生しても大抵七十から八十が長生の方ですが、ところがそういった固まりが無くなると百以上は必ず生きるのです。だから実に大したものなのです。寿命を延ばす事くらいは何でもありません。そこであんまり話がうま過ぎるので、かえって先方は本当にしないでいるのです。そういうわけで此処(延髄)です。それから近眼、トラホームという目の病気は後頭部に必ず固まりがありますから、これを溶かせば盲目でも必ず見えるようになります。此処に固まっているのはやっぱり肩から来ます。此処に固まりがあって、こういうように肩から来ます。そういうように固まっている人で目の見えない人は随分あります。そういう人はまず目の後、と言ったところで中心がありますから、その交錯した中心の固まりをとれば必ず見えて来ます。ただそれを溶かすには相当かかります。これはできるだけ力を抜いて中心を狙ってやると幾分ずつ溶けて来るから見えて来ます。だから盲目を治すのも別に難かしい事はありません。それから耳では、耳鳴りというのは多いですが、耳鳴りは此処(延髄、首筋)に必ず固まりがあります。それから中耳炎をやった人で聞こえが悪いというのは耳下腺です。これが中耳炎の筋ですから、こういうところに固まりが残ってますから、それを溶かせばよいのです。

 それからどんな人でも前頭部に熱があります。脳貧血の人は冷たいですが、普通の人は必ず熱があります。この熱は或る程度はやむを得ませんが、触ってみて芯に熱のある人と上面に熱のある人と両方あります。触ってみて、芯に熱のある人はどこまでも熱いですが、上面の人は何時までも感じません。本当から言えば上面の熱もやっぱりいけませんが、そういうのは別に何でもないと言ってよいです。やっぱりいろんな事を考えると毒が此処に集まるのです。首から上に毒がなければ幾ら考えても集まりませんが、そういう人はないから、いろいろ考えたり心配すると前頭部に毒が集まるのです。それで男はそうでもないが、女のヤキモチは其処に一番集まります。だからヤキモチでなくてヤキ頭です。それからこういう事を考えなければならないのです。人間は上半身と下半身は天地になってますから、天底(額の中央)が丁度女の前にあたる事になってます。もう一層突込んで話をすると、性的の意味は前頭部の此処に関係があるのです。これは男子に多い事ですが、ストリップを見ると、目から前頭部のこの中を刺激するのです。そするとこれが直ぐ下に行くのです。これは性科学です。男子の性慾というのは、原因は前頭部にあるのです。<神様の方の医学もやっぱり今流行の性科学の方なのです>ですから前頭部に熱がある人はやはり下部を浄霊するという事が肝腎なのです。どうも頭痛がして頭が工合が悪いという人は今の下部の急所をやると治ります。ですからこれは天地になっているわけです。やはり病気でも急所があります。つまり楽屋と舞台があります。病気は舞台の方で、原因は楽屋の方です。それで楽屋の方をやっつけなければ根本的には治らないわけです。ですから目の悪いので、此処(後頭部)に集まるこの毒というものは肩です。それで肩の毒というものは大体は腎臓です。薬毒とかいろいろな物を人間の体に入れると、その毒が一旦腎臓に行って、腎臓で処理されるのです。というのは腎臓で小便によって外に出すという働きになるのです。そこで腎臓で処理されない分、それは薬毒とかそういった不自然な物は腎臓に行っても処理されないので余るのです。その余った物がだんだん肩に来るのです。人間は凝りますが、それは腕を使わないから肩に来るのです。足は凝りませんが、これは始終歩いているからです。じっとして手を使うとか、そういうために肩に来るのです。ところが手を始終動かしているとそうでもないが、人間は足だけしか使わないから、肩に来るのです。そして頭を使ったりいろんな道具を使いますから、頸や頭に来るのです。それでこの辺の浄化によって溶けて下に下がるといろんな病気になるのです。けれども他の肝臓とか膵臓とか腸の病というのは又違います。それは一旦胃にはいった物が腎臓に行かないうちに、その辺に浸透して行って固まるわけです。これは次に話しますが、今のは大体肩を中心としたいろんな事をお話したわけです。まだいろいろありますが、追々話してゆきます。

 

 

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