七月十五日

 「医学革命の書」の中に入れる論文ですが、これは非常に科学的に説いたのです。今の科学特に医学の考え方は非常に幼稚なものでお話にならないくらいです。よく〝科学的々々々〟と言いますが、今の医学は科学としてはごく手前のものです。これを分りやすく急所だけを書いたので読ませます。

 御論文〔科学で病気は治らない〕 

科学で病気は治らない

(『医学革命の書』より)

 科学の進歩は、科学発見以前の世界と較べたなら、比較にならない程素晴しいのは今更言う迄もないが、さりとて向後百年、千年後を想う時、それは想像も出来ない程の超驚異的文明世界である事も勿論である。そこでよく考えてみると、今日迄の科学の進歩は、端的にいえば光学の進歩でしかない事である。即ち小さなものが拡大して見える硝子(ガラス)玉の進歩である。大は天体観測の望遠鏡から、小は微生物発見の顕微鏡に至るまで、つまり大と小の極端の進歩で、中間は殆んどないといっていい。そこで医学に関する面を主としてかいてみるが、現在の(ところ)電子顕微鏡で見得る限度は二十万倍とされている。(この)限度内で把握された微生物即ち黴菌(ばいきん)、又はウイルスを病原としているのが医学の考え方である。そこで医学は此菌を殺滅すれば、病は治るものと信じ、それを建前として研究を進めているのは言う迄もない。

 (ところ)で考えねばならない事は、右の如く二十万倍以下の菌を対象としており、それ以上の菌を重視しない事である。としたら(ここ)に問題がある。それは真の病原は二十万倍処ではない。百万倍か、一千万倍か、科学者は想像もつかないであろう。それのみか仮に一千万倍の菌が見えるようになったとしても、それで根本的治病が可能なるかというと、之も分りよう(はず)がない。(あるい)は真の病原は菌の大きさ(どころ)ではなく、無限であるかも分らない。としたら科学が如何に進むとしても、病気を治す事は絶対不可能であるのは断定しても間違いはない。それに()いて言いたい事は、医学は紀元前彼のヒポクラテスが創始したものであって、(すで)に二千有余年を経ている今日、今以て病気は解決出来ないのである。(しか)し言うであろう。十八世紀後半俄然として科学が勃興(ぼっこう)し、それに伴って医学も発達したのであるから、此儘(このまま)漸次(ぜんじ)進歩の(あかつき)、理想的医学となるに違いないから、それを期待しているのである。

 (ところ)が医学の病理の如く、病原は(ことごと)黴菌(ばいきん)としている以上、前記の如く顕微鏡が如何程進歩し、微生物の極致まで発見されたとしてもそれで解決出来ないのは右によっても明かである。(また)別の面から見ても、人間の生命は造物主が造られた万有中、最も神秘極まるものであって、他の物質とは根本的に違っている事を知らねばならない。(これ)は説明の要はない程高級な存在である。言うまでもなく智性、思想、感情等の思想的面は他の動物には全然ない。(この)意味に(おい)て人間以外の一切(いっさい)は、科学によって解決出来ると共に、益々進歩発達させねばならないのは勿論(もちろん)であるというのは一切(いっさい)の物質は人間よりレベルが低く、従属されているものである。

 従って人間が同一レベルである人間を、自由にする事は真理に外れているから、どうしても人間以上である(エックス)の力でなければならない。だとすれば人間が作った科学を以て、人間の病気を治そうとするのは、如何に見当違いであるかが分るであろう。故に治らないのが当然である。標題の如く科学で病気の治らない訳は分ったであろう。(また)次の例を挙げてみると一層ハッキリする。昔から至大(しだい)無外(そとなし)至小(ししょう)無内(うちなし)という言葉がある。勿論(もちろん)大も小も無限という意味である。例えば大空の無限大と共に、微生物の本質も無限小である。(これ)を人間に(たと)えれば想念の無限である。宇宙一切、森羅万象如何なる事物でも想念の届かぬ(ところ)はない。(これ)によってみても人間は如何に高級であり、神秘な存在であるかが分るであろう。

 従って人間の病気と(いえど)も、有限である科学では治し得ないと共に、無限の力によらなければ治し得ないのは明々白々たる事実である。(この)理によって医学の誤謬(ごびゅう)の根本は、人間と他の物質との違いさを知らない(ところ)にある。としたら、その幼稚なる未開人的といっても過言ではあるまい。以上思い切って科学にメスを入れたが、現在の(ところ)私の説は到底信じられないであろうが、科学の理論物理学が実験物理学によって確認されると同様、私の唱える理論が実験上確認されるとしたら、(これ)こそ真理である。(ただ)私の説が余りに飛躍しすぎているので、直に受入れられないだけの事で、承認されるのは時の問題でしかあるまい。

 以上の如く無限の病原を、無限力によって万人を救う例として、現在日々数万の患者が救われている。例えば医学では絶対不治とされ、死の宣告まで受けた患者が、医学の医の字も知らない人々が数日間の修業によって得た方法を以てすれば、(たちま)ち起死回生的に全治する。(また)彼の盲腸炎の激痛でも、術者が数尺離れた所から、空間に手を(かざ)すだけで、二、三十分で痛みは去り、間もなく下痢によって排毒され全治する。結核菌を()んでも感染しない、感冒に(かか)る程健康は増すとしての喜び、目下(もっか)流行の赤痢、日本脳炎など、数日間で全治する等々、例は何程でもあるが、(これ)だけで充分であろう。従って(この)著を読んだだけでは余りの偉効に到底信ずる事は出来まい。恰度(ちょうど)幼稚園の児童に、大学の講義を聴かせるようなものである。(この)大発見こそ夢の現実化であり、不可能が可能となったのである。私は断言する。何人と(いえど)(これ)を身に着ける事によって、完全健康人となり、安心立命の境地になるのは断言する。

 故に(この)事が全世界に知れ渡るとしたら、空前の大センセーションを捲き起すと共に、文明は百八十度の転換となるであろう。その時になって(ほぞ)()むとも間に合わない。(この)例として明治以後西洋文明が国内を(ふう)()するや、今迄嘲笑され下積になっていた人達が、一挙に新時代を受持つ栄誉を担うに反し、旧思想に捉われ頑迷(がんめい)丁髷(ちょんまげ)連中は、(あわ)てて後を()うとも追いつかなかったのと同様である。(しか)(この)大発見たるや、それよりも幾層倍、(いな)幾十層倍大であり、永遠性があるとしたら、(いたず)らに躊躇(ちゅうちょ)逡巡(しゅんじゅん)バスに乗遅れないよう(あえ)て警告するのである。

 この後「神霊の解剖」というのを書くつもりです。つまり神様を解剖するわけで、随分変った事ですが、神様を解剖するなどというと、今までの人は恐ろしくて罰が当っては大変だと、そういうものに触れる人はないのです。けれどもそこまで分らなければ信仰の真髄は本当に分るわけがありません。神様というと、ただ漠然として有難いような恐ろしいようなものになって、それに人間は触れる事はならないように思われて来たのです。というのは今まで神様を本当に分っていた人は無かったのです。つまりキリストでもお釈迦さんでも、どうも徹底しては分っていなかったらしいのです。神様が分らないと、病気、人間の生命力という事が分らないわけです。なにしろ人間の生命は神様が造り、神様が握っているのですから、神様の根本が分らなければ生命に関した事も分らないわけです。ですからそれを説いた人もないし経文にもバイブルにもそれはなかったわけです。つまり経文やバイブルにしても、もっと低い所です。上面(うわつら)の所だけしか説く事ができなかったのです。ですから見真実と言っても、見真実にも浅い深いがあって、深い所までは分らなかったというよりか、分らせなかったのです。分らせてはいけなかったのです。ところが今度は分らせなければいけなくなったわけです。そこで私は知らされたわけです。ですから今読んだとおり医学の考え方は、黴菌というものは顕微鏡の現在の見得る程度は二十万倍というわけですから、二十万倍で分っただけの黴菌を対照(対象?)として研究しているわけです。ところが顕微鏡が百万倍になっても千万倍になっても、まだ徹底したわけではないのです。それ以上まだ小さいのがあるのです。私が前にも言ったとおり〝今ある黴菌というのは(あら)いものだ〟と言うのはそういう意味で、細かい点においては何処まであるか、殆んど無限です。一千万倍、一億万倍になっても、もっと細かいのです。細かいという事は無限という事で、つまり数字で現わす事はできません。それが黴菌の本体なのです。だから今の科学というのは実に浅い、浅薄なものです。これで病気を治そうと思っても、治るわけがないのは当り前です。それをよく分らせるという事が根本なのです。それでその無限の小さいそれを浄霊で殺すというのですが、これ(掌)から出る光が無限の細かいものであって、到底数字で表わす事はできません。そういう訳ですから、宇宙というものは凡て無限なのです。「至大無外、至小無内」というわけで、丁度大空に壁がないようなものです。ですから宇宙というものはどのくらい広いものか分らないので、到底数字で表わす事はできません。大空の広さが無限であるのと同じように、小さいものが又無限なのです。ですから黴菌と言っても、病原菌の小ささというものは無限なのです。それを分らせるために今書いたのです。その小さいものが無限であるとしたら、やはり無限な力でなければ病気を治す事はできません。そこで霊主体従の法則によって、此処なら此処の病気が治るという事は、この細胞というものが又無限なので、どのくらい細かいか分りません。ですから医学の方では、細胞の数は何万、何千万と言ってますが、これは滑稽なのです。細胞一つを作っている細胞が又何万、何千万あるか分らないくらいで、その又一つがそれと同じようにどのくらいあるか分りません。ですから凡て一切は無限なのです。その無限であるために分らないので、その分らないところに本当は面白さがあるのです。よく地球の年齢という事を学者が研究してますが、これは無限という事を知らないからです。地球の寿命というものが又無限なのです。ですから人間でも、幾度も生まれ変り死に変り行くのですから、人間の寿命というのは何万年か何千万年か分りません。霊の方は永久なのですから、早死を恐れる事はありません。ただそれが人間の心に記録されてないから、新しく生まれて新しく死ぬように思うので、心細い感じがするのです。そういうふうに考えると、全く医学の研究などというのは実に気の毒なものです。これを仏教などでは大摑みには説いてあります。〝一切無だ〟と言いますが、一切無だという事は無限という意味を表わしたわけです。何故と言えば、「有る」という事は言えないわけです。つまり「有る」という事は唯物的の観念です。「無」というと唯物的ではないという事を表わしているわけです。その意味が分かればよいわけです。此処(掌)から出る霊光も粒子なのです。粒子という事は無限的粒子です。それでこれが殺菌法です。殺菌というのは、霊の曇がつまり毒ですから、その毒を火素で焼いてしまうというので、それが肉体にも直ぐ写るのです。つまり霊主体従で、そのままに物質の方も従うというそれで病気は治るわけです。これが真理なのですから、治るのが当り前なのです。だからこれが分りさえすれば医学者というのは今言ったとおり幼稚園の生徒です。本当はもっとひどいのですが、言いようがないので〝幼稚園の生徒が大学の講義を聞くような〟と言うのですが、本当はもっと離れているのです。

 それからこの間の九州を荒した台風ですが、これも理屈は同じなのですが、しかし人体とは余程違うわけです。この人体と物質の区別は余程違うのですが、言わば同じ粒子としても、人間の粒子というものは一番上等なのです。それから台風とかそういったものの粒子は上等でなく下等というわけです。それで現われ方は、大体浄化作用という点においては一つなのです。

 御論文〔台風の霊的考察〕     【註 栄光二一九号】

台風の霊的考察

(栄光二一九号)

 今度の九州の大風水害は、いかに惨憺たるものであったかは、新聞ラジオで詳細報告されたから、ここでは略すが、では一体台風というものの原因は何かという事は、誰も知りたいだろうが、科学では今のところ全然分っていないから私はかくのであるが、何しろ科学はいつもいう通り、浅薄極まる表面的物の見方であって、内在せる根本には触れていない以上、いかに進歩しても分るはずはないのである。そうして台風といえども人間の病気と同様、それ自体科学の分野ではない。霊の分野に属しているのである。それなら宗教で分りそうなものだが、実は分り得る程の高度の宗教はまだ出ないから致し方がないので、そこで私は神から教えられた真の原因を説くのである。

 以前もかいた事だが、この世界における森羅万象一切は、絶えず汚穢が溜ると共に、それに浄化作用が起って浄められるのが法則となっている。従って地上の霊界、現界共に絶えず汚穢が溜り、ある限度を越えるやここに浄化作用が発生する。それが台風であって、つまり風で吹き払い、雨で洗い浄め、天日で焼くのである。この理によって今回のごとく田畑百数十万町()も水底に沈んだという事は、全く人肥金肥の肥毒によって土壌が汚され切っているからで、それを洗い浄めなければ農作物に影響を及ぼし、減収になって食糧難に陥る憂いがあるからである。そうなるとここに浄化担任の神々はその活動を開始されるのである。

 また破砕され流されたりする家屋は、その物の霊に汚穢が充ちたためであり、溺死した人間はやはりその人の霊に罪穢が溜って、生存の資格が失われたからである。これで大体分ったであろうが、ついでだから今一つの事をかいてみよう。それは火災である。これも知らるる通り、年々増加の趨勢にあり、国としての損害は軽視出来ないものがある。これらもやはり浄化であって、それぞれの建造物に罪穢が溜っているからである。それは今日どんな家でも土地購入、建築等に費した金が汚れていると共に、使用の場合その家屋を大なり小なり間違った事をするからで、これも現代生活上ある程度は止むを得ないが、それでも神仏の信仰者か余程善徳を積むとしたら、それだけ穢れは消されるからいいが、そういう人は滅多になく、ほとんどは罪の溜め放題であるから、どうしても火で焼き浄めなければならないからで、それが火災の原因である。火災の多いという事は無信仰者や悪徳者のいかに多いかを物語っている訳である。また山林もよく焼けるが、これも購入費やその目的に含まれている不正や邪念の汚れのためであるのは言うまでもない。

 以上のごとく現代人は神を信ぜず、霊的智識なく、ただ物質のみを頼りにする以上、災害の多いのも当然であって、これが厳正なる神律であるから致し方ない。それに盲目なるがため末梢的手段のみで防ごうとする以上、根本的でないから、結局賽の河原の石積と同様である。従って結論としては人事を尽くすと共に、神を本位として罪穢を溜めないようにする事で、それ以外万全の方法はない事を心得べきである。

 よく、火事の時に火に向って浄霊すると助かりますが、それは火事で燃えるという事は霊に穢れがある、それを浄霊されるのですから、霊界のその穢れた分が減りますから、火は焼く必要がないから他に行くというわけです。だから霊さえ分ればチャンと理窟は分るわけです。理屈は今言ったとおりですが、時期ですが、何時も言うとおり昼間の世界になって来ますから、その浄化がだんだん強くなって来ます。世界的にそうなるわけですから、そこでこれから世界的或いは国内的、個人的と、いろいろな形に現われて来るわけです。それは何にでも現われますが、特に一番厄介なのは農作物、米です。米などが今年はイモチ病が各地に非常に現われてます。これは肥毒で穢すためです。ところが国の方では、昨日の新聞に出てましたが、五カ年計画で合計三千億の金を使って食糧増産させるというのです。それでいろんな項目があって箇条書に何箇条かありました。ところが結果においては、むしろ減収になると思います。それは根本に気がつかないからです。それで農業特集号を日本中の農業に関係のある所に配ったが、仕方がない事ではあるが全然と言ってよいほど反響がありません。だからどうしても実際的に各村々で実行者が増え、数字で結果を現わして、それを知って初めて、前にこういう新聞を配って読まされた、そうだ、という事になるわけです。その時に初めて新聞を読ませた結果が現われるわけです。今年あたりは虫害、水害がだんだん増えますから、むしろ減産です。それで政府がヤッキとなっていろんな施設をすればするほど減産になります。やっぱり医学と同じでいろんな新薬や方法をやればやるほど逆効果になるわけです。ですから最近になって結核が又非常に増えて来てます。これは死亡率は減るのですが、患者数はだんだん増えるのです。つい最近何かの新聞に出てましたが、静岡県でしたかB・C・Dなどで厳密に検査したところが四割が結核の疑念があるという事です。それは児童です。その危険がある、或いは疑念があるという事は、それで治ってしまうのなら疑念で済んでしまいますが、医学の方で疑念があると言った以上必ず本物になりますが、実はそれから本物にするのです。できるだけ過激な運動をするなとか、何かの薬をのませるとかして弱らせるのですから、だんだん本物になるのです。ですから四割から五割、六割というような工合に、日本人は殆んど結核患者の方が多いという事になります。それから本当に救世教に縋る事になるのでしょう。けれどもそうならないうちに早く救ってやらなければならないから厄介なのです。なにしろ医学迷信、肥料迷信に(とら)われきっているのですから、極端にまで行くよりしようがないでしょう。お蔭話などを読んでみても、浄霊によって確かに良いという事は分っていて、医者から離れる事ができないでいるのです。そういう人が沢山おります。医者と縁を切るという事は不安で不安でしようがないのです。それで医者から何かやってもらうそれだけで悪くなり、浄霊では良くなりながら分らないのですが、こういう事をみても医学迷信というものが如何に根強くはいっているかという事が分ります。ですから結核がドンドン増えるという事は、大局からみると結構なので、早くそうなると早く分ります。しかし霊界の方はドンドン変って来ますから、そういったように早くなるのもだんだん増して来ますから、神様がうまい工合にやってくれるのは決まってますからよいですが、それについてインテリ連中ほど余計分らないのですから、その事を書いてみました。

 御論文〔世のインテリ族に物申す〕     【註 栄光二二〇号】

世のインテリ族に物申す

(栄光二〇二号)

 およそ世の中に命の要らない人は一人もあるまい(自殺者は別だが)。ところがこれ程尊い命が救われ、その原因である病気が治ってしまうとしたら、それで問題解決何も残らないはずである。とはいうもののそんなドエライ治病法がこの世の中にある訳がないから、そんな(たわ)けた事をいったところで始まらないと誰しも言うであろう。もちろん科学の努力といえどもこの事以外にはないが、今日までのところそれは全然不可能であった。ところがこの解決方法が発見されたとしたら、これこそ二十世紀の大問題でありしかもその発見者が我救世教であるという事が判ったなら、何人も驚嘆到底信ずる事は出来ないであろう。それは事実が証明している。例えば医学で見放された重難症患者が、疑っても信じなくとも容易に全治するという素晴しい医効は、古往今来絶対あり得ない事で、全く夢の現実化である。むしろ余りの偉効に逆に疑いを抱く人さえあるが、それも無理はない。何しろ現代人は子供の時から、病気は医者と薬で治すものと教育され、常識となっているからである。従って本教浄霊医術は、原子爆弾がブッ放されない以前、いくら説明されても分らないと同様であろう。

 そのような訳でインテリ族中の丁髷の人々はどんなに説明しても事実を目の前に見せても、信じ得ないその頑迷さは全く不可解である。それどころではない、専門家の医師でさえ自分で見放した病人が浄霊で助った奇蹟を見せられても、ただ首を捻り溜息を吐くばかりで、進んで研究しようともしないロボット的態度である。恐らくこれ程の迷信は人類史上類例があるまい。ところがそれと同様の不思議さがまだある。それはインテリ中の宗教学者である。彼らはいわく、元来宗教が病気を治すのは間違っている。元々宗教は精神的救いであって、肉体的救いは医師の領分であるというのである。なるほど一応はもっともらしく聞えるが、一歩退いて考えればこうなるであろう。それは医学で真に病気が治るとしたら問題はないが、事実は何程医学を信じ、博士や大病院にかかり、言う通りに最新の療法を受けても一向治らないどころか、反って益々悪化し、命までも危うくなるので、医療を諦め吾々の方へ来るのである。ところが浄霊を受けるやたちまち奇蹟的に全治するので吃驚して入信する。という訳でそれを聞き伝えた人々は後から後から来る。これは当然であって何ら不思議はない。本教異常な発展がそれをよく物語っている。

 これを春秋(しゅんじゅう)の筆法でいえば、新宗教少なくも本教の発展は、全く医学の無力のためであるから、結果からいって医学が新宗教を発展させている訳である。ゆえにもし医学が吾々の方で治らない病気を治すとしたら、患者は何を好んで世間から疑惑に包まれている吾々の方へ来るかという事である。そうして医学も宗教も、その目的は人間の不幸を除き、安心立命を得させる点において同様であり、その根本が健康である以上、他のいかなる条件が具備しても(ゼロ)でしかあるまい。この意味においてどんなに有難い経文でも御説教でも、立派な学説でもそれだけでは幸福は得られない。単なる精神的慰安でしかないのは、今日の既成宗教を見ればよく分るごとく、そのほとんどが衰退の一途を辿っている。これに気付かない限り、ついには潰滅の運命あるのみと言わざるを得ないのである。

 それに気が付いてか付かないでか、宗教学者は口を開けば現当利益は低級なりと非難し、額へ八の字を寄せなければ読めないような活字の羅列をもって高級宗教のあり方としているが、これこそ現実離れの御道楽か、自己保全の御念仏でしかあるまい。もしこれで救われるとしたら、それは大衆ではなく、一部の食うに困らない閑人か、都会の仙人くらいであろう。君らがそういう原稿を書きつつある間にも、大衆は病に悩み、貧に苦しみ、押寄せる社会不安に怯え、東奔西走しているのが現実である。しかもこれに対し数百数千年以前の教説の焼直しをしたとて、何の役に立つかと言いたいのである。

 以上思うままをかいたが、これも世を憂うるの余りで(りょう)して貰いたいのである。ここで重ねて言いたいが、医学でも宗教でも他のいかなるものでもいい、とにかく人間の最大脳みである病を治す事で、ただそれだけである。先年毎日紙で懸賞募集した標語の第一等は「先ず健康」の四文字であった事を覚えているが、これだけで多くを言う必要はあるまい。

 病気の事を少し話します。この間の〝結核を治すには肩を柔らかくする〟という事は分ったでしょう。それで肩を柔らかくすると、第一食欲を増すから衰弱をしなくて済むというわけです。それで今度は頭から頸の廻り、肩という所の毒素が溶けると、一旦胃にはいって、それから下痢になって出るという順序ですが、それがお腹に一旦溜まって、それが男は無論肛門から出るのですが、女はそれがコシケになる方が多いのです。これは男は穴が一つで女は二つあるから大変便利には出来ています。その場合に毒の性質によっていろいろに違います。早く溶けて下りるのとそうでないもの、これは毒の重い軽いという意味もあります。それで重いのは早くいかないからして遅い。遅い時に、人間は使う所に固まりやすいのです。ですから浄霊を始終やっていると、肩の神経を使うからどうも腕に固まりやすいのです。それから割合に背中に固まります。それからそれがだんだん下がって行って腰に固まります。これが息切れの原因になります。背中から脇の下、肋間が息切れの原因なのです。それから喘息の原因にもなります。だから喘息と言っても頭や頸の廻りに非常に原因がありますから、そのつもりで浄霊する事です。それからこの間一度言いましたが、尾骶骨の附近に溜まった毒素のために、それが息切れの原因になります。よく、歩いて息の切れる人、特に坂などを上って息が切れる人は、尾骶骨の附近に溜まった毒素のためなのです。というのは腰が重いから、それにつれてやっぱり足が重いのです。そうすると骨が折れるから息が切れるというわけです。私はこの年で山や坂を上るのに非常に速くて、若い者より速いくらいです。ですから若い者でも弱い者が居ると私の方で加減するくらいです。というのは何かというと、私は始終腰を浄霊してますから、腰が非常に軽いのです。つまり坂などを速く上れないという事は息が切れるためです。というのは腰が痛んだり圧迫されたりするためです。そのために骨が折れて息が切れるのです。そういう人は腰の真中のところを自分で浄霊するとよいです。そうするとウンと良くなります。ですから、汽車や電車に乗る時には人より先に乗れるくらいでなくてはならないのです。そう言うと意地が悪いようですが、そうではないので、今の人は腰が重いから敏捷にゆかないのです。それでこっちは腰が軽いから体が敏捷に運ぶから、人よりか速く乗れるわけで得です。しかしこれは自然ですから仕方がありません。人を押しのけるのでなくて、先がノロイからこっちが速くなるのです。それからもう一つは今の人は頭が悪いというよりか、頭の働きが遅鈍なのです。敏捷に働かないのです。これはつまり頸や頭の毒のために頭の活動が鈍っているわけです。ですから頭も敏捷に働かなければならないのです。それで私は体が軽いと共に頭も敏捷に働くのです。今も此処に出て来る時に、もう一つの羽織を着るとボヤボヤした感じがするのです。狼の衣ひきのようになるのです。それで襟が少し広そうですから〝襟が広い〟と言うと、女中が比べてみて〝いや同じです、変りはありません〟と言うから、〝いやそんな事はない、物指で比べてみろ〟と言うと、物指で計ってみて、約一分違うのです。それはどういうわけかというと、神経が敏捷でないのです。そういう事は始終あります。だから体が敏捷になると共に頭も敏捷に働かなければならないのです。私は何時も女は気がきかなければいけないと言うのですが、今の女の人の頭は敏捷でありません。鈍感です。しかし救世教の女の人はそういう事はありません。ですから体が敏捷に働くと得です。早く分りますから、ちょっと見て直ぐ分りますから、間違いが減るわけです。だから結局毒素です。今は自動車事故とかが非常に多いのですが、これは頭が敏捷に働かないためです。というのは薬毒が頭に来ているわけです。これは信者はよく知っているから言う必要はないが、結局今のいろんな病気の原因が上から下に下がって行くうちに所々に固まるのです。それから肝臓や膵臓は違います。これは胃です。のんだ薬がだんだん外に流れて行って肝臓に固まると肝臓で、膵臓に行けばこれは糖尿病になります。それから変な話ですが、女のコシケにしてもいろいろあります。それでコシケが溜まった時に熱が出るのです。それで女は下の方に熱が出ると前頭部に反射するのです。この前頭部と陰部は非常に関連してます。だから女で気がふさぐというのは陰部に熱があるのです。そういうのは頭を浄霊すると共に下も浄霊するとずっと良くなります。

 

 

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