ロスアンジェルスに行った樋口さんからの第一信が来ましたから読ませます。
(米国通信 六) 【註 栄光二二五号】
米国通信 六
(栄光二二五号)
文中にある渡辺晃子という婦人は、この間話した、最初手紙で御守を送って、それで自分の病気が治って、いろんな宣伝をして教修生を作った人です。
それから古い信者というのは、去年の初め頃に嵐さんが布教してできた人です。
「救世教奇蹟集」は来月出版になるそうです。これは素晴らしいものだと思います。それから今書いているのは「医学革命の書」ですが、これは今までに一番力をそそいで書いているのです。これは医学の罪悪を徹底的に書いてありますから、随分手酷く書いてありますが、しかし何処からでも一分の隙のないように書いてあります。おそらく突込んで来る事はできないと思いますが、突込んで来れば結構です。なにしろ大変な啓蒙書だと思ってます。今までの序文はどうも気に入らないので、すっかり書き直して、これなら大抵よいつもりです。
御論文 医学革命の書〔序文〕
序文
(『医学革命の書』より)
凡そ人間としての最大欲求は、何といっても健康と長寿であろう。他の凡ゆる条件が具備しても之が得られないとしたら、何等意味をなさないのは今更言う迄もない。従って人間生の執着程強いものはなく、此執着から離れられないのが人間の特性である。といってもそれを免れる事の不可能なるが為、今日迄は諦めていたに過ぎないのであって、若此解決可能な方法が発見されたとしたら、之こそ人類にとっての最大福音であり、大問題である。処が喜ぶべし、その欲求は完全に達せられたのである。即ち凡ての病気は医され、天寿を全うし得るという実に驚くべき新医術が、私によって創造された事であって、此医術が普く世界に知れ渡るに於ては、既成医学は当然革命されなければならないと共に、人類の理想たる病なき世界は玆に実現するのである。そうして先ず現在に到る迄の医学の歴史からかいてみるが、抑々今日の医学なるものは、知らるる如く西暦紀元前、彼の有名な医聖ヒポクラテスによって創められ、その後欧羅巴に於ては医療以外、信仰、星占、霊療法等様々な治病法が現われ、東洋に於ては古代から神儒仏の信仰による医しの業をはじめ、易占、禁厭等の外、支那漢時代に到って漢方医術が生まれ、支那全土は固より、特に旺んに採入れられたのが我日本である。西洋医学渡来前までは、今日の西洋医学の如く漢方が一般に普及された事は衆知の通りである。
処が十八世紀後半に到って、俄然擡頭したのが科学である。之が素晴しい勢を以て欧羅巴全土は固より、世界各地に拡がり、遂に今日の如き科学万能時代が現出したのである。それというのも凡ゆるものが科学によって解決され、それ迄不可能とされていた凡ゆるものが可能となる等々、遂に絢爛たる近代文明が確立されたのである。従って此恩恵に浴した人類は、科学を以て無上のものと信じ、科学ならでは何事も解決出来ないとする一種の信仰的観念にまでなったのである。特に医学を以て科学中の最も重要な部門として扱われた結果、人間生命の鍵をも握って了った事は、恰度宗教信者が神に対する尊信帰依と同様で、他を顧りみる事さえ異端視せられるというようになり、世は滔々として科学信仰時代となったのは知る通りである。
之によって医学は客観的には驚くべき進歩発達を遂げ、人類の福祉は一歩一歩増進されるかに見えるが、一度冷静な眼を以てその内容を検討する時、之は又意外にも進歩処か、反って逆コースの道を盲目的に進んでいる有様であって、その迷蒙なるいうべき言葉はないのである。何よりも事実がよく示している。それは病気の種類は年々増え、罹病率も減る処か、益々増える一方である。その結果人間は常時病の不安に怯え、寿齢にしても一般人は六、七十歳が精々で、それ以上は不可能とされている。上代の文献にある如き、百歳以上などは昔の夢でしかない事になって了った。勿論百歳以下で死ぬのは悉く病の為であるから、言わば不自然死であるに反し、自然死なら百歳以上生きられるのが当然である。というように人間の健康は極めて低下したにも拘わらず、それに気付かず、遂に病と寿命のみは宿命的のものとして諦めて了ったのである。而もそれに拍車をかけたのが彼の宗教であって、それは斯う説いている。即ち死は不可抗力のものであるから、その諦めが真の悟りとして諭えたのである。彼の釈尊が唱えた生病老死の四苦の中に病を入れた事によってみても分るであろう。
そのような訳で現在の人類は、病の解決は医学の進歩による以外あり得ないとし、万一医療で治らない場合、止むなき運命と片付けて了う程に信頼しきったのである。処が之こそ驚くべき迷蒙である事を、私は神示によって知り得たのである。というのは医療は病を治すものではなく、反って病を作り悪化させ、遂に死にまで導くという到底信じられない程のマイナス的存在であるという事と併せて、凡ゆる病を治す力をも与えられたのであるから、之によって普く人類を救えとの神の大命であって、今日迄不可能と諦めていた夢が、現実となって此地上に現われたのである。現在私の弟子が日々何十万に上る病者を治しつつある事実によってみても、何等疑う処はあるまい。万一疑念のある人は、遠慮なく来って検討されん事である。
以上の如く此驚異的新医術の出現こそ、今日迄の如何なる発明発見と雖も比肩する事は不可能であろう。何しろ人類から病を無くし生命の延長も可能になったとしたら、彼のキリストの予言された天国の福音でなくて何であろう。之が世界に知れ渡るに於ては、一大センセーションを捲き起し、世界は百八十度の転換となるのは火を睹るよりも明かである。最近の大発見として世界に衝撃を与えた彼の原子科学にしても、之に比べたら問題にはなるまい。私は叫ぶ、最早人類最大の悩みである病は玆に完全に解決されたのである。故に此著を読んで信じ得られる人は天国の門に入ったのであり、之を信ぜず躊躇逡巡、何だ彼んだといって見過す人は、折角天の与えた幸福のチャンスを自ら逃して了い、何れは臍を噛む時の来るのは、断言して憚らないのである。
この次の項目は「現代医学論」というのですが、これは一大論文のつもりです。それはこの次あたりに読ませます。次のも「医学革命の書」の中に入れるつもりです。これはみんな知っている事ですが、又書き方を少し変えてあります。
御論文〔毒塊人間〕
毒塊人間
「栄光」二二六号
私は常に現代人は毒の塊だといっているが、随分酷い言い方と思うかも知れないが、これが事実であってみればどうにもならないのである。信者の誰もが知るごとく、今日どんな人でも祖先から受け継いだ先天性薬毒と、生まれてから入れた後天性薬毒との、二種の薬毒によって毒の固りになり切っている。というのは私は二十数年来今日まで、何千何万の人間を取扱って来た経験によっても、そうでないものは一人もない。残らずといいたい程人間の形をした毒の塊といっていい。もちろん浄霊によれば容易に溶解排除せられ、病気も生命に別条ないまでに快くなるが、薬毒全部を除ってしまう事は、まず一生かかっても難かしいであろう。
このような訳だから今日人間の形をした毒の塊が高慢な理屈を言ってノサバっているのだから、これを吾々から見れば滑稽千万であり、碌な智慧も出ないのは当然であろう。そうして私が常に唱えているごとく、その毒は人間が神経を使う所ほど集溜固結するのが法則であるから、近代人のごとく非常に頭脳を使う以上、首の周りから肩へかけて固っている。どんな人でもその辺を探れば必ず大小様々の固結やグリグリがあるからよく分る。
この固りの浄化作用が風邪であるからそのまま放っておけば毒素は順調に排泄され治るものを、無智な医学は薬その他の手段で出るのを停め、固めようとする。その上そのための薬毒も追加されるとしたら、それだけ固りも増え、益々毒塊人間となるのは当然で、浄化も起り易くなり、今日のごとく病人が多いのである。しかも頭脳が最も侵されるため、近頃のごとく頭の悪い人間が増えるばかりで、どんな人でも頭痛、頭重、朦朧感、焦躁感、眩暈等の苦痛のない人はほとんどあるまい。この結果物の判断力が鈍く、正邪の区別さえつかず、常識の欠乏、智能の低下、鈍智鈍感、何事もその場限りで済ましてしまうのは、御自分を見てもよく分るであろう。従って病気、犯罪、貧困、争い等々忌わしい事の多いのは驚くばかりで、社会はさながら地獄絵巻である。
そうして特に言いたい事は智識人のレベルの低さである。彼らの説くところ矛盾撞着、定見も主張もなく筋も通らず、ただ活字の羅列に過ぎず、ほとんどは原稿稼ぎといってもいいくらいで、近頃の論説を読んでも後へ残るようなものは滅多にない。その中での二、三の例を挙げてみるが、まず宗教家である。彼らの説くところ何百何千年前の骨董的教説に、新しい衣を着せたようなもので、何ら新味はない。もちろん人々に感動を与えるなどはまずあり得ないといえよう。また政治家にしても普通の頭なら、精々三十分くらいで結論の出るような問題でも、大勢かかって幾日も練るどころか、何カ月、何年に及んでも結論が得られないのを見てもその頭の悪さ加減が分るのである。一例として彼の再軍備問題にしても、この可否など実に簡単明瞭であるにかかわらず、擦った揉んだで未だに結論が出ないにみても肯くであろう。これも智慮あり信頼出来る指導者がないからでもあろうが困ったものである。それについて私は常に部下にいっている事は、相談や会議の場合、三十分以上かかるようなら止めた方がいいとしている。それでも纏りそうもない時は、私はワンマン振りを発揮して、一言で片付けてしまう事もよくある。本教が何事もスピード的に運んでゆくのもそのためである。次に経済界であるが、これも余りに頭が悪すぎる。衆知のごとく政府や財界の主脳者始め、日本の商工業者がいつも苦しんでいるのは借金である。恐らく世界中日本くらい借金インフレの国はないであろう。この最大原因こそ利潤と利子との釣合せが下手糞なためと、事業盛衰の判断力、世界の趨勢や国家経済の動向などに見通しがつかなすぎるからである。それもこれも鈍智のためはもちろん、借金の苦労がそれに拍車をかけるからでもある。
まだ色々あるが、これだけでおよそ分ったであろうが、今一つ言いたい事は、近頃のごとく社会各面における忌わしい問題の多い事である。交通事故、火災、鉱山の災害、殺傷沙汰、自殺、心中、裁判沙汰等の外、風水害、農村の病虫害等々、要するにそのことごとくは頭脳の明敏を欠く結果で、その原因こそ薬毒であるから、何としてもこれに目覚めさせなければならないと痛感するのである。遠慮なくいって現在の社会は、毒塊人間が押し合いへシ合い、蠢いているとしか思えない程で、思えばこれを浄め給う神様の御手数こそ、さこそとお察しする次第である。
話は違うが自然農法の事で、堆肥迷信が大分あるのです。どうも土ばかりでは気が済まないで、何か肥料というものが頭の底に残っているのです。どうも堆肥という物に、そういう考えがはいるのです。ところが実は堆肥も本当はいけないので、土ばかりがよいのです。以前にも書いてあるとおり、土が肥料だから、土を邪魔するものはみんないけないのです。堆肥も土を邪魔するからいけないのです。ではどうして堆肥を使うかと言うと、土が固まると根伸びが悪くなるから、固まらせないために堆肥を用いるというわけです。その場合にも堆肥はできるだけ腐蝕させて繊維の無いようにしなければならないので、半分土に化したくらいの物がよいのです。ところが葉の筋があるのや、落葉でもまだ相当固いのを使いますが、それで畑作での相当よい成績の報告がないのはそのためです。ですから若し土の固まらない所では<それは古い土は固まらないから>堆肥もやらない方がよいです。若しやるとすれば、大根、牛蒡、人参という根の物には、一尺以上の下に、これはそう腐蝕しない落葉や草でもよいですから、それを床にするのです。そうすると非常に温まるので成績がよいです。そういうように堆肥を使えばよいのです。あとは土に混ぜるのですが、土に混ぜる場合にはできるだけ腐蝕させるのです。それからもう一つは乾く土地がありますが、これは天日に当てると乾きます。そこで堆肥を敷くと水分を保つから、雨なども乾かないで止まっているから、そういうためには結構です。果樹などの根の際には堆肥を大いにやった方がよいです。これは水分が長持ちします。それは乾かさないためです。そういう工合に、堆肥もよく考えて適当にすれば結構なのです。それを堆肥が肥料のように思って、何でも彼んでも堆肥さえ使えばよいと思っている事が間違っています。
それから信仰上からも一番肝腎な事は、天国という事は一言でいうと〝相応の世界〟なのです。凡て何事も〝相応〟しなければいけないのです。相応するという事は、つまり理窟に合うという事です。そう見てくると、人間が薬をのむという事は相応しないのです。理窟に合わないのです。というのは薬というのは木や草、葉とか、鉱物を粉にするとか、ペニシリンのように水苔からとったり――今度少し書きましたが――水苔というのは、神様は魚の餌にこしらえたのです。淡水魚、鮎のようなものの食物として出来ているのですから、人間が横取りするのは間違ってます。とに角病気というのは、人間の生命に関することですから、人間の生命を救うのに木の葉や草にその力があるわけはありません。生命を壊すには力があるかもしれません、毒ですから。しかし命を救うという力がそういう物にあるわけがありません。それは人間以上でなければその力があるわけはありません。人間以上とすれば神様よりありません。即ち薬をのむことは理窟に合いません。そういう理窟に合わない事をやっているのですから、全く今日の人間は何と言ってよいか、馬鹿を通り越してます。〝馬鹿は死ななきゃ治らない〟というわけで、つまりそれで早く死んでしまうわけです。
これは信仰の面においても言えます。その家なりその人なりによって、御神体は相応しなければならないのです。最近信者でもちょっと危険な事がありましたが、御守護でうまく行ったのでよかったのですが、それはあり得べからざる事があったのです。よく聞いてみると、その人にしろその家にしろ相応しない御神体を御祀りしてあったのです。やはり大光明如来様も、小さな家や資格のない所に御祀りするのは間違ってます。それは相応しないからです。支部とか、或いは教師とか、或いはそうでなくてもその家が立派なら、大光明如来様でもよいですが、やはり相応しなければいけないのです。以前に、私が観音様の絵を画きましたが、横向きのはそうでもないが、前向きでアグラをかいた大きな絵のがあって、それが雨染みで汚れてしまったというのです。おかしいと思って聞いてみると、小さな農家で、御掛軸だけが馬鹿に立派で、相応しないのです。そういう事がありました。やはり何事も相応しなければいけないのです。相応するという事は理窟に合うという事で、そうすれば決して間違いはありません。それと同じように、姓名がそうです。ただ良い名前をつければよいと思って、良い名前をつけるとかえっていけないのです。名負けがするのです。なまけ(名負け者)というのはやはりそういうわけかもしれません。それで私も以前は、ただ良い名前をつけるとよいと思って良い名をつけましたが、やはり良くないです。それはやはり良過ぎてはいけないので、相応しなければいけないというわけです。これは人間の名前でなくても、会名に「天」の字をつけますが、それはきっといけないです。それはやはり名前が良過ぎる、高過ぎるのです。私は経験がありますが、大本教にいた時分に、とてもよい名前をつけているので、さすがに名前は良いなと思っていましたが、ああいう事になりました。そういう事も、そういうためにそういう名前をつけたと言えばそれまでですが、やはりあんまり良過ぎたのです。だから名前をつける場合には良過ぎてもいけないのです。そういうようなわけで、何事も相応という事を忘れてはいけません。その人の行いでも、あらゆる生活でも、収入に相応し、身分に相応し、位に相応し、丁度それにピタッと合うくらいになら何事もうまくゆきます。それから、何か少しおかしいなと思う時には、相応しているかしていないかという事を考えてみれば気がつきます。相応という事が理窟に合うのだから、昔から言う〝分相応〟という事はよい言葉です。それから行いも、その境遇、環境、その場所、相手、いろいろな事に外れないようにする事です。だからよく言う〝突飛〟という事ですが、突飛な事でうまく行った事はありません。日本の大東亜戦争なども、これは大きな突飛です。とに角日本の国力として相応しない事をやったのです。まだ国力がそれほどでもないのに、東亜を征服して、しまいには濠州辺りまで侵略しようとしたのですから、これは突飛であり相応しない事です。それからヒットラーがああいう事をやったのも突飛です。片方でイギリスと戦いながら、後の方でソ連と戦うというので、振り返って拳骨をかざしたのですから、突飛の最も大きなものです。そういう工合で、ちょっと人を驚かせるような、アッと言わせるような事を好む人間がありますが、これはみんないけません。だから、ありそうな事をやるという事がよいのです。そこで私はいろんな大きな計画などをしますが、決して出し抜けに、アッと言わせるような事はやらないように注意しているわけです。さっき読んだとおり、これからアメリカに布教するのですが、随分突飛なようですが、しかし神様からいただいた力と、アメリカの状態という事を照らし合わしてみて、相応しているわけです。決して食い違ってはいないからして、うまくゆくに決ってます。そこで、行るにもパッとやってはいけないので、樋口さんがたった一人で行って、さっき言ったとおり一カ所で、そこからコツコツやり始めるのです。こういうのは失敗がありません。後戻りがないから順調に行きます。ですから私がやるこの地上天国の事などもみんな見てびっくりするような事をやっても、細心の注意を払って順序と相応という事を忘れずにやっているのです。ですからこの方が非常に順調に行って、後戻りがないから早いです。ですから支部をこしらえるにも、パッと大きな計画をしたりしないで、だんだん順序を踏んで相応してやって行けば、うまく行くわけです。大きくしようとすると大きくならないので、大きくしようと思わないで、小さくならないようにと思えばよいのです。だから私は商売などを始める人によく言うのですが、儲けようと思ってはいけない、損をしないようにと思えば決して間違いないと言うのです。というのは、成功した事を考えないで、失敗しない事を考えるのです。これは少し苦労した人はよくそういう事を言います。うまくやろうとか、成功しようという事は思ってもよいが、それはごく軽く思って、本当に強く思う事は、失敗しないように、後戻りしないようにという事を思っていれば決して失敗はありません。これはちょっとした事のようではあるが、根本的なものです。だから損したらどうする、どう逃げる、という事を考えていなければならないのです。私なども若い時分には随分金儲けをやりましたが、その時分にそういう事を考えてやっていれば随分儲けたが、その時分には儲ける事しか考えなかったのです。日本の戦争でも、負けたらどうするかという事を考えていたらよかったが、そういう事は全然なく、ただ勝つ一方の事しか夢見ていなかったから、ああいう悲惨な目に遇ったわけです。そういうわけで、相応の理という事と、失敗してうまく行かなかったらどういうように逃げるかという事を考えてやると、かえって成功する事にもなり、順調に行く事にもなるというわけで、これは宗教でもあり哲学でもあるわけです。ですから結果は、逆結果になるわけです。ですから私は最初に始める時分には、なるだけ世間に知れないように、目立たないように目立たないようにしろと言ったところが、一番世間に知れてしまったわけです。そういうようで、ちょっとした事ですが、結果において将来において大変な違いになるわけです。相応の理という事は、人間、相応者にならなければなりません。何事も相応しない事はいけないのだから、何事も相応するように心掛けるという事が最も肝腎な事です。それから病気を治す場合にもそういう事がよく当て嵌まる事があります。話が長くなりますからこの次にしますが、簡単に言っておきますと、この病気は薬毒の浄化だけれども、その人はどうして浄化が起こったか。それから、此処に現われている病気は、因は何処にあるのか。或いはその環境――他の家族などはみんな賛成しているか、邪魔はいないか。という事など、ちゃんと食い違いがないと、割合にうまくゆくわけです。それが相応するという事です。よく浄霊で、どうしても治らなくて、それから神様に御願いすると直きに良くなるという事は、浄霊ばかりに偏り過ぎるわけで、肝腎な元を忘れて枝の方を重視するから工合が悪いのです。そういう点も、どういうふうにやるのが理窟に合っているか、相応するかという事を考えると、割合に楽で、うまくゆくというわけです。
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