十一月七日

 この前農業特集号を出すという話をしましたが、肝腎な中京方面の報告に推定が多いので、それでは正確を欠きますから、やはり何俵何斗何升という数字が正確でないと工合が悪いのです。それには来月にならなければ正確に分らないそうですから、特集号は延ばして、春早々にするつもりです。そのつもりで居てもらいたいと思います。それで今までの報告の推定なども、気候のために予定よりか多くなる人もあるし少なくなる人もあるようです。なかなか目を見張っているらしいですから、そういうのは推定よりも違ったら突込んでやろうというような空気も幾らかあるようです。なにしろ世間の目は救世教を非常に注目してますから、何処からも指一本さされないように、聊かの隙もないようにやってゆかなければならないと思います。

 それから四、五日前にアメリカのシカゴ・トリビューンというあっちの大新聞の東洋総支配人の奥さんで、女の新聞記者ですが、来ていろいろ質問して、新聞に載せるのだそうです。それで箱根美術館も見たし、熱海の地上天国も見せたので、非常に感心して、何を見ても聞いても心が打たれ通しで、何んと言ってよいか言葉で表わせないというような事を言ってました。ところが昨日聞いたところによりますと、教主様に会ったけれども、自分には荷が勝ち過ぎて、どうも太刀打ができない、まあ負けた形だというのです。しかし随分いろいろな質問をして、自分では相当自信があるらしかったです。私も思い切って話しました。その人の主人は今朝鮮に居るらしいですが、いずれ東京に来た時に是非主人と十分談話を交してもらいたい。それで是非トリビューンに相当大きく扱って出すという希望だそうです。『世界平和の建設者』という標題で書くつもりだと言ってますが、非常に面白いと思います。これで一躍米国に救世教というものが知れるわけです。将来あっちに宣伝する上において、兎に角第一印象を与えておくという事は非常によいと思います。先方で感に打たれたと言いますか、印象付けられたのは、兎に角アメリカは白人文明、西洋文明の代表者だ、日本は東洋文明の代表者だ。つまりアメリカは緯の文明だ、日本は経の文明だ。だからこれを結ぶという事が世界としては一番重要な事で、これによって本当の文化が生まれるのだ。だからあなたの方で私の方を新聞に載せるという事はその第一歩だ、つまり結ぶ第一歩です。だから非常に結構な事だ、というような事を話したので、そういうような事は向うでも非常に印象づけられたように思われます。ただ向うで言う事で面白いのは、私が宗教を始めたのは約五十ぐらいの時からだと言ったところが、これは珍しいというのです。釈迦やキリストでもずっと若い時からだったけれども、あなたは五十からというと、そういう年輩になってから大きな宗教的存在になった人はないと言うのです。この点は非常に珍しい事を言ってました。これは私もウッカリしていた事で、面白いと思います。それから共産主義はどう思うと言うから、あれは私は問題にしてない、あんなものは決して成功するものではないからと言ったら、どういうわけだと質問するから、人間で言えばアメリカや日本は上半身だ、それで下半身が共産主義国=ソ連=だ。つまり足にあたるのだ。だから若しソ連が支配権を握ったとしたら、人間は(さかさま)になって歩くような事になってしまう。そういう事はあり得る事はないと言ったところが、非常に笑ってましたが、あっちの新聞に出すでしょう。丁度二時間ばかり話をしました。それからもう一つ私が言った事は、箱根、熱海、京都の順に地上天国を造るつもりだが、いずれハワイにも造り、アメリカにも造る。そうしてだんだん世界的に増やしてゆくつもりだ。というのは、今までは公園は方々に出来ている。しかし公園というのはごく一般的で大衆の憩いの場所というようなもので、私の計画しているものはもっとレベルの高いものです。つまり天然の美と人口(人工?)の美を取り入れた、上等なものを造る。なにしろ人間が見るものとしては、現在の如くみんなあまりに俗悪のものが多過ぎるので、見て品性が向上するようなものは殆んどない。見て堕落に導くようなものの方が多いのだから、少しはそういった高級な、品性を高めるようなものも大いに必要だと思う。そういう意味でこの地上天国を造るのだと言ったが、非常に共鳴していました。未だいろいろありますが、気の付いた事はそういう点です。

 何時も言うとおりメシヤ会館がだんだん出来るに従って外国に拡がってゆくのです。そういう意味になります。出来上がってからはアメリカなどには大いに発展するわけです。

 それから昨日ハワイの弁護士の三保という人で、これは今度ハワイの法人を骨折ってくれた人ですが、法人は許可になったのです。その報告とかいろいろな話ですが、日本の弁護士と違って宗教的に、なかなか理解があるのです。そう言っては悪いが、日本の弁護士はおよそ宗教とは反対です。尤も解釈のしかたですが、昨日の弁護士の話によると、アメリカは総て裁判官とか弁護士とか法律の事をやっている人は、宗教が非常に肝腎だと言うのです。つまり人を裁くのですから、その場合に公平に裁くとすれば、正義を土台とするのだから、神様を拝むという宗教的信念があれば非常によいと言うのです。ところが何時かの裁判などでも、私の経験によると、日本の弁護士というのはそういう解釈とは違うようです。つまり法律家というものは――裁判官もそうですが――法によって裁くのだ、宗教とは全然関係ない。宗教はまず大体迷信が多いのだから、そういった事で裁判官や弁護士が頭を使うとかえって良くない。だから飽くまで法の理窟で裁き、理窟によって善い悪いを決めるという事が本当だというように思っているらしいのです。だから大変違うのです。だからそれがどういうふうに裁判上に現われるかと言いますと、日本の裁判官は、この人は良い仕事をしているとか、国家社会に良い仕事をしているという事は全然眼中にないのです。この人間は法律第何十何条に抵触(ていしょく)するという事で、他の事の良い悪いはどうでもよいのです。それ一方で罪を決めてしまうのです。ところがアメリカはそうではないのです。アメリカでは、どうせ大きな仕事をする人や役に立つ事をする人間はウッカリして法に触れる事がありがちなものだ、だからただ罰しないで、この人は社会のために大きな仕事、良い仕事をするかという事を基本にして罰するのだそうです。それで私の裁判でも最後に出た某弁護士が、岡田という人はこういう社会のために良い事をしていると力説したが、テンデそういう事は裁判官は耳に入れないのです。鵜沢総明さんなどもそういった考えでした。だからむしろああいう弁論は、実際の罪と的外れになっているような気持です。ところが全然裁判官の方では馬耳東風なのです。ただコイツを罪にしてやろうとか、ごく細かい懲罰的にそれに引掛けて、罪人にすれば手柄になるというような工合です。ですからアメリカがああして進歩発展するのはそういう点にも大いにあると思います。

 一週間ばかり前に文部省の宗務課長補佐と、朝日、毎日と、他の新聞の記者が六、七人来ていろいろな質問をしましたが、その時に私が医学の進歩と言っても駄目だと言ったところが、〝では近頃日本では寿命が延びたと言うが、これは医学の進歩ではないか〟と言うのです。それだけでみるとそう思うのも無理はないのです。それでそれをよく言おうと思ったが、先方は予備知識がないからなかなか分らないのです。それで簡単には言ってやりました。信者の人もそういう質問はよく受けるだろうと思いますから、それについて書いてみました。

 御論文〔寿命が延びた理由〕     【註 栄光二三四号】

寿命が延びた理由

(栄光二三四号)

 近来人間の寿命が延びたといって、この原因を医学の進歩としているが、これは大変な誤りである事をかいてみよう。それは何かというと、漢方薬と西洋薬との関係にある。すなわちこれまでの日本人が短命であったのは漢方薬使用のためであって、誰も知る通り漢方薬なるものは量を非常に多くのまなければ効かないとされているからである。ところが近来に至って漢方薬はほとんど影を没し、普通薬といえば洋薬を指すようになった。何しろ洋薬は毒分としては漢薬と大差はないが、量が非常に少いため害も少く、これが寿命の延びた理由の一つであって、歴史的にみても分る通り、日本においても上代は普通百歳以上であったものが、*紀元千百二十八年雄略天皇頃、支那文化と共に漢方薬も渡来し、その頃から病人らしい病人が出来ると共に、漸次寿齢も短くなったのである。

 今一つの理由は近来薬学の進歩によって、浄化停止のための薬毒の力が強くなった割に、副作用の現われ方が延びたからである。そのため浄化と浄化停止との摩擦が余程緩和された事と、今一つは最近の薬の成分が今までとは全然異った、すなわち抗生物質の発見で、これが大いに効いた訳である。というのは医師も経験者もよく知っている通り、何程効く薬でも一つものを長く続けていると免疫性になり、漸次効かなくなる。そこで薬を変えると一時よく効くのと同様であって、抗生薬を続けるとしたらいずれは元の木阿弥となるのはもちろんである。というように薬効なるものはある限度があるから、治っても安心は出来ない。つまり根治とはならないからである。何よりも今日病気をもちながら、どうかこうか働いている人が非常に多くなった事実である。それは前記のごとく病の一時抑えが、今までよりも期間が延長したためで、これを進歩と錯覚したのである。従って若くして老人のような消極的健康者が増え、元気溌剌たる人間が段々減るのである。この例として近来の英、仏等の民族がそうである。ところがこの理を知らない我国の当局は、矢鱈に医学衛生を奨励し、無理をするな、大切にせよ等と注意を怠らないのは、健康が低下したからである事は、これで分るであろう。

(*紀元<皇紀>1128年=西暦468年)

 つまり浄化停止がうまくなったわけです。進歩と言うと変ですが、浄化停止の方法が上手になったわけです。ですから確かに寿命は一時延びますが、これも或る時期というよりかもう二、三年もたつと霊界の浄化が非常に強くなりますから、今度は逆に恐ろしく短命になる時代が来るのです。それは恐怖時代になるわけです。それがもう大分近寄っています。これが一番よく分るのは、あなた方が浄霊して、以前よりか治りよくなったでしょう。早く治るでしょう。これはそれだけ浄化力が強くなったわけです。それから作物に虫害などが非常に多くなったという事も、霊界が変って来たわけです。つまり浄化力が強くなるという事は、今に薬をだんだん強めて、そうして浄化を止めて、近頃のように寿命が延びるという事は、逆療法が極端に進歩したわけです。それでこの辺で逆療法の方は頭がつかえるわけです。そうして今度は浄化力の方の、逆療法を打消す霊界の方の強い力が増して来ますから、丁度今年の不作のようで、もう少したつと今度は馬鹿に浄化停止の力が弱って来るのです。反動的に弱って来るのです。そうすると薬をのむと直ぐに悪くなり、注射をすると直ぐに参ってしまうようになり、何時かも言ったとおり医者自身が怖くなって、〝これは大変だ、ちょっと手を出すとみんな悪くなってしまったり、参ってしまう〟という事になり、つまり恐怖時代です。それから初めて〝救世教の唱えた説が本当だ、これはどうも救世教に縋るより外に安心ができない〟という事になるのです。そういう時代がきっと来るのです。そうなるとあなた方は非常に忙がしくなり、体が幾つあっても足りないというようになります。まあ助けてやりますが、これは大本教のお筆先に「今に艮の金神返報返しを致すぞよ」「喜ばして返報返しを致すぞよ」という事があります。これが丁度それになるわけです。ナグリつけての返報返しではないのです。それは人間の方のやり方です。神様の方は助けてやるのです。今まで散々悪口を言った連中を助けて喜ばしてやるのですから、今の事が合っているわけです。それから日本のインテリなどは、幾ら分らせるようにしてもなかなか分らないが、これはアメリカで救世教が評判になれば直ぐに分ります。これもやはり〝喜ばして返報返しを致すぞよ〟という意味になります。

 それから「生きてる宗教」という事を書いてみましたが、他の宗教は死んでるようなもので、救世教だけが生きているというわけですが、それをなるほどと思うように書いたつもりです。

 御論文〔生きてる宗教〕     【註 栄光二三三号】

生きてる宗教

(栄光二三三号)

 宗教にも生きてる宗教と死んでる宗教とがあるといったら変に思うであろうが、それをこれからかいてみよう。生きてる宗教とはすなわち実際生活に即したものを言うのであって、死んでる宗教とはその反対である。ところが世間数ある宗教の中で実際生活にピッタリしているものは絶無とは言わないまでもまことに寥々たる有様である。なるほど教えはどれもこれも実に立派に出来てはいるが、教化力の点に至っては気の毒ながら期待をかけられまい。しかし何百何千年前教祖開教当時は、その時の社会情勢に合い教化の力も大いにあったには違いないが、その後星(うつ)り年変り、時の流れにつれて教勢は漸次衰え、現在のごとき状態となったのは周知の通りである。これも自然の成行であって致し方はないが、この事は独り宗教のみではない。あらゆるものがそうであって、ただ宗教だけは遅れて最後になった訳である。

 しかしその間といえども時代に即した色々な新しい宗教が生まれたのはどこの国でも同じであるが、さらばといってそれまでの宗教を圧倒する程の力あるものは滅多に出ないので、いつか姿を消してしまうのが常である。その中でともかく近代に生まれ、今なお相当勢力を保っているものとしては、彼の日蓮宗と天理教くらいであろう。以上は大体の宗教の推移であるが、それはそれとして今言わんとするところのものは現代としての宗教のあり方である。知らるるごとく十八世紀以降科学文化の発展は、宗教にとっての一大脅威となり、それがため今日のごとき衰退状態となったのは争えない事実である。そのようなわけで、科学は(ほし)いままに人心を掌握してしまい、今日科学の文字が入らなければ、人は承知しないようになってしまったのである。それだけならまだいいが、これが原因となって無神思想を生み道義の頽廃止まるところを知らざる有様で、国家社会は混迷状態となり、現在のごときさながら生地獄そのままの世界となったのである。しかも旧い宗教にあっては、今なお何百何千年前の教祖の教えを建前として、長い間に練り上げた教えをもって教化に努めているが、何しろ時代から余りに離れすぎたため教化の力とてなく、正直にいって現実性を失った骨董的存在でしかないことになってしまった。なるほどその当時は香り高い美術品として大いに用いられたには違いないが、今日となっては重要文化財としての価値だけであろう。ところが新宗教の中には右の重要文化財を恭しく飾り立て人寄せに利用はしているが、これとてもある時期までの生命でしかあるまい。何といっても素晴しい文化の進歩に追越され、宗教は遥か遠くへ置去りにされた形である。これをたとえれば飛行機や自動車、無線科学時代の今日、マサカ牛車や駕籠を持ち出したところで何の役にも立たないのと同様であろう。ここでいつもながらの自画自讃を言わざるを得ないが、本教は知らるるごとく歴史は歴史として尊重はするが、それにこだわる事なく、神命のまま独自の方針をもって進んでいる。しかも新生宗教としての若々しさは青年の血が通っており、今行っている事業にしても、医学や農業の革命は固より、あらゆる文化の欠陥を指摘し、新文化の理念を指導精神としている。その具体化の一つが地上天国の模型や美術館の建設であって、これこそ第一線的のものであり、もちろんこの狙いは汚され疲れた魂の憩いの聖地であると共に、俗悪極まる今日の娯楽に対する一塊の明礬(みょうばん)として、人間の品性を高める事でもある。

 以上のごとき本教の経綸は、個人的には健康、救貧、思想の健全化等に資するはもちろん、大にしては明朗不安なき社会を作らんとするのである。この事は近来識者間にもようやく認められ、注目の的になりつつあるのは喜ばしい限りである。しかし今は小規模であるが、いずれは世界的に拡充された暁、日本から平和幸福な理想世界の構想が生まれるわけで、これは敢えて夢ではない事を明言する。これらによってみても本教こそ真に生きた宗教のあり方でなくて何であろう。ただしかし遺憾に思う事は、現在新宗教を目する社会の眼は、残念ながらはなはだ冷淡軽侮的なものがあり、特にインテリ層程そうであって、本教に触るる場合といえども世間を(はばか)るごとき心使いをする傾向のあるのは遺憾に堪えないのである。

 しかしこれも無理はない。何しろ旧い宗教にしても、信者の数だけはおびただしいが、教養が低くいわゆる愚夫愚婦級の人が大部分であり、新宗教にしても顔をそむけるような奇矯極まる言動のものや、迷信的分子が多分に含まれ、常識眼で見てさえ苦々しく思うようなものも相当あるからで、これらもある時期までとは思うが、当事者には考慮を促したいのである。また右とは反対に古い聖者、賢人、教祖等の説を焼直し、新しい衣を着せて時代に迎合するような宗教学者もあって、外面からは進歩的に見え、インテリ層には受けそうには思われるが、果して実際生活にどれだけ役立つかは疑問であろう。これについて思い出されるのは、彼の有名な米国の哲学者ウィリアム・ジェイムズのプラグマチズムである。訳して哲学行為主義であるが、これを私は宗教行為主義に替えたいと思うのである。

 それから医学の違っているという事を見方を変えて書いてみました。

 御論文〔医学は迷信か〕     【註 栄光二三五号】

医学は迷信か

(栄光二三五号)

 医学は迷信か否かについての最も分り易い説明をしてみよう。それは何かというと、外国はともかく我国の現在における治病法と名の付くことごとくは、誰も知るごとく医療と医療以外の多くの民間療法で祈祷、禁厭(まじない)、信仰療法等々あるが、これらを総計したら恐らく数においては医師以上であろう。しかもそれぞれ相当の繁昌を見せている点から考えても、今後増えるとも減る事はあるまい。としたらこれは何を物語っているかを考えるべきであろう。

 これについて有りのまま言ってみれば、医学は世人が思う程進歩していないのである。もし本当に進歩しているとしたら、大衆は何を好んで国家も有識者も口を揃えて礼讃し奨励している医学を捨ててまで、疑惑の雲に包まれている非医学的療法に走るかという事実である。言うまでもなく一般人は病気に罹るや例外なく早速医師にかかる。しかし簡単に治る場合もあるが、中には何程金をかけ、医師も熱心に治療しても思うように治らないのみか悪化する一方で、ついには治る見込はないとして、医師も匙を()げざるを得ない事になる。こうなると患者も助かりたい一心で、あらゆる療法を探し求めるのは当然であろう。人間として命程大切なものはないからである。ところがこの際周囲の者達は口を揃えて言う事は、これ程進歩した医学がありながら、世間からとやかく言われている新宗教などに命を委すのは迷信に違いないといって、常識論を振翳(ふりかざ)し、極力止めさせようとするのが御定法(ごじょうほう)である。ところが肝腎な病人はそんな事は百も承知であるから応じないのが当然で、このような経緯はお蔭話中にも沢山見らるる通りである。

 これを要するに、問題の鍵は医療で完全に病を治しさえすればいいので、それ以外何もないはずである。ところが医療では何としても治らないからこそ窮余の結果他の療法を求めざるを得ないのであるから、むしろ同情すべきである。ところがこんなハッキリしている事を棚へ上げて信仰療法を非難し妨害するのであるから、強いて事実に目を蔽っているとしか思えない。そうでなければ医学迷信の虜となっているため、盲目となりきっているとしか考えようがないのである。また医師とても御自分が匙を抛げた病人を、吾々の手で助かるとしたら、大いに感謝してもいいと思うのである。そのような事実に対し、医療を何程信用せよと太鼓を叩いても無駄であり、どうしても本当に治る方に赴くのは致し方あるまい。つまり医療が余りに拙劣であるからで、医療で完全に治りさえすれば、黙っていても非医者などに赴く患者は一人もあるまい。こんな簡単な道理が分らずとやかく言うのは、その人達の頭脳を疑いたくなるのである。

 以上のごとくこれ程進歩した時代の一面に辻褄の合わないような事も中々少なくないので、それが社会全般に被害を与えているのであるから、全く盲聾の世の中である。ところが右は常識論であるが、これに対して我救世教の浄霊医術である。信者はよく知っているが、まだ知らない人のために一言いうが、医療は前記のごとく無力どころか、それ以上のマイナス的存在である事の認識が出来さえすれば病気の心配からは解放され、真の安心立命を得らるるのである。次に世人の気の付かない今一つの驚くべき事実がある。それは無薬療法すなわち信仰や民間療法で治るのは、その療法の効果よりも、病気を増悪させていた医薬を中止したからである。という訳で皮肉な言い方かも知れないが、信仰療法や民間療法が繁昌するのは結果からいって、医学のお蔭といってもいいであろう。

 今書いたとおり医者のほうで病気を治せばそれでよいのです。そうすれば人々は民間療法とか新宗教とか、そういう所に行きやしません。治らないから、仕方なしに行くのです。ですから新宗教がいけないとか、他の療法がいけないという事はおかしい話です。御自分が治せばよいのです。つまり自分が使っている人間に給料をやらないから、ずるい事をするとか外から金を借りるとか不正な事をして金を得るという事になるので、それと同じです。必要だけの月給をやればよいのです。そうすれば誰が悪い事をするものですか。ですから医者の方で病気を治せばよいのです。そうすれば問題はすっかり解決します。治らないのに治るように見せかけているのです。そうして金をウンと取って、結局今度は命までとるのですから、信じろ信じろと言っても信じるわけがないので、仕方がないです。ですから医者が手を握って、他に行くな、お前は可愛がってやると言って、横面を張るようなものですから、それでは誰でも逃げてしまいます。本当に撫でてくれる方に行きます。これは簡単な分り切った道理ですが、そこが間違っているのです。散々横面を叩いて、お前を良くしてやる可愛がってやると言っているようなものです。そうして本当に可愛がって良くしている人間をケシカランと言うのです。オレの方で手を握って可愛がっている人間を……と言うのです。実際世の中は間違い切っているのです。結局、一昨日のラジオのニュース解説で、〝でたらめな世の中〟という題で言ってましたが、その人は、外の意味から言ったのですが、やっぱりこっちでも〝でたらめな世の中〟と言いたいくらいです。それでこんな簡単な理窟を分らせるのに中々骨が折れるのです。そこでいろんな例をあげてやらなければならないのです。要するに人間は教育のある馬鹿、文化的野蕃(野蛮?)人、野蕃(野蛮?)未開人になっているというわけです。病気が治らないとやたらに手術して臓器を取ってしまって、それが進歩したのだと言ってます。アメリカの新聞記者も言ってましたが、アメリカは非常に手術が進歩して何んでもやたらに取ってしまうのです。それで進歩した進歩したと言っているのですから、アメリカ人も〝超愚〟の点では日本に負けてないです。ですから〝超愚〟では足りないくらいで、もう一つ超をつけて〝超々愚〟でしょう。

 

 

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