農業特集号ですが、ちょっと時期が早かったのです。というのは収穫について予想の所が大分あったので、よく調べてみると、どうも正確を欠いた点が大分あるのです。どうしても収穫を得て、そうして何石何斗何升穫れたというのでなければ正確ではないから、それにはもう少し延ばさなければならないのです。肝腎な中京辺りは今月一杯たたなければすっかり穫り入れにはならないそうですから、未だ数字が確定しないのです。それが確定してから出すのが正確ですから、そうする事にしました。どうしても春早々という事になると思います。そういうわけで農業特集号は延期する事にしましたから、そのつもりで居てもらいたいと思います。
それから二、三日前にアメリカのシカゴ・トリビューンという有名な新聞で、アメリカでの大新聞の一つです。日本で言えば朝日、毎日、読売というような地位ではないかと思います。なにしろ本社の建物が二十四階で、社員の数が四千人だそうです。これから日刊頁数が六十頁になるそうです。アメリカだけに大きいです。そこの東洋総支配人とかいう人の妻君だそうですが、女の記者というわけですが、なかなか頭が良いのです。――アメリカでは女でも随分すばらしいのが居ますから――。二時間ぐらい色々と話をしました。相当に記事を出すつもりですから、とに角『救世教』というものと、『岡田茂吉』という事がアメリカに知れるのは確かです。私も思いきって言いました。先方も相当な尊敬を払っていました。箱根の美術館を見てからこっちに来たのですが。熱海の瑞雲郷も見せてよく説明しましたが、非常に驚いて〝アメリカにもこういう構想のものは全然ない。とに角見るもの聞くもの打たれてしまう。兎に角言葉で現わす事はできない〟と非常に驚いていました。それですから相当力を入れた記事を出すのではないかと思ってます。結局、私が言ったのは〝アメリカは白人文明の代表者だ、それから日本は東洋文明の代表者だ。そうするとアメリカが緯で日本は経だ、それがどうしても結ばなければならない。それでその結ぶ仕事が救世教なのだから、結局あなたが見えられたという事は、その最初の一歩ではないか〟と言ったところが、先方も〝そういう事を言うという事は珍しい、外で聞いた事はない〟というわけで、大いに望みを嘱しているようでした。
これは外国の話ですが、箱根の美術館というものが相当に反響を呼んでいるようです。だから熱海の美術館が出来た暁は、又ずっと社会に与える力は大きいと思います。だんだん研究した結果、美術館はあんまり大き過ぎてもいけないのです。そうかと言って今の箱根のでは窮屈で、少し並べると、あんまり多過ぎるというような批判もあるのです。ですから、つまりこっちの美術館は一品一品を吟味してありますから、見るのに非常に暇がかかって疲れるのです。ですからして、もっと広くしてパラッと飾った方がよいのです。それで熱海の今度のは、丁度箱根の倍のつもりです。箱根は建物の面積が大体百坪とちょっとですが、熱海のは二百坪です。二階建にして、三階は特別室を造ろうと思ってます。全部で延にして約五百坪です。ですから相当に品物も飾れるし、もっとずっとユックリすると思います。今道路を造ってますが、地勢の関係も美術館だけ見に行けるようになってますから、非常に都合がよいと思います。それで展望台の上に、つまり展望するガラスの家を設計しました。これは会館と同時に出来る予定ですが、大いに呼び物になると思います。丁度十二間半です。半分の六間幾らが半円形になって、風景を心行くまで鑑賞するというわけです。それで今はガラスは旧式になって、これはチカチカしますから見難いのです。そこで今はプラスチックですが、この方がずっと良いし、これなら欠ける憂いもないので、今度注文しました。曲線で六尺です。それを接いでゆくのですが、やはりプラスチックで接ぎますから、あんまり目に障るものはないわけです。ただそればかりでは、やはりしっかりしないから、金の細い継ぎを三本か四本ぐらい入れるつもりです今は進歩してますから、巾の広いのは、まだ広く出来ますが、やはり六尺ぐらいが丁度良いです。下は地面から二尺の高さにして平にして、赤い絨緞を敷きつめようと思ってます。これは幾ら広くても日本で出来る事になってます。勿論多少接ぎは出来ますが、それは気の付かないように出来ます。それから屋根は真平で一尺ぐらいの厚さの屋根です。それで庇は四尺出してお盆を乗せたようなものです。お盆と言っても平のものです。ですから、下から天井までは廻りが全部ガラスですから、景色を見るにはとてもお誂え向きです。そういうような計画です。それで赤い丸という事は、やっぱり太陽が半分出かかったというわけです。それで後の石垣はこういう工合(半円形)に造ってありますが、これは月に準えたのです。ですから日月の形になってます。
それから近頃よく医学について〝非常に寿命が延びた、これは医学の進歩だ〟と言う人がありますが、どういう訳だというと、あなた方もそういうような質問があると思いますが、それはこういう訳だという事を書いてみたので読ませてみます。
御論文〔寿命が延びた理由〕 【註 栄光二三四号】
寿命が延びた理由
(栄光二三四号)
近来人間の寿命が延びたといって、この原因を医学の進歩としているが、これは大変な誤りである事をかいてみよう。それは何かというと、漢方薬と西洋薬との関係にある。すなわちこれまでの日本人が短命であったのは漢方薬使用のためであって、誰も知る通り漢方薬なるものは量を非常に多くのまなければ効かないとされているからである。ところが近来に至って漢方薬はほとんど影を没し、普通薬といえば洋薬を指すようになった。何しろ洋薬は毒分としては漢薬と大差はないが、量が非常に少いため害も少く、これが寿命の延びた理由の一つであって、歴史的にみても分る通り、日本においても上代は普通百歳以上であったものが、*紀元千百二十八年雄略天皇頃、支那文化と共に漢方薬も渡来し、その頃から病人らしい病人が出来ると共に、漸次寿齢も短くなったのである。
今一つの理由は近来薬学の進歩によって、浄化停止のための薬毒の力が強くなった割に、副作用の現われ方が延びたからである。そのため浄化と浄化停止との摩擦が余程緩和された事と、今一つは最近の薬の成分が今までとは全然異った、すなわち抗生物質の発見で、これが大いに効いた訳である。というのは医師も経験者もよく知っている通り、何程効く薬でも一つものを長く続けていると免疫性になり、漸次効かなくなる。そこで薬を変えると一時よく効くのと同様であって、抗生薬を続けるとしたらいずれは元の木阿弥となるのはもちろんである。というように薬効なるものはある限度があるから、治っても安心は出来ない。つまり根治とはならないからである。何よりも今日病気をもちながら、どうかこうか働いている人が非常に多くなった事実である。それは前記のごとく病の一時抑えが、今までよりも期間が延長したためで、これを進歩と錯覚したのである。従って若くして老人のような消極的健康者が増え、元気溌剌たる人間が段々減るのである。この例として近来の英、仏等の民族がそうである。ところがこの理を知らない我国の当局は、矢鱈に医学衛生を奨励し、無理をするな、大切にせよ等と注意を怠らないのは、健康が低下したからである事は、これで分るであろう。
(*紀元<皇紀>1128年=西暦468年)
だから病気でなくて真の健康で働いて長生きするというのが本当です。ところがそれができないからして、病気を浄化停止で大事にそっとして居て死なないだけにしているわけです。だから健康で寿命が延びたのでなくて、病気を押えつけたまま、ただ寿命だけを延ばしたというわけです。ところが以前は、病気が起こった場合に浄化停止の薬の毒が薄かったために、浄化の方が強くなって、そうして死ぬというわけだったのですから、つまり毒を強くして浄化を止めてしまうという事が進歩と言えば進歩です。ですからそれが今の抗生物質というものなのです。その代りだんだん老人が増えます。これは英・仏がそうです。だからして元気のある人間が少なくなるのです。ただその日を安穏に暮らしてゆくという消極的人間が増えるのです。英・仏の状態はそれがよく現われてます。ただ楽に暮らしてゆくというのです。それにお誂え向きなのが社会主義なのです。英国の社会主義の発達がそういうためなのです。そう働かなくても食い物だけは食える、配給される、それから総ては政府がやってくれる、学校の授業料はただ同様にしてくれる―ついこの間までは歯は全部官費だったのです。ただで歯を治してくれるのです。ところが近頃は財政困難のために歯は個人で出すというように規則の改正がありました。そういうようだから、人民はそう働かなくても食うに困らないというわけなのです。だから楽には違いないが、国民の元気が無くなって来ました。国民が、只楽して生きてゆくという事だけしか考えなくなって来たのです。そういうようなわけだからして、死亡率は一時減っただけのもので、今に同じになってしまいます。それはただ死亡率が延びただけのもので、その延びた期間だけが減ったというわけです。ですからその期間を過ぎると同じになって来ます。だから医学の進歩のために寿命が延びたという事は、延びたにしても一時的のものです。ただ国民の元気が無くなって、国民が弱ったまま長くなるだけのものですから、国家の経済上から言ったら非常にマイナスになるわけです。そういう事を言ったところで当局などは、もう〝超愚〟になってますから、分るわけがありません。
それから私は前から恐怖時代が来るという事を言ってましたが、これが大分近寄りつつあります。まだ一般に気の付く処までは行っていませんが、少なくとももう二、三年以上たつと急激に病人が増えてバタバタ死ぬ事になります。丁度今年の稲作が急激に悪くなったというように、どうしてこんなに病人が増えるのか、という事が分らないために大問題になります。医者がちょっと手をつけるとコロッと死んでしまうとか、やればやるほど悪くなるのが、目に見えてだんだん激しくなって来るという事になって、そこで初めて救世教の腕というものが大したものだという事になるとともに、それを治してやる仕事がウンと忙がしくなるわけです。だから今の信者の人達はその時のための一つの用意です。急に増やすわけにもゆかないし、教修者が直ぐに病気を治せるが、やはり前から相当熟練をした人は違いますし、又神様の医学の医学的智識もあるし慣れていると、いう人が相当数居ないと、その時になってみんなやられてしまうから、今はその準備と思えばよいです。
それからつい四、五日前に文部省の宗務課長補佐と朝日、毎日、時事、そういった新聞の学芸部の連中が六、七人来て、対談しました。いろいろな事を聞きましたが、とに角、やっぱりみんな救世教も新宗教の一つと見てますが、どうもそれは嘘であるし、それから新宗教とは全然違うから、私の方で〝宗教ではない、宗教より上のものだ〟と言ったところが、〝では救世教という名前を変えたらよいではないか〟と言うので、〝しかし名前を変えても、文部省の方にそういう項目がないから、宗教の内に入れなければならないので、しようがない〟と言ったところが、文部省の人も〝それはそうだが、今のところはしようがないです〟と言ってましたが、外の宗教とは違う、断然かけ離れているという事を認識させるのが最も必要なのです。今新聞に出ている霊友会や立正交成(佼成?)会などと同じ列に加えられるという事は甚だ遺憾なのです。しかしこれもチョットはソットではなかなか分らせられるわけはないのですから、あの手この手でいろいろな面から説いて、だんだん分らせてゆくより外ありません。けれども分りかけては来たようです。見方は余程違って来ました。おまけにそういう点においては美術館などが非常に役立ったわけです。
これも一つの見方を書いたものです。
御論文〔生きてる宗教〕 【註 栄光二三三号】
生きてる宗教
(栄光二三三号)
宗教にも生きてる宗教と死んでる宗教とがあるといったら変に思うであろうが、それをこれからかいてみよう。生きてる宗教とはすなわち実際生活に即したものを言うのであって、死んでる宗教とはその反対である。ところが世間数ある宗教の中で実際生活にピッタリしているものは絶無とは言わないまでもまことに寥々たる有様である。なるほど教えはどれもこれも実に立派に出来てはいるが、教化力の点に至っては気の毒ながら期待をかけられまい。しかし何百何千年前教祖開教当時は、その時の社会情勢に合い教化の力も大いにあったには違いないが、その後星遷り年変り、時の流れにつれて教勢は漸次衰え、現在のごとき状態となったのは周知の通りである。これも自然の成行であって致し方はないが、この事は独り宗教のみではない。あらゆるものがそうであって、ただ宗教だけは遅れて最後になった訳である。
しかしその間といえども時代に即した色々な新しい宗教が生まれたのはどこの国でも同じであるが、さらばといってそれまでの宗教を圧倒する程の力あるものは滅多に出ないので、いつか姿を消してしまうのが常である。その中でともかく近代に生まれ、今なお相当勢力を保っているものとしては、彼の日蓮宗と天理教くらいであろう。以上は大体の宗教の推移であるが、それはそれとして今言わんとするところのものは現代としての宗教のあり方である。知らるるごとく十八世紀以降科学文化の発展は、宗教にとっての一大脅威となり、それがため今日のごとき衰退状態となったのは争えない事実である。そのようなわけで、科学は恣いままに人心を掌握してしまい、今日科学の文字が入らなければ、人は承知しないようになってしまったのである。それだけならまだいいが、これが原因となって無神思想を生み道義の頽廃止まるところを知らざる有様で、国家社会は混迷状態となり、現在のごときさながら生地獄そのままの世界となったのである。しかも旧い宗教にあっては、今なお何百何千年前の教祖の教えを建前として、長い間に練り上げた教えをもって教化に努めているが、何しろ時代から余りに離れすぎたため教化の力とてなく、正直にいって現実性を失った骨董的存在でしかないことになってしまった。なるほどその当時は香り高い美術品として大いに用いられたには違いないが、今日となっては重要文化財としての価値だけであろう。ところが新宗教の中には右の重要文化財を恭しく飾り立て人寄せに利用はしているが、これとてもある時期までの生命でしかあるまい。何といっても素晴しい文化の進歩に追越され、宗教は遥か遠くへ置去りにされた形である。これをたとえれば飛行機や自動車、無線科学時代の今日、マサカ牛車や駕籠を持ち出したところで何の役にも立たないのと同様であろう。ここでいつもながらの自画自讃を言わざるを得ないが、本教は知らるるごとく歴史は歴史として尊重はするが、それにこだわる事なく、神命のまま独自の方針をもって進んでいる。しかも新生宗教としての若々しさは青年の血が通っており、今行っている事業にしても、医学や農業の革命は固より、あらゆる文化の欠陥を指摘し、新文化の理念を指導精神としている。その具体化の一つが地上天国の模型や美術館の建設であって、これこそ第一線的のものであり、もちろんこの狙いは汚され疲れた魂の憩いの聖地であると共に、俗悪極まる今日の娯楽に対する一塊の明礬として、人間の品性を高める事でもある。
以上のごとき本教の経綸は、個人的には健康、救貧、思想の健全化等に資するはもちろん、大にしては明朗不安なき社会を作らんとするのである。この事は近来識者間にもようやく認められ、注目の的になりつつあるのは喜ばしい限りである。しかし今は小規模であるが、いずれは世界的に拡充された暁、日本から平和幸福な理想世界の構想が生まれるわけで、これは敢えて夢ではない事を明言する。これらによってみても本教こそ真に生きた宗教のあり方でなくて何であろう。ただしかし遺憾に思う事は、現在新宗教を目する社会の眼は、残念ながらはなはだ冷淡軽侮的なものがあり、特にインテリ層程そうであって、本教に触るる場合といえども世間を憚るごとき心使いをする傾向のあるのは遺憾に堪えないのである。
しかしこれも無理はない。何しろ旧い宗教にしても、信者の数だけはおびただしいが、教養が低くいわゆる愚夫愚婦級の人が大部分であり、新宗教にしても顔をそむけるような奇矯極まる言動のものや、迷信的分子が多分に含まれ、常識眼で見てさえ苦々しく思うようなものも相当あるからで、これらもある時期までとは思うが、当事者には考慮を促したいのである。また右とは反対に古い聖者、賢人、教祖等の説を焼直し、新しい衣を着せて時代に迎合するような宗教学者もあって、外面からは進歩的に見え、インテリ層には受けそうには思われるが、果して実際生活にどれだけ役立つかは疑問であろう。これについて思い出されるのは、彼の有名な米国の哲学者ウィリアム・ジェイムズのプラグマチズムである。訳して哲学行為主義であるが、これを私は宗教行為主義に替えたいと思うのである。
それからさっきの米国の記者のシモンズという人に私が言った中にこういう事があるのです。つまり地上天国は箱根に小さいのを造った、それから熱海にも出来るし、京都にも出来る。それから今にハワイにも造り、それからアメリカ各地にも造る。それからヨーロッパからアジヤの各国にも造る。というのは、公園というのは今世界各国何処にも出来ている。しかし公園はまだまだレベルが低いから、もっと上等な公園を私は造るつもりだ。だから地上天国というのは世界の各地に公園の如くに造るつもりだ、と言ったわけなのです。これを向うの新聞に出すでしょうが、そうすると、今までの公園はただ町の中で青いものを見る、或いは花を見る、あとは子供の遊び場、それから動物園とか、子供的の観覧場で、まだ低いのです。つまり人間に美というものの観念を与える、美というものの信念を養うという事が大いに不足しているわけです。そういうようなわけで、ただ人間の憩いというだけの話で、魂を高めるというような設備は実にないわけです。ですからだんだん文明が進んで来ると、そこにゆかなければならないわけです。要するに公園のもう一層高級なものです。そういうものを世界中に造るという事を私が始めるわけなのです。けれどもこれはそういうふうになるに決まってます。これが一つの地上天国の重大な要素になるわけです。その一番の皮切りが箱根の神仙郷というわけで、今度は熱海に造るわけです。日本もいずれは京都にも出来ますし、中京附近にも出来るでしょうし、九州の方にも出来るでしょうし、それからが又、小さいものが北海道とかいろんな所に出来るでしょう。ハワイはそう遠くないと思います。今の勢いで信者が増えると、どうしてもそこへ行きます。それから次はアメリカというような工合でやってゆくつもりです。外にも又、病気とか農業という事がありますが、美という事もとても有意義な大きな仕事です。ですからつまり今までの宗教でそういうような計画をした宗教はないのですから、だから宗教ではないという事は立派に言えるわけです。これは別に私がやるわけではないので、神様がやっているのですから、無論そうなるのは間違いないので、ただ時期です。今の新聞記者の話の時に〝そんな理想世界が実現すると言ったところで、余程先の事だろう〟というように思ってますから、〝冗談ではない、私が生きている内に兎に角基礎だけは造るのだから〟と言ったところが、妙な顔をしてました。それから御守の話が出て、〝御守で病気を治すが、あなたが彼の世に往ったら御守を作る人がないからしようがないでしょう〟と言うから、〝冗談ではない、霊界から幾らでもそういった力を振うから、そういう事は別に何んでもない〟と言ったところが、ハハア、と首をひねっていました。そういうようで、だんだん救世教というものは注目されて来ます。ただあまりにこっちの言う事が違い過ぎるので、それを分らせる事、なるほどと信じさせる事がなかなか骨が折れるのです。分りかければ早いのですが、なにしろ今までのみんなの頭というものが変な説で固まってますから、それを溶かさなければならないのです。それがなかなか骨が折れるのです。各局無肥料栽培の自然農法が認められ、それから今度は、さっき言ったとおり医学の方は駄目だという事をどうしても神様が分らせますから、そうなってからならこっちの言う事がスラスラと頭に入るわけです。しかしその前に、それについて働く人間が多くならなければならないから、そういう人達が現在の信者さんなのです。神様はうまくやります。それで話の分る人と、中々分らない人― 一言話しただけで忽ち共鳴する人と、どんな事をしても駄目な人と両方ありますが、これは人種的関係があるのです。今度この人種的関係をよく話しますが、そうするとはっきりします。今日はこのくらいにしておきます。
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