十二月二十六日

 メシヤ会館の建築について、これをやっている椎野という人に、事務所の酒見という人が対談して、椎野の言う事に面白い事があるので読ませます。そうしてその説明をします。

 寄書〔メシヤ会館現場責任者椎野氏を訪ねて〕【註 栄光二四二号】

 これについて思い出した事は、法隆寺の五重の塔の寸法が実にピッタリしている事です。これは聖徳太子が造ったのですが、やはり聖徳太子が、寸法でも何んでも感じたままを〝こうしろ、ああしろ〟として出来たのがあの五重の塔ですが、これが、今の建築家でもあんなにうまく合っている寸法は出来ないのだそうです。私も去年行った時に五重の塔を一番よく見ましたが、実によく合っています。高さといい、一階々々の寸法と言い、屋根の形と言い、言うところがないのです。というのは、聖徳太子は私が生まれたのです。ですから私のやっている事が聖徳太子とよく似ているのです。あそこに(ゆめ)殿(どの)があり、其処に救世(グセ)観音というのがありますが、あれは「自分は今にこうなる、こういうふうに生まれる」という事を暗示したものです。夢殿というのは聖徳太子の居間だったのです。それで記念に拵えて、救世観音を作って、これは不断開けてはいけないという御秘仏(ごひぶつ)になっているのです。今のメシヤ会館の寸法がピッタリ合っているという事は、それによく似通(にかよ)っているわけです。聖徳太子がとに角日本に仏教を弘めたのは、奈良を中心として奈良に仏教美術を、自分が作って始めたわけです。私は、聖徳太子が日本的だったのを、世界的にするわけです。そこであの時代には仏教というのは新しい宗教だったのです。それまでの日本は神道だったのです。だから救世教という新しい宗教を開くには美術を応用したわけです。ただ、時代が違うから、あの時代には大体支那の仏教美術を基本として、聖徳太子の草案(そうあん)によって作ったものです。それから仏教が日本に拡がったわけです。ですから本当の原始仏教の基本=基礎です。一番分りやすく言えば、聖徳太子が世界的にやるという事が救世教ですが、けれども聖徳太子は仏教ですから、教えだけで、病気を治すとか自然栽培とか、そういう事はやらなかったのです。大体仏教というのは、つまり教えですから、これを弘めるには御説教で弘めたのです。経文が(もと)で、お経を解釈して、お経を本にして精神的に救ったわけです。それで私の方はそういった御説教的のやり方は、今までに充分できてしまってますから、そんな必要がないと共に、御説教だけでは本当に救えないというわけで、他の病気の治しなどもやったわけです。ですから今言った建築がよく似ているわけです。つまり学問――科学の方は計算とか方程式とかそれによっていろいろ割出してゆくのですが、私の方は感じです。天井の高さも、見た時に、大きさと、宗教建築ですから劇場や何かと違って一階であって、大勢が敬虔(けいけん)な気持で、あの部屋に入った時の感じとかで、どのくらいの高さが丁度よいかと、そういうような条件を考えると、自然にこのくらいの高さがよいという事が浮かぶのです。ですから感じでこの高さにしろと言ったわけです。それから形も、カマボコ型の天井にしたのですが、それもやはりあそこに入るとそういう形がよいように感じるのです。それから柱の太さにしても、見本をざっと作ったのを見ると、全体から割出して丁度このくらいの太さがよいという事でやったのですが、それが学問上からも合っているわけです。それで学問というのはこういうわけです。いろんな事で理詰(りづ)めにしてゆくわけですが、それは何年も何十年もかかってだんだんやってゆくわけです。それが、私がやるのは早いのです。それだけの手数をその場でやるわけです。結果の方が先に分ってしまうのです。ですから熱海にしろ、京都や奈良が千年以上もかかったのが、僅か十年の、百分の一で出来てしまうのですから、丁度医者が何年もかかって治らなかったのが、これ(浄霊)で僅かの間に治ってしまうという事と同じような理窟です。ですからして、これからも非常に早く世界中に知れるというようになるわけです。

 それで建築ばかりでなく、あそこに行って、みんな見て分るでしょうが、今道路を作ったり木を植えたり、いろいろやってますが、それは二、三度行って三十分か一時間まごつけばすっかり分るのです。だから考えたり迷ったりする事は殆んどないです。歩く内にチャンと分るのです。これは自分でも始終不思議に思ってますが、それが又面白いのは、時期々々に応ずるのです。必要な時期が来ると直ぐに分るのです。時期が来ない内はなかなか分らないのです。ヒョッと見て分らない時は、これはまだ時期が来ないからだと止してしまうのです。時期が来ていると直ぐ分るのです。ですから、随分難かしい所があって、どうしたらよいかなと分らない事があります。そういう時は止して時期を待つのです。そうして時期が今決めなければいけないという時になるとはっきり分るのです。今やっている美術館の所から展望台に行く道路ですが、其処の所が普通はちょっと分らないのです。非常に急勾配(きゅうこうばい)になっているし、どの辺からどういうようにゆくかという事が、ちょっと見当がつかないのですが、それが丁度その時期になって来たので、この間二度ばかり行きましたが、実によく分りました。その道が出来ると自然に無理がなくゆくのです。そういうようですから、神様の仕事というのは実に不思議なような、面白いような、変なものです。何から何までそういう工合で、美術品にしても、こういう物があればよいな、こういう物が来ればよいなと簡単に思ってますが、それも、あれはとても手に入る物ではないと思っている内に、時期が来るとスラスラと入るのです。それで入ってから、これはどういう展覧会をやらなければいけないのだという事が分るのです。そういう事を話していると()りがないが、それは面白いものです。来年は会館と展望台の上の水晶殿が出来ますが、これが又評判になるだろうと思ってます。おそらく世界にないです。私は前に写真でアメリカのガラスの家を見た事がありますが、これは円形というわけではないので、ただ凸凹(でこぼこ)したガラスの家なのです。最近できた建築で作ったのをみましたが、三尺巾の平なガラスで、太い木の(ふち)がついて丸くなっているのです。これは大して珍しいやり方ではないのです。今度出来る水晶殿は六尺巾のガラスを曲線にして(つな)ぎ合わせるのです。接ぐのもなるだけ目立たないように工夫するつもりです。若し間に入れるとすればジェラルミンか何かを入れるつもりです。それでガラスでは日が当るとチカチカして景色が見難いですから、プラスチックの透明なのを使うつもりです。それで、今度は美術館もガラスでなくプラスチックでやるつもりです。ガラスですと、光線が当るとチカチカして、少し離れて見ると中の品物が消されてしまうのです。近代美術館ですが、ガラスを立てるとチカチカするから(ななめ)にしてあります。見た感じが、何んだか安ッポイような、地震の時にガラスが外れそうな感じがします。尤もアメリカあたりの美術館はガラスは使わないそうですから、できるだけ巾広くしてプラスチックでやろうと思ってます。又その方が壊れる(うれい)がないです。水晶殿も、下からの高さから、屋根の工合も、全部私が設計しました。これはなかなか難かしいのです。屋根は円形で平です。最初の設計よりもできるだけ広くしました。何故と言って、随分人が来るでしょうから、百人ぐらい入ってゆったり見れるぐらいの大きさです。道も後戻りをしないで見られるように工夫したのですが、いろいろな道の工合も、なるほどと思うようにつけたつもりです。まだいろんな細かい事もありますが、それは出来てから見るよりしようがないです。

 この間NHKの英語放送の主任をしているグリリという人が来て、書くつもりで見に来たのですが、あまりに規模が大きいのと素晴しいので書けない、だから批評を書くのを止めた、ただ現場を見ろという事だけは書く、と言ってました。それで放送協会の会長の古垣という人が熱海に居るそうですが、始終親しくしているので、この間行って熱海に岡田という日本では珍しい立派な人が居るのをあなたは知っているかと言うと、知っている。では何故ラジオで紹介しないか、変なアラばかり見付けて、何故こういう事を放送しないかと言ったところが、何んとか考えるから待ってくれと言っていたそうです。だから来るかも知れないと言ってました。それから、外務大臣が会いに来ていろいろ感謝の意を表して、今後のいろいろな計画とかを聞き、兎に角外務大臣が大いに関心を持つものだが、そういう事はありませんかと言うから、全然そういう事はないと言ったのですが、そういう話がありました。又その人の奥さんというのが偉いのです。奥さんはニホン・タイムスの記者をしているのですが、実に観察が(するど)いのです。私がアメリカの人は素晴しいと言って褒めたところが、日本の新聞記者はどうかという話が出て、日本の新聞記者とすれば〝救世教の奴は新宗教で新しいくせに、よくこれだけ儲けやがったな〟〝実に金儲けがうまい〟と、そのくらいなものだと言ったら驚いてました。つまりアメリカの人は、大きなものを大きな目で見るからよく分るのです。ところが日本の新聞記者は、大きなものを小さな目で見るから――一部分で見るから分らないので、これは全くそうです。日本の新聞記者を非常に悪く言ったが、此処には居ないでしょうが、居るとすれば気持を悪くするでしょうが……。ですから、大きい中には欠点もあるでしょうし、気にくわない点もあるでしょうが、気にくわない点だけを見付けて、これを新聞に書くというわけです。そういうようなわけで、日本人には島国(しまぐに)根性(こんじょう)というものが多分にあるのです。だから政治でも経済でも、どうも大局を見ないで小さい所を見るから、そこで争いという事になるのです。両方でアラを見ているのです。私はよく言うのですが、新聞記者に〝日本の政治家というのはヤクザと同じだ。ナワ張争いとか、ともすれば腕を振うという事は、それと少しも違わない〟と言うと、これにはみんな感心してます。だから吉田とか重光とか言っても、親分と言ってますが、これはヤクザ気分が多分にあります。よくナワ張争いといいますが、これは昔ヤクザ連中がやった事です。だからヤクザというのは喧嘩が商売ですから、今の政治家はそれによく似てます。

 無神論についてちょっと面白く書いてみました。

 御論文〔無神論について〕   【註 栄光二四二号】

無神論に就いて

(栄光二四二号)

 普通無神論を書く場合、宗教的に論理を進めていくのが当り前のようになっているが、私は全然宗教には触れないで、自分自身無神論者の立場に置き書いてみようと思うのである。それには先ず人間オギャーと生まれるや、早速育つに必要な乳という結構な液体が、しかも産んだ親の身体から滾々こんこんと湧き出てくる。それによって子は順調に育ってゆき、歯が生える頃になるとんで食う食物も親は運んでくれる。というようにして段々育って、遂に一人前の人間となるのは今更いまさら言うまでもないが、中でも最も肝腎な食物にいて言えば、食物にはそれぞれの味が含まれ、舌には味覚みかく神経しんけいがあり、人間楽しみながら食う事によって充分カロリーはれるのである。しかし何といっても人間の楽しみの中での王者は先ず食事であろう。そんな訳で肉体は漸次ぜんじ発育すると共に、学校教育等によって頭脳は発達し、かくして一人前の人間としての働きが出来できるようになる。そうなると色々な欲望が出てくる。知恵、優越感ゆうえつかん、競争欲、進歩性等から、享楽きょうらく、恋愛等の体的面までも頭を持上げてくる。というように理性と感情が交錯こうさくし、苦楽くらく交々こもごも至るという一個の高級生物としての条件がそなわり、社会を泳ぐ事になる。以上人間が生まれてから成人までの経路をザット書いてみたのであるが、次は大自然を眺めてみよう。

 言うまでもなく天と地の間には、日月星晨じつげつせいしん、気候の寒暖、雨風あめかぜ等々有形ゆうけい無形むけいの天然現象から、直接人間に関係ある動物、植物、鉱物等々、あらゆるものは大自然の力によって生成化育されている。これがあるがままの世界の姿であって、これら一切いっさいを白紙になって冷静に客観するとしたら、無神経者でない限り只々ただただ不思議の感に打たれ、言うべき言葉を知らないのである。実に何から何まで深遠しんえん絶妙ぜつみょうの一語に尽きる。としたら、こんな素晴しいこの世界なるものは一体誰が、何が為、何の意図によって造られたものであろうかという事で、何人もこれを考えざるを得ないであろう。そうして天をあおげば、悠久ゆうきゅう無限むげんにして、その広さは何処どこまで続いているか判らない。又大地の中心はどうなっているのであろうか。太陽熱の最高は、月球の冷度は、星の数は、地球の重さは、海水の量は等々、数え上げれば限りがない。考えれば考える程神秘しんぴ霊妙れいみょう言語に絶する。然も規則正しい天体の運行、昼夜の区別、四季の変化、一年三百六十五日の数字、万有の進化、止どまるところを知らない文明の進歩、発展等々は勿論、全体この世界は何時いつ出来たのか、何時迄続くのか、永遠えいえん無窮むきゅうかそうでないのか、世界の人口増加の限度、地球の未来等々、何もも不可解で見当はつかない。

 以上のごとくにして一切は黙々として一定の規準きじゅんの下に一ミリ毫差ごうさなく、一瞬の遅滞ちたいもなく流転している。しかしそれはそれとして、一体自分という者は何が為に生まれ何を為すべきであろうか。何時いつまで生きられるのか、死んだら無になるのか、それとも霊界なる未知な世界が有って其処そこへ安住するのか等々、これらも考えれば考える程分らなくなり、どれ一つとして分るものはない。仏者の言う実にして空、空にして実であり、天地てんち茫漠ぼうばくげんきゅうの存在であって、これより外に形容の言葉を見出せないのである。これをアバこうとして人間は何千年も前から、あらゆる手段、特に学問を作り探究たんきゅうに専念しているが、今日迄こんにちまでにホンの一部しか分らない程で、依然たる謎である。としたら、大自然に対する人間の知恵などは九牛きゅうぎゅう一毛いちもうにも当るまい。これも仏者の所謂いわゆる空々くうくう寂々じゃくじゃくである。ところが人間というやつ自惚うぬぼれもはなはだしく、自然を征服するなどとホザイているが、全く身の程知らずのたわけ者以外の何物でもあるまい。ゆえに人間は何よりも人間自体を知り、大自然に追随ついずいし、その恩恵に浴する事こそ最も賢明けんめいな考え方である。

 ところで以上の如き分らないずくめの世の中に対し、たった一つはっきりしている事がある。それは何であるかというと、これ程素晴しい世界は一体誰が造り自由自在思うがまま駆使くししているのかという事である。そこでこの誰かを想像そうぞうしてみると、先ず一家庭なら主人、一国家なら帝王、大統領といったように、この大世界にも主人公がなくてはならないはずであり、この主人公こそ右の誰である神の名で呼ばれているXでなくて何であろう。と言うより外に結論が出ないではないか。

 以上の意味に於て、し神が無いとしたら万有も無い事になり、無神論者自身も無い訳である。恐らくこれ程分り切った話はあるまい。これが分らないとしたら、その人間は動物でしかない事になろう。何となれば動物には意志、想念も知性もないからであって、人間の形をした動物と言うより言葉はあるまい。それには立派な証拠がある。即ち無神思想から生まれる犯罪者であって、彼等の心理行為のほとんどは動物的であるにみてよく分るであろう。従ってこの動物的人間からその動物性を抜き、真の人間に進化させるのが私の使命であり、その基本条件が無神思想の打破であるから、一言にして言えば人間改造事業である。

 話はいろいろになりますが、今年も僅か数日でおしまいになります。丁度去年の一昨日の二十四日が私の裁判の確定した日です。それからやっと気分的に明かるくなって思いきって仕事でも何んでも気がはいるようになったのです。ですから僅か一年で、随分発展……でなく、発展の気構(きがま)えになり、そういった動きが強くなって来たようです。それで来年はいよいよ(あぶら)が乗って、メシヤ会館も出来ますし、それから箱根の美術館も素晴しい計画があるのです。それについて、来年三月に三越七階の昔の特別食堂で浮世絵大展覧会をやる事になってます。此処の面積が百五十坪ありますが、箱根美術館は平にして百坪だから、五割広くなるわけです。そこに箱根美術館出張展覧会というか、そういう事をやる事になってます。大体決定しました。だから箱根美術館の非常な宣伝になるだろうと思います。無論大阪、九州にも続いてやるでしょうから、救世教の非常に特異な存在という事が世の中によく知れるわけです。それで何んとしても、新宗教がいろいろあるそれが、如何にも、はっきり言えば低級なのです。今度問題になった霊友会とか、踊る宗教とか、爾光尊とか、如何にもレベルが低いのです。そこで〝救世教という奴は近頃出来て、少しは違うようだが、結局あれも新宗教の一つなのだから大した事はない〟と言って軽蔑するというそういう点が大いにあるのです。それが救世教の発展の一番の邪魔をしているわけです。それで、入ってみて本当に食べてみると〝これはうまい、今まで何故知らなかったか〟という事になるのですが、そういう点を分らせるには美術館が一番よいです。ですから救世教は他の新宗教とは違う、それどころではない、既成宗教もひっくるめて、断然素晴しいというところまで認識させなければならないのです。そこまで分れば後は楽で、素晴しい発展をするに違いないのですから、そういう点において美術館が非常に大きな役をしているのです。この頃日本中にはかなり知れ渡って来ました。それから外人間にも大分知れて来てます。二、三日前もポルトガルの公使とフランスの大使が是非浮世絵や屏風を見せてもらいたいと言って来たが、閉館中は無理だからと言って(ことわ)りましたが、来年開館すれば外人の観客も随分あるだろうと思います。そうして外人間に評判されるようになって、それを日本人が知ると、大いに信用するわけです。そういう点から見ても、来年は非常に面白いだろうと思います。

 

 

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