この間ちょっと話しましたが、ニホン・タイムスという外字新聞の記者が箱根美術館を見た感想を翻訳した記事を読ませます。日本人とは見方が違うところが面白いです。この中に出ているルーヴルというのはフランスの有名な美術館で、ヴァチカンというのはイタリヤにあるものですが、この美術館は有名なものです。
(昭和二十八年十一月三十日付ニホン・タイムス紙掲載の記事) 【註 栄光二三九号】
「芸術、東と西(“Art、East and West”)」
箱根美術館、新たな芸術の殿堂
(S28年11月30日号「二ホン・タイムス」)
エリス・グリリ
私と似たような世界で生きている者であれば、常に創造と期待は現実に勝るのであろう。私の芸術(と他の人生の驚異)探求の放浪の旅ではちょっとしたことが、現実と掛け離れた宝にイメージすることができる。そんなわけで、例えば「モナリザ」と称した一枚の小さな暗い肖像画なども人々が読んだり、夢見たりする対象となり得たのだろう。
日本で私はいくらか自分の期待を静めることを学んだ。日本ではルーブルやバチカン美術館のように宝物が集中しているのでなく、一つの像や二、三の陶器を見るために気長に遠く離れた寺院や人里離れた私的コレクションに行かなくてはならない。日本美術に影響を及ぼした仏教の忍耐力や諦念というものを知り、過度な期待をかけることなく進んだ方がいい。
夏の間中、私は箱根の新しいギャラリーの見学を計画していた。浮世絵の木版画があると知らされていたが、日本に行く前からよく知っている日本美術であり、美術館も郊外にあったので、あまり気負っていなかった。実際引き延ばしたので、行った日がちょうど美術館が冬の間閉館する前日だった。もう少しで、日本最良の体験を逃すところであった。今度だけは現実の方が遥かに自分の打ち立てた予想を上回った。予告はあまりにも控えめで簡素すぎた。展示されている浮世絵は最良で完結したものであったが、これは遥かに大きなスケールの一端でしかなかった。強羅公園の近くの山の斜面に生じた現代版奇蹟。「開け!ごま」のように山が開かれ、きらびやかな宝石や金の硬貨ではなく、何世紀にもわたって人々が考え、形作ってきた精巧な作品が集まった新しい宝物が披露された。
美術館そのものは新しく真っ白に輝き、アラジンに出てくる光景のような高山で、ほとんど雲中にあった。緑のタイルに覆われた中国式屋根は特定の時代のものでも、特定の国のものでもない大きな窓の簡素な四角形の建物に全く違和感なく納まっている。そのデザインは「機能的」で新旧の傑作品の展示に相応しい建物をつくることを目的としている典で近代的である。内部は太陽の光が眩しい。ガラス、木そして大理石の輝く表面がこの大きな美術館で催される様々な展示の広大かつ調和の取れた舞台背景となる。例えばこの美術館はこの殿堂に納められた二つとない傑作品の安全と保護のため、防火と天候の規制がなされている。公の美術館に見られる墓場のような雰囲気はこの美術館では全く感じられない。大きな窓から差し込む太陽の輝きとその背後の息を飲(呑)むような山の展望は、自然と詩的な情緒を感じさせる自然のディテールの凝縮である美術品を選ぶ。建物の外部にはこれも美術品の一部である庭園がある。山の斜面にある庭園世界と森の世界を結び付けるのが、苔と岩である。
この建物に蔵されているコレクションは、一部が東、一部が西という構成で大陸を結びつける。数の上では自ずと日本美術が大半を占めるが、側には中国やインド、ギリシャ、地中海の古代作品も並ぶ。浮世絵専用の小さな建物では浮世絵発展の全貌が窺える。又兵衛様式の手描きの軸から、黄金の一八〇〇年代の写楽、歌麿、そのすぐ後の北斎、広重等の全盛期のものがある。
箱根の冬は訪問者にも展示品にも大変厳しく、美術館は五月初めまで閉鎖される。再開の折には桃山時代の芸術品が広く公開される。
このような芸術天国の創造を可能にしたのは、信仰的癒しを中心とする宗教団体である。彼らはその思想を訪問者に強要はしない。但し、芸術と美、――自然であれ、人工であれ――だけでほぼ地上天国が完成するという信条は明確にしている。
ーー 〇 ーー
この間この人と会った後で、この時の通訳をした信者で浮世絵を扱っている人が、こういう事を言っていたと話してました。その外人は美術評論家というような地位なのですが、ヨーロッパから総ての美術館を見たけれども、この箱根の美術館というものは、中は人工的の美=室内の美術が並んでいるし、外は石とか木とか苔とかいう天然の美を人工で造った美で、更に遠くを見ると山や海やいろいろな天然の美があり、つまり三段になっている。こういう所は世界にはないという事と、熱海にもいずれ美術館やいろいろ出来るとすれば、日本を東と西に分けて、西は京都・奈良に総ての美術=文化的の重要な物があって、それを外人が来て見る。それから東は、結局箱根・熱海がいよいよ完成した暁はそれを見なければならない、というような事になるだろうと言っていたそうです。そういう見方は外人は非常に慧眼です。というのは一度で急所を見てしまうのです。ところが日本の新聞記者などもいろいろ来ましたが、そこまで見る人はないらしいのです。若しそこまで見たとすれば記事に書かなければならないが、記事に書いた人はないです。というのは日本人は視野が狭いのです。大局的に見ないのです。というのは、大きな見地から見れば素晴しいものだという事が分るのですが、ただ、おかしい事を考えて〝宗教でこんな物をこしらえるのなら大いに儲かるのだろう〟とか、〝岡田という奴はなかなか金儲けがうまいのだろう〟と変なところに考えを持って行くきらいがあるのです。日本人はどうもそういう欠点が非常にあります。これはわれわれの方の事ばかりでなく、政治家にしても、いろんな政策は、国民の利害という事を見ないで、自分の政党のみで、これは自由党が元に戻った方がよいとか、自由党が元に戻らない方がよいとか、改進党が政策は是々主義でゆくとか、社会党が右とか左とか、小さな自己の政党の利害だけを考えて、実に小さいのです。それでアメリカとソ連は根本的にどういう考えだというような事にあまり干渉を持たないのです。特にいろんな色があるのです。それで自分の色で、白紙にならないのです。白いのは太陽ですが、彼等はいろんな色ですから、自分の色と違うものはみんないけないと非難するのです。ですから反対党の言う事はどんな良い事でも、どんなに合っていることでも、全部いけないのです。それで自党の言う事は何んでも良いという、心の狭さです。それが今のこっちの美術館を批評する外人の見方は、アメリカあたりの政治家の見方・批判と同様、実に世界的で、公平に見てます。それで私が何時も一番感心するアメリカの見方は、他の国は全部中共を承認しようとしてます。英国などが特にそうですが、英国は情ない国になってしまったと思います。自国の利害のみを考えているのです。ところがアメリカは承認しないという事は、中共は暴力をもって今の地位を確保したのですから、弱肉強食で、強い者勝という事になる。それを許したら世界の平和は維持できない。それを維持するとしたら、暴力や非合理的なやり方は許さないという正義感です。それをアメリカはガンとして守っているというところにアメリカの偉大なところがあるのです。ところが日本人の中に第二の中共たらんとする社会党左派があるのですが、これに至っては論外です。それを国民の中に支持するのがあるのですが、日本で一番足りないのは正義感です。これは米の不足よりもっと足りないのです。アメリカが兎に角国が栄えてうまくゆくのは、これは正義をもって進んでゆくところに神様の御守護があるのです。私も昔から正義を維持するために随分戦って来たわけです。その代り不利な事もあります。裁判とかいろんな事も、正義を守らんがために強くやられる事も始終ありましたが、しかしやはり神様というのは正義で、正義をなくしたら神様というものとは縁が離れてしまうわけです。ですから自分の考え方、自分の行というものは正義に合うかどうかという事です。しかして正義についてもいろんな考え方があるのです。例えてみれば日本の太平洋戦争にしても、敵を殺して土地を占領するという事が正義だと思ったが、これが大変に間違った正義で、時代に都合のよい正義で、そんな正義はないのです。その間違った点は見方が小さいためです。だからどうしても本当の正義というものは世界人類全体が幸福になるというのが間違いない正義ですから、そこにさえ目をつけていればよいわけです。この結果はどうなるか、こうした結果は日本人だけが都合がよいとか、自分の一族だけの利益でなくて、国全体、世界全体の幸福の増進に合っていれば、これは本当の正義です。そこで救世教というのは世界全体を地上天国にし、世界全体の幸福を目標にしているから、これが本当の正義というわけです。
それから私の光について、今度九つになる子供が実によく見たのです。それでかえって子供だけに無心ですから、神様は子供を使ったわけです。これが大変参考になりますし、早く知った方がよいと思いますから読ませます。
〔私の光について〕御蔭話(御光の霊視能力を戴いて) 【註 栄光二三七号】
これは信者はよく知っているから、事新しく言うまでもないが、最近の御蔭話中にあった左の報告は、霊視者が子供であり然も色々な面に渉っての光であるから、一つの参考にもなると思い、この文を添えたのである。そうしてこの霊視は正確である事も附言するが、これを読んで自分もそういう能力を得たいと思う人もあるであろうが、それは無駄である。というのは人間にはその人特有の能力を与えられているもので、万事は神様次第である。そうして、私の光は日に月に強くなりつつある事で、何れは色々な形で見える人も増えると共に、それに準じて病気の治り方も顕著となり、奇蹟もその通りになる。従って一般にも分りが早くなり救われる人も増える訳で、段々面白くなって来るのである。
お光の霊視能力をいただいて(本文省略)
この様に私が有っている光こそ、人類肇って以来一人もないので、それが為人類は病貧争の悩みはどうする事も出来なかったのである。従って公平に言って、昔からの如何なる宗教の開祖でも聖者でも、私から見れば光が弱く、弟子位に当るのであって、これというのも全く時が来たからである。
それから私の文章―書くものについて書いてみました。
御論文〔私の文章とその他〕 【註 栄光二三八号】
私の文章とその他
(栄光二三八号)
これは誰も気が付かない事と思うが、恐らく私の文章くらい難かしいものはあるまい。まず文字が出来て以来例がないであろう。というのは私の説たるや、古往今来未だ嘗て何人も唱えた事のない神秘極まるものであって、今まで長い間人類が仰ぎ敬い、尊崇の中心となっていた釈迦、キリストの二大聖者をはじめ、あらゆる偉人、賢哲の遺されている業績を解剖し批判し、その聖典までも思い切って大胆率直に論評したものであるから、読む者をして余りの超意外な説に、理解どころかむしろ反感を起すくらいであろう。という訳で私としてもこの点を充分考慮し出来るだけ誤解を避け、何人にも理解出来得るよう説いたつもりである。
今一つの重要な事は、今日何人も絶対的信頼を払っている現代科学を俎上に乗せ、鋭いメスを揮って解剖し、実際の上から完膚無きまでに批判するのであるから、現在のインテリ層特にジャーナリストなど、そのまま肯定する事は到底至難であろう。しかしそれも無理はない。何しろ自画自讃かも知れないが、私の説くところ現在科学の水準を遥かに抜いたものであって、言わば二十一世紀以後の科学であると思うからである。端的にいえば西に向いて歩いていた足を、急に東に振り向けるようなものであり、今までダイヤモンドと思って、貴重品級いにしていた物が、何ぞ知らん硝子玉であった事を警告すると同様で、そのほとんどが既成観念の打破である。つまり古い衣の愛着を捨て、新しい衣と着替えるようなものである。
換言すれば今まで守っていた科学の牙城を崩すのであるから、その困難たるや並大抵ではない。しかも万人を相手とする以上、老若男女、新旧思想、学者、智識人、一般庶民等の嫌いなく、何人にも理解が出来、疑いを差挿む余地のないよう解かねばならないのである。中でも最も難かしいのは無神論者に対する有神論である。彼らは科学一辺倒になりきっており、見えざるものは信ずべからずとする建前であるから、神の実在論など振り向こうともせず、むしろ冷笑で迎えるくらいである。何しろ子供の時から無神思想をいやという程叩き込まれている以上、この観念を飜えす事は難事中の難事である。ゆえにどうしても驚異的奇蹟によるより外はないのは分りきった話である。次に宗教であるが、これも最早や存在の意義を失ってしまったというのであるから、宗教家たる私の説としたら不可解千万であろう。以上のごとく私の説はどれもこれも意表であって、前人未説のものばかりである。
従って私がこの文をかくに当っては、堅すぎてもいけず、柔らかすぎてもいけずという訳で、要は興味に引きずられながら知らず識らずの内に胸の琴線に触れ、自ら理解されるようにしなくてはならない。すなわち学者には学理的に、農民には実利的に、芸術家には感覚的に、一般大衆には常識的にというように、それぞれに適応することである。ところがこの困難を絶対的に打ち破り得る能力を、私は神から与えられたのである。
すなわち学ばずして知るという神智であって、この世界にありとあらゆる物の真理を把握し得た事で、それが頭脳の栄養となるのである。例えば数年前から私は週刊栄光新聞及び月刊地上天国の雑誌を刊行しており、それ以外単行本も年一回くらいは発刊している。これについてこういうことがあった。それは栄光新聞発行後一年くらい経った頃、ジャーナリストの某氏が言うには“僕は今までの経験上、新聞論説など五十号以上になると誰でも一時行詰ってかけなくなるものである。ところが先生はそんなことなく続けられているのは不思議だ。今までに見たことがない”といっていたのである。従って現在栄光は二百三十七号、地上天国は五十五号になっても相変らずであるから、右の某氏が知ったら腰を抜かすであろう。それどころか私は常に後から後から出て来るので、原稿が溜りすぎ時々整理するくらいである。また私は文章をかく場合、決して参考書を必要としない。紙に向えば無限に出てくる。これだけでも神智というもののいかなるものかが分るであろう。
そうして信者も知る通り、私が色々計画もし、指図もする宗教発展上のことや、地上天国の模型、美術館等の造営は固より、次から次へと新しい企画、設計等々が浮ぶので、その都度命じるだけで何でも出来て来る。ゆえに考えたり悩んだりする事などはないが、それでもたまには考えが出て来ないこともあるが、それは時期尚早として取止め、時を待つのである。というようにすべてが自然のままである。という訳で私の心は常に平静で、坦々たる大道を行くがごとしである。しかも私の仕事は到底人間業とは思えない程多種多様であるからよく訊く人がある。“明主様は随分お忙しいでしょう”“お疲れになるでしょう”などと言われるが、むしろ返事に困るくらいである。
そうして昔から大事業をする人は、多忙で寸暇もないくらいであり、また名のある宗教の開祖などは苦心惨憺、難行苦行が付きもののようになっている。ところが私は大違いで、いつも楽しみながら悠々と神業に励しんでいる。これについても私は言うのである。それは今までの宗教は教祖が地獄に堕ちて苦しみながら、人を押し上げて救うのであるが、私はその反対に自分がまず天国に上り、不幸な人を引張り上げて救うのであって、信者にしてもその通りである。というのは天国的宗教であるからで、このような画期的宗教は初めて生まれたものであって、これがため以前はよく誤解されたものだが、今日は大分判って来たようで、私は満足に思っている。
今読んだような工合で、どっちかというと、私は遊びながら仕事をしているようなものです。苦しみながらしている気はしないのです。道楽みたいなものです。観音様の中に「遊行観音」というのがありますが、丁度そういうようなものです。それで、そういうようにやっているとうまく行くのです。それでいろいろ苦しんだり、気がいかない事をやっているとうまくゆかないのです。この点が今までの世の中の人と反対です。これは信者の人でも同じわけです。だから嫌々やったり、苦しんでやったりした時にはロクな事はないです。病人の所に頼まれて行く場合にも、楽しみながら行く時はきっと治りが良いし、治るから行くわけで、又そうだから良いわけです。だから楽に行けばゆくほど発展するのです。ここが今までの世の中と違うわけです。ところがどうも人間という奴はいろんな癖がついて、どうも苦しむのを平気で、それを当り前のように思っているのです。私も始終そういう事がありますが、どうも思うようにゆかない、うまくゆかないという時には、〝オレは苦しんでやっていた〟という事に気がつくのです。それでそれを放り出して、他の事をやるという事があります。それから又時節というものが大変なもので、例えうまくゆく事でも、良い計画でも、時節が早いとやっぱり思うようにゆかないのです。それはやる事が悪いのでなくて、時節が来ないのです。そこを見通すだけの智慧証覚がなくてはならないのです。それから又順序ですが、これが又実に大変なものです。うまくゆかなければならない、こうならなければならないのが何処かつかえている、うまくゆかないのですが、そういう時によく考えてみると順序が間違っている場合があります。それで順序を良くするとスラスラとゆくのです。ですからそういうような事を早く発見するという事が智慧証覚です。この智慧証覚というものが又大変な意味――というよりか、物事に影響するのです。それで智慧証覚があると気がつくのです。一番分りやすい話が、浄霊してもどうもうまく治らない、おかしいなと思うと、見当が違うとか順序が違うとかいろいろあります。それで順序というものはやはり理窟に合う事です。合理的なものです。だからその病人なら病人が、未だいろいろ反対者があったり、その人の想念がおそろしく食い違ったりする時にはうまくゆかないのです。そのうまくゆかないというところに又一つの理由があるのです。それは、その病人が何も分らない内は疑いもし、反対もし、物は試しだぐらいにやるのですが、それはそれで神様から許されます。それは当り前です。ところが相当に話を聞いたり、御神書を読んだり、中には信仰に入ったりする人がありますが、入っていながら、それに合ってゆかない想念でやってもらうと、そのときは治りが悪いのです。うまくゆかないのです。そういう事に対してチャンと合理的の理窟があるのです。だからかえって疑ぐっていた人が馬鹿に治り、それから相当に信じている人で治りが悪いという事がありますが、それはそういう訳です。全然知らない人はいくら疑ぐっても、それは当り前の事で許されるのです。理窟に合っているのです。ところが相当事実を見せられながら、なお疑ぐっている人は思うようにゆかないのです。そういう事をよく考えてみるとチャンと理窟に合っているわけです。その合っている理窟を早く発見し早く知るという事が智慧証覚です。心の鏡に写るわけです。ですから鏡が曇ると写りが悪いから、始終鏡を磨いているとよく写るから、早く発見するという事になるのです。ここに信仰の、案外軽く見ている事で実は非常に重要な点があります。この事については、仏教で、お釈迦さんが言ってますが、「智慧」という事をよく言います。これはその事です。それでその智慧が或る程度まで働いたのが覚者と言うのです。それで大覚者というと一番偉いのです。それで、お釈迦さんが言ったのに〝証覚を得れば菩薩にする――「証覚者」が「菩薩」であり、「大覚者」が「如来」である〟という事を言っているのは、やはり覚りという事は智慧です。ですからいろいろと何か気がつき発見の早い人があるが、それは覚者なのだから、覚者というものは心の曇りが少ないわけです。そこでその曇りを少なく、心の鏡がきれいに澄んでいるというためには、御神書を沢山読むという事が一番よいわけです。ですから御神書を読んでも、前にはよく分らなかったのが、その次に読んだら、或いは暫くたってから読むと、〝これだ〟〝こんな良い事がある〟〝こんなはっきりしているのにどうして自分は分らなかったか〟という事があるが、前に読んだ時には曇っていたからです。だからだんだん曇りが除れてゆくにつれてだんだん分りが良くなるという事は、そういう訳です。
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