二、三日前に聞いた話ですが、ニホン・タイムスのエリス・グリリというアメリカの新聞記者が、この間日本の大新聞の記者を数人集めて、救世教というのでなく、私の宣伝をしてくれたのです。その人は四年前に日本に来てずっと滞在し、最近日本に土地を買って家を建て、畳住まいで、日本人と同じ生活をしているのだそうです。どうして日本をそういう工合に好きになったかというと、やはり世界中いろいろな国に行ってみたところが、日本人が一番勝れているというのです。他の国の人間が持たない素晴しいものを持っている。それを自分は発見した。だから一生日本研究で終るつもりだという事を言っているのです。その時に日本の新聞記者に対して〝自分は今まで日本人の偉い人にいろいろ会ったが、救世教の岡田茂吉が一番偉い。それを何故新聞に書かないか〟と言ったのだそうです。そうすると新聞記者はヘドモドして、その中で朝日の記者が〝あれは面白くない事がある〟と言うのだそうです。内容は聞かないが、多分裁判の事だろうと思うのです。有罪になって執行猶予中だという、そういう事だろうと思うのです。他にはないのだから……。そうするとグリリという人は〝そんな事が何だ。それは人間だから、大きな事業をする人は何か少しは法に引掛るような事をするのは、やむを得ない。けれどもあの人のやっている事業の百分の一くらいのものではないか、そんな事は問題ではない、とに角あれだけの事をやって、病貧争絶無の世界、地上天国を造るという、これほど大きな事業があるか。おそらく世界でもまだないだろう。とに角自分が日本に来て、日本人の偉さという事を、あの岡田という人によって初めて発見した。それを新聞に書かないという事はないではないか〟と言って、大いにやったそうですが、痛快だったわけです。そういうわけで、つまり何時も言うとおり、日本人のああいうジャーナリストというのは、とに角目玉が小さいので、大きいものを見る事ができないのです。全体的に見る事ができないで、局部的に見るのだからしようがないわけです。結局ナンダカンダ言っても、日本人の目のクリ玉の小さいという事が、日本の発展を阻害しているわけです。日本を伸びないようにしているのです。仮に自然栽培にしても、立派な成績を、農業者や農業試験場の役人が見ながら、それを取り上げようと考えないのです。如何にしてこれを非難して、拡がらないようにしようか、押さえつけようか、という事に一生懸命です。でなければ、若し自然栽培が天下に知れたら、農学者などの自分の説が一ぺんに壊れてしまいますから、それがつらいのでしょう。それから農林省の役人はクビの問題になるでしょうし、とに角国家社会とか世界人類という事より、ただ自分の利益ばかりを考えているのです。それから又、そういう事に対して大新聞などは自然栽培を大いに紹介しなければならないわけですが、そういう事はないのです。そのくせ朝日などは調査しているのですが……。しかしそれをやると肥料会社の方が大変なのです。致命的打撃になります。だからして肥料会社の方なども、然るべく……箝口令ではない、執筆主義もやっているのではないかと思います。彼等の頭というのは自己の利害ばかりを考えているわけです。これは新聞や学者ばかりでなく、政治家でもそうです。我党々々で、社会党などの講演にしても、殆んど理窟のないところに理窟をつけて、苦し紛れにただ政府のやり方を非難して、自己を離れての本当に国家や多数国民のための利益という事は少しも考えないのです。実に露骨に自己の利益しか考えないようにやってますが、ああいう事は決して誤魔化されるものではないですから、あれを聞いて、心ある人はそのさもしい心を見抜きます。ですから再軍備反対という事も、徴兵適齢期の青年とか、あるいは爺さん婆さんという連中だけが賛成するのです。彼等のさもしさというものは実に可哀想なくらいです。けれども時の問題で、もう遠からずそういうのがみんな改心せざるを得ない情勢になって来ますから、別に大した問題ではないのですが、そういうようなわけなのです。特に日本人などが、殆んど幸福な人間というのはないので、不仕合せな人間ばかりが蠢いているようなわけです。それで幸運の秘訣という事を書いてみたのです。以前にも書いた事がありますが、もっと分りよく徹底して書いてみました。
御論文〔幸運の秘訣〕 【註 栄光二四六号】
幸運の秘訣
(栄光二四八号)
この事について私は以前もかいた事があるが、今日の世の中を見れば見る程不幸な人が余りに多いので、一層徹底的にかいてみるのである。言うまでもなく昔から人間の運不運程厄介な問題はあるまい。誰しも人心がついてから死ぬまでの間、この考えから離れられないのが人間としての必然性であろう。というのは最も分りたいと思う事程、最も分り難いのが世の中の常であるからで、少しでも分るとしたらこれ程結構な事はあるまい。ところが、幸いなるかな私はこの根本がハッキリ分ったのである。そればかりか実地経験によっても少しの間違いはないので、ここに確信を以って説くのである。
それについては誰も知る通り、一口に運といってもこれ程茫漠たる掴まえどころないものはあるまい。しかも自分ではどうにもならないので、あなた委せより致し方がないのはもちろんで、これが運というものであろう。誰かが言った“人生は大賭博なり”とは宣なるかなである。従ってどんなに偉いといわれる人でも、一応は諦めてはいるが、中々悟りきれないもので、これが人間の宿命とでもいうのであろう。そこで何とかして幸運を掴みたい一念から活動も出来る訳である。それがためありもしない智慧を絞り、欲しい成りたいの苦労のしつづけで終るのが人生というものであろう。そうして運くらい皮肉なものはない。掴もうとすればする程逃げてしまう。西洋の諺に“幸運のチャンスは前髪のようなもので、通る瞬間掴まないとお終いだ”というが全くその通りである。
私の長い経験によっても、運という奴に始終からかわれているような気がする。訳なく掴めそうで中々掴めない。目の前にブラ下っているから手を出すとスルリと抜けてしまう。追いかけようとすればする程逃足の速い事、全く始末の悪い代物だ。ところが私はこの運という奴を確実に掴えたのである。だがそれを説明するに当って困る事には、信仰者ならイザ知らず、一般人には中々分り難い点がある。というのは物を見る場合上面だけを見て中身を見ない事で、否見えないのである。ところが運に限って因は中身の方にあるのだから、これが分らなければ運は決して掴めない。という訳は人間が肉体を動かす場合、肉体自身が動くのではなく、中身にある心が動かすのであるから、幸運もそれと同様中身が肝腎である。その訳を詳しくかいてみよう。
まず右の理を押し広げるとこういう事になる。すなわち上面とは現実界であり、中身とは心霊界という目に見えない空間の世界である。これがこの大世界の組織であって、造物主はそう造られたのである。故に心が肉体を動かすごとく、霊界が現界を動かすのである。しかも一切は霊界が主で現界が従であるから、運といえども霊界にある霊の運が開ければいいので、そのまま体に映り幸運者となるのはもちろんである。では霊界というものを一層詳しくかいてみるが、霊界は現界よりも厳正公平な階級制度になっている。それが上中下百八十の段階になっていて、六十段ずつ三段階に分れている。もちろん上が天国、下が地獄、中間が中有界といい現界に相応している。
こんな事をいうと、今日の人間は直に信じられまいが、私は神から詳しく知らされ、その上長い間霊界と現界との関係を実地経験によって、底の底まで知り得たのであるから、寸毫の誤りはないのである。何よりもこの理を信じて実行に移し、幸運を掴んだ人は今までに数え切れない程あるばかりか、私自身としてもその一人である。それは私を客観的に見れば直ぐ分る。私がいかに幸福な境遇であるかである。そこで今一歩進めて右の段階を説明してみるが、前記のごとく人間の体は現界に、霊は霊界にあるとしたら、百八十段中のどこかにいるはずであって、つまり籍のようなものである。しかもこの籍は一定しておらず、絶えず上下に移動しており、運命もそれに伴う以上、人間は出来るだけ上段に昇るよう心掛くべきである。言うまでもなく下は地獄界で、病気、貧乏、争いはもちろん、魑魅魍魎、百鬼夜行、暗黒無明の世界であって、あらゆる苦悩が渦巻いている。これに反し上段へ行く程反対に良くなり、天国浄土的平和光明、健富和の理想境であり、中段は中位である。
以上のごとく霊界の籍通りが体に移り、運命となるとしたら、霊の地位向上こそ幸運の根本である事が余りにも明らかである。何よりも事実を見ても分る通り、世間よく出世をして人から羨まれるようになり、自分もいい気持になって、いつまでも続くと思っていると、豈計らんやいつしか失敗転落、元の木阿弥となる例もよくある。というのはこの理を知らず、人力にのみ頼りすぎるからで、しかも人を苦しめ、無理をする結果、形だけは成功しても、霊は地獄に堕ちているので、霊主体従の法則によりその通りの運命となるのである。そうして霊にも物質と同様重量があり、重ければ地獄に堕ち、軽ければ天国に上る。昔から罪の重荷というが、その通りで、悪の行為は霊が曇り重くなるに反し、善の行為は軽くなり上へ昇るのである。故に人間は悪を慎み、罪を作らないようにする事で、出来るだけ善を行い、霊を軽くする事こそ幸運の秘訣である。これが真理である以上、これ以外方法のない事は断言するのである。といってもなるほど理屈は分るが、さて実行となると中々難かしいものである。ところが容易に出来る方法がある。これこそ信仰であるから、幸運を得たい人は何をおいても、まず信仰に入る事である。
まだ少し書き足りないところがあるのです。今のは経だけを書いたのですが、緯の段階が肝腎なのです。その緯の段階の、つまり上から下まで何階にもなっている、其処がそのまま写るのですから、始終うまくゆかない、苦しみや災難があるという事は、そういう段階に霊が居るわけなのです。だから幾ら人間が工夫をしてうまくやろうと思って一生懸命にやっても、そうはゆかないのです。漸く金を溜めたと思ってヤレヤレと思っていると、どうしても出さなければならない事が次から次へと起こって来るのです。病気については、信者には問題にならないが、世間一般の人は大抵、やっと貯蓄ができてまず金の心配はないという事になると、必ず病気の心配が起こるのです。そうしてヤレ入院だ、手術だ、と言って、おそらく溜めた金は残らずふいになって、それでも足りないで借金するというような事は随分多いです。というのは、つまり霊層界の地位が地獄に居るから、どうしても地獄のとおりに写って来るわけです。だからいろんな、方位が良いとか、或いは十二支で、午の年の午の月とか、未の月とか、そういう事を気にしたり、方位方角をやっても、決してうまくいった事はないです。むしろそういう事を始終気にしている人の方が運が悪いくらいなものです。その運が悪いというのは、そこに訳があるのです。そういう事を気にかける人は霊が弱いのです。つまり霊の力が弱いからして、あらゆるものに怯えるのです。それで霊の強い弱いという事は、肉体の健康の強い弱いのと同じ事なのです。だから非常に臆病な人や、物に怯えるというような人は霊が弱いのです。つまりどうせ悪い事をする人は悪の方ですから、それに負けるわけです。そういうようなわけで、自分の魂を霊層界の高い所におくようにすれば、又其処は良い事ばかりが来る世界です。人間という奴は、悪い事というものは重なって来るものなのです。私なども随分経験がありますが、何か災難とか苦しみが来る時は必ず健康が悪いです。これは誰に聞いてみても大抵そうです。やっぱり健康で居る時には運勢という事も良いわけです。だから信仰に入って浄霊を受けさえすれば、みんな運が良くなります。間が良くなります。よくお蔭話にありますが、随分金に苦しんだのが、入信してから急に思いもしない金が入って来たり、楽になるという事は、つまり霊層界が上るからです。それで、それは神様の光をいただきますから、そこで霊が浄まるから、そこで今読んだように霊が軽くなるから上に上るのです。其処は貧乏や金に苦しむ所がない世界ですから、そこのところは甚だ微妙な問題でいて、一番確実な方法です。これさえ守り、これさえ信じて居れば、運の悪くなる気づかいはないです。ただ一時は、霊の曇りを取られるために一時的苦しみはありますが、それは決して長いものではないので、それさえ済めば必ず良くなるのです。信仰の妙諦というものはそこにあるのです。ところが今までの宗教はそういう事は説かなかったのです。という事は、光がなかったのです。あっても月の光で薄いから、そう著しく曇りを減らすことはできないのです。だからして運勢も、良い事があるが悪い事もあるというわけで、年中苦労しているのです。それで、月の神様という事を言いますが、月の光というものは薄いのですが、それ以外に、月というものは暗という事があるのです。そこで月の光だけをいただいて、まず運が良くても、必ず暗があるから、その時にやられてしまうわけです。だから今までの世界では本当に運が良くなり、永遠に栄えるという事は絶対にできなかったわけです。それは歴史を見ても分るとおり、無論天下が長く続かず、それから又何代もうまくゆくという家は無かったです。そこでどうしても太陽の光でなければ駄目なのです。太陽の光は毎日必ず出るのですから、太陽に暗はないのだから、悪い事が幾日も続くという事はないのです。そういうようなわけで、どうしても太陽の光でなかったらば本当の幸福は得られないわけです。一時的しか得られないわけです。それから運ばかりでなく、凡てがそうです。だから今までの事はみんな一時的で、続かないのです。丁度病気を薬や医者でやると一時は良くなりますが、必ず元通り再発するわけです。何もかもそうなっているわけです。つまり永遠性がなかったわけです。運の話はそのくらいにしておきます。
ちょっと面白い話で、神様に関した事ですが、これは私の今までの本にもありますが、これもちょっと書き方を変えて、幾らか新しいところがあります。
御論文〔神様と私との関係〕 【註 地上天国五十七号】
神様と私との関係
(地上天国五十七号)
これは昔からよくある事だが、宗教の教祖や自称生神様などは、よく神様に伺いを立てるとか、神様の御託宣を仰ぐとかいって神憑りになり、自問自答をしたり、自動書記や心に浮かぶ等の行り方であって、言わば間接的方法である。処が昔から神との交通はこの方法より外にないのは衆知の通りである。処が私という者は全然異っていて、未だ嘗て世界に例のない存在であるから、一通りかく必要があると思うのである。
私も以前は神との交霊的方法によって御蔭を得た時代もあったが、これは重大な事柄に限ったのである。その場合色々面白い事があった。例えば心配事がある時など伺いを立てると、神様は何事も言われず、只呵呵大笑されるのみで、私はハハア心配するなとの事と解したのである。処が日の経つに従い果してその通りであったので、今度は私の方も呵々大笑したので、こんな事も度々あった。そうして私が大本教信者であった頃は、国常立尊という神様が時折お憑りになったが、その神様は崇高な威厳と厳しい霊感のあった事は今でも覚えている。併し一番憑られたのは何といっても観音様で、絶え間なしという位であった。勿論その時の気持は、何ともいえない和かさで、大慈大悲の御心が溢れていたのである。
ここで一つの面白い事は、確か以前も少しかいた事があるが、伊都能売金龍と申す神様が憑られた事があった。その龍神は数千年間琵琶湖に住まわれ、時を待たれていたのが、愈々時節到来因縁によって私に憑依されたのである。この神様は八大龍王の頭領である九頭龍といって、俗間で九頭龍権現のお名前で祀られているのがこの神様である。何しろ長い間龍神であられたが為最初憑られた時は眼光爛々と輝き、口は耳まで裂け、額の両側から大きな角が隆起し、背の上部、肩と肩との真中辺が角型に隆起し、物凄い唸り声を発するので、私は愕然としたのである。その頃の私は霊的知識がまだ余りないので、何が何だかサッパリ分らなかったが、その後間もなく龍神という事が判ると共に、暫くして話をされるようになった。その時に話された事は“吾は長い間龍神になっていた為、人間の言葉が使えなかった処、おかげで漸く使えるようになった”と喜ばれ、それから色々な話をされたが、その中で随分神秘重大な事を教えられ私は驚きと共に嬉しさが込み上げた事も度々あったのである。
まだ色々あるので何れはかくが、ここで言いたい事は現在の私である。それは静岡事件の際留置所の中で、頗る神秘な神業が行われた事はいつか話した事があるが、その時私の体内に入られたのが最高最貴のミクラタナの神様*であって、出所早々散花結実の書を千枚かいて主なる信者に頒ち与えたのも、その時の経綸によったのである。処がその時から後の私は、以前のように神様に伺う事は必要がない事になったのである。というのは神霊は私の体内に在す以上、以前のように神と人との隔てが撤去され、神人合一の境地になったからである。つまり神即人である以上、私の行う事は神直接であるから、私の思うままを行ればいい事になったのである。
このような訳を知ってから分った事は、神様に伺うというのは、最初にかいた通りこれまでの行り方であって、間接的である。処が今度のようになった私としては、未だ嘗て世界に例のない事は勿論で、釈迦、キリスト、マホメットの三大聖者は判らないが、恐らく私程の神との直接的ではなかったと思うのである。何故なれば今日残されている幾多の功績を見ても分るのである。
(*御倉板挙之神:伊耶那岐尊が天照大御神に高天原の統治を任せる時に、授けた首飾りの玉の神。如意宝珠=太陽神の身魂=太陽の黒点に通ずる。その分け御魂が〝御守り〟)
それから浄化作用ですが、これはみんなよく知っているでしょうが、だんだん強くなって来てます。来月立春祭を過ぎると又かなり強くなるわけなので、信者の人は余程ボヤボヤして居られない事になるのです。というのは、つまり片付くと言いますか、良くなる人と悪くなる人がはっきりすると共に、肉体ではもういけないというように、つまり決められるわけです。これもあんまり良い気持はしないのです。やっぱり肉体で働いた方がよいです。霊界で働くのはずっと後の遅い方がよいわけです。これは信者未信者にかかわらず、最近随分死ぬ人があるのです。私などもハッと思うような事があるのです。しかしまだまだ序の口です。今年の節分過ぎあたりから序の口に入るというような時期になるわけです。それで最初は信者の人が多いですが、それからだんだん一般の人に及ぼすようになって来ます。霊眼で見る人がよく言いますが、今霊界は死人の山なのです。そうなって初めて私の唱える医学の根本が分るわけです。そうなると病気は救世教の浄霊より他に駄目だという事が分って、一ぺんに信者が増えるわけです。天手古舞をする時期が来るわけです。それは一度に来るわけではないので、だんだんにそうなって来ます。丁度今年の農村の凶作みたいなもので、なにしろ神様は自由自在ですからして、それには助ける方の準備が必要ですから、今まで救世教がだんだん発展し、それから信者さん達ができつつあるという事は、つまり準備時代というわけです。ですから準備時代があらかたになると、今度は全般的浄化作用が起こるという事になります。こうなると実に悲喜交々来たると言いますか、それに苦しみ倒れる人は実に気の毒な悲しむべき人です。観音様の御名前の中に大悲菩薩というのがありますが、その時の御働きは大悲菩薩です。けれども神様は悲しむだけではないので、それを救わなければならない。その救うその時が大慈菩薩です。ですから大慈大悲という事は反対の言葉が並んでいますが、そういう意味なのです。そういう時期が大分近寄って来たのです。ですからそれには、大いに救う……方法は浄霊に決まってますが、智識というものを大いに深めなければならないのです。そろそろ始まって来つつあるのは頭です。他人もそうですが、自分も頸の廻りと頭をよく調べて、できるだけこれを溶かさなければならないです。私でさえ随分ありますから、毎日のように溶かしてます。これを溶かしたり体の方々をやると、実に私などは薬毒があるので、驚くほどです。だからどんな人でも到底想像もつかないくらいあると見なければならないです。〝もうオレはかなり浄化されたから、余程減っただろう〟と思うと大違いで、むしろこれからです。それでいて私などは今までに浄霊や修業やいろんな事で随分減っているのです。減っているという事は、普通の人と比べるとよく分るのです。体力や精力が強いのです。それから又頭も良いのです。そこにもっていくと今の若い人というのは可哀想なくらいなものです。山などに若い人と一緒に行く時には私は加減しているのです。その歩き方が遅いのです。ですから私の方でなるだけ加減してやっているのです。〝明主様は御早いですね〟と言うから〝年が違うよ〟と言うのです。それから又頭の悪い事夥しいのです。実に悪いです。私がこの頃若い人に言っている事は〝巾着切の真似をしろ〟と言うのです。〝とに角巾着切というのは偉い、君達よりずっと偉い。強盗や窃盗はいけないが……〟これは不可抗力的にやって来ますが、巾着切はこっちが用心すれば盗られる事はないので、こっちが間抜だから盗られるのです。だから〝ある点において大いに見習うべきだ〟と言うのです。ですから巾着切のように頭の敏捷さです。人込の中で人の懐を狙って盗るというその鋭い感覚というのは大いに学ぶところがあります。ですから巾着切と詐欺師は普通の人よりか或る程度傑出したところがあります。詐欺師というのは、全然の拵え事を本当のように思わせるのですが、それに或る程度知識階級とか金のあるような者を瞞してやるのです。ですから、手段としては……目的が悪いのです。それを良い目的にすれば大変な役になるのです。ですから巾着切の頭で病人を見たら〝この人は何処がいけない〟〝どういう所が悪い〟という事が分るわけです。そういうようなわけで、人間の信仰としても、今までのような信仰の考え方とは殆んど反対な事があるくらいです。だから私は若い人に言うのは〝君達はまだ徳川時代から、中には平安朝時代の……〟実にのろのろと間が抜けています。若い人が次々と随分手伝いに来たりしてますが、みんなそうです。実に悠長な、少なくとも二十世紀の人間とは思えないです。特に信者になると余計そういう点があるようです。神様に御任せしているからよいというような点があります。これは神様に御任せするというよりか、むしろ神様に責任を負わせるという、つまりあんまりダッコし過ぎるというきらいがあるのです。大いに努力して神様にできるだけ御手数をかけないようにするのが本当だが、そういう事なく、赤ん坊が親に養育されるような生温い考えが、信者というのは起きやすいのです。そこに難かしい点があるのと、又言うに言われない面白さがあるのです。そこで人力=自力と他力の線をうまくやってゆくという、それが一つの覚りであり、修業です。
Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.

-1-scaled-2.jpg)