一月二十六日

 ついこの間、例のエリス・グリリというアメリカの新聞記者の人が、東京都内の主な新聞の記者を呼んで、私の宣伝をしたわけです。それを聞きましたが、大分痛快な事を言ってます。〝君等は救世教の岡田茂吉というのを知っているか〟〝知っています〟――ところでこの人は四年前に来て、東京に土地を買って家を建てて、畳住まいで、日本人と同じ生活をしているのですが、日本がとても好きで、一生を日本で暮らすつもりでいるのです――。〝四年前から日本に来て、日本人の偉い人という人にみんな会ってみたが、岡田茂吉というこの人より偉いというのは居ないではないか〟と言うと、〝あの人は偉いところもあるが、欠点もある〟と言うのです。多分先年の裁判事件らしいのです。執行猶予中で……〝どうもその点は〟と言うと、グリリさんは〝そんな事が何んだ。あの人のやっている仕事を見たら、そんな事より百倍も国家社会のためになる仕事をしているではないか。君等は何故それを大いに書かないのだ〟と言うと返事ができなくてヘドモドしていたそうです。今の、欠点があると言ったのは朝日新聞の記者だそうですが、甚だ痛快な話です。〝岡田という人のやっている仕事を知っているか〟と言うと、〝本当には知らない〟〝それは病気・貧乏・争を無くして世界の地上天国を造るというのだから、これほど平和的に偉大なる仕事はないではないか。それは世界にもまだ無いかもしれない。それを日本に居ながら、新聞記者がそういう事を知らないという事は、君等はそれでよいのか〟と、散々言われたそうです。それでグリリさんの言う事には〝僕はあの人の建設という仕事を見て、あとは二、三時間会って話をしただけで、実によく分る。それを君等は日本に居て、新聞記者でいて分らないというのは、それでよいのか〟と、随分やられたそうです。その通訳をした人は、始終私の所に来る浮世絵専門の人で、英語がなかなかできるので、一週間に一度ずつ外国人に対して浮世絵の講義をしているのです。

 それから放送局の古垣氏もよくやられているようですが、今度来るそうです。それから丹波文雄氏ですか、前に小説の「蛇と鳩」を書いて新宗教を……。此処で映画もやりましたが、かなり救世教を目標にしたらしいのですが、私の方で抗議を言ったので、それであの時には立正交成(佼成?)会を中心にして〝南無妙法蓮華経〟をやっていて、救世教の方は一場面出したくらいです。それからずっと栄光を配ってます。今度来るとか言ってました。そういうようなわけで、どうしても分らなければならないように追いつめられつつあります。何んとしても熱海の地上天国が出来上がる事と、自然栽培が国家的の問題になるという事になって始めて〝ではやっぱりそうだ、じっとしては居られない。大いに救世教を、岡田茂吉という人間を研究しなければならない〟という事になるわけですが、それまでには未だ一、二年の暇が要るでしょう。それもだんだんそういうようになりつつあるのは、大変結構と思います。尤も予定通りになるわけですから、それでよいのですが、なにしろ救世教というものは、どっちかと言うとあんまり素晴しすぎるのです。そこで分り難いのです。というのは、アメリカの人などはかえって早く分るのです。というのは、目が大きいからです。日本人は目玉が小さいから大きいものは見えないのです。それについて書いてみました。

 御論文〔再びジャーナリストの考慮を望む〕

再びジャーナリストの考慮を望む

(栄光二四九号)

 これは一般宗教には当嵌らないかも知れないが、少なくとも本教としては言わざるを得ないのである。それは何かと言うと、学者やジャーナリストの宗教に対する見方であって、必ずと言いたい程科学の眼を以て批判する事である。処がよく考えてみると、これ程不合理な話はあるまい。何となれば、科学は唯物観念を以て物を見るに反し、宗教は唯心観念を以て見なければならないからである。つまり、科学は形而下的分野に属し、宗教は形而上的分野に属しているからである。即ち、前者は地面に立って屋根瓦の表面を見るに対し、宗教は屋根の上から地面を見下(みくだ)すようなもので、この主客転倒に今日まで気附かなかったのである。

 この意味に於て、滑稽なのは、宗教学者達が学問上から宗教を論ずる事である。考えてもみるがいい、仮に若しそれが妥当としたら、その宗教の開祖よりも学者の方が上になる事になるから、そういう学者こそ一派を立てて生神様になれば、成功疑いなしであろう。又新興宗教にしても、その殆んどは既成宗教を基本としている以上、同様の事が言えると思う。併し、それはそれとして、今日学者やジャーナリストが新宗教を批判する場合、洵に皮相(ひそう)浅薄(せんぱく)な見方である。例えば現当利益、特に病気治しなどは低級だとか、金儲けが目的だとか言って、肝腎な宗教理論には一指(いっし)も触れない事であるのは、可笑しな話ではあるまいか。これに就いて私の言分を書いてみるが、他の宗教は知らないが、少なくとも我がメシヤ教に至っては、現代の学問で分るようなそんな低い程度のものではない。全く想像もつかない高度の文化的超宗教であって、偉大なる救いの業である事は、声を大にして言いたいのである。言う迄もなく、既成宗教的に如何に巧妙な理論や説教を以てしても、それだけで人間を救う事の出来ないのは事実が示している。一例をあげてみれば、今仮に目の前に苦しんでいる病人に向って、枕元で百万陀(ひゃくまんだ)()有難い御説教や教典を聞かせたとて、成程心の慰めにはなるが、病気そのものを治す事は出来ないのは分りきった話である。故に確実に病気を治し、健康を快復させ、貧乏も救われ、一家幸福になるとすれば、恒産あれば恒心ありで、自然不正や不道徳も減るに違いないから、よりよき社会となるのは当然である。私はこれが宗教としての真のあり方であって、これ以外に何があるかである。故に、この意味から言うも、彼の釈迦、キリストが、遺憾乍ら万人の病気を救い得なかった為、二千有余年を経た今日と雖も、相変らず人類は病貧争に苦しみつつあるのであるとしたら、人間は何時になったらこの桎梏(しっこく)から免れる事が出来るであろうか、恐らく見当はつくまい。としたら、実に情ない話である。これによってみても、今日まで世に現われた幾多聖者や賢哲にして、真に救う力をもった者は一人もなかったのである。それが為止むなく、その諦めを説くのが宗教の建前となってしまったのも、(むべ)なる哉である。処が喜ぶべし、私はこの夢の如き真の平和幸福世界を実現する力を神から与えられたのである。これは自惚でも何でもない。現に不幸に悩める人々を救いつつあり、これが本教の救世事業である。

 以上によって、私という人間が如何なる存在であるかが分ったであろう。そうして、今日の世の中を大局から眺めてみると、現代文明は実に大いなる誤謬に陥っている。今その二、三の例をあげてみるが、現在日本に於ける最大悩みである食糧問題にしても、又世界的悩みである病気の問題にしても、それを現わしている。然もそのどちらも、進歩は行詰り状態にあって、解決処か、益々溝は深くなるばかりである。これ等に対し、私は根本的解決の方法を神示によって知り得た以上、今や日本は固より、世界全体に渉って知らしめつつあるので、勿論主眼とする処は、全世界指導者階級の目を醒まし、新文明の何たるかを知らしめる事である。つまり、小学生の学力をして大学程度にまで引上げる事である。

 以上の意味に於て、私の説く処余りに超越しており、学者もジャーナリストも容易に理解出来ないので、反って一種の恐れさえ抱くらしいのである。それというのも、本来ならば大いに謳歌礼讃すべきが本当であるのに、反って無批判的に非難する人や、触れるのを避ける人などある事実である。その現われとして、私が最近発行した「結核信仰療法」及び「救世教奇蹟集」の両著にしても、日本の三大新聞は一致してその広告を引受けない事である。その理由を(ただ)せば(げん)左右(さゆう)に託して、真相を言い得ない苦しさであって、これは本教係の者から聞いた話である。

 これでは、現在の日本は言論の自由がない訳で、然もこの自由の抑圧者が大新聞としたら、殆んど信じられない程で、恐らく世界の文明国中例がないであろう。併しそれも無理はないかも知れない。何しろ私の説たるや、余りに現代科学を超越しており、丁度人力車時代に飛行機を見せるようなものであるからである。又、昔から何時の時代でも、既成学問を覆えす程の劃期的発明、発見、新説等を発表するや、例外なくその時代の識者から誤解と迫害を受けるのは、歴史が示している。茲に先駆者の悩みがあるのである。特に日本の知識人程それが甚だしいのは、例えば今日、世界的偉人として万人から仰がれている、キリストや釈迦の如き大聖者より以上の人間は、永久に現われないと決めている事である。今一つは日本には外国人より勝れた人物は出ないとしている迷妄である。これが国民感情に沁み込んでいる以上、私とそうして私の仕事が認められないのも当然であろう。

 それが為、私の言説も事業も、頭から否定してしまい、調査検討など思いもよらないらしいのである。特にこの傾向はジャーナリストに多い事は、本来なれば外国にも例を見ない程の劃期的偉大なる私の聖業であるから、直に正邪善悪を検討しそうなものだが、そういう事は全然ない。私は思う。もし研究の結果聊かでも疑問の点があり、社会上マイナスと認めたら、断乎排撃し葬り去ると共に、反対に、正しい説で、社会人類にプラスであるとしたら、大いに援助すべきではなかろうか。それをいつまでも有耶無耶にしている態度は、前記の如き恐怖感の為か、触らぬ神に祟りなし的事勿れ主義の為か、解し難いのである。

 以上私の思うままを書いたのであるが、要するに私は、ジャーナリストとしての当然な責務を希望するに止まり、それ以上他意はないのである。ここに再度の考慮を求むる所以である。

 これを読んだら(いささ)か痛いだろうと思います。今話したアメリカの新聞記者の見方に対して日本の新聞記者の貧困さは、実際(あき)れるほどです。日本の新聞記者というものはまだ封建の(から)から抜け切れないのです。指導者たるジャーナリストがまだそういうような封建的頭脳があるから、日本の政治でも社会でも実にはっきりしないのです。現在一番悩んでいる国家経済にしても、実に危機を叫ばれているくらいなのです。今日本で一番肝腎な事は、もっと国民の目の玉が大きくなる事です。あんまり小さな事ばかりに囚われているのです。政治界などを見ても、あんまり小さな問題をコセコセしすぎるのです。政治の争いにしろ、特に社会党などはそうです。問題の良いとか悪いという事は、とうにそっちのけになっていて、ただ自分の言い出した事は是が非でも良いように思わせようとするのです。一番滑稽(こっけい)なのは再軍備問題です。もう此処まで来て再軍備に反対したところで成功するわけがないのです。国際情勢から見て、アメリカは日本の或る程度の軍備を要求するし、それから日本の国家としても、これだけの舞台で兵隊がないという国は世界中にないです。この間のアメリカの副大統領の話にも、台湾でさえ――蒋介石は別の意味がありますが――その軍備は、日本が今度軍備するよりも、到底追いつかないほど出来つつあるのです。そういう事にしろ、世界中見廻したところ、社会党の言うような、軍備無しで済むわけがないのです。それでいて今もって一つになる事を御苦労様に方々講演したり、鈴木茂三郎などが怒鳴ってますが、哀れなくらい低級です。それを又新聞などが真面目に書いてます。これは書かなくてもよいのです。書いても何んにもならないのです。(あたか)も、バスに乗損って、バスがドンドン向うに進んでいるのに、まだ追いかけているようなもので、追いつくわけはないです。その判断がつかないのですから、不思議と言いますか、あまりに日本の社会が低級すぎるのです。それもこれもジャーナリストの頭が今読んだような工合だからです。私はよく、共産主義の事についても、解決にどうすればよいかと言うから、訳はないと言うのです。〝新聞記者を選り分けて共産主義でない新聞記者にし、それから学校の教師も共産主義者でなくすれば、それが一番だ。それさえやれば共産主義などは心配したり恐れたりする事はない〟と言います。昨日の新聞かラジオでも、小学校の級の生徒が同盟して休校しましたが、それは教師が共産主義で、共産主義を生徒に吹込むので、それに対して生徒が同盟して……というのですから面白いです。そういうように子供からそういう教育をしようというのです。大体日本の先生がどうして共産主義かぶれになるかというと、これも分りきった事で、その因は大学教育です。では大学教育が何故そういう事をするかというと、先生が一生懸命にやって出世したところでしれたもので、大学総長などにはなれるわけがないので、教授としてもちょっと上位になるくらいなもので、つまらないものです。それよりか、日本を共産主義にすれば、少なくとも知事や、あわよくば国務大臣ぐらいにはなれるでしょうから、そこで日本を転覆して、自分が良い地位につきたいというのです。ですから日本を良くするという、そういう事は何もないので、自己の利益から共産主義にした方が有利だという算盤から割出しているのです。だから学校の共産主義者というのは、国家を転覆して、多くの犠牲などは何んでもないので、自分が良くなればよいという、それだけの考えです。社会党などもそうです。鈴木茂三郎というのは、日本を共産主義国家にして、総理大臣になりたい。そうしてソ連のマレンコフや中共の毛沢東のようになりたいというそれだけの事です。そのために血を流している国民こそ可哀想なものです。それがだんだん露骨になって、以前は学理上でやって来ましたが、それではまだるっこいので、できるだけ直接行動をしようというのでやっているのです。大分その直接行動が現われかけて来ました。この話はそのくらいにしておきます。

 それから幸福に対しては前に書いた事がありますが、もっと徹底して書いた方が良いと思って書きました。これは信者の人はよく知ってますが、未信者に対して幸福の方法を分らせるために、できるだけ分りやすく書きました。

 御論文〔幸福の秘訣〕     【註 栄光二四六号】

幸運の秘訣

(栄光二四八号)

 この事について私は以前もかいた事があるが、今日の世の中を見れば見る程不幸な人が余りに多いので、一層徹底的にかいてみるのである。言うまでもなく昔から人間の運不運程厄介な問題はあるまい。誰しも人心がついてから死ぬまでの間、この考えから離れられないのが人間としての必然性であろう。というのは最も分りたいと思う事程、最も分り難いのが世の中の常であるからで、少しでも分るとしたらこれ程結構な事はあるまい。ところが、幸いなるかな私はこの根本がハッキリ分ったのである。そればかりか実地経験によっても少しの間違いはないので、ここに確信を以って説くのである。

 それについては誰も知る通り、一口に運といってもこれ程茫漠たる掴まえどころないものはあるまい。しかも自分ではどうにもならないので、あなた委せより致し方がないのはもちろんで、これが運というものであろう。誰かが言った“人生は大賭博なり”とは宣なるかなである。従ってどんなに偉いといわれる人でも、一応は諦めてはいるが、中々悟りきれないもので、これが人間の宿命とでもいうのであろう。そこで何とかして幸運を掴みたい一念から活動も出来る訳である。それがためありもしない智慧を絞り、欲しい成りたいの苦労のしつづけで終るのが人生というものであろう。そうして運くらい皮肉なものはない。掴もうとすればする程逃げてしまう。西洋の(ことわざ)に“幸運のチャンスは前髪のようなもので、通る瞬間掴まないとお終いだ”というが全くその通りである。

 私の長い経験によっても、運という奴に始終からかわれているような気がする。訳なく掴めそうで中々掴めない。目の前にブラ下っているから手を出すとスルリと抜けてしまう。追いかけようとすればする程逃足の速い事、全く始末の悪い代物だ。ところが私はこの運という奴を確実に掴えたのである。だがそれを説明するに当って困る事には、信仰者ならイザ知らず、一般人には中々分り難い点がある。というのは物を見る場合上面(うわっつら)だけを見て中身を見ない事で、否見えないのである。ところが運に限って因は中身の方にあるのだから、これが分らなければ運は決して掴めない。という訳は人間が肉体を動かす場合、肉体自身が動くのではなく、中身にある心が動かすのであるから、幸運もそれと同様中身が肝腎である。その訳を詳しくかいてみよう。

 まず右の理を押し広げるとこういう事になる。すなわち上面とは現実界であり、中身とは心霊界という目に見えない空間の世界である。これがこの大世界の組織であって、造物主はそう造られたのである。故に心が肉体を動かすごとく、霊界が現界を動かすのである。しかも一切は霊界が主で現界が従であるから、運といえども霊界にある霊の運が開ければいいので、そのまま体に映り幸運者となるのはもちろんである。では霊界というものを一層詳しくかいてみるが、霊界は現界よりも厳正公平な階級制度になっている。それが上中下百八十の段階になっていて、六十段ずつ三段階に分れている。もちろん上が天国、下が地獄、中間が中有界といい現界に相応している。

 こんな事をいうと、今日の人間は直に信じられまいが、私は神から詳しく知らされ、その上長い間霊界と現界との関係を実地経験によって、底の底まで知り得たのであるから、寸毫の誤りはないのである。何よりもこの理を信じて実行に移し、幸運を掴んだ人は今までに数え切れない程あるばかりか、私自身としてもその一人である。それは私を客観的に見れば直ぐ分る。私がいかに幸福な境遇であるかである。そこで今一歩進めて右の段階を説明してみるが、前記のごとく人間の体は現界に、霊は霊界にあるとしたら、百八十段中のどこかにいるはずであって、つまり籍のようなものである。しかもこの籍は一定しておらず、絶えず上下に移動しており、運命もそれに伴う以上、人間は出来るだけ上段に昇るよう心掛くべきである。言うまでもなく下は地獄界で、病気、貧乏、争いはもちろん、魑魅魍魎、百鬼夜行、暗黒無明の世界であって、あらゆる苦悩が渦巻いている。これに反し上段へ行く程反対に良くなり、天国浄土的平和光明、健富和の理想境であり、中段は中位である。

 以上のごとく霊界の籍通りが体に移り、運命となるとしたら、霊の地位向上こそ幸運の根本である事が余りにも明らかである。何よりも事実を見ても分る通り、世間よく出世をして人から羨まれるようになり、自分もいい気持になって、いつまでも続くと思っていると、豈計らんやいつしか失敗転落、元の木阿弥となる例もよくある。というのはこの理を知らず、人力にのみ頼りすぎるからで、しかも人を苦しめ、無理をする結果、形だけは成功しても、霊は地獄に堕ちているので、霊主体従の法則によりその通りの運命となるのである。そうして霊にも物質と同様重量があり、重ければ地獄に堕ち、軽ければ天国に上る。昔から罪の重荷というが、その通りで、悪の行為は霊が曇り重くなるに反し、善の行為は軽くなり上へ昇るのである。故に人間は悪を慎み、罪を作らないようにする事で、出来るだけ善を行い、霊を軽くする事こそ幸運の秘訣である。これが真理である以上、これ以外方法のない事は断言するのである。といってもなるほど理屈は分るが、さて実行となると中々難かしいものである。ところが容易に出来る方法がある。これこそ信仰であるから、幸運を得たい人は何をおいても、まず信仰に入る事である。

 今読んだとおり、運が良くなる、思うようになるという事は、理窟を知ってみれば非常に簡単な話なのです。ここを自分が知ると共に話してやればよいのです。ところがそういう肝腎な事をやらないで、ただ人為的にうまくゆくように一生懸命やるのだからして、結局何んにもならないので、無駄をやっているわけです。それで、百八十段という層になっているのですから、その層の居所によって運が良い悪いになるのです。この運の良い所は良い事ばかりが流れているのです。そこのところは神様は実にうまく作ってあります。低い所は悪い事だらけなのです。悪い事が満ちているのです。上層になるとそれがだんだん少なくなり、今度は良い事に変って来るという事になっているのです。そういうようで、人間は何処かに居るのですから、良い方に居るようにすれば、其処に行けば運が良くなるに決まっているのですから、何んでもないです。よく方角が悪いとか良い家が見付からないとか、いろいろな事がありますが、それは霊界の居所が下ならどんなに良い家に住まおうと思っても、其処の世界には良い家がないのだから見付かるわけがないです。霊界の層が上に行っていれば、今度は、探さなくても見付かるようになります。其処に住まわなければならない事になっているのです。それが運命です。ですから、よく支部を作っても発展しないとか、どうも信者が出来そうで出来ないという事は、自分の魂の居所、霊の居所が低いためです。それから又、どうも自分は一生懸命に信仰しているが、親父は反対ばかりしている、或いは伜が全然分らないという事は、自分自身の霊的位置がまだ低いからです。それで自分自身の霊的地位が高ければ、他の者もどうしても其処の所に引上げられるのです。というのは、親父でも伜でも、みんな霊線が繋がってますから、親なら親の枝ですから、親がずっと上に上ると伜もそれについてゆくわけです。そうすると話をしてもよく分るわけです。ところが自分自身の地位が低いからして、幾ら口を酸っぱくしようと、気をももうと、敢えて効果がないわけです。ですからそれには自分の霊的位置が向上するという事が必要です。それには、一人でも多くの人を助けて、神様の御用をする事で、それによって自分の曇りが減って、そうすると罪が軽くなるから上に行く。上に行くから、他の枝でも縁のある人でも、自然にそれについて来るわけです。だから凡て思うように良くなるというわけですから、結局において自分にあるのです。それから又、こんなにしても自分は苦しい事や災難がいろいろあるという事は、それはまだ霊に重い点があるからして、神様が軽くして下さるために、軽くするには人を救うか、若し救い方が足りなければ自分が苦しむかで、このどっちかで曇りが取れるのですから、その点さえ分れば、世の中は決して難かしくも何んでもないものです。結局、一切は浄化作用です。それで浄化作用とは一つの掃除ですから、ゴミがあるとどうしても掃除されなければならない事になっているのです。稲の虫害というものも浄化作用です。硫安をかけたり糞をかけたり、肥料を入れたりするから、そういう物を浄化させなければならないので、その浄化させる役目というのが小さい虫です。それで虫が生まれて毒を食うわけです。ズイ虫にしても、ズイを食うという事は、ズイに肥毒があるからして、それを掃除しなければならない。そうするとその毒を食うが、毒が葉や茎に深くくっついているから、ついどうも葉や茎まで食わなければ追いつかないから食うのですが、それが虫害なのです。だから分りきった話です。それで結核だとか、いろんな病気の黴菌というものも、其処に薬毒があるから薬毒を掃除しなければならない。その掃除夫です。私の古い本に書いてありますが、その掃除夫が自然発生して、それが食ってゆくわけです。結局あらゆるものが浄化作用だから、そういった汚れ、穢ないものを溜めないように、入れないようにして、きれいにするというようにすれば、必要がないから虫もわかないし、何も悪い事はないわけです。だから浄化作用というものは一切にあるのです。これを大乗的に言うと、もっと面白い浄化作用があります。仮に、火事で焼けるのは無論そうですが、泥坊に盗られるとか詐欺師に引掛って瞞まされるとか、それから最近の問題の保全経済会とか、いろんな貯蓄で損をする人が沢山ありますが、これはやっぱり浄化作用です。その人の持っている金の中に非常に汚ない金があるのです。そういう金はどうしてもその人が持つ事ができないので逃げてしまうわけです。こっちにそういった汚ない金があるからして、誰かが何かの手段でその人から取るという、一つの浄化作用によってそうなるのです。だからああいったものも、そういった一つの浄化機関になっているわけです。そうすると、そういうものも必要という事になりますが、これは必要不必要という事でなく、凡て汚ないものはきれいにするというように神様がこの世界を造られたのです。だからそれを本当に分るという事は大乗的見方なのです。ところがこれはあんまり私が話をしないというのは、その話をすると泥坊も必要だという事になります。間違えますから、こういう事は腹の中で(さと)ることです。

 

 

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