一月十五日

 農業特集号は、大分報告も集まりましたから、この次に出します。その論文を書いたので読ませます。今までとは大分変った点があります。

 御論文〔日本農法の大革命・無肥料で初年度から一割乃至五割増産〕

〔自然農法の原理〕〔本農法の技術面その他〕【註 栄光二四五号】

日本農法の大革命  無肥科で初年度から一割乃至五割増産

(栄光二四五号)

 『日本は救われた』と私は叫びたいのである。その訳は現在我国における最も重大問題としての、米作多収穫の一大福音が生まれたからである。衆知のごとく、終戦後我国土は四分の三に狭められたばかりか、人口増加の趨勢は産制など尻目にかけて、相変らず一カ年百万以上というのであるから、到底楽観は許されないのである。としたら今日これ程痛切な問題は他にあるまい。というのは国家は年々多額の予算を計上し農地改良は固より、あらん限りの施設方法を立て官民共に大童になっているにかかわらず、予期の成果どころか平年作維持さえ精一パイという有様である。そこへ昨年のごとき台風、冷害、虫害等の災厄続きで、アノような大凶作となったのであるから、我国農業の前途を考える時、全く寒心の外ないのである。

 もっとも昔と違い、今日は外国からの米麦輸入の道もあるが、これとても一時凌ぎであって、そう長くは続けられないのはもちろんである。というのは近年のごとく貿易の逆調はなはだしく、経済界の危機さえ叫ばれている今日、緊急対策を立てねばならないところに来ているからである。そのため政府においても相当思い切ったデフレ政策に転向すべく、その対策を練ってはいるようだが、これも無理からぬ事であろう。というように事態は容易ならぬ段階に来ている。しかしこの問題解決の鍵は、何といっても米の増産である。率直にいって全人口を養い得るだけの絶対量確保にあるのは言うまでもないが、今のところそんな夢のような希望の実現は到底不可能であろう。ところが驚いてはいけない。この危機を打開すべき画期的農法が生まれたのであって、これが自然農法である。これによれば必要量の増産どころか、それ以上の収穫も可能であるとしたら、余りに棚牡丹(たなぼた)式で反って信じられないであろうが、事実は飽くまで事実であって現在全国各地において驚くべき実績を挙げつつあるのである。昨年のごときは到る所減産の悲鳴の中に、ひとり自然農法者のみは一人の減産もなく、ことごとく増産の歓喜に輝いているので、これを見る今まで迷っていた近隣の農民達もたまらなくなり、慌てて各地共入会者続出という有様である。従って私の予想である数年ならずして日本全国の大半はこの農法に切替えられる事となるのは、最早間違いないと思う。これについては三年前から、毎春前年度の実績を資料として特集号を出して来たが、漸次実行者が増えるに従い、その報告も増え、従来の八頁ではどうにもならないので、今回活字改良と共に四頁を増し十二頁にしたのである。しかも幸か不幸か昨年のごとき全国的大凶作に対し、本農法は反対に一斉大増産としたら、全く神が与えた好チャンスとして、この際大々的会員獲得運動に活躍する事となったのである。そのため百万部増刷の準備も出来たので、会員諸氏もその方針を以って奮闘されん事である。

   自然農法の原理

 この原理を説くに当って徹底的に分らせるためには、どうしても既成科学の頭脳では無理であるから、私が神示によって知り得た唯心科学を以って説くつもりである。従って最初は相当難解であるかも知れないが、熟読玩味するに従い、必ず理解されるはずである。もしそうでないとしたら、それは科学迷信に囚われているからで、これに気付けばいいのである。そうして私の説くところ絶対真理であるのは何よりも事実が示している。故に、これに従えば、初年度から一割ないし五割増産は確実である。それに反し現在の農法は知らるるごとく伝統的方法と科学的方法とを(あわ)せ行い、大いに進歩したように思っているが、結果はそれを裏切って余りある。昨年の大減収によっても分るごとく、その直接原因である種々の災厄に対し、それに打克(うちか)つだけの力が稲になかったからで、つまり稲の弱体である。ではこの原因は何によるかというと、これこそ肥料という毒素のためであると言ったら、唖然として開いた口が(すぼま)らぬであろう。何しろ今日までの農業者は、肥料を以って農耕上不可欠のものと信じ切っていたからでこの考え方こそ農民の低い知識と科学の盲点とのため、肥料の害毒を発見出来なかったのである。これについて重要な事はなるほど科学は他の物に対しては結構に違いないが、少くとも農業に関する限り、無力どころか大いに誤っている。例えば土の本質も肥料の性能も今以て不明であるため、人為的方法を可とし、自然の力を無視している点にあるからである。見よ長年に渉り政府、篤農家、学者が三位一体となって努力しているにもかかわらず、何らの進歩改善も見られない事実にみても分るとおり、昨年のごとき大凶作に遭えば手も足も出ず科学は自然に一溜りもなく敗北したのである。としたら今後打つ手は何もあるまい。全く日本農業は壁に突当ってどうにもならないのである。ところが喜ぶべし、神はこの壁を突破る方法を教え給うた。これが自然農法であって、これ以外日本を救う道のない事は断言するのである。では一体この農法はいかなるものであるかを、以下詳しく説いてみよう。

 そもそもこの問題の根本は土に対する認識不足からである。というのは今日までの農法は肝腎な土を軽視し、補助的である肥料を重視したところに原因がある。考えてもみるがいい、いかなる植物でも土を離れて何の意味かある。これについての好い例は、終戦後(べい)の駐屯兵が水栽培を行い注目を引いた事はまだ記憶に新たであろうが、これも最初は相当の成績を上げたようだが、最近聞くところによれば漸次退化し、ついにやめてしまったという話である。これと同じように今日までの農業者は土を蔑視し、肥料を以って作物の食料とさえ思った程であるから、驚くべき錯誤であった。その結果土壌は酸性化し、土本来の活力の衰えた事は、昨年の大凶作がよく物語っている。それに気付かない農民は、長い間多額の肥料代や労力を空費し、凶作の原因を作っていたのであるから、その愚及ぶべからずである。

 ではこれから土の本質に向って神霊科学のメスを入れてみるが、その前に知っておかねばならない事は土本来の意義である。そもそも太初造物主が人間を造るや、人間を養うに足るだけの食物を生産すべく造られたものが土であるから、それに種子を播けば芽を出し、茎、葉、花、実というように漸次発育して、芽出度く稔りの秋を迎える事になるのである。してみればこの米を生産する土こそ実に素晴しい技術者であり、大いに優遇すべきが本当ではなかろうか。もちろんこれが自然力であるから、この研究こそ科学の課題でなくてはならないはずである。ところが科学は飛んでもない見当違いをした。それが自然力よりも人為力に頼りすぎた誤りである。

 ではこの自然力とは何であるかというと、これこそ日、月、土、すなわち火素、水素、土素の融合によって発生したXすなわち自然力である。そうしてこの地球の中心は、人も知るごとく火の塊りであって、これが地熱の発生原である。この地熱の精が地殻を透して成層圏までの空間を充填しており、この精にも霊と体の二面があって体の方は科学でいう窒素であり、霊の方は未発見である。それと共に、太陽から放射される精が火素で、これにも霊と体があり、体は光と熱であり、霊は未発見である。また月から放射される精は水素で、体はあらゆる水であり、霊は未発見である。というようにこの三者の未発見である霊が抱合一体となって生まれたものがXである。これによって一切万有は生成化育されるのであって、このXこそ無にして有であり、万物の生命力の根原でもある。従って農作物の生育といえどもこの力によるのであるから、この力こそ無限の肥料である。故にこれを認めて土を愛し、土を尊重してこそ、その性能は驚く程強化されるので、これが真の農法であって、これ以外に農法はあり得ないのである。故にこの方法を実行する事によって、問題は根本的に解決されるのである。

 ここで今一つの重要事がある。それは今日までの人間は理性、感情等の意志想念は動物のみに限られると思っていた事である。ところが意外にもこれが無機物にもある事を聞いたら唖然とするであろう。もちろん土も作物も同様であるから、土を尊び土を愛する事によって、土自体の性能は充分発揮される。それには何よりも土を汚さず、より清浄にする事であって、これによって土は喜びの感情が湧き活発となるのは言うまでもない。ただ意志想念が動物と異う点は、動物は自由動的であるに反し、土や植物は非自由静的である。故に稲に対しても同様感謝の念を以って多収穫を念願すれば、心は通じ御蔭は必ずあるものである。この理を知らないがため、見えざる掴めざるものは、すべて無と片付けているところに、科学の一大欠陥があったのである。

   本農法の技術面その他

 本農法の原理は大体分ったであろうがこれを実行するに当って知っておくべき主なる点を書いてみるが、別項多数の報告〔略〕にもある通り、最初は例外なく苗が細く色は黄色く、実に貧弱なので悲観すると共に、近隣の人々や家族達から軽侮、嘲笑を浴びせられ、忠告までされるので、迷いが生じ易いのも無理はないが、何しろ信仰の土台がある以上、歯を食いしばって堪え忍んでいると、その時を過ぎるや漸次持直し、ヤレヤレと安堵する。しかも収穫となるや案外にも幾分かの増収にさえなるので、ここに驚きと共に喜びに蘇生する、という事実は一人の例外もない。

 これを説明してみればこうである。初めの貧弱であるのは、もちろん肥毒のためであって、ちょうど麻薬中毒者や酒呑と同様、廃めた直後は一時元気が失く、ボンヤリするようなものであって、それを通り越せば漸次普段通りになり、それから年一年良好に向い、数年経た頃は、苗は最初から青々している。これは肥料の無くなった証拠であるから、こうなったらしめたもので、反十俵以上は間違いはない。これを見てもいかに肥毒の恐ろしいかが分るであろう。そうして特に重要な事は連作である。それは米なら米と、一種類を続ければ続ける程、土はそれに適応する性能が生まれ、漸次旺盛となるのである。これをみても土の性能こそ実に神秘霊妙なものであって、これがXである。

 故に出来るだけ土を清浄にし、連作主義にすれば年々収穫を増し、反二十俵以上もあえて夢ではないのである。それだのに何ぞや。全然逆に土を汚すことのみに専念し、多額の犠牲を払うのであるから、何と評していいか言葉はない。これについて昨年の凶作で分った事は、肥料を多く施した田程悪い事が分り、幾分目覚めたようだが、このくらいな事ではまだまだ前途遼遠であろう。

 次に技術面であるが、知らるるごとく現在の水田は、長年の肥料のため表面は肥毒の壁のようになっているから、これを突破って天地返しをする事であるが、これも深すぎても浅すぎてもいけない。その土地にもよるがまず一尺前後くらいがよかろう。その際客土を使えばなおさらいい。それだけ浄土が増え、肥毒が中和されるからである。また株間も一尺前後がよく、二、三本植がいいようである。しかし技術面はその土地の気候や状態にもよるから、適当に按配(あんばい)する事である。次に藁を使う事は廃めた方がいい。何よりも土以外の異物は決して入れないようにすべきである。ではなぜ藁を使ったかというと、これには訳がある。日本が占領当時、占領軍の規則の中に、農作物は肥料を施すべしとの条項があったそうで、それを利用し当時無肥料栽培の名称であったのを種に、金銭を強請ろうとした奴がいて、あわよくば本教を潰して信者を獲得しようとする企みも背後にあったようで、危険であるから、私は自然農法と改め、肥料として藁を使わせたのである。

 次に二、三注意したい事は、今だに報告書の中に浄霊とか御守護などの言葉があるが、宗教臭くてはいけないとして、昨年の特集号にも出した程であるから、今後は充分注意して貰いたい。というのは入信しなければ増収が出来ないとしたらそれだけ普及に影響するからである。また事実からいって信仰なしでも無肥料にさえすれば五割や十割の増産は確実であり要は今日の日本を一日も早く救わねばならないからである。

 今一つ言いたい事は、本農法は独り米の増産のみではない。こういう素晴しいプラスがある。それは現在硫安製造に使う電力の使用量は、日本全体の半分弱という事で、もしそれを廃めるとしたら、現在の電力で充分間に合い、なお余るとの話をこの間専門家から聞き、私は驚いたのである。とすれば本農法を全農民が実施する暁、米の輸入はなくなり、肥料も要らず、農民の労力は半減し、電力は余るとしたら、その全国家経済に及ぼす利益たるや、到底計算は出来ない程であろうから、これだけでも日本は一躍世界一の平和裕福な国家となるのは太鼓判を捺しても間違いはない。最後に今一つ驚くべき事がある。それは言うまでもなく肥毒の害は独り作物のみではない、人体も同様である。近年寄生虫が激増し、特に農村程多い話を聞くがこれは都会人はパン食が多く、農民は米食が多い関係によるのであろうが、これについての好適例がある。その報告と写真を下に掲げるが、これを見たら何人も慄然とするであろう。故にこの面からいっても、有肥栽培の害毒がよく分るのである。

 終りにある事は、この間のお蔭話で読みましたが、有肥の米と無肥の米とを、一粒を一寸ぐらいに大きく写真にとったのです。そうすると、有肥の方は腐蝕(ふしょく)したようにガラガラになっているのでが、よく写ってます。無肥の方はチャンと米になっているのです。これを見れば直ぐ分ります。それを五、六粒写してありますが、有肥の方は全部欠けて、中には半分ぐらいのがあります。米でさえそうなのですから、その米を年中食って居れば、虫がわくのは当り前です。無肥になれば、いろんな寄生虫という病気も無くなるわけです。

 それで今読んだとおり、今まで知らなかった事は、そういった米ばかりでなくて、あらゆる物はやはり動物と同じ理性と感情と、それから芸術的の思想もあるのです。ただ動物以外の物には自由がないのです。草木がこうしようああしようとしも、或る程度はありますが、動物ほど自由がないのです。それが一番分る事は、私は花が好きで、始終花を()けますが、ちょっと気に入らない点がありましても、忙がしくてそのままにしておくと、明くる日になるとその恰好(かっこう)が悪かった所が直っているのです。それは実に微妙なものです。昨日も水仙を二本活けたのですが、二本の調和が悪いのですが、用があって忘れていたのですが、今朝見ると良い工合に形が直っているのです。それから私はよく、木をその周囲の状況から、植木屋に逆に植えさせる事があります。これは前に書いた事がありますが、裏返しとか横にするのです。そうでないと工合が悪いのです。そうすると、だんだん年限がたつに従って、前面が出来て来るのです。そういうような工合で、人間が見ると、目に見える方は恰好(かっこう)が良くなるのです。私は始終生きていると言いますが、全く生きているのです。だからそういうような物を愛し、優遇し、喜ぶのです。そうすると、そういった物も非常に嬉しくなって、〝よし、ウンと見場(みば)を良くしてやろう〟という感情が起こるのです。それは実に確かなのです。だからしてそれを作る土もやっぱり同じです。土に対しても、大いに尊重し、土を愛せば、土も喜びますから、土が大いに働くわけです。人間でも、始終酷い目に遭ったり、虐待(ぎゃくたい)されたり、ロクな扱いをされなかったら、不平でロクな仕事はしない事になります。それと同じように、そこに微妙な点が大いにあるのです。それを頭から糞をかけたり、硫安という劇薬をかけたりすると、土も感情的にも腹が立ちます。だから〝勝手にしやがれ〟というので、ロクでもない結果になるわけです。この点から言っても、肥料をかける事が如何に悪いかという事が分ります。今はストライキが流行ります。今は人間のストライキですが、他の方のストライキも大いにあるわけです。これは何んでもそうです。又肥料のことは植物としてですが、こういった有機物にもやはりあるのです。これは、霊のある物は全部それがあるのです。だからして骨董品なども昔から尊んで大切にした物は、やはりそれがその品物に含まれているのです。それで古い、時代のついた物は非常に良いのです。同じような物でも、古い物ほど良いです。それは実に不思議です。それで、古いのは何処が良いかと言うと、何んとなく良いのです。百年前、二百年前、五百年前、千年前というのは、始終見つけていると分るのです。というのは、これを人間が尊ぶと、人間の感情が始終其処に行きますから、その品物が人間から受ける感情が、その霊に、つまり霊がだんだん育ってゆくようなものです。それが何んとなく見る人間の感覚に影響するのです。それは実に微妙なものです。昔からよく、何んにでも神様と言います。井戸にも〝井戸神様〟と言い、それから便所にも神様があると、昔の人は言ってますが、それは本当なのです。今そういう事を言うと、馬鹿な、旧式な考えだとけなしますが、そのけなす人の方が余程ぼんくらです。こういう点も分ると、凡てにおいてうまくゆくのです。だから、生きたものでないそういった無機物に対しても、それを人間がそういった扱いをすると余程違います。私は、部屋なら部屋にいろんな飾りつけをしますが、その器物にも位の高い物と低い物があります。位の高い物は部屋の良い所におき、位の低い物ほど裾におくようにしてます。そうするとその部屋に入ると何んとなく気持が良いのです。私がそういうようにした部屋に、信者でない人が来ても、何んとなく気持が良いというのです。というのは、霊界において霊の順序が良いから気持が良いのです。こういう事を知るという事は非常に肝腎です。これを他の事にとってみると、よく大勢の部屋で争いが起こったり、中には殴り合いが起こったりしますが、そういう時には、坐る所が順序が違うのです。ですから霊界が混乱状態です。人間にもそのとおりに写ってしまうのです。だからその部屋に入って順序がちょっとでも違うと、何んとなく気持が悪いです。上の人が下座に坐って、下の人が上に坐ったりすると、其処の霊界が乱れてますから、何んとなく気持が悪いのです。それで何んとなく腹が立ったり、喧嘩が起こりやすいのです。実にそういう点は、割合大きなものです。こういう話をすると切りがありません。

 今年の自然栽培の報告は、総体において去年よりかずっと良いです。という事は、霊界がだんだん変って来たためです。霊界に火素が増えたためです。これは他の事でも分りますが、この頃は何処でも暖かいです。熱海も、昨日梅園に行って見ると梅が満開です。何時もは今年の末にならなければ、満開にならないのですが、今年は、今月の末になったら散ってしまうでしょう。これは火素が増えたためですが、そうすると、気候が暖かくなるから、作物も非常に収穫が良くなるのです。ところがそれを肥毒で邪魔するからして、かえって逆になるわけです。逆になるという事は、霊界が、つまり曇りが無くなると、良い事と悪い事が影響が早く現われるのです。つまり其処が良くなれば、間違っている人間は酷い目に遭って、良い人間は非常に結構になるという、善悪の差別がはっきりして来るのです。そういうわけで、肥毒をやるのと、きれいなのとの結果が早く現われるわけです。そういう点で、特に今年は無肥が良くて有肥の方が悪いという事になるわけです。それが年々著しくなるからして、どうしても分らないわけにはゆかなくなるのです。その次には病気ですが、病気はまだそこまで来ていませんが、いずれそういう事になります。これは始終言ってますから、言う必要もありませんが、医学の結果が逆になりますから、そうなってからいよいよ分るという事になるわけです。ですから農業の方が先に分るわけです。そうして医学の方はその次という順序になったわけです。

 宗教の事について、誰も知らない事を書いてみました。宗教の人も知らない事です。ちょっと興味がある事です。

 御論文〔婆羅門とマホメット〕     【註 地上天国五六号】

バラモンとマホメット

(地上天国五六号)

 世界にある種々な信仰の中で、最も異色あるものとしては、彼の東の婆羅門教と西のマホメット教であろう。両教共極端な小乗信仰であって、婆羅門教の方は生誕地である印度に於ても、今日は微々たる存在となり、僅かに婆羅門行者が若干残っているにすぎない有様であるとの事である。では婆羅門教とは一体どういう信仰であるかというと、知る人は知る如く、最も厳格なる戒律によって自由を束縛し、難行苦行を掟とするものであって、その本尊は彼の達磨大師という事になっている。アノ有名な面壁九年の苦行の結果、或満月の夜突如として悟りが開けたというので、一名月光菩薩ともいわれている。そのような長い間の坐禅の為、足が腐って立つ事が出来ず、今日達磨に足がないと言われるのもこれから出たものであろう。この様な苦行によって生まれたものが婆羅門教であるから、多くの弟子達も悟道の為難行苦行一点張の修業であった。それが今日絵画彫刻等にある羅漢であって、この修業は今日でいえば大学の課程のようなもので、これによって悟りを得た者は一種の霊力を得、盛んに奇蹟を現わすので、当時大衆からも大いに尊敬を受けたのである。

 然もその苦行の極端である事は、例えば板の裏から何本もの釘を打抜き、その上に胡坐(あぐら)をかくので、釘の尖がブスブス臀部に突き刺さり、その痛さに耐えられないのを我慢し、何年も坐禅を続けるのであるから、今日から見れば(はだえ)に粟を生ずるのである。その姿も、絵にある如く、何等かの物質を片手で差上げて何年もその儘であったり、当時の高僧鳥巣禅師の如きは、その名の如く大木の上にある鳥の巣に坐禅を組んでの修業も有名な話である。その他断食、無言、瞑目等の行は勿論、彼の五百羅漢の異様な姿を見ても分る通りで、これを見た釈尊は余りの荒行に、これを救うべく経文を作り、これを読む事によって同じ悟りを得られるという教えであるから、これを知った当時の求道者も民衆も翕然(きゅうぜん)としてその徳を慕い、釈尊の膝下(しっか)に集ったのは勿論で、ここに仏法の端緒が開けたという事である。これが為さしもの婆羅門教も遂に衰退の止むなきに至ったのである。

 処が釈尊入滅後数百年を経た頃、婆羅門教の一派として現われたのが、彼の有名な維摩居士である。居士は相当学問力量があり、当時は未だ盛んであった仏教を覆えすべく活動したが、力足らず挫折はしたが、彼の衣鉢(いはつ)を継いだ者が地を支那に求め、釈迦の教えを表面に婆羅門精神を土台として作られたものが彼の禅である。これが三派に分れて臨済、曹洞、黄檗(おうばく)の名によって道を弘め、一時は相当成果を収めたのである。今もその本山として有名な五台山上に道教の本寺があり、禅のメッカ的存在となっている。そんな訳で、その修業としては婆羅門的厳しい戒律と難行苦行が基本となっていて、修道者の中でも随分霊覚を得て、奇蹟を行う者も相当あるとの話である。そうしてこれが日本に伝わり、一宗を成したものが禅宗と日蓮宗である。従って前者は戒律を本意とし、後者は難行苦行を修業道としているのである。彼の日蓮が“吾は法華経の行者なり”と言ったのも、それを物語っている。何故なれば日蓮以外他宗の高僧で行者と名乗った者は一人もない。尤も行者とは婆羅門修行者の名称である。つまり法華も禅も仏教にはなっているが、真髄は婆羅門であるから、両宗共自力本位であるにみても分る。

 処がこれと異うのは他力本位の浄土真宗であって、これこそ釈尊直伝といってもいい。その他真言、天台、法相の如きは先ず中間派といってよかろう。右の外不動信仰や日本古神道の自力信仰もあり、その中にも断食、瀧浴び、水行、菜食等の如きもそうだが、特に禊教、御獄教等はその代表的のものであろう。

 以上は東洋面であるが、次の大宗教としてのマホメット教である。これは位置からいうと西洋に近いが、東西の中間に当り、彼のアラビヤのメッカが本山となっており、支那では回々(フイフイ)教、印度ではイスラム教と呼ばれているが、ヤハリ東洋的色彩の濃い宗教である。この信仰は人も知る如く難行苦行というよりも、極端な戒律を守るのが骨子となっており、その厳しさは他教の真似も出来ない程である。近頃は大分一般に知れ渡ったようだから略すが、この宗教は東洋民族の大半を根強く把握しているのは異彩である。処でキリスト教であるが、この信仰も自力が多分にあり、戒律も相当厳しい。彼の牧師の行動や生活にみても、一般とは大いに異っている。特に彼の修道院の如きはそれがよく現われている。この様な訳で今日基督者の大きな悩みは、現代生活との余りに掛離れているジレンマの為、精神的苦悩は並大抵ではないようである。

 この点になると我救世教は全然異っており、一口にいうと他の宗教の難行苦行を主とする地獄的信仰に反し、本教は難行苦行を否とし天国的生活が建前となっているので、これを分り易くいうと、今までの宗教は悉く夜の宗教であったからで、暗黒で物を見ようとするのであるから、その苦悩たるや不可能に近いものである。処が本教は昼間の宗教である以上、何物も一目瞭然一切が容易に把握されるので、言わば天と地との異いさである。これこそ長い間の夜の世界が終りを告げて、愈々昼の世界転換に一歩を踏み入ったからである。即ち霊界に於ては太陽が昇り始めたので、漸次昼となり、ここに地上天国の開幕となるのであって、昔から伝えられている東方の光の出現である。これが言葉だけではない。現に素晴しい奇蹟を到る所数限りなく現わしているにみて明らかである。

 

 

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