最近ハワイ教会の落成式について、あっちの新聞に出ていたのですが、よく書いてあります。「ハワイ報知」というのです。それを読ませます。
(ハワイ報知二月十五日付掲載「世界メシヤ教布哇教会落成式」)【註 栄光二五二号】
世界メシヤ教布哇教会落成式
(ハワイ報知二月十五日付)
写真も載ってますから見たい人は後で見て下さい。
それに最近更に隣の地所も少し手に入れたようですが、着々というよりか驚異的に発展しつつあるのです。
それから二、三日前に来た手紙に、ロスアンジェルスでも大分お蔭が著しいので、ジリジリ発展しつつあります。特にそのお蔭が、日本よりか多いのです。例えてみれば病気が非常に治りがよいのと、治り方が早いのです。そして再発が殆んどないのです。だから発展し出したら、到底日本どころではないと思うのです。非常に急速に大きくなるだろうと思います。それはどういう訳かというと、原因があるのです。日本の病気は非常に――しかし医者から見れば浄霊の方がばかに早いですが、――長引くとか、再浄化が起こるとか、三度も四度も起こる人があります。それはどういう訳かというと、漢方薬のためです。漢方薬の量が多いために、それを排除するのに非常に手間がかかるのです。ところがハワイやアメリカの方は漢方薬がないので、全部西洋の薬ですから、薬毒の量が非常に少ないのです。それで取れやすいのです。それは、何十年とかいうのが三回か五回の浄霊で大抵治ってしまうのです。そして治ったきりで、あと丈夫でドンドン働けるのです。それは薬毒の量の原因です。だから、よく結核には再浄化が多いのですが、これは薬の量が多いためです。結核は最初は普通の病気と逆ですが、最近は西洋の薬で散々やったがどうしても治らない、そこで大抵漢方薬をやるのです。これは西洋と漢方の両方の薬ですから、非常に量が多いのです。それで、結核の再浄化というのがあるのです。そういうわけで、確か一度書いたと思いますが、近年〝日本人の寿命が延びた〟という事を言われてますが、これもそのためなのです。近年になってだんだん漢方薬を飲まなくなって、西洋の薬になったからして、そこで量が少ないから寿命が延びるというわけです。ですから病気で死ぬという事はないので、衰弱で死ぬのです。病気のための衰弱ですから、病気のためとも言えますが、直接は衰弱で死ぬのです。衰弱で死ぬという事は、長引くから衰弱するのですから、長引くという事は薬の量が多いからです。そこで漢方薬というのは、ある点においては西洋の薬よりか恐ろしいです。チビチビという奴は毒は少なくても、やっぱり非常に大きな量になるからして、浄化で排泄する場合にも暇がかかるから衰弱を増すのです。それから西洋の方は勝負が早いから、治るとなるのも早いわけです。それから致命的になる事が少ないです。そのために寿命が延びたというわけです。それから結核の死亡率が減ったという事も薬の関係ですが、ところが昨日の新聞にも出てましたが、癌とか脳出血というのが非常に多くなった、それで結核が去年まで三位だったのが、今度は六位になったというような事が書いてありました。これらも、その薬の関係です。即ち今の抗生物質というのは副作用が割合少なく起こるというのです。その代り結核の増加率は少しも減らないで、ますます増えるのです。ただ死ぬのを延ばすだけのもので、病気が治るのではないのです。病気が治るという事と、死ぬのが延びるというのとは、似て非なりで、違うのです。病気が治るという事は、ピンピンしてしまうという事ですが、ピンピンしないで、ただグズグズ生きているというわけです。そこでハワイやアメリカの方が治りがよいわけです。そういう事は思いもつかない意外な事なので、そういう事を知っていると、これからアメリカの方のお蔭話を見てもすぐ分ります。
今世間の問題は汚職問題ですが、これがだんだん拡がって、今朝のラジオでも、大分又拡がって、他の汽船会社の方にも火がついてゆき、それから大野伴睦なども引張られそうな事を書いてありましたが、何処までゆくか分らないほどです。大分浄化が強くなったためでもあるのです。それで、こういう問題も凡て浄化作用なのです。病気は肉体的、こういうのは社会的・国家的です。この間汚職問題について書きましたが、これを別の面から見たのを書いてみました。
御論文〔疑獄も浄化作用なり〕 【註 栄光二五二号】
疑獄も浄化作用なり
(栄光二五二号)
標題の如く、今度の汚職問題にしても、病気と同様一種の浄化作用である。信者は知る通り病気の原因は、溜りに溜った薬毒が或る程度に達するや、ここに浄化作用が起り、その汚物排泄の苦痛であるから、病気を除くには原因である薬毒を排除し、それと共に新しく入れないようにする事であって、これが汚職問題と同様の理である。故に被告に溜っている汚物排除の苦痛が裁判沙汰である。只違う処は、病は体的苦痛であり、事件は精神的苦痛である。これに就いては大体書いたから、今度は別の角度から批判してみようと思うのである。それはこの事件に限らず、凡ゆる疑獄問題でもそうだが、これを根絶するとしたら、敢えて難かしい事はない、洵に簡単である。今日只今からでもその気になれば、効果百パーセントは勿論である。処が孔子の言われた如く〝言うは易く行いは難し〟で、実際上中々容易ではないのである。
要するに、この世に神が有るか無しかが問題の鍵である。そこでよく考えてみて貰いたい事は、若しもこの世に神が無いとしたら、ズルイ事をするだけ得になるから、仮令国家に損害を与えても人々を苦しめても、法にさえ引掛らなければいいとして、出来るだけやる事になる。つまり、自分さえよければ他人はどうなってもいいとする利己的観念で、金を儲け、出世をする。今日、こういう人間が到る所にノサバっており、これが利口者とされているのであるから、厄介な世の中である。従ってその反対である正義や道徳など、黴臭い事を言う真面目な人間は、仮令、儲け話や出世の道を聞かされても、ビクビクもので手を出さないから、馬鹿か意気地なしに見られ、折角の運も逃してしまい、年中下積になって碌な生活も出来ないのである。
というように、今の世の中で偉いとか成功者とか言われる程の人間は、三角流で腕もあるから、忽ち伸して一角の地位を得られる。又それを見た野心家は俺でも出来ない事はないと思い、そのイミテーションも続々出来る有様である。従って今度の事件にしても、手繰れば手繰る程いくらでも出てくるので、そういう人間が如何に多いかが分るのである。そこで考えてみて貰いたい事は、どんなに巧妙にやっても虚偽は虚偽であるから、いつかは暴露しない筈はない。というのは先にも書いた如く、人間の眼は塞げても神の眼を塞ぐ事は出来ないからである。処がそこに気が附かないのが無神亡者である。それを今想像してみると、こうであろう。俺は随分巧くやったつもりだが、今度という今度は失敗した。今まで随分危い処を切抜けて来たので、大いに自信は持っていたが、到頭駄目だった。実に残念だが仕方がない。そこで、この事件だけは何とか罪の軽くなるよう骨折ると共に、巧くいって有耶無耶にでもなれば勿怪の幸いと思っているであろうが、そうは問屋で卸さない。何故なれば、神様の御眼は厳然と光っているからである。
処で、反対派の側にしてもポチポチであろう。愈々時が来たとばかり、何とかして内閣瓦解にまで漕ぎつけなければならないと、あの手この手の策略を考えているので、ここ当分は双方智慧比べといった処であろう。ここでぜひ言いたい事は、最早そういう嘘は止めて、国家人民本位に、心の底から悔改める事である。何となれば、神は正義に組するものであるからである。処がこれを読んで、成程と感心はするであろうが、直に切替えられる人は果して何人あるであろうか、怪しいものであろう。併しこれは御説教ではない、事実が示している。それは、彼等が随分一生懸命にやったつもりでも、今回のように水の泡となり、骨折損の草臥儲けとなってしまった事である。然も、揚句の果に社会的信用は落ち、仕事はやり難くなるばかりか、暫くの間泣かず飛ばずで、手を拱いて時を待つより仕方ないであろう。勿論起訴は免れまいし、何れはヤレ公判、ヤレ証拠集め、ヤレ弁論等々、弁護料や雑費だけで相当な支出となり、オマケに無収入と来ては、その苦しみはお察しする。然もこの種の事件は案外長引くもので、恐らく数年はかかるとみねばなるまい。その間毎日憂鬱な日が続くのであるから、全くやりきれない事は、私の経験によってもよく分る。それもこれも無神主義の為の神罰であるから、往生するより仕方がない。こうなった以上、大低な人は目が覚めるであろう。それは因果律の法則にある事である。それは、何事でも最初から有神観念を以て進んだとしたら、凡ては順調にゆき、苦しみはなく、楽しみつつ成功出来るから、天下は泰平、世間の信用は厚く、地位も向上するというわけで、信仰抜きに算盤から言っても、そのプラスたるや予想外であるのは断言する。
これに就いても思い出されるのは、私が若い頃の政治家である。その頃正義の士も幾人かはいたが、そういう人達は自己の利益など顧みず、国家本意によって断乎として正義を貫いたもので、自然社会の尊敬も大きかったのである。当時毎日新聞社長島田三郎氏、足尾の鉱毒問題で有名な田中正造氏、万年議員の尾崎行雄氏などもその組であった。併しこの種の人は数は少ないが、議会内の空気を清浄にした功績は、今でも忘れられないのである。処が知らるる如く、今日の政界と来たら、そういう人は殆んどないと言っていい。大部分の人は利口者で、融通が利き、綱渡りや官界遊泳術の達人等が多く、政界の寂しさは誰も同じであろう。というように、今日最も不足しているものは、千万人と雖も吾往かむの硬骨漢である。然も、そういう人物こそ神から愛せられるから守護も厚く、失敗などあろう筈がない。
これに就いては、今迄の宗教にも罪がある。というのは、正直や正義は自分だけ守ればいいとしている一種の自己愛である。その結果国家社会に於ける不正不義なども、見て見ない振りをしているかのようで、何事に対しても無抵抗主義的である。この点私は大いに間違っていると思うのは、そういう消極的考え方であればこそ、社会悪はいつになっても減らないので、これでは宗教の理想たる地上天国は、いつになっても出来る筈はあるまい。この意味に於て私は、昔から悪に屈せず、随分悪と戦って来たものである。併し、一時は負ける事はあっても、最後には必ず勝つ。これは名前は発表出来ないが、社会的知名人や、財力、権力のある人達とも戦って来たが、一度も負けた事はない。いつも正義を立通して来たのである。勿論神は善であり正義である以上、神が味方するからである。従って私の過去は悪との戦いの歴史であり、勝利者でもある。処が一般人特に宗教家は、えてして悪に抗する事を好まない傾向がある。その為悪を許容するわけになるから、言わば善意の罪悪である。これでは世の中は良くなる筈がなく、悪人は益々増長し、善人は虐げられ、頭が上らない事になろう。それは兎に角、最後は至公至平な神の裁きによって、悪は厳しい愛の鞭が加えられるのは勿論であるから、一日も早く改心されん事を望むのである。
何時も病気について医学の間違いを書いてますが、今までよりごく強めて、かなり際どいところまで書きました。これで急所は言い尽くしたつもりです。
御論文〔私は告白する〕
私は告白する
(昭和二十九年二月十五日)
私は之迄医学に対しては、随分思い切ってその欠陥を挙げたつもりだが、何しろ滔々たる今日の医学迷信を目覚めさせるには、今迄のようなかき方では、まだまだ生温い感がするので、玆に一層赤裸々に実体を暴露してみようと思うのである。何しろ神示の鏡に照らし実際を見る時、医学の迷蒙が如何に多くの人間を犠牲にしつつあるかは、到底想像もつかない程であって、到底我慢は出来ないのみか、人類の将来を思う時、慄然として肌に粟を生ずるのである。故に之を第三者が読む時、その余りの意想外な説に唖然として分りかけが出来ないであろうが、之が永遠不滅の真理である以上、心を潜めて熟読すれば、分らない筈はないと思うのである。
そこで先づ結論からかいてみるが、即ち医学は根本から間違っている事と、薬は全部毒である事との此二点であって、その証拠として若し医薬で病気が治るものなら、人間は祖先以来今日迄用いた薬の量はどの位に上るか分らない程であるから、疾の昔に病人はなくなっている筈である。又個人にしても罹病するや、早速医師に診て貰うのが常識となっており、手後れなどは滅多にあらう筈はなく、而も昔からの有名な薬や、近頃のやうに次々出て来る新薬にしても、効能顕著なりと医師も推奨してゐる位だから、病気はドシドシ治り、病人は減るばかりで、医師も売薬業者も失業者となり、病院もガラ空きとなって、閉鎖の止むなきに至る筈である。
処が事実はその反対であるとしたら、斯んな理屈に合はない話はないではないか。斯んな分り切った事でさへ気がつかず、相変らず盲蛇的に進んでいるのであるから、何と評していいか言葉はない。之も全く医学迷信の虜となっているからである。それ処か当事者は反対に医学の進歩を誇称し、偶々子供騙し的手術の成功や、一寸した療法の新発見でもあると、鬼の首でもとったように有頂天となり、大袈裟に発表すると共に、新聞やラヂオなども特ダネ的に扱うのだから、何も知らない大衆は丸呑みにして了い、益々深みに嵌り込むのである。処が事実は皮肉にも病人は益々増えるばかりで、人々は病気の不安に脅えつつあるのが現在である。
では此様な医学の根本的盲点は何処にあるかというと、之こそ問題の核心であって、即ち医療を受けるや一時苦痛が治まるので、之で治ると思うのであるが、此考え方は大変な間違いであって、実は治ったようにみえてもそれは一時的で、日の経つに従いその殆んどは持病か慢性か再発かの何れかになり、根治する者は先づないといってよかろう。然し偶には本当に治る者もあるにはあるが、それは医薬の為ではなく、人間本来の自然良能によるのである。
それを知らない医師は、医療で治ったものと錯覚するのであるが、実は医療の妨害に対し自然良能の方が勝ったまでであるから、最初から医療を受けずに放っておけば、自然良能は完全に発揮され、一層順調に而も速かに治るのである。そればかりか自然治癒であれば、薬毒も入れず反って減る以上、それだけ健康は増す訳である。といっても勿論根治とはならない。
何故なれば今日の人間悉くは、先天性及び後天性薬毒(生まれてから入れた薬)を驚く程多量に保有しているからで、全部除去するには普通人でも恐らく数十年はかかるであろう。然し自然治癒なら発病の都度軽く済むようになるから、寧ろ喜ぶべきである。そうして之で気の付いた事は、それ程多量な薬毒があり乍ら、尚生きているという人体は、如何に強靭に造られているかであって、此点造物主に大いに感謝していいと思うのである。
以上によってみても、世の中に薬が無くなれば同時に病もなくなり、百歳以上生きらるる事は断言するのである。而も死の直前までピンピン働けるから不安はなく、安心立命者となるのは当然である。故に今日の如く百歳以下で死ぬのは、悉く薬毒の為であるから、薬程恐ろしいものはなく、寧ろ戦争以上といっても過言ではあるまい。従って此事を知っただけでも、一歩幸福の門に入ったのであって、之こそ人類救済の第一歩であらねばならないのである。それがどうだ、此様な医学を礼讃し信頼し、不幸を作っているのであるから、その無智迷蒙驚くの外あるまい。
以上私は思うが儘をかいたので、随分極端な暴論と思うかも知れないが、之が真理である以上、やがて目覚むる時の来るのは必然であって、その時の歓喜たるや筆舌には現わせないと思う。世間よく惚れりゃ菊石も笑窪に見えるというのと同様、医学に惚れ込んで盲目になっている現代人としては、絶世の美人ともいうべき私の説が目に入らないのは無理もないのである。
然し浄霊によって不治といわれた難病が治り、目醒めた人々が医学迷信当時を省みて、残念がる心境はよく分るのである。従って当事者は之に目覚め、私の説を実行するに於ては、その時から病人は減り始め、遂には病なき世界実現となるのは何等疑う処はないのである。
故に若し私の説に些かでも誤りがありとすれば、怪しからん人間として、当然社会から葬り去られるべきは勿論であるから、そんな自殺的行為をする筈はないのみか、此事たるや人智や学問の産物ではなく、最高神の啓示である以上、私は胸を張り、正々堂々と天下に豪語するのであって、之が世界全般に知れ渡るとしたら、その結果人類の最大悩みである病は解消し、玆に文明は百八十度の転換となり、人類待望の光明世界実現は期して待つべきである。
それから薬について、ちょっと気がつかないのですが、一体薬というものはどういうものだという事をはっきり書いてみました。
御論文〔薬剤は科学か?〕
(栄光二五四号)
世間よくこの薬は効くとか、アノ薬は効かないなどと言われるが、これを吾々からみるとまことに滑稽である。それはどういう訳かというと、驚いてはいけない、薬が効くのと病気の治るのとは似て否なるもので、根本的に異っている事である。という訳は薬が効くというのは苦痛が一時治まるだけの事であって、病気そのものが治るのではない。この点最も肝腎であるから心得て貰いたいのである。というのはそもそも医学の考え方は病気と苦痛とは離るべからざる一体のものと解しているからで、苦痛が治れば共に病気も治ると思っており、病気と苦痛との判別がつかなかったのである。従って医学がいかに進歩したとて、病気の治らないのは当然である。ところが私はこの理を発見したのであるから、忌憚なく言って世界史上空前の大発見といっても過言ではあるまい。
ここで病理についてザットかいてみるが、病気とは薬毒の固りに対し、自然浄化作用が起って排除される苦痛であるから、言わば発病が主でそれに苦痛が伴なうのである。それを医学は間違えて、苦痛が主で病気が伴なうように思ったので言わば主客転倒である。この逆理によって薬を以って苦痛を抑える。この考え方で生まれたのが医療である。しかも一層厄介な事は、薬が毒化し病原となる事も知らなかったので、二重のマイナスである。これが医学の進歩と思っているのであるから、その愚、度すべからずである。それを知らないがため臨床家などが、学理通りに治らないので、常に疑問を抱いている話もよく聞くが、さこそと思われる。その証拠として新聞広告などに出ている売薬の広告を見ても分る通り、決して治るとはかいてない。何々病には効く、苦痛が減る、好転する、元気になる、強力な効果がある、血や肉を増す、予防にいい等々、それをよく物語っている。
しかも薬で苦痛が緩和する理も科学的説明は出来ないのは、何々の薬を服めば効くとするだけの事である。ちょうど未開人が禁厭等で治すのと同様でしかない。何よりも新薬を作ろうとする場合、本来なら最初理論科学が生まれ、次いで実験科学に移るべきだが、そんな事はないらしい。というのはそのほとんどが偶然の発見か、推理による実験であって、それ以外は聞いた事がない。その例として前者は英国のある学者が、医学に関係のない実験の際、偶然発見された青苔の一種が彼のペニシリンであったり、後者である独逸のエールリッヒ、日本の秦両博士の合同発見による彼のサルバルサンにしても、六百六回の実験の結果、ようやく完成したのであるから、これは根気戦術によるマグレ当りでしかない事が分る。というように両方共科学とは何ら繋がりがない事である。
またあらゆる病菌にしても、何十年前から研究を続けて来たにかかわらず、今以って決定的殺菌剤は生まれない事実である。また近来発見の御自慢の抗生物質にしても、最初は素晴しい評判だったが、近頃になって逆効果を認め再研究に取掛ったという話も最近聞いたのである。これらにみても何病に限らず、決定的効果ある薬はまだ一つもないのであって、それだからこそ次から次へと新薬が生まれる訳である。故にそのような不確実な薬剤を以って病を治そうとするなどは寧ろ冒険というべきであろう。また医学では動物実験を唯一の方法としているが、これなども科学的根拠は全然なく、単なる推理臆測によって、多分この薬なら効くだろうというマグレ当りを狙ったものであるのは、効かない場合次から次へと何回でも試してみるによっても分る。それがため一種類の動物を数千匹殺してもなお成功しないという話もよく聞くのである。
私は科学者ではないが、真の科学とはそんなアヤフヤなものではなく、確実な合理的根拠によって研究し、真理を把握したものであって、効果も決定的で永久性であるべきはずである。それがどうだ、ある期間がすぎると無効果となり、次から次へと新薬が生まれるとしたら、どこに科学的理論があるであろうか。ちょうど流行品と同様薬にも流行り頽りがある訳で、一種の商品である。いやしくも人間生命に関する重要なるものとしたら許さるべきではあるまい。しかも多くは短期間の実験によって売出すのであるから、もし効果のない場合、詐欺行為ともなるであろう。よく新薬発表当時救世主のごとく仰がれたものが、いつの間にか消えてしまうのも、軽率の譏りは免れまい。そのため犠牲になる大衆こそ一種の被害者であり、売薬業者の米びつにされる訳である。あえて当事者に警告を与えるゆえんである。
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