再びジャーナリストの考慮を望むというのを書いてみました。この間書きましたが、もう一層徹底して書いたので、読ませます。
御論文〔再びジャーナリストの考慮を望む〕 【註 栄光二四九号】
再びジャーナリストの考慮を望む
(栄光二四九号)
これは一般宗教には当嵌らないかも知れないが、少なくとも本教としては言わざるを得ないのである。それは何かと言うと、学者やジャーナリストの宗教に対する見方であって、必ずと言いたい程科学の眼を以て批判する事である。処がよく考えてみると、これ程不合理な話はあるまい。何となれば、科学は唯物観念を以て物を見るに反し、宗教は唯心観念を以て見なければならないからである。つまり、科学は形而下的分野に属し、宗教は形而上的分野に属しているからである。即ち、前者は地面に立って屋根瓦の表面を見るに対し、宗教は屋根の上から地面を見下すようなもので、この主客転倒に今日まで気附かなかったのである。
この意味に於て、滑稽なのは、宗教学者達が学問上から宗教を論ずる事である。考えてもみるがいい、仮に若しそれが妥当としたら、その宗教の開祖よりも学者の方が上になる事になるから、そういう学者こそ一派を立てて生神様になれば、成功疑いなしであろう。又新興宗教にしても、その殆んどは既成宗教を基本としている以上、同様の事が言えると思う。併し、それはそれとして、今日学者やジャーナリストが新宗教を批判する場合、洵に皮相浅薄な見方である。例えば現当利益、特に病気治しなどは低級だとか、金儲けが目的だとか言って、肝腎な宗教理論には一指も触れない事であるのは、可笑しな話ではあるまいか。これに就いて私の言分を書いてみるが、他の宗教は知らないが、少なくとも我がメシヤ教に至っては、現代の学問で分るようなそんな低い程度のものではない。全く想像もつかない高度の文化的超宗教であって、偉大なる救いの業である事は、声を大にして言いたいのである。言う迄もなく、既成宗教的に如何に巧妙な理論や説教を以てしても、それだけで人間を救う事の出来ないのは事実が示している。一例をあげてみれば、今仮に目の前に苦しんでいる病人に向って、枕元で百万陀羅有難い御説教や教典を聞かせたとて、成程心の慰めにはなるが、病気そのものを治す事は出来ないのは分りきった話である。故に確実に病気を治し、健康を快復させ、貧乏も救われ、一家幸福になるとすれば、恒産あれば恒心ありで、自然不正や不道徳も減るに違いないから、よりよき社会となるのは当然である。私はこれが宗教としての真のあり方であって、これ以外に何があるかである。故に、この意味から言うも、彼の釈迦、キリストが、遺憾乍ら万人の病気を救い得なかった為、二千有余年を経た今日と雖も、相変らず人類は病貧争に苦しみつつあるのであるとしたら、人間は何時になったらこの桎梏から免れる事が出来るであろうか、恐らく見当はつくまい。としたら、実に情ない話である。これによってみても、今日まで世に現われた幾多聖者や賢哲にして、真に救う力をもった者は一人もなかったのである。それが為止むなく、その諦めを説くのが宗教の建前となってしまったのも、宣なる哉である。処が喜ぶべし、私はこの夢の如き真の平和幸福世界を実現する力を神から与えられたのである。これは自惚でも何でもない。現に不幸に悩める人々を救いつつあり、これが本教の救世事業である。
以上によって、私という人間が如何なる存在であるかが分ったであろう。そうして、今日の世の中を大局から眺めてみると、現代文明は実に大いなる誤謬に陥っている。今その二、三の例をあげてみるが、現在日本に於ける最大悩みである食糧問題にしても、又世界的悩みである病気の問題にしても、それを現わしている。然もそのどちらも、進歩は行詰り状態にあって、解決処か、益々溝は深くなるばかりである。これ等に対し、私は根本的解決の方法を神示によって知り得た以上、今や日本は固より、世界全体に渉って知らしめつつあるので、勿論主眼とする処は、全世界指導者階級の目を醒まし、新文明の何たるかを知らしめる事である。つまり、小学生の学力をして大学程度にまで引上げる事である。
以上の意味に於て、私の説く処余りに超越しており、学者もジャーナリストも容易に理解出来ないので、反って一種の恐れさえ抱くらしいのである。それというのも、本来ならば大いに謳歌礼讃すべきが本当であるのに、反って無批判的に非難する人や、触れるのを避ける人などある事実である。その現われとして、私が最近発行した「結核信仰療法」及び「救世教奇蹟集」の両著にしても、日本の三大新聞は一致してその広告を引受けない事である。その理由を質せば言を左右に託して、真相を言い得ない苦しさであって、これは本教係の者から聞いた話である。
これでは、現在の日本は言論の自由がない訳で、然もこの自由の抑圧者が大新聞としたら、殆んど信じられない程で、恐らく世界の文明国中例がないであろう。併しそれも無理はないかも知れない。何しろ私の説たるや、余りに現代科学を超越しており、丁度人力車時代に飛行機を見せるようなものであるからである。又、昔から何時の時代でも、既成学問を覆えす程の劃期的発明、発見、新説等を発表するや、例外なくその時代の識者から誤解と迫害を受けるのは、歴史が示している。茲に先駆者の悩みがあるのである。特に日本の知識人程それが甚だしいのは、例えば今日、世界的偉人として万人から仰がれている、キリストや釈迦の如き大聖者より以上の人間は、永久に現われないと決めている事である。今一つは日本には外国人より勝れた人物は出ないとしている迷妄である。これが国民感情に沁み込んでいる以上、私とそうして私の仕事が認められないのも当然であろう。
それが為、私の言説も事業も、頭から否定してしまい、調査検討など思いもよらないらしいのである。特にこの傾向はジャーナリストに多い事は、本来なれば外国にも例を見ない程の劃期的偉大なる私の聖業であるから、直に正邪善悪を検討しそうなものだが、そういう事は全然ない。私は思う。もし研究の結果聊かでも疑問の点があり、社会上マイナスと認めたら、断乎排撃し葬り去ると共に、反対に、正しい説で、社会人類にプラスであるとしたら、大いに援助すべきではなかろうか。それをいつまでも有耶無耶にしている態度は、前記の如き恐怖感の為か、触らぬ神に祟りなし的事勿れ主義の為か、解し難いのである。
以上私の思うままを書いたのであるが、要するに私は、ジャーナリストとしての当然な責務を希望するに止まり、それ以上他意はないのである。ここに再度の考慮を求むる所以である。
今読んだようなわけで、あんまり現代の文化レベルと掛け離れすぎているために結局分らないのです。つまり現代の文化よりか少し上ぐらいのものだと分るのですが、あんまり離れすぎているために、ボーッとしてしまうわけです。これも或る時期までは仕方がないとしても、だんだん時期が切迫するに従って、嫌でも分らなければならないわけです。それで、相当研究している人もあるようです、だからもうそう長い事はないと思います。昨日も話したとおり、今年から神様の方は表現的活動になりますから、救世教が分るという人も、増え方がだんだん著しくなるわけです。そうして分り出したら、それは大変なものです。天手古舞をするぐらいに忙がしくなります。もう一、二年だろうと思ってます。丁度霊界の進み方がそういうような工合になりつつあります。それの一番の刺戟が自然農法と地上天国の完成です。それが丁度一、二年に迫って来てますから、もう一息だと思ってます。なにしろ今も読んだとおり、それこそ世界始まって以来初めての事ですから、なかなか大変な話です。釈迦やキリストのような人が二千年もかかってやったそれ以上の事を一ぺんにやってしまうのですから、それは大変な話に違いないです。それにしては、一方からみるとばかに早いのですが、そうかといって、つい人間の感情として、早く救いたい……又余程急がないと間に合わないのです。
最近嵐という人からの米国画信が来ましたが、ニューヨークの何十階というビルディングに相当する所で、歩く所も相当あるそうですが、嵐さんはドンドン歩いたのですが、アメリカ人はみんな休むそうです。尤も所々に休む所があるのだそうです。それも、老人ならよいが青年が、アップアップいって休むというのです。実にアメリカ人の弱り方といったらすごいものだそうです。それは何かというと医学のためです。今はアメリカ人というのは殆んど、格好は丈夫そうですが、殆んど手術をしてない人はないです。盲腸を取るとか腎臓を取るとか、体の内部を片端にしてない人はないそうです。だから格好だけは強そうに見えるが、その弱り方というものは酷いものらしいです。今度ニューヨークでアメリカ人が何人か信者になりましたが、なかなか面白い手紙です。今度の栄光に出ます。それで医学が進歩したからと言って、アメリカ医学は大変なものだと言って、今の新聞広告の薬の広告を見ても、どうも〝アメリカ〟という事を出すのです。今盛んに出しているのは、アメリカの風邪薬だとか言って、随分広告料を使ってますが、本当の事を知っている我々からみると、恐ろしいくらいです。それだから救いの価値が大いにあるのです。アメリカは早いですが、そこで一、二年の内にアメリカに大いに発展され始めるだろうと思ってます。
それから、暫らく時局について書かなかったので、書いてみました。
御論文〔時局雑感〕 【註 栄光二四八号】
時局雑感
(栄光二四八号)
私はいつも宗教的の事ばかり書いているから、偶には方面を変えてみようと思い、これを書いたのである。即ち宗教家から見た時局観であって、最初先ず世界の情勢から取上げてみよう。知らるる如く昨年の今頃は、北鮮方面は休戦段階に入ってはいたが、まだまだ血腥い空気が漂い、海のものとも山のものとも分らない情勢であった。然もアメリカはアイゼンハウァワー大統領の公約もあって、中共及び北鮮打倒の目的の為、大仕掛な準備を進めているというわけで、何時第三次戦争の口火が切られるか分らないという空気であった。処が、新春早々晴天の霹靂の如く、巨星スターリンが地に墜ちた事であって、玆に世界の情勢は一変してしまったのである。
その時彼のマレンコフが後継者となったに就いては、世界の目は一様にこう見ていた事は確かである。即ち、彼はスターリンの方策をその侭持続するか、それとも全然方向を転換するかのどちらかであった。それが漸次ハッキリして来たのは後者の方であったので、それ以来というもの、どこまでも平和攻勢の方針をとりつつ、今日に至ったのである。それが為流石米国の強硬政策も漸次緩和され、アイゼンハウァー大統領の原爆に対する協定会議開催となったのは知らるる通りである。そんなわけで世界の情勢は余程明るくはなったようで、当分大戦争の危険は解消しないまでも、延期されたのは勿論である。故に、これに就いてスターリン時代を一応検討してみるのも無駄ではあるまい。即ち、当時彼スターリンの大芝居が当り、中共援助によって膨大なる中国を僅かの間に片附けてしまい、毛沢東をして全権を掌握させると共に、蒋政権をも一孤島である台湾に封じ込めてしまったアノ手際は、彼をして有頂天にならしめたのも無理はないといえよう。その為勢いに乗じて中共援助と同様の手段を以て、今度は北鮮を躍らして南朝鮮を席巻せしめ、朝鮮全土を統一するのみか、泡よくば日本に迄も触手を伸ばし、巧くゆけば東亞全土を鉄のカーテン内に治めてしまうという遠大なる意図のあった事は想像に難からないのである。
処が、これを洞察したアメリカは急遽国際連合を作り、非常手段を以て食止めたばかりか、将来を慮り、先ず中共軍を撃破し、南北朝鮮を旧に復せしめると共に、蒋政権をも昔通りに復活させるべく、ここに大々的戦備に着手したのは、ア大統領の深謀遠慮であった事は窺われるのである。そこでこれを知った中共もソ連も事態容易ならずとして、急遽平和攻勢に出たのは誰も知る通りである。というのは、グズグズしていて若し国連から戦争を仕掛けられたら、それこそ大変なことになる。何しろ中共と雖も、長い戦争の為疲弊しきっており、到底勝目のないのは分っているからである。一昨々年六月、国連総会に於けるソ連代表マリク大使の休戦提案がその皮切りであった事は言う迄もない。そんなわけで、ソ連側は決して心からの平和ではなく、戦いを避けんが為の一時的方便にすぎないのは、その後の情勢によっても明らかである。それは停戦会議を故意に長引かせたり、目下の休戦会議の遅々たる歩みなどにみても頷かれるのである。つまりソ連の肚は、出来るだけ長引かせておいて、その間に充分準備を整え、絶対負けないという見極めがついてから、積極的態度に出るのは火を見るよりも明らかである。
以上によって、結果から言えば、朝鮮戦争はソ連側の失敗であったのである。然もその後米の準備は、欧州も日本も米の陣営内に入れ、着々軍備を整えつつある事で、全く壮観と言ってもよかろう。この形勢によってみても、当分はソ連の方から仕掛ける公算はないと見てよかろう。従って冷たい戦争はまだまだ続くとみてよかろう。この意味に於て、ソ連が根本から世界平和の方針にならない限り、世界の空の晴れ渡日はまだまだ前途遼遠であろう。
次は日本の時局批判に移るが、先ず吉田内閣の運命である。これも随分長く続いたもので、珍らしい内閣と言えよう。その原因は、吉田首相が偉いというよりも、現在の処首相級の人物が見当たらないから、つまり首相の運がいいいわけである。これに就いて私の言いたい事は、今日の政治家の最も欠点とする処は、視野の小さい事と、正義感の乏しいこの二点であろう。そこへゆくと吉田首相は、その点先ず優れている政治家と言ってもいいと思う。成程他に吉田以上の叡智、鋭さ、強さのある人は幾人かはいるが、遺憾乍ら大きさが足りない事と、正義を貫く勇気と信念に乏しい事で、どうもコセコセして利巧すぎると思うのである。それに就いても思い出されるのは、彼の明治から大正にかけての頃の政治家であって、そういう特長のある政治家も随分あったものである。どことなくボリュームがあって、信頼が出来る人が多かったのは、古い人は知っているであろう。というわけで、今日のように薄っペラでオッチョコチョイ式の人物は余り顧みられなかったようであった。そうして今日我々国民として最も要望する政治家は、重厚且つ太っ肚で、大物型の人物であって、これは私ばかりではあるまい。そこで最後に言いたい事は、以上のようなわけで現在の政治家は小事に拘泥しすぎ、つまらないと思う事柄に対しても直に問題にしたがり、会議の場合喧々囂々、容易に結末がつかない為、いつも問題山積している有様は、議会の会期延長のお定りがそれをよく物語っているので、これを国民からみると、昔のヤクザと同様、喧嘩と縄張争いがお道楽のようになっている事実をみれば分る通り、洵に情ない今日の政界ではあるまいか。
これは大抵分ったような話ですが、どうも、政治家ばかりでなく、今の日本人の風潮と言いますか、物を大乗的に見ないのです。つまり小さい事ばかりに囚われるのです。この頃はアメリカの新聞記者がなかなか救世教を注目していて、いろんな批評を聞くのですが、その見方が実に当っているのです。日本人はとても足下にも寄りつけません。ですからして、地上天国などが出来るのを非常に待っているのです。そうして、出来たら早速これを世界的に知らせようというのです。ところが日本の新聞記者というのはそういう考えは全然ないのです。若し救世教を注目するとすれば、〝何かアラはないか〟〝何か攻撃する種はないか〟と思うぐらいだろうと思います。それで他のいろんな新宗教や何かの有様を見ると、救世教もそれと大した違いはないと思って、本当に見ようとしないのです。見るというよりか、むしろ想像です。だからそれに対して、日本の新聞記者のそういう点があんまり冷淡なので、アメリカの人の方が憤慨しています。結局アメリカの方がこの救世教の事業に対して早く分りやしないかと思います。その方が早く発展しますから結構です。大本教のお筆先に「燈台下は真暗がり、遠国から分りて来るぞよ」というのがありますが、丁度そういうような事になるだろうと思ってます。
昨日は立春で、一昨日は節分ですが、この節分というのは大本教に大変関係があるのです。最初大本教を開いた神様は国常立尊という神様です。この国常立尊という神様は、鬼門の金神と言って、鬼門に押込められたという事になってます。この神様について話してみます。この神様は元世界を支配していたのです。それで、あんまり喧ましい……と言うよりか、あんまり厳正で、厳しいので、とてもやりきれないというので、他の沢山の神様が艮(東北)に押込めたわけです。その神様は三千年の間隠退されて、その間霊界に居て閻魔大王となっていたのです。それが今度「艮の金神はこの世に閻魔と現われて、世の立て替え立て直しを致すぞよ」というお筆先があります。そういうわけです。それについて、最初のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」という事と「今度は炒豆に花の咲く時期が参りたから、神も嬉しいぞ」というお筆先があります。節分には豆をまきますが、これは、その時の邪神の総大将天若彦尊という神様ですが、その時に〝炒豆に花が咲いたら再び出て来い。それまでは出られないように押込める〟という事なのです。ですからしてあの豆まきという事はそういう意味なのだそうです。これは信じられない事はないのです。ところが、それに対してお筆先には〝今度は炒豆に花の咲く時節が来るぞよ〟というのですから、炒豆に花が咲いたわけです。それが何時かというと、明治二十五年に始めたのですが、私は一昨日の節分の日に大変な神秘、奇蹟があったのです。それは、これからいよいよ国常立尊様が表面に現われるというわけです。「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」という〝艮の金神の世になりたぞよ〟という事は、自分が世界の支配権を握るという事です。それが、今までは霊界だったが、これからは現界に現われるのです。それが一昨日その型があったのです。神様は凡て型でやり、型を見せるという事になってます。ですから一昨日現われた型というのは、私は三年も前から努力していたのです。それがだんだん延びていて、一昨日それがはっきり出たのです。それで私は非常に喜んでいるのと、大いに祝ってよいと思っているのです。では、その結果どういう事になるかというと、これは閻魔大王というのですから、審判の神様です。つまり善と悪を立て分ける、善は栄え、悪は滅びるという御働きです。それがこれからはっきり現われて来るわけです。その点から大いに変るわけです。世界も、特に日本がそうです……霊界から言うと日本が元ですから……。ですから、つまり霊界が明かるくなるわけです。明かるくなるという事は、勿論火素が増えるわけですから、今年あたりから病気がボツボツ増え始めるわけです。それからいろんな悪い事も秘密な事も浮かんで来るわけです。最近いろんな汚職事件があっちからもこっちからも出て来ますが、これも今まででは珍しい事です。これもソロソロその最初の現われのように思われるのです。そういうわけで、或る時期にゆくと、病気の増えるのも……これは一ぺんになりそうです。ですからそうなったら、何時も言うとおり、とても忙がしくなりますから、今からその覚悟をしていてよいです。その代り信者の人でも、少しボヤボヤしていたり、或るいは神様の言われる事に違ったりすると、手厳しくやられる事になるのです。それでもボツボツは出ているようです。これはあなた方もよく知っているでしょう。それで、お筆先に「神厳しくなると人民穏やかになるぞよ」というのがありますが、これは非常に面白いです。そこで、人間が我を通して威張ったり、言う事を聞かなかったりするとやられる、という事がだんだんひどくなるわけです。そういうわけで、今までとは違って来ます。特に、来年一ぱいで熱海の地上天国が完成しますから、これが出来ると、それは現界的にはっきりして来ます。まだ出来かかりですから其処まで行ってませんが、まだボツボツというところです。熱海の地上天国もやっぱり型です。神様は何んでも型で見せますから、型という事をよく注意して見なければいけないです。それで、つまり型が育つのです。そういうようなわけで、大本教というものはやはり大変な意味があるのです。しかし、大本教の意味というものは、つまり私の仕事の準備です。「彌勒三会」と言って、仏教の方の言葉があります。「彌勒三会の暁」とか、或いは「彌勒三会の鐘が鳴る」という言葉がありますが、彌勒というのは、三人あるのです。それは日の彌勒、月の彌勒、土の彌勒というわけで、日・月・地になっているわけです。それで、彌勒の中心というのが伊都能売の身魂です。大本教の教祖という方は、「イズの身魂」と言って、つまり経です。これは父になるわけです。次の出口王仁三郎、聖師様という方は母の身魂になるわけです。だから、変性男子と変性女子と言って、女でいて男、男でいて女というわけで、霊と体とは違うわけです。それで、教祖の父と聖師の母との間に生まれたのが私になるわけです。ですから私が伊都能売というわけで、経と緯を結んだ真中が私になるのです。教組の方は経ですから霊になり、聖師の方は緯だから体になり、それで霊と体を結んで力が生まれるのです。力というものは、霊体一致、霊体が結んで力を発生するのです。ところが今までは、釈迦キリストにしろ、ああいった偉い人は結んでいなかったので、片方だったのです。釈迦は霊でキリストは体、釈迦は経でキリストは緯ですから、力がなかったのです。それで力というのは、一番は病気を治す事です。此処(掌)から出る、目に見えない、一つの気、火素と言いますが、この力というのが、つまり霊体結んだ力なのです。ですからこういう事がだんだん分って来ると実にはっきり分るのです。今まで随分偉い人でも、こうやって病気を治すという事はなかったという事は、力がなかったのです。という事は、霊体が結ばれてなかったのです。そして又、時期が其処まで行っていなかったという事です。この話はいずれだんだんにはっきり分るようにします。それで、神様は今まで、それをはっきりしてはいけないという事になっていたのですが、今度いよいよ節分から変ったのです。ですからこういう点もこれからだんだんはっきり説いてゆきます。そうするといろんな事が一層よく分ります。
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