三月七日

 今度「救世教の聖書」というようなものを編集することになって、今までに私の書いた中から選り出して編集しているのですが、それについて、序文を書いてくれというので書いたのです。大体これはみんな分っている事ですが、とに角救世教の特長というもの、普通の宗教とは違うというような事に力点をおいて書いたのです。

 御論文 〔救世教とは何ぞや 序文〕   【註 栄光二五三号】

救世教とは何ぞや 序文

(栄光二五三号)

 この文を書くに当って、前以て断っておきたい事は、我が救世メシヤ教は純然たる宗教ではないのである。と言っても、一部には宗教も含まれてはいるが、全部ではない事も勿論である。では、何故救世メシヤ教の名を附けたかというと、何しろ有史以来夢想だもしなかった処の劃期的かっきてき救いの業である以上、止むを得ずそう附けたまでであって、特殊の名前を附けるよりも、この方が分り易く親しみ易いからで、これを率直に言って宗教以上の宗教、即ち超宗教であり、空前の救いの業と思えばいいのである。

 そこで先ず大体の輪郭りんかくを書いてみるが、抑々そもそもこの世界は人類が原始時代から現在に到るまでの長い間、幾多の卓越せる有能者が現われ、力の限り遠大なる理想の下に苦心努力した事によって、今日見るが如き絢爛けんらんたる文明が出来上がったのである。人間はその恩恵に対し、大いに感謝感激が湧くべきにかかわらず、事実はそうでないとしたら、実に不思議と言ってよかろう。しかしよく考えてみると、何よりも肝腎な幸福がそれにともなはないからである。その原因は言うまでもなく現在文明のどこかに一大欠陥があるからであって、私はその欠陥を神から知らされたのである。それは何かというと現代文明は全面的進歩ではなく、半面である唯物分野のみの進歩であり、他の半面である唯心分野は全然かえりみられなかった事である。しかしこれにも理由がないわけではない。即ち神の経綸上、物質文化を発達させる為には、或期間唯心文化の発達を阻止しなければならないからである。それによって物質文化は予定の線にまで発達した今日、ここに神は唯心文化を一挙に飛躍させ、両々相俟あいまって真の文明世界を創造されんとするのである。そうしてその使命の下に生まれたのが我が救世メシヤ教であるから、既成宗教とはすべてにわたって比べものにならない程の相違があるのである。

 以上の如くであるから、根本としては長い間眠っていた有神思想を呼び覚ますことであって、これが容易ではない。何しろ文化民族の大半は科学に魂を奪われ、神を無視して来た今日、この魂を揺り動かすとしたら、実に驚異的超人力によらねばならないからで、これによって神の実在は確認されるのである。その方法としては奇蹟より外はないので、本教の奇蹟の多いのもその為である。勿論この力こそしんから伝達される絶対力であるから、如何なる無神主義者といえども、有神思想に転向するのは勿論であって、ここに精神文化興隆時代に入るのである。その結果、こうてき文化は是正され、真の文明世界実現と共に、人類の最大苦悩である病気、貧乏、争いの三大災厄は根本的に解決されるのであって、その為選ばれたのが私であって、このことは今改めて言うのではない、昔から幾多の聖者賢哲けんてつが予言された処であり、ただその時期が到来したまでである。彼のキリストの天国は近づけり、釈迦のろくしょう、天理教教祖のかんだいの世、大本教教祖の松の世、日蓮の義農の世、猶太ユダヤ教の救世主メシヤ降誕等々もそれであって、これに就いての注目すべき一事がある。それは右は全部予言であって、実現性はない事である。然るに私はこの地上天国を現実に樹立するのであるから、その実行者であり、各聖者の予言の裏附者である。というと、その言の余りに誇大なるに驚歎するであろうが、この言を発する私としては、いかに確信に満ちているかがうかがわれるであろう。それというのも、主神は私に対して目的達成に必要な凡ゆる智慧と能力を附与せられ、然も超人的神力をも授け給うたのである。そうしてこの神力なるものは人類の経験上未だ嘗てなかったものであるから、到底想像は不可能である。現在私はこの力を自由自在に行使し、無数の奇蹟を現わしている。故に一度本教信者となるや、如何なる人でも直ちにこの福音に浴する事が出来るのである。

 即ち病める者はいやされ、貧なる者はゆたかに、争いは霧消し、不幸は幸福に転化する等々、神の恩恵の如何に深遠なるかに感激するのである。そうして個人の集合体が、社会であり、国家であり、世界であるとしたら、本教発展に従いここに平和幸福なる地上天国は実現するのであって、かくして神の御目的は達成せられるのである。その境目が現在であるから、先ずこの事を知り、幸福をつかむ事こそ光栄の至りである。

 故にこの著は、宗教始めあらゆる事象の神髄を、神智を通じての解説書であって、今まで書いた多くの中から、私の指示のまま弟子に選ばせ、編纂へんさんしたものであるから、実に空前絶後の真理の開明であり、寸毫すんごうの誤りはないのである。それと共に、今後も続々出るので、溜った都度発行する予定である。即ちこれこそ救世メシヤ教の聖書であり、将来世界の宝典として子々孫々に伝えられるべきものであろう。

 農業特集号は案外よく売れるそうで、今までに百万部以上売れたようです。百万の予定でしたが、百万でも全部売れれば大したものだと思ってましたが、普通一戸に五人の人間としても、かなり行き渡るだろうと思ってます。それで、地方新聞などには時々自然栽培について出てますが、どうも大都会の新聞には少しも出てないのです。しかもラジオなどは今農業講座を続いて毎晩やってますが、しかも肥料については少しも触れないで、他の事ばかり言ってます。どうも、想像してみると、言わなければならない、書かなければならないわけのものを我慢しているのですから、余程つらいだろうと思います。歯ぎしりをしているのではないかと思ってます。尤もこれについては、肥料会社の方面から相当手が廻っているのではないかと思うのです。これは国家とか人民とか、という事よりも自分のメシを食うために影響するということが一番恐ろしいのです。ですから言う事を聞くのも無理はないのです。そのくらい救世教というものを恐れているのです。という事は、私の方で書くものが手厳(てきび)しいのですから……これはみんな知っているとおり、随分思いきって書いてます。本当から言えば大いにこちらを攻撃するとか、とに角止めさせようとかいう手段をとらなければならないわけです。それから又若しか間違っていたり、社会のためにいけないものなら、新聞社でも大いに叩かなければならないのです。ところがそうしないところに先方に弱みがあるのです。という事は、こっちが言う事……それどころではない、実例を沢山あげてありますから、拳骨の振りようがないわけです。しかしそういう事は、丁度汚職問題を隠すようなもので、どうしても知れなければならないので、間違っている事は神様が許さないのです。ただ時の問題で、いずれは農村に自然栽培者が多くなってしまうと、大新聞なども黙っておられなくなります。書かないわけにはゆかなくなります。第一そうなると手遅れです。何故今まで知らせなかったか、地方新聞はあんなに書いているのに、大都会の新聞は何故書かなかったのかと非難をあびるでしょう。ところがそこまでは気がつかないで、〝無肥料で作物を作るなんて、何時かは駄目になるだろう、一時的なものだろう〟というような解釈をしているのです。今までのそういったものは殆んどそうだったです。そこで自分を慰めているのでしょうが、しかしいずれは慌てて、苦しがる時期が来るに違いないです。そういったようなわけで、先方はどう困ろうと苦しもうと、こっちは別に関係はないのです。こっちは大衆を救い、日本の国全体を救うのですから、先がどんなに歎こうと、敢えて痛痒(つうよう)を感じないのですが、話をすればそういうようなものです。そうなると肥料会社の方の事業が大変な事になると思うのです。硫安などはまるで売れなくなります。しかしそのために電力が大いに助かる事になってますから、国家として非常に結構なのです。

 肥料はそういう工合としても、その次は薬です。この薬が大変ないけないものだという事が社会の輿論になるわけですが、これは肥料のようなわけに簡単にはゆきませんが、しかしいずれはそうなるに決まってます。神様がそういう機会を与えます。今度の特集号が非常に売れるということは、去年のあれだけの凶作のために、農村の空気がまるで違ってますから、そこで腹の減っているところに御馳走をやるようなもので、飛び付くわけです。これは神様がそういう時期を作られるわけです。ですからいずれ薬の方も、神様はチャンとそういう時期を作られるに違いないですから、そうなって世の中は本当に良くなるわけです。それで薬について書いてみましたが、薬というものは全然科学性はないのです。つまり迷信です。その、薬に科学性がないという事について書いてみました。

 御論文 〔薬剤は科学?〕   【註 栄光二五四号】

薬剤は科学?

(栄光二五四号)

 世間よくこの薬は効くとか、アノ薬は効かないなどと言われるが、これを吾々からみるとまことに滑稽である。それはどういう訳かというと、驚いてはいけない、薬が効くのと病気の治るのとは似て否なるもので、根本的に(ちが)っている事である。という訳は薬が効くというのは苦痛が一時治まるだけの事であって、病気そのものが治るのではない。この点最も肝腎であるから心得て貰いたいのである。というのはそもそも医学の考え方は病気と苦痛とは離るべからざる一体のものと解しているからで、苦痛が治れば共に病気も治ると思っており、病気と苦痛との判別がつかなかったのである。従って医学がいかに進歩したとて、病気の治らないのは当然である。ところが私はこの理を発見したのであるから、忌憚なく言って世界史上空前の大発見といっても過言ではあるまい。

 ここで病理についてザットかいてみるが、病気とは薬毒の固りに対し、自然浄化作用が起って排除される苦痛であるから、言わば発病が主でそれに苦痛が伴なうのである。それを医学は間違えて、苦痛が主で病気が伴なうように思ったので言わば主客転倒である。この逆理によって薬を以って苦痛を抑える。この考え方で生まれたのが医療である。しかも一層厄介な事は、薬が毒化し病原となる事も知らなかったので、二重のマイナスである。これが医学の進歩と思っているのであるから、その愚、()すべからずである。それを知らないがため臨床家などが、学理通りに治らないので、常に疑問を抱いている話もよく聞くが、さこそと思われる。その証拠として新聞広告などに出ている売薬の広告を見ても分る通り、決して治るとはかいてない。何々病には効く、苦痛が減る、好転する、元気になる、強力な効果がある、血や肉を増す、予防にいい等々、それをよく物語っている。

 しかも薬で苦痛が緩和する理も科学的説明は出来ないのは、何々の薬を服めば効くとするだけの事である。ちょうど未開人が禁厭(まじない)等で治すのと同様でしかない。何よりも新薬を作ろうとする場合、本来なら最初理論科学が生まれ、次いで実験科学に移るべきだが、そんな事はないらしい。というのはそのほとんどが偶然の発見か、推理による実験であって、それ以外は聞いた事がない。その例として前者は英国のある学者が、医学に関係のない実験の際、偶然発見された青苔の一種が彼のペニシリンであったり、後者である独逸のエールリッヒ、日本の(はた)両博士の合同発見による彼のサルバルサンにしても、六百六回の実験の結果、ようやく完成したのであるから、これは根気戦術によるマグレ当りでしかない事が分る。というように両方共科学とは何ら繋がりがない事である。

 またあらゆる病菌にしても、何十年前から研究を続けて来たにかかわらず、今以って決定的殺菌剤は生まれない事実である。また近来発見の御自慢の抗生物質にしても、最初は素晴しい評判だったが、近頃になって逆効果を認め再研究に取掛ったという話も最近聞いたのである。これらにみても何病に限らず、決定的効果ある薬はまだ一つもないのであって、それだからこそ次から次へと新薬が生まれる訳である。故にそのような不確実な薬剤を以って病を治そうとするなどは(むし)ろ冒険というべきであろう。また医学では動物実験を唯一の方法としているが、これなども科学的根拠は全然なく、単なる推理臆測によって、多分この薬なら効くだろうというマグレ当りを狙ったものであるのは、効かない場合次から次へと何回でも試してみるによっても分る。それがため一種類の動物を数千匹殺してもなお成功しないという話もよく聞くのである。

 私は科学者ではないが、真の科学とはそんなアヤフヤなものではなく、確実な合理的根拠によって研究し、真理を把握したものであって、効果も決定的で永久性であるべきはずである。それがどうだ、ある期間がすぎると無効果となり、次から次へと新薬が生まれるとしたら、どこに科学的理論があるであろうか。ちょうど流行品と同様薬にも流行り(すた)りがある訳で、一種の商品である。いやしくも人間生命に関する重要なるものとしたら許さるべきではあるまい。しかも多くは短期間の実験によって売出すのであるから、もし効果のない場合、詐欺行為ともなるであろう。よく新薬発表当時救世主のごとく仰がれたものが、いつの間にか消えてしまうのも、軽率の譏りは免れまい。そのため犠牲になる大衆こそ一種の被害者であり、売薬業者の米びつにされる訳である。あえて当事者に警告を与えるゆえんである。

 これは、科学ではないという事をザット説明したのですが、これを大きくみると、人間の一切の悩み、例えてみれば犯罪ですが、犯罪の原因も薬毒なのです。今度の汚職問題で偉い人がみんな引っ掛って苦しんでますが、これの因の因は薬毒なのです。つまり、薬毒が溜ると霊が曇ります。霊が曇ると邪霊(動物霊)が活躍できますから、そこで内証(ないしょ)で変な金を手に入れたりすることになります。その薬毒のために霊が曇るから動物霊が活躍するのですが、そうするとまず大いに芸者買いしたり、酒を飲んだりマージャンをやったり、いろん(いろんな?)事をする、それはみんな動物霊の指図と言い得ます。そうしてそれには金が要る、そうしてうまくやればよいというのでいろいろな事をやるのです。そうすると結局において薬が罪人を作っているわけです。犯罪者を生んでいるわけなのだから、薬毒というのは病気ばかりではないのです。言わば、肉体的病気ばかりでなく、精神的病気も作っているわけです。凡ゆる悪の面、人間の悩み苦しむその原因は全部薬なのです。人類から薬というものを抜けば、地上天国もミロクの世も出来るのです。とに角救世教というのは世の中から悪を無くするというのが根本の仕事です。そんな恐ろしいものを盛んに売っており、又奨励しているというのだから、実に世の中は間違いも甚だしいのです。今新聞広告で一番よく出ているのは売薬の広告です。ラジオの民間放送というと、薬屋の宣伝が一番です。殆んど薬で、その他の商品などは僅かです。それほど恐ろしい物をこれほど大騒ぎをやって奨励して、飲ませようとしているのだから、如何に世の中が間違っているかという事がよく分ります。今まで人間に〝薬は良い〟という観念がしみ込んでいるのですが、これが〝あべこべなものだ〟という事を分らせるのが大変です。それで浄霊を受けて病気が治った人は分りますが、それを急に早く分らせようとしても、なかなか無理なので、そこでやはり神様はチャンと、一ぺんに分るような仕組をされてあるのですから、それも時期です。とに角人類の一切の不幸は薬が因と思っていればよいです。それで薬か(が?)無くなったらどうなるかというと、人間の寿命は必ず百歳は生きるのです。人間の寿命が百以上は生きるという事になったら、こんな結構な有難い事はないと思います。救世教に入れば百歳以上は生きるという事が分ったら、みんな救世教信者になります。〝そんな馬鹿な事があるものか、人を馬鹿にしてやがる、宗教宣伝のためにうまい事を言ってやがる〟と、最初は思いますが、〝とに角入ってみろ〟というのも非常によいと思います。

 それから地上天国も大分外人の方に知れて来て、今度箱根美術館が開館になったら、外人の観客が相当増えるだろうと思ってます。とに角外人間では、日本に来て日本の美術を見ようと思っても、見る所がない、見せる所がないというのです。美術館は方々に出来たようだが、みんな西洋の美術、油絵です。そんな物は先方が本元で、わざわざ日本に来て見る必要はないので、日本の美術を見たいというのです。ところがそういう所がないのです。本当に日本の美術を見せるのは箱根美術館よりないというのです。あとはお寺に行って仏教美術を見るとか、博物館に行って見るのですが、博物館は一部です。なにしろ美術館ではないので博物館ですから、古い、考古学的の物とか歴史的の物です。そこで博物館で一番の良いものは仏教美術で、仏像に一番立派なものがあります。私なども行って仏像を見るぐらいなものです。他にもありますが、年中同じ物ですから飽きてしまいます。私が三十代の若い頃から見た物が今もって出ているのですから、何も見る物がないのです。それから年に一度ずつ日展ぐらいなものを開催しますが、そこでも、日本画を見ようと思えば殆んど油絵式になってますし、美術工芸というと、薄ッペラな歯の浮くような物で、本当に楽しめるような物はないです。だから美術館として本当に美術らしい物を見ようと思っても、おそらく無いです。そこで、私が自分が見る美術館を拵えようとしても、やっぱり箱根美術館のような物を拵えなければならないと思っているのですから、そこで美術というそういった面からみても、救世教でやっている事は、やはり自然栽培や薬毒の説と同じような、世界に一つというようなものになるわけです。おまけに今度、熱海に美術館が出来たら、これは箱根よりも一層充実したものですから、大変な事になるだろうと思ってます。そういうようなわけで、神様は凡ゆる面の救いですから、美術館も地上天国にしろ、その一つの大きな役目をされるわけです。そういうようなわけで、いろいろな仕事が本当に社会的世界的に知れるのは、いよいよこれからという、丁度山なら今麓に来たわけです。大いにやり甲斐が、だんだん大きくなって来たわけです。

 何時かも話した、三越で来月やる浮世絵展覧会ですが、これは「肉筆浮世絵名作展」という名称で、箱根美術館主催、毎日新聞社、文化財保護委員会が後援という事になって、それで始めるわけですが、来月の九日からという話で、十日ぐらいやるでしょう。今まで浮世絵展というと殆んど版画でしたが、今度の肉筆展というのは初めてです。素晴しい人気を呼ぶだろうと思ってます。いずれ大阪、九州というようなふうにやる計画らしいです。宣伝するつもりでなくても、結局救世教の宣伝にもなるわけです。神様があの手この手で知らされるわけです。浮世絵の肉筆なども、私が何故それをやったかというと、浮世絵というと殆んど版画だものだから、版画は非常に値段が高くなってます。版画で一番値段が高いのは一枚四十万円から五十万円です。歌麿の版画には最盛期というのがあるのだそうで、あんまり若すぎても年をとりすぎたのもいけないので、四十ガラミの物が脂がのっていて良いそうです。それなら一枚四十万から五十万だそうで、それから写楽。春信のが一番高いですが、春信のは箱根美術館に少し出しました。今の、歌麿、写楽、春信の三人が世界的です。ところが肉筆の方は安くで、半分以下です。だから実に馬鹿げたものと思います。版画というと大抵一種類二百枚ぐらい()るのが普通ですが、版の物が高くて、一枚々々画いた物の方が安いというのですから、こんな理窟に合わない事はないです。だから宣しいというわけで肉筆ばかり買ったのです。非常に安くて良い物が入ったのです。そのために今度は非常に値が上ったのです。そして品物も無くなってしまったわけです。私が商人なら随分金儲けはうまいわけです。そういうようなわけで、今肉筆というのは殆んど無いのです。主な物は殆んど私の方に集まってしまったのです。そこで今度の展覧会も肉筆展というわけです。それに肉筆の方が絵も大きいし()(ごた)えがあります。力もあります。割合に僅かの間に安く集まってしまったのです。浮世絵は日本で一番という事は、博物館でも言ってます。そういうようで、今のは浮世絵ですが、他の物も非常に高くなってます。私は喫(吃?)驚しているのです。土地のようなものでも、買った所はみんな高くなってしまうのです。というのは、何んと言いますか、凡て一番良いものを選ぶからです。美術品でも、一級品ばかりしか手を出しません。それで一級品は何倍と上りますが、二級品三級品になるとそうは上らないので、倍か三倍です。時間が来ましたからこのくらいにしておきます。

 

 

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