最近霊界が非常に変って来たために、いろいろな例が慌て出したと言いますか、非常に変動を起こして来たのです。いろいろな霊が救われたい事と、それから救世教の仕事をしたいと(尤も仕事という事が救われる意味にはなりますが)因縁の人を通じて、そういう救いの願いやら、罪を赦されたいやらの、そういう事が時々あるのです。その中で非常に面白い事があったので、その記録を読ませようと思います。この神憑りの人は娘さんで、二人ばかりあって、それから審神者は別の人です。審神というのは調べるのです。
(御報告)
ここにある「明主」というのは無論私ですが、私の代理をする者も相当あるのです。その代理の一番の大番頭という、そういう霊です。それから今の天理教の中山ミキさんですが、これはあの当時話をしましたが、留置場に居る時にああいう人達を呼んでいろいろ話を聞いて、その時救われたそのお礼を言ったわけです。
これについて四、五日前にチョット面白い事があったのです。それは私の仕事をしている、ごく近くの信者の若い妻君ですが、去年頭が少し変だったのです。それを治してやって、まだ頸の廻りに大分毒があるので、時々やっているのです。四、五日前に来て、これからやろうとすると、涙をポロポロこぼして非常に泣くのです。尤も、前から或る程度は分っていたのです。というのは、キリストが憑るのです。その時にもやっぱりキリストが憑って、私が質問しても、こみ上げて泣くので喋れない。暫らく待っていたくらいです。そうするとやっと喋れて、自分は長い間非常に苦しんでいたと言うのです。それが私によって救われて非常に嬉しいというわけです。それは何かと言いますと、磔になったのがまだすっかり治りきらなかったのです。それで随分苦しんでいたのです。それが浄霊によってすっかり治った、その感謝です。それからもう一つは、漸やく天の父に会うことが出来た、それが非常に嬉しいという、その両方の嬉しさで、つまり嬉し泣きです。そのような事があったのです。それで聞いてみますと、近頃その女の部屋にキリストが磔になった姿の霊が時々見えるのだそうです。それからその時の話に、ヨハネは一、二カ月前から時々憑ったようです。それで詳しく聞こうと思ったが、私は忙がしかったので、いずれそういう点も聞いてみようと思ってます。この人はさっきの霊憑りの人とは全然違う人です。キリストが自分の感謝の気持を早く知らしたいために、その婦人に憑ったわけです。
ここで知っておかなければならない事は、偉い神様は決して現界で偉い人には憑らないのです。人からごく注目されないような、なんでもないような人に、かえって偉い神様は憑るのです。これはあべこべです。現界的に偉い人と思っていると案外違います。又どんなつまらない人でも決して馬鹿にできません。どんな偉い神様が憑っているか分らないです。かえって逆です。大本教祖なども紙屑屋のお婆さんです。赤貧洗うが如くで、見る影もない、ごく貧乏なお婆さんだったのです。それがとに角あんな立派な事をされたのです。国常立尊という素晴しい神様が憑られたのです。それから出口王仁三郎先生も百姓の息子です。そういうわけで、その点を余程心得ているべきです。
それからこの婦人も去年あたり頭が悪い時に狐が随分憑ったのです。狐も見えますし、私が浄霊した時も狐が居たのです。それで怖がっていたのです。今度なども狐が時々憑っていたのです。ヨハネやキリストが憑った事も、狐に瞞されると思って、恐れをなして私に知らせたのです。ところがその点も心得ておかなければならない事は、善い神様ほどかえって狐を使うのです。というのは、普通の人間に神様が憑ろうと思っても憑れないし、喋らせようと思っても喋れないのです。それで狐に命令して狐に喋らせるのです。そうして本人の喋り工合によって、これなら大丈夫だという時立派な神様が御憑りになる事あるのです。だから狐だからと言って悪い意味に解釈して馬鹿にする事はできないです。祖霊などもよく狐を使うのです。狐は非常に人間に憑りやすくて喋りやすいのです。そのために祖霊が直接憑って喋れないときは狐にやらせる事があります。だから、よしんば狐が憑っていても、どんな立派な人間か、神様か分らないから、そのつもりでこっちは、軽蔑しないで真面目にやった方がよいです。よく狐の奴と言って、それを押えつけようとか、離そうとするのですが、それは悪いです。前にも私は書いた事がありますが、威張って出て来たり、いたずらする事があります。又立派な神様を装って来ますが、そういう時は瞞されるのです。狐は〝オレは何神様だ〟とか言うから、〝ああそうですか。御苦労様です〝と言っておくのです。そうしている内に必ず化の皮をはぎます。狐を押えつけようとしたりすると、かえって狐が怒っていろんないたずらをするのです。そうして正体を現わすのもかえって暇がかかります。そういう点なども、素直にするという事は何事にもよいという事が分ります。だから〝狐、こいつ瞞しやがるな〟といって警戒心を起こす、それが神様の方ではいけないのです。瞞されているとかえって暴露して、狐の方で頭をかいて謝まるという事になります。
今の話は霊界の宗教家の主だった人達の話ですが、一方芸術家の方は、昔からの名人や美術を愛好した人の霊が、救世教の美術館に品物を納めたいというので非常に骨折っているのです。一品でも美術館に納めると、霊界の地位が上がるのです。地獄……と言っても、あんまりひどい地獄の霊はそういう事ができないが、上層に居る霊はそういう事ができるからそうすると、八衢に上がれるし、八衢にも上中下があるが、上段には行けるのです。又八衢に居た霊は天国の下の段に上がれるという工合で、その手柄によって大いに救われるのです。それから又救われた霊の近親者も段階が上がりますから、そういうわけで、今は霊界で、良い物をこっちに納めようとして競走(争?)でやっているのです。その現われとして、私が欲しいと思うような物は何時か入って来るのです。到底売りそうもない物を、ヒョッと売るのです。しかも非常に安く手に入るのです。よく道具屋も喫(吃?)驚しているのです。〝そんな値段で先が売る事はない〟という事がよくあります。とに角ああいう美術品が集まるのも、殆んど奇蹟によって集まって来るわけです。そういうようなわけで、面白いと言えば、随分面白いわけで、まあ楽です。ただ思えばよいのです。ああ欲しいなと思えば、何時か入って来るというわけです。これが如意の働きというのです。如意宝珠とか、よく禅宗の坊さんが如意というものを持ってますが、あれもそういう意味なのです。それで、禅宗の大僧正があれを持って〝かつ〟という事を言いますが、あれは、これ(如意)によって言う事を聞かせるという意味なのです。如意輪観音というのもそういうわけです。私は今如意輪観音の働きをしているわけです。
来月九日から箱根美術館主宰の浮世絵展覧会をやりますが、これは「肉筆浮世絵名作展」というのです。この肉筆の展覧会というのは初めてなのです。浮世絵展は今まで方々で何十回とやりましたが、みんな版画なのです。肉筆展というのは今回が始めてなのです。その肉筆が数十幅出ますが、それはみんな一級品ばかりです。今日本では私の所が一番だそうです。それらも霊の働きが根本です。というのは、八十何幅という肉筆ばかりを買ったのですが、非常に安いのです。これは有名な以前の成金ですが、その人は余程前に亡くなったのです。その霊が、どうか救世教の美術館に出してもらいたいというので働いたわけです。働くとどうするかというと、其処の子孫、現在持っている人が金に困るというようにするのです。霊界の祖霊が損をかけるとか、或いは大いに金を使わせるとかして貧乏にするわけです。そうすればいやでも売りますから、つまりそういうようなやり方が主なやり方なのです。そのためにどうしても売らないわけにはいかないというわけで、手放すわけです。しかしそうすると、祖先とも言われるものが子孫を貧乏にするというのは随分ひどいと思うでしょうが、しかしそれがためにその後に大きなお蔭をいただいて、大変意結構になり、幸福になるわけです。今金に困るのは一時的ですから、やっぱり祖霊はそういう事を知ってます。深い考えでやるわけです。結構なわけです。どんな良い物でも物質はしれたものです。形ある宝を失なって、無限の形なき宝をいただくわけですから、非常によいわけです。功徳をするわけです。そういうようなわけで、とても素晴しい美術品が入って来るのです。熱海の美術館が出来るようになると、みんな驚くだろうと思います。それで、こっちに入って来る品物は大抵半分値以下で入って来ます。道具屋は年中〝不思議だ不思議だ〟と言ってますが、全くそうみえます。〝お売りになったらよいでしょう〟とか、〝今このくらいなら売れるから買いたい〟とか、よく言いますが、そういうわけで道具屋の腹の中では、オレ達よりかずっと金儲けがうまいと思っているらしいです。ですからよく笑う事がありますが、〝僕が道具屋になったら随分儲けるが、君達は下手だな〟と言うのです。
それからメシヤ会館ですが、これは大体秋に落成して開館式をやる予定だったのですが、どうも神様の方では、それではいけないのです。来年の、三十年三月三日という事が分ったのです。今年の二十九年という数字が一番悪いのです。その意味はどういう訳かというと、今までのミロクは五六七です。五が日で、六が月で、七が土という事になってますが、それは基本的の意味で、つまり宇宙の順序です。何時も言うとおり、これからは、「熱海は現界の型だ、熱海の地上天国は現界的の型だ」という事を言ってますが、現界のミロクの数字は三六九なのです。そうすると今までとは数字の意味が、言わば具体的になるわけです。現実化するわけです。そのために三、三、三と、三十年三月三日という事になるわけです。それで無論それまでには水晶殿もできます。それから美術館の方はその次になる予定です。尤もそうすると凡てがゆっくりと全部出来るのです。やっぱり、間に合わせようと思って少しでも急ぐと、どうもそれだけ出来が悪いわけです。そういう点などは、やはり神様はうまいです。今までに二度延びましたが、何時までに間に合わせなければならないといって無理をする傾向があるので、いい加減なところに行って延ばすのです、(。?)そうするとゆっくりと丁寧にするというわけです。ところが、最初から延ばさないで、きざんで延ばすというところに、やはり神様の深いところがあるのです。私も時々行って見ますが、皆さんも見られたでしょう。会館の様式は、私は二、三年前から毎月「国際建築」という雑誌をとってますが、それには世界的に新しい建築をみんな紹介してあるのです。そうするとメシヤ会館のようなああいう上品な感じの良い建築は、外国には殆んどないです。あれは、おそらく世界的の建築と思ってます。
建築で一番肝腎な事は、ああいう大建築は外郭です。中は誰でもできるのですが、外郭の様式、デザイン、これが最も肝腎なのです。今までのいろいろの大きな建築を見ても、どうも高さとか幅とか奥行とか、外部の様式というものに感心なものはあんまりないです。私は前にローマのステーションが一番よく出来たと言いましたが、実際に見た人はみんなそう言ってます。〝今度ヨーロッパを廻って来たが、イタリヤのローマのステーションが一番良かった〟と言ってます。と言ったところで外郭の様式が奇抜なのです。駅ですから、品が良いとかそういう事はないので、非常に奇抜で、スカッとしていて気持がよいのです。これらが今まで出来たコルビュジエ式の内で一番のものでしょう。例のコルビュジエ自身が監督した、国際会館ですが、これはあんまり感心しないです。あまりに単純すぎるのです。少なくとも建築としての感覚は失敗です。そこに至ってはメシヤ会館の建築は、つまりコルビュジエ式を宗教的に扱かったわけですが、大体コルビュジエ式というのは宗教的には無理なので、何処までも実用的の建築です。それを私がただコルビュジエの新しい感覚をとって宗教的の荘厳みを現わすという最初からの計画でした。ところがついこの間見たところが、私の思う通りに出来上がったので、私は非常に喜んでます。一番難しいのは高さと幅との調和です。それと真直な柱形です。直線です。その柱形の幅とか深さとかいう点が非常に難かしい所なのです。それが丁度よいところにゆかなければいけないわけです。それが丁度私の思う通りに成功したわけです。そうしてあれで一番の見所は横です。横の広い面積を白壁にして窓をつけないのです。あれはどうしてもあそこに窓をつけたがる所なのです。ですからよく〝あそこに窓をつけろ、つけろ〟と言いますが、私は窓をつけないで、白色の太い場面を出したわけですが、あれがミソと言いますか、ヤマと言いますか、そういったものです。あれを白壁にしたために、前面の直線の縦縞の柱が生きるのです。そしてあれから一段落して白壁と、これが全体的に建築を非常に面白くするわけです。部分々々はこれからやりますが、部分々々でも相当面白く出来るわけです。こういう話をすると時間がかかりますから、いずれゆっくりとします。
それから自然栽培について、農林省の役人の、中堅所の十数人が、今度「自然農法研究会」というのを作ったのです。その趣意書をみましたが、来月の二日に発会式をするとか言ってました。その趣意書が非常によく出来てますから、今読ませます。
〔自然農法の一大朗報〕(趣意書) 【註 栄光二五六号】
自然農法の一大朗報
(栄光二五六号)
本農法について数年前から実地調査研究されていた、農林省食糧業務第二課長山川達雄氏が主唱者となり、今回八名の共鳴者諸君によって左のごとき自然農法研究会が結成されたのであるから、国家のため慶賀の至りである。何しろ同省は農業界の本山ともいうべくこの方面の専門家がこれだけ認識されたという事だけでも、本農法がようやく軌道に乗ったと言うべきである。従って今後の進展は期して待つべきものがあろう。これによって普及会会員諸氏にしても、百万の味方を得た感があると思う。
—— ◇ ——
農林省自然農法研究会趣意書
現代日本農業は、政府・学者・技術者及び農民等の懸命なる努力にもかかわらず、正に危機に直面している。
このときに当って肥料代不要、農薬代不要、労力節減かつ風水害・冷害・かんばつ・病虫害等の被害軽微にしてしかも年々増収となり五カ年にして五割以上増収という画期的農法が出現し、すでに全国各地の農家において着々とその実効を挙げつつあり、新聞・雑誌・ラジオ等でも報道され問題となっているが、学者や技術者は到底あり得べからざることとして研究することなく、政府も又これをとりあげるに至っていないのであります。
一方において自然農法普及会は、この全国的組織をもって各都道府県に地方本部をおき、大々的にその普及に進出し、今や実施農家は数万の多きに達しているといわれるのであります。
ここにおいて我々農林省に勤務する者、拱手傍観するに忍びず実地について調査の結果、理論はともかく、増収となることが厳然たる事実であることを知ったのであります。
我々はかかる事実の存するところ必ずや合理性のある何物かが存在することを確信するものであります。かかる観点から農林省内においてこの農法に関心を持つ者相図り、自然農法とはいかなるものであるかをあらゆる角度より研究する必要のあることを痛感し、本会を結成した次第であります。
右の趣旨に御賛成下され志を同じゅうする者は速かに本会に入会し、相共に研究せられんことをおすすめ致します。
昭和二十九年三月 農林省職員有志自然農法研究会発起人一同
各 位
会 則
(名称及び事務所の所在地)
第一条 この会は農林省職員有志自然農法研究会と称し、事務所を農林省内におく。
(目的)
第二条 この会は自然農法をあらゆる角度より調査研究し、あわせてその調査研究の結果を発表するをもって目的とする。
(会員)
第三条 この会には農林省職員は誰でも随時入会することができる。入会の際金五十円を納付するものとする。
(役員)
第四条 この会に次の役員をおく。
委 員 長 一 名
副委員長 二 名
常任委員 二 名
委 員 若干名
第五条 委員長・副委員長・常任委員及び委員は会員中より互選し、その任期は一カ年とする。但し再選を妨げない。委員長は会務を統括し、副委員長は委員長を補佐し、常任委員は庶務及び会計を掌り、委員は各局におき相互の連絡に当り会務の運営を図る。
(顧問)
第六条 顧問は委員会の決議に基き学識経験者の中より推薦することが出来る。
(事業)
第七条 この会は第二条の目的を達成するため次の事業を行う。
一、自然農法の原理の研究
二、自然農法の効果の研究
三、自然農法実施方法の技術的研究
四、自然農法実施農家の現地調査研究
五、自然農法の実地試験委託研究
六、自然農法以外の農法との比較研究
七、自然農法に関する座談会の開催
八、自然農法に関する資料の蒐集
九、その他自然農法と関連のある諸問題の研究
十、機関誌の発行
(月例研究会)
第八条 この会は毎月一回適当な日を定めて月例研究会を開く。但し委員長が必要と認めたとき、又は会員五名以上の要求があったときは臨時研究会を開くことができる。
(会計)
第九条 この会の経費は会費及び寄付金によって賄う。但し会費は委員長が必要と認めたとき、過半数の同意を得て徴収するものとする。
第十条 この会の会計年度は四月一日に始まり翌年三月三一日に終る。
(総会)
第十一条 この会は毎年三月総会を開き、その際役員の改選を行う。委員長が必要と認めたときは臨時に総会を開くことができる。
第十二条 定期総会においては委員長は会務を報告し、常任委員は決算報告をしなければならない。
(会則の改正)
第十三条 この会則を改廃するには会員三分の二以上の同意を要する。
付帯決議事項
一、役員は発起人において責任者を推薦し本人及び会員の同意を得て決定するものとする。
二、顧問は委員長決定後委員会にて決議の上推薦するものとする。
三、月例研究会は毎月第二火曜の午後五時より開くものとする。
—— ◇ ——
この人達も今後できるだけの活動はされるでしょうが、それよりか、今度農民にこれを知らせる場合に、なにしろ今までとは反対の意味ですから、容易に信じ難いのです。信じられないけれども、農林省でこういう会が出来たという事は、〝これは相当信頼のできるものに違いない〟という、そういう印象を与える事になり、それが非常なプラスだと思うのです。無論神様がうまくやるのですから、このくらいの事は当り前ですが、しかし割合に早くこういう会が出来たという事は大いに喜んでよいと思うのです。今やっている地上天国の建設と、それから自然栽培と、これだけが世の中に知れたとしたら、大変大きな事です。それと共に、一番難かしいのは医学迷信の打破です。それに対しても〝なるほど救世教の言う事は大したものだ、(〟?)、そうしてみると医学の方も〝あれは本当に違いない〟というような一つの結果を生み出す動機となりますから、そんなこんなで、両方が分るという事が大いによいと思います。しかもこの二つは手取早く分る事です。現に目に見えて摑めるような事なのだから。私の方で一番の狙い所は医学ですから、医学を分らせる上において大きな働きをするわけです。というようなわけで、神様のやり方は実に人間の予想以上の巧妙なやり方だと感心させられるのです。この一つだけでも世の中に分ったら、〝救世教というのは普通の宗教ではない、日本に初めて出来た大変な救いだ〟という事が分るわけです。新年早々言ったとおり「今年から表面的になる、いよいよ本舞台に上る」という事が、こういう事によっても、やはり着々と実現しつつあるわけです。これからは、時のたつに従って、それは想像もつかないほど発展する時期になってゆくわけです。何時も言う事ですが、だんだん張合があるわけです。何事もそうですが、〝あいつはどうも変だ〟とか、〝あいつはどうも信用ができない〟ということと、〝あれは立派なものだ、大いに信用してよい〟という、その気持だけでもまるっきり違います。以前は救世教というと〝迷信くさくて、新宗教でいい加減な事を言って、現当利益なんて言って金集めをしている〟という、そういった変な感じをもたれたのです。ところが近頃はそれが大分消えて来て、救世教というと〝あれはよい、なかなか大したものらしい〟というような社会的の観念が大分出て来つつあるようにみえるのです。これも結構であると共に、もう一息今言ったような工合に世の中に知れると、今度はもう〝救世教でなくてはならない、あれこそ本当の、今までにない大きな救いだ〟という事になるわけです。
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