最近新聞やラジオで伝えている二重橋事件で目が見えなくなった、山田けい子という十一になる子供が、清水健太郎という博士の手術によって見えるようになったと、写真入りでデカデカと出てますが、あんな事はくだらない事です。あれは内出血が目の裏の視神経に固まって、それで見えなくなったのです。ところが頭蓋骨に穴をあけて内出血の固まりを取ったので見えるようになったのですが、これは放ったらかしておけば、精々一年ぐらいの内に膿になって目ヤニになって出て、それで治ってしまうものです。浄霊なら一週間か十日で治ってしまいます。それだけのものなのです。それを大騒ぎをして、頭蓋骨に穴をあけて出すというのですから、実に野蛮と言ってよいか、馬鹿々々しいと言ってよいか、こっちからみるとお話にならないです。それを大変な事のように新聞などで大騒ぎをやってますが、こっちからみると可哀想なものです。それで手術ですから、消毒薬を沢山使いましたから、その悩みが今に出ます。それは、頭に消毒薬が染みて、それが毒になって、今に必ず頭痛があります。ウッチャラかしておけばきれいに治るものを、そういった頭痛の種を作って、頭蓋骨に穴をあけてやっているのですから、実に可哀想なものです。文化的野蛮人と言うが、それを教育しなければならないのですから、なかなか厄介な話です。
医学は科学だ科学だと言いますが、本当から言うと科学ではないのです。科学まで至ってない、手前のものです。つまり「もの」というのは、本物の出る前には仮の物が出ます。又言い方によっては、偽物の方が先に出ることがあります。こればバイブルにもありますが、本当の救世主が出る前には偽救世主が出るというのですが、そういうようなもので、医学も本物が出る前に偽が出たというわけです。科学も本物が出る前に仮のものが出たのです。それを書いてみました。
御論文 〔私は宗教科学者だ〕 【註 栄光二五五号】
私は宗教科学者だ
(栄光二五五号)
宗教家の私が科学者といったら妙に思うであろうが、これを終りまで読んだら、いかなる人でもなるほどと思わざるを得ないであろう。というのはいつもいう通り、現代科学はまだまだ低く、科学という程には到っていないからである。それを今詳しくかいてみるが、まず今日科学の重点となっているのは、何といっても粒子の発見とその究明であり、これも顕微鏡の進歩によるのはもちろんだが、その結果微粒子把握の進歩は驚くべきもので、何千、何万、何百万分の一というように、止どまるところを知らない進歩であって、極微の極致までも捕える事が出来、まさに無限界にまで突入せんとしている現在である。最近唱え出した精という言葉はこの無限界を指したものであろう。もちろんこの無限界を知り得たのは、科学的操作のためではなく、科学理論を究明の結果、推理による仮定説であって、そうしなければ突当ってどうにもならないからである。ところがこれこそ私の唱える霊の世界であるから、科学も漸くここにまで来た訳で、正直にいって長い間霊を否定し続けて来た科学も、ついに敗北した訳である。
それはそれとして、右のごとくこの精なるものこそ霊であり、気であってみれば、これを確実に把握出来たとしたら、ここに科学は一躍高度の地位に上ると共に、真理探究の学問の理想に一歩前進した訳である。しかしそうなると科学は霊を対象とする以上、今までのごとき物を対象とした考え方は前期的科学となり、霊のそれは後期科学として世界の舞台に登場する事になるから、ここに科学は百八十度の転換となり、宗教と一致せざるを得ないことになる。これを一層分りやすくいえば、科学の世界の中央に一線を引き、物の科学は線の下位となり、霊の科学が上位となるので、これは経の見方であるが、緯の見方からいえば前者は外容であり、後者は内容である。つまり有の科学から無の科学に向上したので、実に喜ばしい限りである。ところがここに難問題がある。というのは霊の世界を把握しただけでは何にもならない。どうしてもその本質を把握し、人類に役立たせなければならないが、困ることには物の科学では方法があり得ない。どうしても霊には霊を以ってするより外はないのである。
ところが私からいえばその難関も造作なく打破り得る。否すでに打破っている。今現に私は実行し、驚くべき成果を上げている事実である。すなわち霊を以って霊の問題を解決している。言うまでもなく病気治療がそれであって、今ザット説明してみると、一切の病原は患者の霊に溜積した不純物であるから、それを解消すれば治るに決っている。それは霊主体従の法則によるからである。その方法として霊的原子爆弾ともいうべき特殊の霊を放射し、不純物を焼尽する。この方法が浄霊という高度の科学操作であって、しかもこれは医学のみではない、あらゆる科学でも宗教でも、不可能とされていたものも解決出来るのであるから、これこそ超科学でなくて何であろう。これについて別の面からも解説してみよう。それは誰も知るごとく医学の定説となっているのは、病原の総ては黴菌としている事である。この黴菌発見がエポックとなって、現代医学は画期的進歩を遂げたのであるが、これは物の科学の進歩であって、これだけでは半面の進歩でしかない。というのは菌を殺すだけでは根本には触れていない。私からみれば笊へ水汲むようなものである。それは菌なるものは結果であって、菌といえども幼虫から育ったものであり、その幼虫こそ彼のウイルスである。近来学者間においてウイルスは無機物か有機物かの論議があるそうだが、実に滑稽である。それは無機物から有機物に変化せんとする中間粒子であるからで、どちらとも決められないのである。従って肝腎なのは無機物発生の原地であって、これが霊界である。故にこれが分れば最早顕微鏡の必要はなくなる訳である。
以上のごとくであるから、現在までの物の科学は低科学であって、そのような低科学を以って、高度の人間生命を解決するなどは下剋上である以上不可能であるのは当然である。その証拠として浄霊によれば医学で不治とされた難病も、容易に治るにみて明らかである。つまり霊の科学とは物の科学の奥の院といっていいのである。ここで私は霊界なるものを徹底的に掘下げてみよう。そもそも霊界の本質は日、月、土の三精から成立っており、科学でいう酸素、水素、窒素であり、吾々の方でいう火素、水素、土素の結合体である。そうしてこの三原素中の土が物質の本体で、日が霊の本質、月が空気の本質となっており、この日月二者がコントロールしたのが大気であって、これが地上の空間を充填しているのである。しかし火素が最も強力だが、稀薄なるため物の科学では把握出来なかったので、今日までは熱と光は分るが、精としての本質が不明であったのである。そのため科学は水素と土素のみを研究の対象としていたので、現在は水と土の文化であり、これが文明の一大欠陥であったのである。ところでここに驚くべき世界の一大異変をかかねばならないが、それは前記のごとく日、月、土の三原素から成立っており、日と月の交替によって昼夜の別があるが、これは物の面から見た現象であって、これとは別に霊の面にも昼夜のあることである。もちろん物の科学では分りようがないが、霊の科学ならよく分る。では右の異変とは何かというと、これこそ未だ嘗て人類の夢想だもしなかったところの驚くべき世界の大転換であって、それが今や開始されんとしているのである。それは昼夜を押拡げた歴史的異変であって、これを分るには時間的考察より外はない。すなわち霊界においては十年、百年、千年、万年にも昼夜の交替があることである。すなわち地球の実体は火水土の三原素から成立っているごとく、宇宙間一切は三の数字が基本となっており、これが宇宙の鉄則であって、昼夜といえども三年、三十年、三百年、三千年というようになっている。もちろんその物の性質と大中小によって、霊から物に移写するには若干の遅速はあるが、根本は正確に流転している。その三千年の転換期が驚くべし現在であって、今はその黎明期に当るのである。このことは以前もかいたことがあるが、その日時までハッキリしている。それは一九三一年六月十五日であって、この時を期として世界は昼になったのである。といってもある時期までは霊界の変化であるが、漸次現界に移写し、いずれは現実的に分るのである。しかし私はこれ以上深く解説したいが、それでは宗教的になるからここでは省くが、とにかく右は絶対であることを信ずればいいのである。
そうして霊界が昼になるということは、火素が増量することであって、徐々ではあるが物の世界にも移写しつつある。それは水主火従であったこれまでの世界が、逆に火主水従となることである。しかし物の科学で分らないが、霊覚者なら充分分るのである。これによって今まで未解決であったあらゆる問題も、明確に解決されるのである。以上によって、私は現在の低科学を飛躍させ、高科学に引き上げ、真の文明を創造するのである。
自然農法も着々と拡がりつつあり、むしろ予期以上な成績になってます。新聞も今までに随分出来ましたが、無論それだけでは足りないので、二百万も出したいと思います。そうすると全国の農家を六百万として三分の一です。それで、普通の新聞では一枚で五人読むとなってますが、これは特殊の新聞ですからもっとかもしれないが、内輪にみて五人としても一千万人が見る事になりますから、相当の成果があるわけです。それについて最近聞いた話ですが、去年の特集号に出た山川技官という人が首脳者になって、農林省の中に自然農法研究会という会を作ったそうです。今のところはまだ十数人なようですが、ドンドン増える見込みなのです。来月の二日に発会式をやるというような事を聞きましたが、これは大変よい話です。とに角農林省と言えば国家的に一番の本元ですから、此処が分れば急所が解けたようなものですから、非常に結構だと思ってます。今の所は農林省の上役の方ではないのだそうですが、それでも結構です。とに角上役階級の人はこういうことに対しても一番慎重を期しているのでしょうが、遅れるのに決まってます。丁度それと同じような理窟で、新聞が丁度そうです。最近九州の各地で、熊本、福岡、大分という方々の展示会の報告が来ましたが、驚くべく成績がよいのです。各地の新聞がみんな紹介して書いてあり、それもみんな好意を持って、よい書き方です。これらも以前とは全然違って来たです。しかも「夕刊フクニチ」などは約半頁ぐらい書いてあり、見出しが又いいので、〝肥料こそ農作物の敵〟とかと大きく書いてありました。そのくらい地方新聞は大々的に扱っているのです。けれどもこれは当り前の話です。ところが東京あたりの新聞には一つも出てないのです。これは当り前でないです。放送局などもそうです。私は毎日農業講座を必ず聞くようにしてますが、この頃は全然肥料に触れてないようです。これも少しおかしいのです。放送局にも栄光を三年前から毎号五枚配布しているのですから、読んではいるはずです。又朝日新聞などは暮あたりに大分調査して歩いたような事を聞きました。ですから百も承知しているのですが、出さないのです。これはちょっと不可解なようですが、勿論理由はあるのでしょう。ただ遅いのでしょう。以前から〝新聞は社会の木鐸〟とか言って、指導者だったです。ところが近来新聞はだんだん指導される方になったです。だから新聞のいろんな扱い方をみると非常に遅れているのです。社会の方が早いです。新聞の編集などがおそろしく慎重になりすぎて、ぶちまけて言えばお上品になりすぎているのです。これは英国の新聞を真似たのだそうですが、特に朝日などがそれを建前としているのです。だから実に慎重なのです。ロンドン・タイムスなどはそれで大いに売ったのですが、それがあんまり過ぎると、民主的文化の発展という事が遅れてしまうのです。私はよくは知らないが、アメリカの新聞などはもっと大胆に堂堂とやっています。だから米国はあれだけ発展するのです。ところが日本の新聞はお上品になってしまっているのです。どの新聞もみな同じで、三大新聞と言ったところでみんな同じです。それから中新聞も大抵同じで、特色というのはなくなってます。そういうものには、私のやる事は何んでも新しい事ですから、どうもお気に入らないのです。〝救世教という奴はどうも物騒な奴だ〟というように見ているのではないかと思うのです。そこで、私の方で新聞に広告を出そうとしても引き受けないのです。三大新聞は申し合わしたように、救世教の広告は引受けないのです。しかし他の、美術館とか、そういう事は喜んで出すのです。しかし私の書いた本は〝とんでもない、物騒なやろうだ〟というわけです。それから又薬屋とか、肥料屋などもそうでしょうが、そういう方面の手も大分廻っているらしいのです。だから文化の発展、進歩とか、そういう事は二の次三の次で、オレの所の新聞が問題を起こさないように、なるべく無事太平にして、少しでも儲かった方が得だというのでしょうが、これはそういう考え方も無理はないのです。新聞社はみんな株式会社ですから、ある程度利益を上げなければ、株主が怒りますから、それにはなるべく問題を起こさないように、信用を傷つけないように、ごく慎重に構えているのです。それはごく利口なやり方です。しかしそれだけ新聞の生命というものが薄れて来るのです。日本はこれからまだ大いに発展しなければならないという国なのに、そういうふうにオサマってしまってはしようがないです。これがやっぱり政治上でも同じようです。民主的の、進歩的の、そういう気分が薄れて来たのです。政治界なども、国民とか日本の国という事は第二第三で、とに角わが党、自分達の持っている主義を立て通すという、つまり小乗的の考え方です。けれどもしかし、幾らガンばっても何んと言っても、日本の農民層が自然栽培の方にだんだん増えてゆき素晴しい成績を上げて行きますから、そうなれば国民多数が新聞や政府の主義を叩きます。じっとしては居られないわけです。丁度半分中風のようなもので、手を引張るか腰を持上げれば、歩かなければならないというようになります。それでもよいのですが、ただ遅くなるだけです。そこにもっていって、私が学者だと早いのですが、宗教家であり、しかも新宗教というと〝ナンダ、戦後の国民が迷っているところにうまく便乗したものであり、新宗教の中ではとに角頭を持上げ出した。岡田という奴は利口なのだな、銭儲けがうまいのだな〟というように見ているのでしょう。〝しかし言う事はなかなか間違ってはいないようだが、あれとても一時的のもので、大して長い事はない。もう少し様子をみて、それからでいいだろう〟というように至極呑気に構えているのです。尤も、今まで宗教家が宗教以外のことに何んとか言ったり、乗出したりするという事はなかったのですから、それも無理はないです。だから私は宗教ではないという事を言っているのです。宗教というのは教えですから、教えだけでは、少なくとも昔の未開人ならよいですが、今の国際的の生きた世界で、そんな事で人を救えるものではないです。つまり宗教ではなくて救いの業「救世の業」です。だからとに角救世教というものは違うという事を認識させるのがなかなか容易ではないのです。美術館などもそれと同じようなわけで、今まで宗教で美術館を拵えたものは世界中にないのです。しかしこれは素晴しい神様がやられているのですから、ドンドン成績を上げて行きますから、気をもむ必要はないのです。
それについて一昨日、アメリカの、日本で言う文化委員会といったような一つの団体の派遣者で、婦人が来ましたが、なかなか立派な人です。今アメリカで一番注目しているのは日本美術だそうです。それで今まで大体分っているのは徳川期迄で、明治以後のは全然分ってない。明治以後の日本の美術を調査研究しろというので、二年間の予定でその人が日本に来て、今その仕事をやりつつあるのです。その着眼がなかなかよいのです。何んといっても絵画だろうから、絵画を最初に取上げて研究するという事になったところが、明治以後で一番の絵の名人は栖鳳だという事に気がついたのです。これは正確です。今京都の大学院に留学生という名義で来て、栖鳳研究に没頭しているのです。ところが栖鳳を一番持っているのは、日本では私なのです。又私は栖鳳が一番好きで、十年ぐらい前から栖鳳だけを蒐めていたのです。それがうまく役に立ったわけです。そこで、栖鳳をいろいろ見せてもらいたいと来たわけです。それについて丁度よいのは、栖鳳の息子(と言っても五十以上の人で、フランスで、美術の研究をしたようです。無論イギリスもアメリカも研究して、英語が非常にできるのです)が来て、栖鳳の説明と通訳をしたのです。凡てお誂え向きというわけです。三分の二は私の所で見せましたが、後は箱根にあるのです。そこで非常に喜んで、今自分が最も研究しているところにピッタリしたわけです。それでとても熱心に一々書いて、あっちに報告するのだそうですから、無論あっちの雑誌か何かに出すのでしょう。そういうわけで、熱心にやってました。もう一度箱根にある物を見せる約束をしました。米国でも、日本人の芸術的感覚、そういう事が非常に勝れているという事をだんだん認めて来たのです。特に去年、各地で日本美術品の展覧会を開きましたが、あれらが大きな刺戟になって、今非常に日本美術を国民的に見たがり、日本熱と言ったようなものが非常に盛んになって来たそうです。そういうようなわけで、私もちょっと話をしましたが、日本人の美術に対する勝れた感覚、そういうものは世界で一番です。それがアメリカ人にも余程分って来たようです。結局、これはまだ具体的には言えませんが、世界の文化連盟というようなものが作られて、日本を本部として、ユネスコみたいなような機関が出来そうなのです。これは神様の方ではチャンと……出来るのです。それで、その本部を熱海の美術館という事になるだろうと思ってます。実は、日本美術を大いに研究するには、泊る所等の設備を是非ほしいというような事を言ってましたから、そういう段階は私の方でするからと言っておきました。そういうような工合で、文化連盟の本部が熱海の美術館という事になるでしょう。アメリカなどの意向というのは、こういった美術を盛んにする事は、平和のための一番力強いものだ、という事を大いにやろうとしているのです。それでこれがアメリカの平和主義に対する大きな事業だというわけです。だんだんアメリカのそういった識者、そういう面と密接な関係になって来ると思います。それで〝日本の外務省は全然駄目だ〟と言っているのです。〝そういう事に何も感心を持ってない、どうしたものでしょう〟と言うから、〝とに角政府でやっている事は全然駄目だから、これから私の方で、政府で出来ない事をやりますから〟と言っているのですが、政府は看板として、仕事はこっちでやるというわけです。これも地上天国を造る素晴しい要素になって行くわけです。
それから来月の九日から三越で「肉筆浮世絵名作展」をやりますが、今まで浮世絵というと版画で、版画は世界的に拡がって、これはむしろ日本よりかアメリカの方が余計あります。アメリカのボストン博物館にあるだけでも日本にある版画の十倍あります。ですから大したものです。ところが肉筆というのは殆んど無いのです。これは何時かも言ったとおり、肉筆を見る機会もないし、手に入る機会もないのです。そこに私がうまく目をつけたのですが、日本人はやっぱり西洋崇拝ですから、浮世絵は版画というようになっていたのです。そこで版画は高いが肉筆は安いのです。私はそこに目をつけて、二、三年前から蒐めました。その肉筆の展覧会をやるのですが、これは初めてですから、みんな喫(吃?)驚するだろうと思います。〝肉筆とはこんな良いものか、とても版画どころではない〟と、とても評判になるだろうと思います。九日から十八日までです。それから白木屋でも、もうじきやるでしょうが、浮世絵版画展です。これは私の方と博物館と、もう一カ所で、歌麿、写楽といった浮世絵としての一級品をやる事になってます。そういうような工合で、デパートが今まではお寺展覧会でしたが、お寺はもうすっかりやってしまいましたし、これはあんまり感心しないです。ただ珍しいだけのものです。それでこれからむしろ庶民的展覧会が流行になるだろうと思います。そうすると一番品物があるのは私の所ですから、デパートを介して箱根美術館というものは非常に有名にならざるを得ないという事になると思います。まだいろいろ話したい事がありますが、時間が来ましたからこのくらいにしておきます。
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