十一月八日

(お 伺) 大光明如来様、御屏風観音様を御奉斎の家(家族七人の内、祖母、父、母が入信)三男晃三(満九歳)は生来智能低く、今でも涎を垂らして居ります。赤子の時より御浄霊にて育ち、薬毒は御座いません。三週間前より風邪気味の処、或る夜半発熱し顔面蒼白、呼吸困難の症状となり、父母が御浄霊致しますと共に御神前に御守護御願い致し、危機をお救い戴きましたが、その後は譫言を申し、突然起き上る等致しましたが先生に御出張願い祝詞、善言讃詞を奏げ御浄霊を戴きましてから、段々と正気に返った様でしたが、少量の鼻血が出た丈で、目ヤニもその頃より止りました。熱は三十八、九度を前後致し、常に額が痛い痛いと泣いて訴えます。食欲は余り無く、駄菓子を間食致します。最近は昼間は下熱し、夜半になりますと高熱を出し、額、咽喉、腹部、耳等が痛いと、連続的に訴えます。そうして御霊光を貼れ、ゴム輪で頭を締めて呉れと大騒ぎをし、母が殆んど夜通し御浄霊をさせられますが、充分落着いて出来ない始末です。先生に泊って戴いた晩は大した騒ぎもなく済みます。大小便は普通にあり、発熱時は喀痰がよくあります。霊的に疑わしい点は、光線を非常に嫌い。(、)昼間も雨戸を閉めさせ、お守を見せますと、駄々をこねて嫌がります。又発病一週間位前、何時もは余り行かない前の家(霊友会支部長宅)の祭壇の御供物を貰って食べた事があります。祖父は八年前に丹毒で死亡致しました。右、原因と御浄霊の箇所に就き御垂示御願い申上げます。

 尚、晃三の名は明主様より戴きました。

〔御 垂 示〕

 薬毒は御座いません――御座いません事はないよ。之は霊的ですね。赤ん坊が憑っているんですね。それで、赤ん坊が相当な薬毒で死んだんです。それで、その憑っている赤ん坊が、段々浄化が起って来て、その毒が、今出ているんです。非常に結構です。或る時期迄こんな様な具合で、段々良くなります。そうすると頭も余程良くなります。顔面蒼白――之は霊が浮いて来たんですからね。涎を――と言うのは、之は赤ん坊の霊ですからね。こう言う浄化が起ったと言う事は、大変結構なんです。浄霊は頭――前頭部と後頭部から延髄――その辺を良くやってやると良い。それから人によるが、こゝ(頸部淋巴腺)をみて、腫れていたら、そこをやれば良い。

(お 伺) 一家中入信致し、光明如来様も御奉斎させて戴いて居ります。山本久雄(四歳)は、本年の七月三十一日右側急性腎臓炎にて、動くのも不可能となり、激痛を訴えましたが、御浄霊により楽にさせて戴きました。この頃は、右側の体を持ち上げ、横に少しなれる様になりました。初めての御浄化を戴きました頃から四十日程は両足を開き、屈曲した儘で伸ばす事すら出来ませんでした。それが、九月初め頃より、左側腰の横が腫れて、後相当量の拝膿を見ましてより、左右両足共少しづ(ず?)つ伸ばせる様になりました。この頃に至っては自由に屈曲は致しますが、足を伸ばした時は、両足が約三十度位開き、ピッタリと揃えて伸ばす迄にはなりません。昨今の体の症状は腎臓部(右側)に膿が溜っている様で柔らかく腫れて、皮膚は普通で、化膿して外え(へ?)出る様にも見えず、中々引きません。そうして右側腰骨の上に固い毒結が骨の様になってを(お?)ります。それが、起き上る事を邪魔しているのでしょうか、それとも其の腫れている膿か水膿かゞ、痛くなる為に動く事を不可にしているので御座いましょうか。この様な病人は、治療迄相当の時日を要するのでしょうか。御浄霊箇所は特に天帝(庭?)、肩部、頸部、鼠蹊部横より腎臓部で、仰けに寝た儘である為背部よりの御浄霊は出来ません。御浄霊の不備な点を御教示願います。尚、この子は平常でも頭を左右に振り、浄化が盛んな時は一日中休みなく振り、見ている方では眩暈がする位です。御浄霊により、この頃は振らなくなりましたが、之は何の憑霊で御座いましょうか。尚、当家には大銀杏の木がありましたが、昨年のジェーン台風で中途より折れ、半分が未だ其儘で御座います。之と関連性があるので御座いましょうか。御垂示の程御願い申上げます。

〔御 垂 示〕

 背部の浄霊は出来ますがね。手を入れて、離さなくても、ぴったりくっついた儘で、力を入れない様にすれば結構出来るんですがね。そうしなれば駄目です。之は後だからね。台風で折られたのは、別に怨む訳はないからね。憑く場合もありますが、それは大した事はない。こっちでジェーン台風を作ったんじゃないから、ジェーン台風にお尻をもっていくのが本当ですからね。之は何ですね。相当腎臓に固まっていたのが溶けたんです。溶けて来たんで、やっぱり動くと痛いんですからね。屈曲した儘で――之は腰ですね。尾骶骨ですね。之は少しづ(ず?)つ治っていきますからね。そう長くはかゝりませんよ。之は後の方をやらないから、それで長くかゝるんだから、手を突っ込んでそうして力を入れないで、霊を入れるんですから、何でもないですよ。今度の浄霊は、先と違ってそれが出来るんですから、大したものです。右側の腎臓――之は溶けているんですから非常に結構です。それから、首を振るのは、筋(肩の附根)が吊っているんだからね。

 「一日中、大きく振っているので御座います」

 霊だね。細かいのは吊っているんですが、大きく振るのは霊ですね。動物霊ですね。もう治ったでしょう。

 「今は僅かで御座います」

 それで解決ついたんです。胃腸とは関係ないですね。振るのは、小さい時からですか。

 「生れつきで御座いますが、御浄化を戴いてから特に激しくなりました」

 解決ついたから良いです。もう少しで、ちゃんと歩ける様になりますよ。

(お 伺) 上古(じょうこ)武史(十一歳)は、鼻出血が縁で入信致し、大光明如来様、御屏風観音様を御奉斎、毎月お祭りさせて戴いて居ります。当時は毎日の様に鼻血が出て居りましたのが、御浄霊の当日から出なくなりました。其後約二カ月後に、二時間に亘り出血を見ました。爾後は半年に一回位づ(ず?)つ一、二時間出ます。本年に入ってから三回出ました。それで、毎回一升乃至二升の出血(胃液と共に)を見るので御座いますが、出る際は右とか左とか定って居らず、出血の前兆とでも申しますか、必ず一週間位前から鼻づまりが致し、出血が終る時は足先迄痺れると止まります。尚先月より、今迄鼻血の出なかった祖母(八十三歳)も、三回鼻血を見ました。祖母の方は左の鼻から出ます(右は出ません)。本月三日から、毎日三十分乃至一時間に亘って出ますが祖母の方は、孫武史と違って前兆並びに止血する際の変調はありません。二人共鼻血の色は普通の血の色で御座います。孫の方は止血後二、三時間青冷めて居ります。一日経つと全快致します。この原因と御浄霊箇所御垂示の程御願い申上げます。

〔御 垂 示〕

 面白い苗字だね。何う言う風に出て来るんですか。

 「仰けに寝て居りますと、咽喉に入っていく様で御座いますが、それが又、出て参ります」

 鼻血に毒があるんだね。薬毒の古い奴です。之は良いですね。之がないと脳膜炎になります。之は、鼻から出ない分丈――鼻から出切らないで、下にいって足下迄流れていくんですね。右は出ません――今に右からも出ますよ。変調はありません――少ないからだね。この血は、頭の中にある。前頭部ですね。出る丈出れば治って了いますから、之は大変結構ですよ。おばあさんも、やっぱり浄化が起って溶けて出て来たんだから、之も結構です。寿命が伸(延?)びますからね。

(お 伺) (かじ)(さとる)(昭和二十四年入信。二十六歳)昨年十二月頃より咳が多く出る様になり、脈が百以上打つ様になりました。現在の状態は、午前中は寒く、午後は微熱が出て咳が多く最近は声がかれて参りました。非常に貧血をして居り、痰は出(ニク)く、肩が凝り、胸がつまる様で、胃部に力が無く、常にソワソワ致して落着きが御座いません。今年八月頃より脅怖症になり、常に家人の外出を嫌い、その都度脈の数が数えられない位に早く打ちます。脈搏の欠(結?)滞、浮腫みは見られません。御浄霊は一日三回戴いて居ります。薬は大嫌いで八年前に肋骨カリエスで、右側下部の骨を、長さ二寸位に二本切断致しましたが、大して薬を飲んで居りません。長男で御座いますが、別世帯に致して御神体、御屏風観音様共に御奉斎させて戴いて居ります。両親は一向宗で、入信致して居りません。御垂示の程御願い申上げます。

〔御 垂 示〕

 之も、面白い名前だね。大して薬を飲んで居りません――と言うが、飲まなくても、この時の消毒薬が大変だ。飲薬より消毒薬の方が、ずっと恐ろしいですからね。之は肋骨を切った時の、この消毒薬の中毒です。それが固まったのが、昨年十二月より――ですね。脈が早(速?)いのは咳が出る為ですからね。声がかれると言うのは、其痰に――消毒薬が痰になったんですからね。それが刺戟して声がかれるんです。胸がつまる――この薬毒の固りが溶けるんです。溶けて圧迫するからです。胸に何かあると、非常に脅怖感が起るものなんです。ですから臆病な人とか、相当に神経質な人とかは、胸を押すと痛いですよ。大して薬を飲んで居りませんでも――相当、飲んでいるんですよ。それから、一向宗で――之も悪いですね。つまり、治りが遅い訳ですね。だけど。(、?)無理に入れ様とするのはいけないから、放ったらかして置くと良い。今言った通り、手術した処、そこを中心に周囲を浄霊する。それで、段々治っていきます。その代り、相当長くかゝりますよ。

(お 伺) 加藤千代(五十五歳)と申す信者で御座います。昭和廿五年十二月受講中、脳溢血的症状で倒れ数日間人事不省(詳?)となりましたが、御守護戴き回復させて戴きました。本年七月再浄化戴き、隔日位に御浄霊させて戴いて居ります。(他の日は家族が致して居ります)現在迄余り変化なく、当人も家族も多少焦燥の気味で御座います。症状は不絶頭が重く、折々眩暈があり、稀に吐気があり、記憶力は非常に減退して居ります。七歳の頃、角膜炎の手術二回、この折全身麻酔をし、現在は弟さんの家にて養生中で、そこには御神体奉斎され御屏風観音様もお祀りさせて戴き、日中の気分の良い時は、努めて御神書を拝読させて戴いて居ります。何かと不平勝ちで御座いまして、無い命を救われたと言う感謝の念の乏しかった事をお詫び申上げます。最近稍々改心致し、不平は無くなって参りました。御浄霊の重点及び、信仰上改心すべき点を御教の程御願い申上げます。

〔御 垂 示〕

 七月再浄化で、三月位しか経たないですね。それで焦燥なんて、余っ程言ってやると良い。中風的症状で、三月や四月で、良いとか悪いとか言うのでは、問題にならないですね。之は普通打擲らかして置くと何十年も治りっこないんですからね。一年や二年は、何にも焦らずに任かせて置くと言う心持でないと駄目ですね。病気は――凡ゆる病気は、焦ると言うのが――執着ですからね。何時も言う通り、そうすると治らなくなる。反って、治そう治そうと言うと、それが逆になりますから、治らなくなる。こう言う事は、家に人に良く言ってやると良い。だから、死ぬまい死ぬまいとすると、反って死ぬ。そんな事を考えないと、生きる。この間も言ったが、逆効果になるからね。浄霊の重点や信仰上改心する点と言うのは、御神書読んでいるでしょう――結構ですよ。頭ですね。頭に毒が非常にありますから、頭を主にしてやると良い。それから、こゝ(頸部淋巴腺)ですね。それで、少しづ(ず?)つ治っていく訳ですよ。

(お 伺) 酒井康祐(五十歳)二十二年六月頃より背中がつゝぱり、激痛を感じ、鍼、灸等をやっているうちに、同年十二月、より以上に悪化し、首より下が全身不随となり入院(東大)致しました。病名は脊髄炎後胎症と言われ、ペニシリン注射三カ月、サルバルサン(三号)二十本、電気マッサージ等の治療を致し、又検査の為脊髄より四回水を取って居ります。入院後三カ月程して、体は段々動く様になり、八カ月目に退院し、その後は殆んど医薬を用いて居りません。現在は仕事を致して居りますが、発病当時と同じ様に背、胸に痛みを感じ腰、足が突っ張り、主に左が悪く、又大、小便の出が悪く背中、腎臓、足等を強く指圧しても痛みは感じません。尿毒の為と存じますが、体は肥満して居ります。一カ月前より、御浄霊をさせて戴いて居りますが痛みは段々強くなって来て居ります。右、病気の原因並びに御浄霊の箇所を御教示御願い申上げます。

〔御 垂 示〕

 脊髄炎後胎症と言うのは、おかしいな。之は、薬毒が背中に固まっているんです。それから、腎臓が圧迫しているから、之は、腎臓を主に、背中の痛い処、そこをやれば、きっと治ります。痛んで来れば結構ですよ。浄化が起ったんだからね。相当痛むでしょうが、よくそれを言い聞かせて、痛むと言う事は、治る作用だと言う事を納得させる様に説明してやって、そう言った事を書いた私の本を読ませる様にすると良い。

(お 伺) 当年七十歳(本年九月入信)、廿三歳の時花柳病を患い、両横痃が出た事があり、其の時生卵を食べました処、引っ込んで了いました。其の後鼻の具合が悪く、頭も悪く首も廻らぬ様になり、薬も飲みましたが効果なく、或人より、若い女の人の頭の皿の骨を黒焼きにして飲むと良く効くと教えられ、内証で焼き場の人に頼み頭の皿を三個買い、三週間に飲みました処、今から考えますと、固かったのか治って了いました。又淋病も患い、種々薬も飲みましたが根治せず、七十歳の今日迄、排尿時に痛みを感じ、小便の出が悪い時もありました。尚 之迄に心臓病及び腎臓病を患った事もあり、痔も何時も悪く、昨年の九月より小便が全然出ぬ様になり、毎日医師に管で取って貰って居りましたが、今年七月より自分で尿道口より管を差込み、毎日十回位取って居りました。九月入信させて戴き、近頃は日に五、六回管で取って居ります。小便が溜ると苦しく、幾らきばっても出ず、膿が二、三滴出るのみで御座います。管を差込みますと、最初膿が出て、次に小便が出て、後から又膿が出ます。小便が溜れば苦しくて我慢が出来ず、管を差込んで出す時も、出した後も激痛甚だしく、尚痔の方も、この頃は浄化戴き、腰も痛みます。御浄霊は戴いて居りますが、管を差込まずに出る様になるもので御座いましょうか。如何に致しますれば宜敷う御座いましょうか。御浄霊の重点に就き御教示賜りたく御願申上げます。

〔御 垂 示〕

 生卵位で、引っ込むとは――おかしいね。毎日十回位――之は厄介だね。之は理由は簡単なものなんです。今迄色々――花柳病や――色々やりましたが、今迄体に入れた薬ですね。こう言う人は沢山あります。私などもありましたが、段々薬が下に垂れて、下がって来る。この人は、膿が下っていって尿道の周囲に溜るんですね。それで、尿道が小いさくなって圧迫するから、無理して出すと言う事になる。それから痔も、膿が下って、肛門に溜るんですから、つまり之はみんな薬毒ですね。梅毒とか淋毒と言うのは、大したものではない。そう怖いものではない。薬毒が恐い。それを治そうとする薬毒が恐い。膿が始終下に下っていって溜る。浄霊すると、段々溶けて来ますからね。それから、小便する時に膿が垂れると言う事は、減っているんですからね。根気ですね。やっていると、痔も起らなくなる。痔でも尿道でも、自分で浄霊すると良いですよ。未だ、入信して間もないが、そう言う風にして根気よくやって御覧なさい。自然に出る様になります。そうすると、楽しみになって、段々出良くなりますから、非常に希望が出ますよ。こう言うのこそ、何にも心配がなくて、むしろ楽しみなものです。

 凡ゆる(しも)の病気ですね。婦人にしろ――男女共――痔ですね。腰が痛い。足が重いと言うのはみんな、前の薬が段々下に下っていくんですからね。だから、理窟は簡単なものです。その苦痛の処丈けをやっていけば、自然々々に減っていくものです。

(お 伺) 杉田哲子(十五歳)九月十二日発熱、頭及び首が痛み下痢があり、二人の医師が心臓病と診断し見離され、其後今日も臥床出来ず、座り続けて居ります。寝ますと胸部が苦しく、家族の者に交替で体全体を撫でさせ困らせます。御浄霊は日に二回させて戴いて居ります。御浄霊の箇所を御垂示の程御願い申上げます。

〔御 垂 示〕

 名前が良くないね。頭及び頸が痛み――この浄化ですね。こう言うのは、きっと之(頸部淋巴腺)ですね。之をやると、割合治りが良いです。下痢――結構です。之は頭の毒が溶けて。(、?)下痢になるんだから、非常に結構です。

 「膝から下、手の甲が浮腫んで居ります」

 それは薬毒ですよ。薬毒が垂れていって、浮腫んでいる。それから、手が浮腫むのは、大抵注射です。注射が溶けると、手が浮腫みますからね。之は、その箇所を浄霊すれば何でもないです。割合早く治ります。寝ますと胸部が苦しい――と言うのは、こゝ(胸部)です。肺が圧迫されるから苦しいんです。こう(左下)寝ると苦しいと言うのは、こっち(右側)に毒があるから苦しい。こっち(右下)に寝ると苦しいと言うのは、こっち(左側)に毒があるからです。之は、胸をやってやると良い。治りますがね。大した事はない。薬毒ですから、今言った様にやれば治ります。

(お 伺) 私は五十一歳で三男五女の母です。三十四歳の十月に、一カ月程腎盂炎を病んだ事があります。高熱が出ましたので、注射をしたり冷したり致しました。其後はずっと健康で過して参りましたが、時々肩の凝りはありました。処が二十五年五月の中頃に、右の頬骨が腫れて来ました。之は虫歯の為だと思いその儘にして置きました。家人が、捨てゝ置いてはいけないと言うので、痛みませんでしたが歯科医に診て貰い、注射をして抜き取りました。処が十月十日になっても、腫れも引かず、十月十二日に大阪大学病院にいって診察を受け、レントゲンを撮りました結果、骨腫かも知れないから手術しては何うかとの事でしたが、私は手術が嫌ですから、遂にその儘二十六年の三月迄過して参りました。其間二回も神様に御願する様に勧められましたがついウカウカと過し、四月二日に入信させて戴きました。其後お参りをと思って居りましたが、長女がお産をしますので、手伝の為浄霊が後れ、六月十九日から毎日、近くの信者の方に浄霊をお願いして居ります。御浄霊を戴くに従って段々腫れがひどくなって、鼻柱より高く腫れ上り、何うなる事かと心配しましたが、八月六日に熱の浄化を戴きました。十月の初めから食欲が減り、十月二十六日に又発熱致し、その都度腎盂炎を病んだ処が痛みます。熱は二回共三十九度程ありました。三十日、明主様に御面会させて戴き、三十一日から又浄化を戴きまして、目ヤニはずっと出て居りましたが、五日には口と鼻から、少し血の固りが出て来ました。気分もずっと良くなり、食欲も出て参りました。支部には、月に一度位しかお参り致して居りません。尚、ひどく腫れて居ります。御浄霊によってお救い戴けますもので御座いましょうか。

〔御 垂 示〕

 之は、捨てゝ置けば良いんだ。非常に良いんだがね。骨腫かも――骨が腫れるんですかね。鼻柱より高く――結構ですね。之は結構ですよ。どんなに腫れても良い。腫れる程良いんですからね。そのうちに赤くブヨブヨになって、血膿が出て、それで治って跡は何にもなりません。

 「本人も毎日御礼に参って居ります」

 結構です。もっと腫れると良い。もう長い事はない。もう少し経つと、小いさい穴が開いて出ます。少し湿る様な事はないですか。決して心配はないから大丈夫です。もう直きですよ。それから腎盂炎の処が固めてあるから、少し痛みますが、腎盂炎なんて何でもないです。足は、歩くのに何ともないでしょう。それじゃ、腎盂炎も何でもないです。

(お 伺) 妻前田こずえ(五十三歳)昭和十八年以来御浄霊を戴いて居りますが、十三年来の中風が段々と重くなり、最近は歩行も不自由になり痩せて参りましたが、何分にも(しも)の方の不始末で困り居ります。以前御伺い申上げましてから、前後頭部と延髄に重点を置いて御浄霊させて戴いて居りますが、之は一家中の悪因縁を背負って呉れて居るものと存じ、大切にして居りますが、(しも)の不始末の為に粗相があっては申訳ないと思い当人の御守様は大光明如来様の御神前に起き、掛けさせて居りませんが、之でお許しが戴けますでしょうか。又、妻に此の様な事がありますのは、未だ私の信仰の度合が薄い故で御座いましょうか。御浄化のうちと心得て宜敷う御座いましょうか。

〔御 垂 示〕

 いけないですね。飛んでもない間違いです。そんなに汚ごす事はないじゃないですか。大小便でしょう。お守をそんなに下迄やる事はない。お守は掛けなければいけない。掛ける為に戴くんですからね。紐がついていると言うのは、掛ける為なんです。それでなければ御守護戴けないですよ。よく、勿体ないと言って掛けない人があるが、之程間違っている事はない。お守は湯に入る時丈けはずして、あとは絶対にはずしてはいけない。お守ですから、一時も離してはいけない。よく、怪我したりする時は、きっとお守が原因ですね。この人もそれですね。根本問題は、お守をはずしている事ですね。固まりが溶けて来たんですが、こんな事はない訳ですがね。悪因縁を背負っても、やはり神様に、それを取って戴くんだからね。もっと治らなければならない筈ですがね。今言った様に、お守を掛けさせる事と、それからお守を汚ごす様なら、神様が汚ごさない様にして呉れます。それから、浄霊に力が入り過ぎるんだね。こう言う人は、そういった肝腎な事を考え違いしている。浄霊の力を入れてますね。力を出来る丈け抜く事と、お守と、頭を始終やっていれば、もっと良くなります。それから、首の横の両方を見て御覧なさい。固りがありますから、それを良く溶かす。それから、尾骶骨を良く溶かす。それを主にしてやって御覧なさい。もっと良くなって来ます。

 

【御 教 え】

 之は、今度――つい最近松井さん、鈴木さん、アザブ伸さんと鹿島秀月さんと九州地方に宣伝旅行に行った時に、つまり私の原稿を欲しいと言うので、非常に懇願するから、それで書いたものです。

 

(御論文「舌に代えて」)【註 栄光一三〇号】

舌に代えて

(栄光一三〇号)

 私は今日の講演会について、直接皆さんにお話したいのでありますが、何分私の現在は仕事が余りに多過ぎて、文字通り寸暇なく不可能でありますから、舌の代りにこの原稿をかき、読ませる事にしたので、そのつもりで聴かれたいのであります。

 ここで前もって断っておきたい事は、この話のあらましは、信者よりも未信者諸君を対象としたのであります。それでこれからお話する数々は、まだ昔から何人も説いた事のない新しい説であって、少々桁外れと思うくらいであるからどなたもサゾ驚くでありましょう。だが充分心を落着けて玩味したならば暗夜に光明を得たごとく心眼が開き、幸福の門の鍵を握るであろう事を、私は確信するのであります。

 皆さん、今現在の文明世界を見て、どうお考えになりますか、言うまでもなく文化の進歩発達は驚異的である以上、大いに満足されなければならないにかかわらず、実際は何としてもそういう気にはなれないのであり、むしろ今日のごとく進歩する事すら恐ろしい感がするくらいなのはどうした訳でありましょうか。実に不思議と思うのであります。なぜなれば文化の進歩の目的は、人類の幸福を増進させる事にあるからであります。ところが現実は右の通り逆であるとしたら、その点に何か割切れない物があるに違いない。ではその割切れない物とは何でありましょうか。それはこれほど進歩した今日でも人間には安心もなければ幸福もない、どんな人でも病気の苦しみ、経済難、戦争の恐怖等が付纏っていて、離れないのが現実であります。そのように進歩すればする程苦しみは益々深刻となり、その人間の数も増え、大規模になってゆくばかりであります。知らるる通り今や世界の二大分野としての、アメリカ側とソ連側との対立であって、いつなんどき第三次戦争が勃発するか分らない状勢にあります。しかも今度戦争が始まったとしたら、恐ろしいアノ原子爆弾が飛び出すに決っているし、そうなったら万事お仕舞いです、恐らく世界は墓場となるか知れないのであります。何と戦慄すべき事ではないでしょうか。これが文化の進歩のお蔭としたら、これほどの矛盾があるでありましょうか、この点深く考えなくてはなりますまい。これによってみても、現在は全く文明と幸福とは、離れ離れになっており、しかもこれに気の付く者がほとんどないとしたら、世界の前途は暗澹(あんたん)たるもので悲観の一途あるのみでありましょう、ところが私はその根本原因を発見したのであります。それによって悲観どころか、今は大楽観に転じているので、このような有難い事を一人でも多くの人にお知らせしたい念願であります。それについて申したい事は、現在の文明は本当の文明ではなく片輪の文明であるという事であります。とすると誰しも意外に思うでしょうが、なるほど物質的には大いに進歩はしたが、精神的には少しも進歩していない、つまり、人体で言えば跛であります。右の脚だけ歩けて左の脚は歩けないのと同様で、例えば右の脚が物質文明としたら左の脚が精神文明であるから、この不具の左の脚も歩けるようにしなければならないのであります。ところが精神の方は何しろ目に見えない相手だから科学では駄目で、ヤハリ見えない力に依るより外ないのであります。しかしこの見えない力は生憎世界中どこを探しても見当らないし、今までとてもなかったのであります。論より証拠昔から教育や、道徳、宗教等がいかに骨を折ってもある程度の効き目はあったが、根本的効果はなかったという事は現在の世の中がよく物語っているでありましょう。

 ところがその力が今度現われたのであります。それが我救世教であるというと知らない人は恐ろしい大法螺吹きと思うでありましょうが、事実は飽くまで事実であって、私はその力を神様から与えられたのであります。しかしこの事は今初めて私が唱えるのではない。二千年以上も前にすでにキリストも釈迦も立派に予言されております。ではなぜ私がそのような大任を神様から荷わせられたかというと、前にも述べたごとく現代文明は極度に行き詰まり、世界は滅亡の寸前にまで来ているからでキリストの言われた世の終りの姿であります。しかもこれは空理空論ではなく目前に迫っている現実であって、お互は今や世界的破局に直面しているといってもいいでしょう。

 そうして私は今、文明の創造という本をかいております。この要旨は現在の文明は真の文明ではない魂のない空虚な文明であるからこの文明に魂を入れて、苦しみを作っている文明を、喜びを作る文明に置換き替えようとするのであります。この本当の文明を詳しく説いたものでいわば、真文明の設計書ともいうべきものであります。出来上った上は英文に訳して全世界の各大学を始め、学界、新聞社、著名人等、出来るだけ広範囲に配布するつもりであります。これによって恐らく世界的一大センセーションを捲き起すでありましょう、そうしてこの説の根本は、人類から病気を無くし、貧乏を無くし、争いを無くすという本教のモットーである病・貧・争絶無の世界を造る、その方法を明示したものであります。もちろん争いといっても個人と共に戦争もそうであり、これを無くす事こそ、全人類を救う最も根本条件でありましょう。言うまでもなく真の文明世界とは、何よりも、人間生命の安全であります。ところが現在生命を脅すものとしては、病気と戦争の二つであるから、この二つの問題を解決する以外、他のいかなる条件が具わっても無意味であります。ところが私はこの二大災厄を根本的に解決し得る方法と力を、私は神様から教えられ与えられたのであります。従ってこのような素晴しい我メシヤ教の実体は、実は宗教ではないので、宗教を超越したところの大なる救いの業であって、全宗教をはじめ、一切を救うところの空前の大偉業であります。

 今一つ言いたい事は、現在吾々の住んでいるこの日本の現在であります。諸君も知らるる通り結核問題、食糧問題、経済問題等々、山積している難問題も本教の主旨に従えば、容易に解決されるのであります。もちろん個人としてもこの地獄の世の中にありながら、天国的生活者となり得るのであります。ところがこれほどな結構なメシヤ教でも、何や彼や誤解をされたり、迫害されたりしているが、これも御存知のごとく昔から宗教に迫害は付物で、本教などはむしろ軽い方でありましょう。最後に申したい事は、右のような私の言う事にいささかでも疑いを持つ人があるとしたら、百聞は一見にしかずで、思い切って接してみる事で、生れ変ったような歓喜の生活者となる事は、太鼓判を捺しても間違いはありません。恐らく世の中に幸福の嫌いな人は一人もありますまいから、幸福の欲しい人は、遠慮なくドシドシお出で下さいとお勧めする次第であります。

 それから、之は「文明の創造」の宗教篇の一節ですけれど、今迄善悪に就いて、本当に説いた者はなかったんです。勿論、悪はいけない。善でなくてはいけないと言う事は分り切った話ですが、然し、いけないいけないと言い乍ら、悪があるんですからね。若し、この世の中は神様が造り、神様が経綸しているものなら、悪にも何か意味がなくてはならない。けれども、悪の為に人間が、今の今迄悩んで来たかは、分り切った話ですが、そうすると、善と悪との関係ですね。何故悪があったか。神様は、善をしろ善をしろと言うし、神は愛だと言い乍ら、悪人は相変らず蔓延(はびこ)って、何時の時代でも戦争の脅怖は絶えない。そう言った事を、根本的に分らなければならない。それを解る様に書いた文なんです。

 

(御論文「善と悪」)

善と悪

(『天国の福音』より)

 私は神と悪魔に就いて説こうと思うが、これは洵に困難である。何となれば人間は人間であって、神でもなければ悪魔でもないからである。併し乍ら人間には自由がある。ここでいう自由とは自由主義ではない。然らば何か。夫は人間が神にもなり得れば悪魔にもなり得るという自由である。そこで私は霊界研究から得た神と悪魔なるものに就いての見解(けんかい)を述べてみよう。

 先ず神の意志とは何ぞやというに、それは絶対愛と慈悲そのものである。併し乍ら私の言う神とは正しい神であって、邪神ではない。という事も変な訳であるが、神には邪はなく正そのものが本質であるからである。従ってここでいう邪神とは、本来正しい神でありながら一時的過誤に(おちい)ったという訳である。何故神にして過ちを侵すかというに、正神邪神は常に闘争(とうそう)している。その場合八百万の神と雖も最高級の神から最下級の神に至るまでの階級は百八十一とされている。したがって二流以下の神は往々邪神に負ける。即ち或期間邪神の虜になるのである。本居宣長の歌に「八百万神はあれども心せよ鳥なりもあり虫なるもあり」というのがあるが、その点をよく喝破(かっぱ)している。そうして今日まで夜の世界は邪神の力が強く正神は常に圧迫(あっぱく)され勝であった。世の乱れはそれが為である。そうして昔から善悪不二、正邪一如等という言葉があるが、これは全く真理である。善悪とは相対的(そうたいてき)なものであって、善があるから悪があり、悪があるから善がある。したがって善悪は時所位に応じ決めらるべきで、例えば今日の時代に善であったものが次の時代には悪になる場合もあり、個人的には人一人殺しても殺人罪になるが、戦争(せんそう)の如く集団的に大勢を殺す場合、罪人どころか殊勲者としいて賞讃(しょうさん)さるるのである。併し乍ら個人にせよ国家的にせよ、悪は一時栄えても結局は破滅するが、善に於ては一時的には苦しむが時が来れば必ず栄える。然も死後の世界の実相を知るに於て、善は永遠の幸福者たり得るのである。そうして人間が神になるか、悪魔になるかを容易に知り得る方法がある。それは見えざるものを信ずるか(いな)かである。即ち見えざるものを信ずる人は神にまで向上し、その反対者(はんたいしゃ)は悪魔にまで堕落する危険があるのである。

 抑々人間が悪を行わないという事は、見えざるもの、即ち神仏が見て御座るという観念(かんねん)によるからで、この世界に見えざるものは何にもないと思う心は、人に見られない、知られなければ如何なる悪事をしても構わないという観念になる。故にこの思想を推進めてゆく時結局悪魔にまで堕する訳である。したがって唯物主義者に真の善人がありよう訳がない。もし唯物主義者にして善人でありとすれば、それは中心からの善人ではなく、信用を保たんが為の打算的(ださんてき)で、暴露の場合信用の失墜を恐れるからで、いわば功利的(こうりてき)善者でしかないという事になる。読者よ、こういう偽装(ぎそう)善人があまりにも多い現代社会ではあるまいか。この意味に於て見えざるものを信ずる人こそ真の善でありと断定して差支えないのである。

 ここに注意すべき事がある。それは正神と邪神との信仰の結果である。それは世間往々神仏を熱心に信仰しながらも、家庭のものや他人に対する行動の面白からざるものがある。愛が無く利他的観念が乏しかったり、又は虚偽(きょぎ)、不正を平気で行うという人があるが、これ等は信仰の目標である神仏が邪であるからでそれに就いてこういう話がある、ここに一人の旅人があったが、無銭飲食によって警官が訊問し懐中を調べた。処が胴巻に百円の札束があったので詰問(きつもん)した処、この金は○○寺様へ奉納する金だから、百円から一文も減らす事は出来ないという。これなどは邪宗信者の典型(てんけい)であろう。したがって斯様な信仰者は一生懸命信仰しながら邪道へ陥り、不幸者となるのである。故に信仰に熱心であればある程健康を増し、家庭は円満となり家は富栄(とみさか)え、他人から敬愛されるというようになるこそ、正しい信仰の結果で、勿論その神は高級なる正神正仏である。

 又こういう事もある。全くの至誠を以て神に仕え、熱烈なる信仰を捧げ長年月に及ぶも、病気、貧困、不幸等絶えず襲いかかり、苦悩の生活から離脱(りだつ)出来ない人があるが、それに対し道理をつけて善に解釈する。即ち神の試煉(練?)又は罪障消滅なる言葉である。又難病の場合、宗教家に相談すると、曰く〝人間は(すべから)く死生を超越せよ〟などというのである。然るに私は思う。右の両方共正神ではあるが、実は二流以下の神で絶対(ぜったい)の力がないからである。然らば今日まで凡ての宗教、凡ての神は何故絶対力を発揮(はっき)し得なかったかという点であるが、これには理由がある、即ち夜の世界の期間は、月神系の神仏であって、月神系は二流以下の神格であるから、絶対力を発揮し得なかったのである。

 「文明の創造」も大体、医学、宗教は書き上がったんです。之から天国篇を書こうと思ってますがね。天国篇は、一番興味があるんですがね。天国――まあ、五六七の世の凡ゆる機構ですね。それを書いてある。政治、経済、教育、宗教、芸術――基礎になる様な事柄の、新しいやり方ですね。それを書いてある。唯、それを扱う人間に悪があると、何んなものでも旨くいかない。それで、先ずみんなが本当に神を知って、善になれば――なった人許りで経営したら、非常に旨くいく様な組織を書いてある。もう少し経つと、五六七の世の原稿が出来た丈けづつ順に読みますから、それを楽しみにして居て貰いたい。

 それから、つい二、三日前の、地方の便りですが、こんな事があった。今度、秋田県の或る村でウンカが非常にわいて困っていた。そこに或る人が来て、それは、肥料をやり過ぎるんだ。肥料をもっと少なくしろと言うので、少なくしたらそれから良くなった。その人にお礼の意味で、家を造って、そこに住まわせると言う、美談としてあったが、多分其の人は、私の書いた本を見て言っただろうと思うが、肥料を減らした丈けでも良くなったんだから――全然やらなかったらとは考えないんですね。処が肥料を全然やらないと言う事は出来ない。その点は遺憾ですが、之も肥料の害と言う事の肥料迷信者が、少し許り分った訳ですね。

 それで、もう一つ、今度の発表で六千六十六萬石と言うんですから、平年作より五百萬石位は少ないですね。然し、今年は台風もなかったんですから、何時もより良く穫れなければならない。去年でさえ、台風があんなにあっても六千四百萬石穫れましたからね。そこで、考え直さなければならない。考え直しているが、良い考えが出て来ない――根本が違うからね。「下手の考え休むに似たり」でね。そこで、こっちは、今度大々的に肥料の迷信の目醒ましをやりますがね。その成績が今月一杯に来るでしょう。今年はこっちは、自然栽培の成績は、何処もかも良いです。之を材料にして大いに目醒まし運動をやろうと思う。ひどい処になると、静岡県の何とか言う処は、平年作の四割減で、六割しか穫れない。何うかと言うと、虫害――ウンカとイモチ病ですね。之を大いに目を醒まさないと、段々減りますよ。来年はウンと減りますよ。と言うのは何かと言うと、霊界が変って来たからです。丁度、段々薬で固められなくなる様なもので、肥料の働きが逆になって来ますからね。之も、今に精しく説きますが、逆になって来ますから――肥料の効果は反対になるから、益々出来なくなると言う事になって、恐るべきものですね。今年でさえ、輸入米三百七十萬トンとしても大変なものです。金にして千五百億を下らないでしょう。そんな様な具合ですから、愈々――大いに之を知らせなければならない時期になったんですね。

 

 

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