十一月十五日

(お 伺) 私の家にて現在世話をして居ります教師山下睴弘(五十二歳)は、十三歳の時右眼の手術をしてより、三回右眼の手術をし、十九歳の時に脳を患い医師の治療で治り、二十九歳の時に米俵を抱える機勢(はずみ)に、腸にひゞが入ったとかにて、腸の手術をしてより腰の痛みを訴える様になり、本教を知る迄は腰を木の棒にて家族の者に叩かせて居りました。三十五歳の時に肺炎の様な状態となり売薬で治りました。四十二歳の時に盲腸を患い、其時は夢のお告げで、鰯の腸を煮て一日食し、治りました。四十八歳の五月に入信し、十一月より一家中疥癬の御浄化を戴き、翌年九月に良くなりましたので、御本部に御礼詣りに上り、その時より痔出血をする様になり、それから三年間ボツボツ出血して居りましたが本年三、四、五月は毎日五回位出血する様になり、六月には貧血状態にて倒れましたので、家え(へ?)引き取り御浄霊を致して居りました処、出血も止り血色も少し出て参り元気を取戻し、十月十五日には御本部に御参拝に上りました。帰ってより又御浄化を戴き、一カ月程前より家に帰して居りましたが、十月二十一日より又世話して居ります。少量の出血をしてを(お?)り、生来の色白の肌が血色なき為に蒼白となり、食欲旺盛で、痩せは致しませんが、足がふらつき起きた瞬間など視界がみんな黄色になると言って居ります。頭もぼーっとして居り二、三日前より尿量が減り、顔が浮腫んで居ります。入信前迄は凡ゆる薬を飲んだと言って居ります。如何致しましたら御救い戴けましょうか。尚山下さんの奥さんは先夫二名に死別致して居りますが、五日程前に其の二名の位牌を作り、山下家の仏壇にお祀り致しました。それより山下さんの顔がボヤけ、顔が浮腫んで来た様に思われますが、亡夫位牌との関係が御座いましょうか。

〔御 垂 示〕

 腸にひゞが入るなんて――丸で瀬戸物みたいだな。目の手術をした――この為に脳を患っているんですね。そんなこんなで、薬は相当入っている。それが腸に溜って、米俵をかつぐ機勢(はずみ)にその薬毒の固まりが――浄化が起きたんですね。それで、腰も続いて浄化が起った。売薬もやっぱり悪いですからね。痔出血は頭の血ですからね。之はみんな毒血が出た訳だけれども――誰が浄霊しているんですか。何処か――急所がはずれているんじゃないかな。固まりがあるんですか。

 「以前はありました。現在一日三回位致して居りますが、腎臓をやると非常に暖かくなり、目も見える様になり、腰のふらつきも良くなります」

 それじゃ、今は腎臓ですね。それで、良く治る訳ですがね。熱は無いんですか。

 「平熱で御座います」

 腎臓に固りがあるんですか。

 「多少御座います」

 押して痛い程じゃないんですね。

 「左様で御座います」

 腹は。

 「柔かい様で御座います」

 もう直き治るでしょう。別に大した事はない。腎臓と背中――それで良いです。亡夫位牌との関係――無い事はありませんがね。そう言う場合には、この人に憑って、霊が浄霊して貰いたいんです。之は、そう長くはないですね。どんどん解決します。

(お 伺) 藤田佳子(十五歳)昨年四月入信致しました。只今禿頭病にて頭髪全部脱落して了い、この状態が三、四カ月続いて居ります。本人は三、四歳頃より少しづ(ず?)つの同病があり電気治療、医療其の他を、昨年入信迄続けて居りました為、其の浄化作用と存じますが、この儘御浄霊を続けさせて戴きましたら、毛は生えて来るもので御座いましょうか。尚本人の父は、先月御資格をお願いして、熱心に御用させて戴いて居ります。御浄霊箇所を御垂示御願い申上げます。

〔御 垂 示〕

 頭髪全部――之は困るな。禿頭病と言うのは治ります。色んな――電気かけたり、薬を塗ったりした為に治らなくしてあるんだから、それ丈け手間がかゝるんですね。そんな事をしてなければ、割合早く治るんです。気長にやれば治ります。頭に毛が生える様に神様がつくってあるんだから――生えないと言うのは、薬毒が――親の毒だか、本人の毒だか――兎に角、毒が固まっている。草の生える様な処に肥料ぶっかけた様なものですね。だから、それが取れるに従って生えて来ますからね。相当に色んなもので攻めてあるから、時日はかゝります。と言っても、そう長い事はないですね。充分に見ても、一、二年かゝる積りでやったら、まあ――治りますね。やる処は、頭全体ですね。それから首の廻りと、大体それで良いです。

(お 伺) 池田修二(三十歳)昭和十六年左湿性肋膜炎に罹り、二年後左肺浸潤を患いカルシウム注射、漢方薬、縞蛇二十匹をやり、更にサフアランチン数本を注射し、一時小康を得ましたが、二十二年(四年後)に再発致しました。同年三月入信させて戴き、数回の御浄霊で元気にさせて戴きましたが、其の後疥癬、急性腎臓炎の御浄化を戴き、本年三月頃より衰弱が加わり、食事は茶碗に軽く二杯、一日二食にて時々吐気を催し、唾の様な苦い液体が出ます。雨の日や寒い日は起きる事が出来ません。午後になりますと三十八、九度の発熱があり、常に上半身に微熱がありますが、御浄霊を戴きますと下熱し気分が良くなります。夕刻一キロ位ゆっくり歩いて居りますが、僅かな坂でも相当に息苦しく感じます。痰は相当多量に出て、毎日軽い下痢が御座います。又黄色の小便が多量に出て居ります。発熱時は非常に肩から腎臓の固い処が痛みます。現在三、四日置きに教師の方に御浄霊戴き、自分でも致して居ります。御浄霊の急所を御教えの程御願い申上げます。

〔御 垂 示〕

 之は順調です。色んな――この為に治るものを治さないで置いてあるんですね。之で固めて、浄化が起って、今度は薬毒の浄化も加わった訳です。それから熱が出ると、やっぱり食欲が減って体力が消耗するから、相当衰弱は致し方ないですね。時々吐気――と言うのは薬ですね。結構です。唾の様な苦い――之も薬毒です。之は、元肋膜をやった時の、その水――湿性肋膜だからね――それが固まっているんだから、それで肺浸潤をすれば治るんだけれども、肺浸潤も()めちゃったからね。それで治るんだがね。浄霊の箇所は、肋膜の箇所で良い。こうやってみると、固りがありますよ。背中と横腹の間――胸ですね。そこを押してみて、痛い処があったら――グリグリがあったら――そこを浄霊すれば良い。私も始終やってますが、五十年位前に肋膜をやって、今もやってますが、大分溶けて来て、非常に具合が良くなっている。之はやって居れば治るから、ちっとも心配要らない。痰になって出るんですから、何も心配する事はありませんよ。それから胸です。胸を押すと痛いですからね。私なんかも、やっぱり痛いです。自分でやってますが、段々具合が良くなって来る。今迄に覚えない位気持が良いです。尤も五十年ですからね。五十年経っても、薬毒と言うのは固まったきりで、溶けないですからね。

(お 伺) 大橋健次(二十六歳)昨年九月頃より左奥歯の附近が腫れ上り、痛みに耐えかね医者に診せた処親不知歯が生えた為だと言いますので、抜きました処が段々腫れ上り、激痛の為医師に通いビタミン注射其の他の注射数十本致しましたが、何の変化もなく、御獄教の祈祷師に見て貰った処、之は大変なお障りがあるから、お縋りすれば簡単に治ると言われ、四十日程縋って居りましたが、何の変化もなく、其の後浜松の専門医に診て貰いザルコームと診断され入院致しました。ラヂウム治療を二十日程続けましたが、ラヂウム治療の痛みに耐えかね退院致し、本年三月お道のお話をお聞きし、御浄霊を戴き、御守護により大変楽にさせて戴きましたが、六月頃より又化膿し始め、口中は物凄く腫れ上り顔半面二カ所に、丁度瓢箪型の様に腫れ、口は開かず流動物丈けを摂って居ります。御浄霊を戴きますと、血と膿の様なものが流れる様に出ます。常に沢山出て居ります。十月頃から、左半身特に足の方が痛み、中々腫れて居ります。本人は一心にお縋り致して居りますが、家族は未だ入信致して居りません。尚、御屏風観音様は御奉斎させて戴いて居りますが、御神体は未だで御座います。御浄霊は、患部及び腎臓部で宜敷う御座いましょうか。

〔御 垂 示〕

 之は本当に危ぶない処でしたね。最初、左奥歯の附近――之は打擲らかして置けば、こんなに腫れて、それで治っちゃったんです。親不知歯が生え――と言うのは、之は要するに見込み違いですね。親不知が生えたと言っても、そんなに痛むものではないです。激痛と言うのは、他の原因です。こゝ(歯)から毒が出ようとする。下歯の痛みは、之(頸部淋巴腺)がこう(下歯に向い)いく。上歯は頭の毒が行く。段々腫れ上り――見当違いだからね。ビタミン――之が悪いな。御獄教で何の変化もない――やっぱり、一種の詐欺ですね。神様詐欺と言う奴ですね。私は――ひどい言い方かもしれないが――治ると言って、そうして色んな事をして治らないと言うのは――悪意ではないが、結局一種の詐欺ですね。ラヂウム治療の痛みに耐えかね――と言うんだから、之もやっぱり詐欺ですね。痛みが減るなら良いが、余計痛むんだからね。つまり、元からあった毒と薬毒ですね。それが、こゝから血膿になって出るんですから、大変結構です。常に沢山――結構です。之は、出る丈け出れば治っちゃうんだからね。特に足が痛みます――それは足の方迄流れるんです。之は浄霊すれば順々に治っていきます。之はひどい様に見えて、割合楽な病気です。大分原料が沢山あるから、それが出るのに時日がかゝる――と言うんです。患部と、足の悪い処は、足と――そう言う処を浄霊すればそれで良いです。

 

【御 教 え】

 霊掛りと言うのは、私は始終注意して居ますが、最初は非常に興味があるものでね。私なんかも最初は随分やりましたがね。結局、之は弊害があるんですね。私は霊憑りをやって懲りた事がある。それから、やらなくなった。それは、或る青年ですが――大本時代ですが、その男は――店に使っていた――その時分は商人でしたから、店で使っていた店員なんです。それが、大本教で熱心になり、それで――大本教は鎮魂帰神と言って、こう言う恰好で、指の先から霊を出す。浄霊と同じ意味ですがね。それをやっている内に、色んな霊が憑る様になった。憑ると面白いから随分やった。そのうちに愈々精神病になって、鉄道線路に行って轢かれて死んじゃった。それで、私は神憑りと言うのは、危険なものだ。すべきでない、と。それで、私は()めちゃった。そう言う事が、あと一、二件――頭のおかしくなったのがありましたが、それは治りましたがね。そんな訳だから、霊憑りと言うのは余程危険なものですね。処が良い場合もある。それで私は、霊的研究を段々していくうちに、良い――悪い、色んな事が解って来ましたから、それで、良いのと悪いのとの区別が判る様な知識ですね。霊的知識――それを得られゝば、そう危険はないんですが、それ迄には相当な修業と経験が要るんですよ。ですから、一般には非常に難かしいのと、それから霊界が昔と違って来ているので、今はそんな事をしなくても、人を救う事が出来るんですから、全然霊憑りに触れないで、霊憑りはいけないものだと、決めてやるのが一番安全であると共に、霊憑りに触れる人はやっぱり発展しないんです。神様が嫌うんです。だから、霊憑りに重きを置かない人は発展するんですね。本当のやり方です。この間も書いた通り、バラモンから出たものですからね。現在、西洋で霊憑りを使ってやりますが、之は科学的なものだから大した事はないが、日本の行者とか、日蓮宗とか、精神病が出るんですね。本当のものじゃないからね。そう言う意味を精しく書いて、新聞が雑誌に出そうと思っているが、今の神憑りに対する根本的の事と、それから大体知っておくべき丈けの事を書いてありますからね。

 

霊憑りに就いて

(栄光一三三号)

 霊憑りの危険な事は、常に私は注意しているに拘らず、今以て止めない人があるが、これは断然やめるべきである。それに就いて何故悪いかを詳しく説明してみるが、霊憑りの八、九割迄は狐霊であって、狐霊の九割九分までは邪霊であるから、人を瞞す事など本能的(ほんのうてき)であり、人間に悪い事をさせるのは何とも思わない処か、寧ろ面白くて仕様がないのである。という訳で彼等の中でも高級な奴になると、憑依する場合何々神だとか、何々如来、菩薩、龍神などと言い、本人にもそう思わせると共に、人にも信じさせようとするので、御本人もすっかりその気になってしまい、生神様扱いにされて多くの人から敬われ、贅沢(ぜいたく)三昧(ざんまい)(ふけ)るのがよくあり、これが狐霊の本性である。そうして狐霊中でも(こう)を経た奴になると、相当神通力を有っており、人間に憑依するやその人の思っている事は何でも分るから、それに合わせて色々なたくらみをする。例えばその人が神様のように人から尊敬されたいと思っていると、いつしか憑依してしまい、本人の思惑(おもわく)通りにとりかかる。自分はこれこれの立派な神の再来だとか、最も多いのは天照大御神の御名を僭称(せんしょう)することで、これは誰も知っているが、そうかと思うといとも巧妙に、この人はと思う人には自分との因縁(いんねん)を結びつけ様としたり、多少の奇蹟も見せるので善男善女は一杯くってしまうのである。これは世間によくある話で、方々にある流行神などは皆この類で勿論こういうのはイッパシ腕のある狐霊で、世間の甘い人達はつい瞞されてしまう。又中には無暗(むやみ)矢鱈(やたら)に金を欲しがる人があると、それを知る狐霊は、憑依するや悪智慧を働かせて、巧く金を摑める様にするが、勿論手段を選ばず式で、大抵は罪を犯させ、一時は巧くゆくが結局は失敗してしまい、その筋の御厄介になる者さえよくある。又女を得たい人間には巧妙(こうみょう)にその女に接近させ、女の関心を得るよう甘い言葉や手段を用い、時には暴力を振う事さえあるのだから危い話である。その様に元々動物霊であるから、善も悪もない。只人間を道具にして自由自在に躍らせればいいので他愛ないものである。このように狐の方が人間より一枚上になるから、万物の霊長様も情ない話で、これが分ったなら人間様も余り威張れたものではあるまい。その他狐霊の外、狸霊、龍神、悪質天狗等も憑って人間を(たぶら)すが、その中でも邪悪の龍神が最も恐るべきものである。本来龍神なるものは、並々ならぬ強い力と、そうして智慧を有っているから、人間を自由にし、場合によっては人に傷害(しょうがい)を与えたり、命をとる事等朝飯前である。昨年の事件の時なども、多くの悪龍が活躍した事は以前もかいたが、そういう場合血も涙もない残虐極まるものである。しかも狐霊などとは異い、龍神は智能的で、悪智慧が働くから思想的にも人間を自由にする。何々主義などと言って悪質犯罪を平気でやらせ、社会に害毒を流すのも原因の多くはそれである。そこへゆくと狸霊や天狗の霊は大した事もないが、只天狗は霊力が強いのと、学問のあるのが多いので、彼等の中の野心家はそういう人間を(つかま)えて躍らせ、世間に名声を博し、出世をさせて多いに威張りたがる。その様な訳で、天狗の霊憑りは昔から禅僧(ぜんそう)、学者、宗教の創立者などに多く、長続きする者は至ってないのである。以上憑霊に関しての色々な事をかいたが、ここで充分知って置かねばならないのは、単に邪神といっても個性的に悪い事をするのではない。その奥に邪神を(あやつ)っている頭目があって、此奴こそ最も恐るべき存在である。この頭目の力には大抵な神も歯が立たない位である。処がこの邪神の頭目は陰に陽に絶えず我々の仕事を妨害している。特に本教は邪神にとっては一大脅威であるから、彼等の方でも頭目中の頭目が対抗(たいこう)しているので、これこそ正邪の大戦いである。

 処がここに注意すべき重要事がある。それは本教信者は自分は御守護が厚いから大丈夫だ、邪神など容易には憑れるものではないと安心しているその油断である。この考え方が隙を与える事になり、邪神は得たり(かしこ)しと憑依(ひょうい)してしまう。然も小乗信仰者で熱心であればある程憑り易いから始末が悪い。いつも私は小乗信仰を戒めているのはそういう訳だからである。何しろ邪神が憑るや小乗善に尤もらしい理窟をつけて押し拡げ、巧く瞞すので大抵な人はそれを善と信じ切って一生懸命になるのだが、何しろ根本が間違っている以上、やればやる程結果がよくないから(あせ)りが出る。そうなると人の忠告など耳へも入らず、益々深みに嵌ってしまい、二進(にっち)(さっ)()もゆかなくなって失敗する人がよくあるが、こういう人も早い内目が醒めればいいが、そうでないと何が何だか分らなくなってしまい、御蔭を落す事になるから、小乗善の如何に恐ろしいかが分るであろう。小乗の善は大乗の悪なりと私が常にいうのはこの事である。又この点一番よく分るのは小乗善の人は必ず常軌(じょうき)を逸する事で、これが奴等の狙い処であるから、何事も常識眼に照らして判断すれば間違いないので、全く邪神の苦手(にがて)は常識であるから、私は常に常識を重んぜよというのである。この例は世間に有りすぎるほど有る。よく奇矯(ききょう)な言動をよいとする信仰や、同様の主義思想、神憑り宗教などもその類であって、何れも問題を起し、世間を騒がす事などよく見聞する処である。

 そうして右の理は霊的にみてもよく分る。何しろ狐、狸等は動物霊であるから、人間より以下である。従ってこれを拝んでいると、四つ足の居所は地上であるから人間は地の下になり、霊界では畜生道に落ちている訳で、霊界の事は一切現界に映るから、その人は地獄に落ちているのである。世間よく稲荷の信者などは、必ずと言いたい程不幸な運命に陥ってしまうのは、右の理によるからである。勿論霊憑りもそうであって、動物の入れ物になる以上、やはり畜生道に落ち、不運な境遇(きょうぐう)となってしまうのである。

 併し乍ら同じ狐霊でも、全部が全部悪い訳ではない。稀にはよい狐もある。それらは改心した狐であって白狐である。白狐は何れも産土(うぶすな)(かみ)の下僕となり、神のご用に(いそ)しんでおり、中々役に立つものである。というのは狐は霊的には種々な特徴を有っており、悪もそうだが、善の場合も中々力があり、よい働きをするものである。併し神憑りにも除外例がある。それは祖霊又は正守護神が重要な事を人間に知らす場合、一時的に憑る事がある。これはホンの僅かの時間と必要だけの言葉で、決して余計な事は言わないものである。ここで序でだから正か邪かの判別法を教えるが、神様に関係のある正しい言葉には無駄は決してない。物事の急所を簡単明瞭にお知らせなさるものである。故に邪霊であれば必ず余計な事を喋りたがるもので、よくあるノベツ幕なし立て続けに喋るなどは、狐霊と思えば間違いない。併しこういう場合もある。それは正守護神が言葉で知らせようとする場合、狐霊は人間に憑る事も、喋る事も巧いので、狐霊を使う事もあるが、そういう場合必要以外の事を喋り、地金(じがね)を現わすから大いに注意すべきである。

(御論文「霊憑りに就いて」のあとの御教え)【註 栄光一三三号】

 之に就いて、書き足りない点があるんですがね。霊視能力と言うのがありますね。人間は――霊の見える人ですね。始終見える人は狐が憑いているんですね。だから危ぶないですね。肝腎な事を正守護神が知らせ様とする場合に、一寸――パッと見せるんですね。之は本当です。それから、光が見えるのがあるが、之は差し支えない。よく、人間の姿ですね――そう言うのが見えるのは――始終見えてはいけないですね。必要な時に一寸見える。それで、神様は――本当の神様は実に簡単なものです。無駄がないんですね。ですから、人間も本当に信仰が徹底して来ると、そう言う風になるべきものですね。それは、他愛ない――普通は幾ら喋っても、面白くても、唸っても良いですが、肝腎な事は、急所々々に触れる。それが神様のやり方です。よく――女に多いですが、のべつまくなくベラベラ喋るのがありますが、之は狐が喋るんです。何を喋ったか解らない様な――それがよくありますがね。まくし立てゝ、人に喋らせないですね。話でも、人に話させない様にするのは狐霊と思って良い。話は聞かなければならないですね。だから昔から「話上手に聞き上手」と言うのがありますからね。然し、聞く丈けで――感心したり、解ったなと思うと、案外解らない。そこで、一番良いのは、人の話は良く聞いて、隙が出来たら、こっちの話をする。それからもう一つ受け答えですね。受け答えが満足に出来る人は、外国人には案外多いですが、日本人には割合無いですね。受け答え――返事が急所をはずれる人が多いです。聞こうと思う事にぶつからないで――それは聞き手のまずい場合もありますが――私なんか、何か聞いたり話したりしても、それに対する受け答えが満足な事は滅多にないですね。それで、その人の頭が良いか悪いか一番分りますね。男には割合多いが――女の方には寔に申訳ないが――非常に少ない。

 それから、話術――術ではないが、話したり聞いたりする処置ですね。之は大いに勉強しなければならない。と言うのは、()ですね。()が非常に肝腎な事です。先方で――話なら話を聞く事がありますが、中には間髪を入れずに聞く事があるし、それから順々と言う事があるし、その――一つの調子ですね。まあ、芸術みたいなものですね。之は大いに勉強するんですね。何処迄も簡単明瞭に言う。それから、急所を摑むんですね。ですから、相手の様子ですね。興が乗って、耳をそばだてゝ来るか、或いは大して――先が聞きたくない――興が乗らない時は止して了う。それで、趣味とか聞きたい事を洞察して了う。こう言う煩悩があると言うのだから、こう言う解釈をする。この人には、こう言う喋り方なら解るだろうとか、インテリならインテリ――普通人なら普通にと、立て別けなければならない。之は、大変な芸術なんです。そこで、環境、空気、一人対一人、二、三人と話す時に、多勢に言う場合、土地の習慣或いは、一つの色がありますね。九州の地方の人と北海道の人は違いますね。九州は、昔から古い人が居て――中々、九州魂というのがありますからね。

 それから、北海道と言うのは、移民ですからね。移民と言うのはおかしいが、地つきの人と言うのが少ない。地つきと言うのはアイヌですが、皆んなこっちから渡った人ですからね。そう言う人は、色がありますからね。東北の人、上方の人、江戸っ子――皆んな違いますからね。それに対する、色んな言い方――やり方がある訳だからね。そうなると難かしくなるが、そんなに難かしく考えなくても――そんなのがある訳ですね。

 それから、物事を難かしく考えてもいけないし、単純に考えてもいけないですね。何うしてかと言うと、考え過ぎて結果が悪い事があるんですね。だから、出来る丈け単純にですね。私なんかも難かしくなる事があるが、極く単純に考える。そうして、あとは神様に任かせるんですね。だから始終気が楽です。人間は気が楽だと良い考えが浮ぶんです。気が楽でないと、良い考えが浮ぶ余地がないんです。ですから、始終頭の中を空っぽにして置くと、良い考えが浮び易いです。

 それから、よい考えと言うのは、正守護神がヒントを与えるんです。神様は、人間に直接と言う事はない。正守護神に知らせて、それから来る。処が、頭に一杯あると、知らせても――アンテナが、働きが悪いんです。だから、良い考えが浮かばない。と言うのは、そう言う訳ですね。之は、一種のインスピレーションみたいなものですが――始終、ゆったりした気持でね。処が、色々な心配事や、気にかゝる事があると、そうはいかない。処が、やり様によって、そうではない。私は、昔はよく気になる事が、色々あると、他の事は頭に入らない。処が、段々信仰に入って、そう言う事は、神様にお任せして了うと言うと、忘れちゃう。之は、そう言う癖をつけちゃうんです。一種の修業ですね、よく他の人が、色々な心配事を言うが、私は笑っているので、吃(喫?)驚して了う。普通の人では、それが出来ませんよ。それに就いて書いてある。

 

御任せする

(栄光一三二号)

 私はいつも御任せせよという事を教えているが、つまり神様にお任せし切って、何事があってもクヨクヨ心配しない事である。というと実に造作もない訳なく出来そうな話だが、ドッコイ中々そうはゆかないものである。私でさえその境地(きょうち)になった時、随分御任せすべく骨を折るが、兎もすれば心配という奴、ニョキニョキ頭を(もた)げてくる。というような訳で、然も今日のような悪い世の中では殆んど不可能といってもいい位である。然し乍ら神様を知っている人は大いに(ちが)う。というのは先ず心配事があった時、それに早く気が附く以上、ズット楽になるからいいようなものの、ここに誰も気が附かない処に重要な点があるから、それをかいてみよう。

 というのはこれを霊の面から解釈(かいしゃく)してみると、それは心配するという想念(そうねん)そのものが一種の執着(しゅうちゃく)である。つまり心配執着である。処がこの心配執着なるものが曲者(くせもの)であって、何事にも悪影響を与えるものである。だが普通執着とさえいえば、出世をしたい、金が欲しい、贅沢(ぜいたく)がしたい、何でも思う様になりたいという希望的執着と、その半面、彼奴は怪しからん、太い奴だ、実に(にく)い、(ひど)い目に遭わしてやりたい、などという(たち)の悪い執着等であるが、私の言いたいのはそんな分り切った執着ではなく、殆んど誰も気が附かない処のそれである。では一体それはどんなものかというと、現在の心配や取越苦労、過越苦労等の執着である。それらに対し信者の場合、神様の方で御守護下されようとしても、右の執着観念が霊的に邪魔する事になり、強ければ強い程御守護が薄くなるので、その為思うようにゆかないという訳である。この例として人間がこういうものが欲しいと(しき)りに望む時には決して手には入らないものであって、もう駄目だと(あきら)めてしまった頃ヒョッコリ入ってくるのは誰も経験する処であろう。又斯うなりたいとか、アアしたいとか思う時は、実現しそうで実現しないが、忘れ果てた頃突如として思い通りになるものである。浄霊の場合もそうであって、この病人は是非治してやりたいと思う程治りが悪いが、そんな事は年頭におかず、只漫然(まんぜん)と浄霊する場合や、治るか治らないか分らないが、マアやってみようと思うような病人は、案外容易に治るものである。

 又重病人などで家族や近しい人達が、みんな揃って治してやりたいと一心になっているのに、反って治りそうで治らず、遂に死ぬ事が往々ある。そうかと思うと、その反対に本人は生死など眼中におかず、近親者も余り心配しない様な病人は、案外スラスラ治るものである。処でこういう事もある。本人も助かりたいと強く思い、近親者も是非助けたいと思っているのに、病状益々悪化し、もう駄目だと諦めてしまうと、それからズンズン快くなって助かるという事もよくある。面白いのは俺はこれしきの病気で死んで堪るものか、俺の精神力でも治してみせると頑張っているような人はたいてい死ぬもので、これ等も生の執着が大いに原因しているのである。

 右の如く種々の例によってみても、執着の如何に恐ろしいかが分るであろう。従ってもう(とて)も助からないというような病人には、先ず見込がない事を暗示し、その代り霊界へ往って必ず救われる様にお願いするからと、納得(なっとく)のゆくようよく言い聞かせてやり、家族の者にもその意味を告げ浄霊をすると、それから好調に向うものである。又これは別の話だが、男女関係もそういう事がよくある。一方が余り熱烈になると相手の方は嫌気がさすというように、誠に皮肉極まるが、これも執着が相手の心を冷すからである。この様に世の中の事の多くは、誠に皮肉に出来ているもので、実に厄介(やっかい)な様でもあり、面白くもあるものである。右によっても分る如く、物事が巧くゆかない原因には、執着が大部分を占めている事を知らねばならない。私がよく言う逆効果を(ねら)えというのもその意味で、つまり皮肉の皮肉であって、これが実は真理である。

(御論文「お任せする」のあとの御教え)【註 栄光一三一号】

 それから、之は関連した話ですけれども――嘘ですね。日本人の特徴の様に思いますが、日本人は実に嘘を吐くんです。嘘を吐くのが、意識的に嘘を吐くんじゃない。嘘を吐くのが習慣になっている。自分で、嘘吐くのが分らない。それ程に、嘘が身についているんですね。色々、人の話を聞いていると、本当に正直に言うのは、恐らく無いと言っても良いですね。必ず嘘があるんです。その嘘が――本人は嘘と思わないで、本当だと思っている。その場合に私が、この点が嘘で、之が本当だと言うと――それでも解らない人がありますね。そうすると、こう言う場合に、之が本当で之が嘘だと言うと、成る程と言う。簡単な事を、態々嘘を言ってやゝこしくする。之は、偉い人に多いですね。何か問題が起る。すると――正直にすると簡単に解決する。それを、やゝこしくしている。私に、こう言う事を言った人がある。この場合にこう言った方が良いですよと言うが、嘘なんです。その御忠告の通りにやって見ると、成績が悪いんです。何か、そこに――スラスラいかないんです。それで、私は思った通りにやる様にした。思った通りにずばっとやる。すると、良い。成績が一番良いですね。正直にしていると、何も頭に残らないから――気が咎めないから良い考えが浮ぶ。嘘の執着ですね。だから、嘘か本当かゞ、自分ではっきり分れば、そこではっきり標準が出来る。頭の居所が上になるんですね。特に信者は、正守護神から色んな事がある場合に、頭を空っぽにすると言うのは、嘘を吐かないんですね。又、自分に不純な心がなければ――誠意があれば、幾ら本当の事を言っても、一向差し支えないんですからね。よく――以前なんか、家内なんかゞが私に、そんな事を言っちゃいけませんよと言うんです。然し、私は何でも有りの儘に言うんです。すると、案外先方は好感を持つんですね。私なんか、随分ひどい事を言う事があります。今はそうでもありませんが、以前の――駈け出し時分にですね。はっきり言うんです。すると、先方が怒りそうなものだが、怒らないで笑い出したりします。この点アメリカは非常に正直だと思いますね。映画を見ても、言葉が書いてあるが、あれを見ると、実に正直で、日本人には見られない様ですね。だから、アメリカの社会が明瞭だと言うのは、そう言う事ですね。尤も、日本人は封建時代から抑えつけられていたから、はっきり言うと誤解されるからで、之は政治の為ですね。以前は、全て曲げなければならない。最初の「明日の医術」「天国の福音」――「明日の医術」なんか、随分曲げて書いてある。ぼやかして書いてある。徹底しないと言うが、徹底して書けないですね。「天国の福音」になると、余程違っている。この頃になると思いきって書くから、徹底してますがね。でも未だ、お医者や何かに気兼ねして書いている。今度の「文明の創造」なんかは、全然そんな事なく思った通りに書いてある。世界を相手にするので、やゝこしい書き方の必要もないし、それじゃ徹底しないからね。それから、言論の自由から言うと、何ら差し支えないからね。どうせ今に出るから、見ると良く分りますがね。

 

 

Copyright © 2020 solaract.jp. All Rights Reserved.