(お 伺) 赤川山一(十月下旬入信。五十一才)十年程前両足首関節に激痛を覚え、骨接ぎに行きましたが病名不明と言われ、医師にかかり関節炎と診断され、薬名不明の注射を四本打ち、大分良くなり仕事をして居りました。昭和二十四年十一月になり、右手の人差指の附根関節が猛烈に痛み、医者にかかり薬名不明の注射を一週間続けて治りましたが、同年十二月に両足首が痛み出し医者に行きました。其後一カ年通い毎日ザルソブロカノンの注射を続け、同年大晦日より午前はキノフエン、午後はザルソ・ブロカノンを毎日二本宛、二十六年五月迄続けましたが、痛みは中々治らず、五月二十日より十日間温泉に行き、大体良くなりました。更に六月四日から、完全に治そうと思い東大附属病院に入院、四十五日間米国新薬コーチソン(二グラム)ビタミンC(八千ミリ)シンコルター(八CC)注射し大変良くなり、帰りには独りで楽に歩けると言う状態で退院しましたが、二週間後に再発、以前より非常に悪くなり、痛みは全身の関節に及び、床に就き全く起上る事も出来なくなりました。八月中旬頃お道のお話を聞き、信者さんに御浄霊を戴く様になりました。九月より信者さんの御紹介を戴き、横浜出張所の森久保先生に御願いして、御浄霊を戴く様になり、二十日間位で大変楽にさせて戴き、歩行も出来る様になり、銭湯にも行ける様にさせて戴きました。十月妻と共に入信させて戴き、十一月五日に光明如来様を御奉斎させて戴きました。現在は両足首の関節が痛み、歩行困難となり床に就いて居ります。長い間の苦しみに、果して元の様に治して戴けるものか、何うかと不安の気持が去らず、煩悶致して居ります。何卒御教示の程御願い申し上げます。
〔御 垂 示〕
こう言う人が沢山あるんですがね。何しろ多量に製造しているんだから困るね。骨接ぎに――この時放ったらかして置けば良いんです。とうに良くなってピンピンしている。之を元にして製造にかかったんです。最初、色んな注射ですね。すると、一時そこの処丈は麻痺させて、痛みが取れて治ったと思ったが、身体の方の目的は、最初の時に――足首とかに痛みを生じたのは、溶ける為に固まったんです。溶け始めたのと、もう一つは身体の毒が、始終そこに溜っている。それで、出口を求めて、腫れて出ようとした。それを注射で――つまり戸を閉めた様なもので――膿が、出所がないので他に出ようとする。それを又注射するから、増えた訳です。それが方々に固まった訳ですね。だから、身体中動かなくなる様な材料が増えちゃったんですね。だけども、メシヤ教に入って良かったですよ。さもなければ命迄いきますよ。全然逆の事許りやった。一種の――お医者は――自殺幇助だ。之は、治るに定まっているから、ちっとも心配ないです。浄霊する丈づ(ず?)つ減っていくから――結局は溶けて無くなるから、治るに定まっている。唯、沢山材料を入れているから、長くかかるでしょうね。然し、割合治りが良いでしょう。全て、痛むのは治りが良いんですからね。浄化が強いんだからね。むしろ、安心して――楽しみにして良い。自分でもやって良いですよ。出来る丈力を抜くんです。力が入ろうとするから、抜き抜きやる。唯抜く丈ではいけない。奥に――背中をやる時は、前の方に通る様にする。
私は、こう言う風にやる時は、向うの壁を狙ってやる。そうすると――力が入るから、そうではいけない。力を抜いてする。一つの練習ですね。
(お 伺) 八才の女子、生後八カ月目に引附けを起し、其後三カ月に一回宛引附けを起し、四才からは春、秋と二回位起して居ります。引附けは、五日間位連続で、その度毎に口から泡の様な物を幾分出す様です。三才迄は水薬、散薬を服用(約二カ年)四才になり注射四、五本射ちました。其後何もして居りません。昨年近所の方の奨めにより霊友会に入りましたが「三代前にこの子供と同じ様な子供が生れ、その子を池の中に入れて殺した事がある。その為である」と言われました。然し、この三代前の事は私共には全然分りません。引き附けを起さない時は、一日中非常に水を欲します。又手に触れる物は、食物でも何んな物でも臭いを嗅ぐ癖を持っております。又引き附けの発作を起す前には、食事は幾らでも食べます。気性は荒く言葉は簡単な単語しか言えません。こちらからの問に対して返事は出来ませんが、自分からの要求は致します。十月にお道の事を聞き、横浜出張所に御浄霊を戴きに通い始めました。初めは御浄霊を非常に厭がりましたが、最近では大人しく戴く様になりました。十月末日御屏風観音様を御奉斎させて戴きました。夫は未だ入信致して居りません。この子の引き附けは霊的関係が御座いましょうか。又、御浄霊の箇所に就き御教示の程御願い申上げます。
〔御 垂 示〕
霊的ですね。三代前に――池の中に――之は違うな。池の中に入れて殺したとすれば、大いに水を飲まなければならない。すると、之が生まれ変って来たり憑依して、却って水を欲しがらない訳ですね。やっぱり龍神ですね。龍神は一番水を飲みたがるんですからね。だから普通の人でも、水を飲みたがる人がありますが、あれは皆んな龍神の生まれ変りか、憑依です。そう言う人の顔は角張っていたり、目が引っ込んでいたり、龍神的な顔をしてますからね。つまり、祖先の一員で、龍神に落ちている。それが憑っているんです。之は、救ってやれば人間に生れ変って来ますからね。之は是非救わなければならない。浄霊は、龍神はここに憑ってます――前頭部の中を中心にして、首の周りに固まりがありますから、それをやる。然し、相当長くかかります――こう言うのはね。数年はかかると見なければならない。然し、結局は治るんだから、一生治らないよりは結構です。やはり、光明如来様をお祀りして、その部屋に寝かせて置いた方が早いです。
【御 教 え】
この間、東京に行ってピカソの展覧会を見たんですが、その感想を書いて見ました。
ピカソ展を見て
(栄光一三五号)
私はこの間東京へ行った処、丁度高島屋でピカソ展開催中との事を聞き、丁度幸いと行ってみたので、今その感想を書いてみるが、先ず一通り回って見て唖然とした事は、私としても、現在世界的大きな存在としての、ピカソとも言うべき巨匠である以上、素晴しいものであるに違いないだろうし、然も評判も大したもので、新聞などに出ている日本の批評家の誰もが、挙って褒めている位だからと、少なからぬ期待を持っていたので、その気になって、丹念に見たつもりであるが、見れば見る程、先ず分らないと言った方がいい。そこでありのままを書いてみれば、先ず第一、これが絵画というものであろうかという疑問である。一体何処に美しさがあり、何処に良さがあるのであろうか、これを室内に飾って、果して楽しめる人が一人でもあるであろうか――というように、考えれば考える程分らなくなってしまう。
率直に言って私は、アノ幾何学的毒々しい色彩で、児童の画いたような絵の、何処に絵画的生命があるのであろうか。とは思ってみたが、ピカソ程の大家の画いたものである以上、何処かに何かがあるに違いない、何を狙ったものであろうかと、作者の心理探究のような意図で、ジッと見つめてみても、イクォール零でしかない。又人物にしろ、アノ怪奇な眼、鼻、口、胴体、四肢等が、歪んだり、バラバラになったりしていて、酷な言い方かも知れないが、跳ね飛ばされた轢死者か、原子爆弾で殺られた死人としか思えないのは、私ばかりではあるまい。実にこれを見せられる大衆こそ、可哀想なものと思う。恐らくこの絵に対する誰もは、これこそ有名なピカソの絵だ、これこそ世界的名画に違いなかろうと思って見ても、サッパリ分らない。併し素晴しい物には違いなかろうと思うだけで、その絵の良さ悪さも分る筈がない。所謂大部分は豚に真珠でしかあるまい。と言うと、恐らくこのようにズバリ直言する者は、今の日本には一人もあるまい。私だけと思っている。先ず絵画はこの位にしておいて、次の陶器であるが、これは少し奇抜すぎるが、併し何かしら鋭い動的な時代感覚がよく出ていて、捨て難い点もある。と言って、現在日本の新しい陶芸家の作品の方が上とさえ、私には思われたのである。
では、このようなピカソの作品に対して、何が故に今日の如く世界的賞讃の的になったかと言うと、それには立派な理由がある。その事を説明するに就いては、先ず現代教育から書かねばならないが、今日どの国もそうであるように、美術に関しての教育は余りに等閑視されている事である。誰も知る通り、先ず小学校に於ては、簡単な図画、粘土細工、木工の玩具位を生徒に作らせ、中学以上になるとスケッチ風の洋画的のものを教える位で、見るものとしては、決まり切った御手本か、先生の絵位であろう。そうして学校を出てからも、余程の美術趣味のある人でない限り、一般は新聞雑誌の挿絵か、知人の家庭に於ける応接室か床の間に掛けてある絵画位で、その他としては一年に一度か二度位新聞の評判や、友人に誘われ、展覧会に行って見る位のものであるから、真の意味に於ける美術知識などは殆んどないと言ってもよかろう。然も専門家も好事家も、凡そ美術に携わる人で、その意欲を充たそうと思っても、満足な機関は今の日本にはないのであるから、今仮に新古の優秀な絵画をぜひ見たいとしても不可能で、かえって日本人であり乍ら、西洋の名画なら、外国へ行けば完備した美術館があって、遺憾なく見られるのである。という訳で、東洋美術即ち支那、日本の名画などホンの一部しか見られないのが現状である。成程、博物館や私設美術館もあるにはあるが、殆んど論ずるには足りない程であって、何しろ博物館は歴史的、考古学的の物が主となっており美術そのものから言えば、洵に貧弱である。外客などが日本の古美術を見たいと思って、博物館に行ってみる場合、これが東洋の美術かと思うと、大抵の人は失望するであろうと、私は思わざるを得ないので、その上年中同じものを陳列しているのであるから、日本人であっても余程の人でない限り、見に行く人は極めて少ない実状である。成程博物館は仏教美術だけは充実しており、立派な物も数多く備えてはいるが、肝腎な一般人に理解が出来、趣味が湧くような絵画や、その他の美術品にしても、洵に物足りないのである。これでは大衆の美術思想を呼び覚ますなどの力は到底あり得まい。このようなわけで、徒らに額に八の字を寄せ、教科書を読むような古美術では、いくら由緒ある物であっても、楽しんで見る気にはなれないので、いつ迄経っても美術に親しむ人は増えないであろう。としたら、この点大いに考えなければなるまいが、併し古美術は国家の誇りでもある以上、大いに尊重するのは勿論、充分保存の方法も講ずべきは、今更言う迄もない。
その他としては、私設美術館であるが、これは美術紹介の為の、春秋二季上野に開催する幾つもの展覧会であるが、その中の絵画だけにみても、日本の洋画は数は非常に多いが、まだ西洋模倣の域を脱していないようで、注目を払うに足る程のものは至って少なく、そうかと言って日本画にしても行詰り状態で、大部分の傾向は、日本絵具で画いた油絵に過ぎないと言っていい位で、然も大家は大家なりに、今更流行を追うわけにもゆかず、旧来の侭では人が認めてくれず、というジレンマに陥っている。その気持が、画面によく現われている。私は昨年迄は秋の展覧会は欠かした事はなかったが、今年はどうしても行く気になれないので、到頭行かなかったが、それ程見る気になれないからである。
以上、現在の美術に関しての色々を思ったまま書いたのであるが、これを以てみても、今日の日本人は、美術に関する本当の教育を受けていない以上、鑑識眼などは殆んど零に近いと言ってよかろう。そのようなわけで、人がいいと言うからいいんだろう、新聞などがジャンジャン褒めているから、素晴しいものに違いあるまい、これを見ないと流行遅れになるから、行かずんばあるべからず、といったように押掛けるのであろうから、丁度映画のベストテンのようなもので、一種の人気作用でしかあるまい。この意殊に於て、マチスもピカソも、現代に於ける大いに恵まれた存在と言ってよかろう。
以上の如く、現代教育上の最も欠陥とされている美術教育こそ、今後は大いに奨励しなければならないが、然もこの事は平和思想涵養にも役立つものであろうし、美術思想こそ世界共通の理念であり、将来は国際的に美術品の交流等も盛んに行われるであろう。又この事が、共産思想を防止する上にも、相当効果があるであろうから、この意味に於て私は、社会的にも大いに美術教育を盛んにし、大衆の美術趣味を高めなければならないと思うのである。その上、今日まで特権者の専有物のようになっていた美術趣味を、民衆にも普く均霑させられるとしたら、この事も結構な社会事業であろう。然もそれが制作者の刺戟ともなり、作品に対する正しい批判力を持つ社会ともなるので、美術界も健全なる発達を遂げるのは当然である。そうなってこそ日本に於ても、世界的大傑作品が生まれるのは必定であろう。それに就いても、今私は残念に思う事は、マチス、ピカソの如き現在生きている画家の作品が、日本に迄来てヤンヤと言われる事で、これを考えれば、いつかは日本人の画家の作品が、アメリカやヨーロッパへ展覧会を開き、大騒ぎされる時期の早く来たれかしと念願して止まないものである。
最後に私の事を少し書いてみるが、今造っている箱根・熱海の美術館である。箱根の方は来年の夏迄に出来る予定だが、言う迄もなく、前述の如く美術教育の欠陥を補い、日本人全体に大いに美術思想を涵養させたい趣旨であるから、陳列の品も一般人にも理解出来うると共に、専門家としても最も欲求している優秀品を網羅しようと計画しているのである。勿論東洋美術を基本とし、新古を問わず、各時代に於ける名人の傑作品を選び、大いに内容の充実を図るのである。そうして、差当っては日本人を目標としているが、将来は、世界各国の専門家、好事家、一般大衆の憧れのシンボルとしての、世界に誇り得る大美術館としたい考えである。
(御論文「ピカソ展を見て」のあとの御教え)【註 栄光一三五号】
今読んだ通りで、ピカソの絵なんかを、こう言う風にコキ下した人は、絶対にないと思いますがね。と言うのは、本当から言うと、今の人は解らないんです。未だ、美術を批判する丈の眼が出来てない。出来てないと言う事は、秀れた良い物を見る機会がないから――見ないからです。本当に良い物を見れば、頭が出来ちゃうから、ピカソの絵なんか全然問題にならなくなるんです。ピカソが偉らくなったと言うのは――偉らくなった、と思われる様になったと言うのは、訳があるんです。と言うのは、アメリカの金持が、東洋美術を手に入れ様と思っても、日本は売らないし、日本から買えば、贋物許りですから――イギリス、フランス、ドイツも少しありますね。そう言うのを買ったんです。金持は大いに威張っていたが、アメリカには、後々金持が出来ますからね。後から出来た金持は買う物がないんです。しようがないから、現代の美術家ですね――現代の偉い画家に目を附けた。フランスで一番偉いと言うのは、ピカソかルソーとかね。その人の絵を買おうとね。マチス、ピカソの方でも、絵が――油絵なんか段々変って来て、印象派以来非常に変って来たですね。後期印象派に至っては、偉い――ゴッホとかゴーガンとか出て、良い物を拵えた。処が、あれでも駄目だ、もっと変った新しい物を作らなければならないと言うので、段々新しく新しくで、結局行き過ぎたんですね。行き過ぎたのが、今ここに画いた轢死者や爆弾で殺された様な恰好になったり、訳も分らない――丸で子供が書いた様な――あれなら変ってますしね。そうすると、アメリカの新しい金持は、舊式の絵――奮派ですね――持っている富豪に対して――どうだ、俺の方はお前達が持ってない新しいのを得たと、大いに誇ったんです。処が、マチス、ピカソの方は、そう言った営業的な考えはないが、何かアッと言わせる様な新しい物を作ろうとして、あんな事になった。それが金持の考えと一致した訳ですね。そこで、沢山買うんです。注文が沢山あるし――高くしちゃった。ピカソなんか非常に高いですね。大衆は変なもので、ピカソの絵はあんなに高いので、良いに違いない。良いか――と言うと、その良い悪いが解らない。良いんだ、値打があるんだ、とこう思って――お経と同じです。
お経が、解らないから有難がって奏げるんです。お経が解ったら、有難がるのはずっと減る。何とか言うお経なんですが、翻訳してみると、男女関係の事を書いている。実に猥褻極まるものです。それを有難がるんですからね。結局人間はあんなものですね。だから、私は逆に、はっきり判る様に書いてますが、だからそう言った意味に於ては有難がれないんですが、然し、有難がる、有難がれないと言う事じゃなくて、こっちは人間を――人類を救うんですから、解る事が主ですから、お経や――バイブルもあんまり解らないですが、お経よりは良いです。解らない事を言うのも良いが、その為に迷いを生ずる。迷いを生ずるから、仏教でもキリスト教でも、派が沢山出来る。だから、人類を本当に救う事は出来ない。唯、何となく救われると言うので、徹底しないですね。尤も、力と言うものが不足していた点もあるから、今迄としてはあれで良いんです。こちらは、そう言う曖昧な点などは、はっきりさせると言うんで、之が今迄夜の時代であり、私は昼間の文明の根本をつくるんですね。之は、そうなるのが当然の話です。そんな様な訳ですから、絵にしてもそう言う解らない様な物が大騒ぎをやられると言うんで、それを見た日本の画家が真似始めた。実に面白いですね。だから、之は丁度ブランコと同じで、古いのは行過ぎた為、反動的にこう行って、こう行ったのが、今の油絵ですから、それが軈て又、こう行くんですね。そうかと言うと、此の頃、源氏物語が流行って来た。石川五右衛門だとか、之は反動の反動ですね。それで段々行詰まって来て、今度は本当のものが生まれるんです。今迄の文明を見ると、皆んなそう言う系統を通っている訳ですね。それで、今度美術館が出来たら、今読んだ通り、西洋のはどうせ敵わないから、全然手を出さない様にしてますがね。
それからもう一つは、西洋のも美術的に見て、良ければ私は何とかしますが、本当に美術から言えば、どうしても東洋美術よりも下なんです。之はしようがないですね。ですから、アメリカ辺りでもイギリス辺りでも、マチス、ピカソの絵よりも、支那の宋時代の絵を、ずっと欲しがって高く買います。何故なら値打があるんです。西洋の絵でも、何故いけないかと言うと、第一番の條件が欠けている。品位ですね。美術の最高のものは、品位ですね。人間でもそうです。偉いとか何とか言うが、結局品位ですね。高さですね。高さがなくちゃいけないですね。高さと言う事は、つまり神様に近いんです。一番高いのは神様で、その次が人間で、その次が獣です。人間は、神と獣との間、と何時か書きましたが、西洋の絵は高さがないんです。この間、ピカソの絵を見て――ああ、どうも品格がある、と思えない。品格のある芸術は、天国的芸術です。それを観て、それに引上げられる。そうすると、精神的に天国に引上げられるんですね。それで、美術の価値がある。私が、西洋の美術が下だと言うと、何うかすると、何う言う訳ですかと言うから、品格がないと言うと、それでギャフンと言うんです。ですから、私は美術館に並べる物を、東洋美術のうちの古いのも、新しいのも――それは問わず、名人――その時代の名人の傑作品を並べる積りです。私の買ったのもあるし、そう言う物を持っている人の連絡も、大体ついた事になってますからね。之は神様がやっているから、実に旨くいくんですから、愈々美術館が出来て見たら吃驚りするだろうと思います。何うしてこう言うものが集まったかと言うよりも、何うしてこんな立派な物が、昔出来たかと思うものが沢山ありますね。
今、私設美術館は殆んど見ましたがね。大阪、京都、東京でも、この間根津美術館、長尾美術館―ワカモトのね。毎年春、秋――長尾の方が二日間、根津の方が五日間ですがね。之はつまり、私設美術館は展覧会を一年に二回は開かなければならんと、つまり財団法人ですからね。財団法人はそう言う義務があるんですね。さもなければ――財産保護の税金をかからない様にすると言う丈に終りますからね。二つ共見ましたが、本当に遠慮なく言えば、殆んどゴミみたいなものです。根津美術館の一番良い物は、私の家の一番悪い物と、丁度同じ位なものです。それから、長尾美術館には、有名な藤の壺と言う――之は立派なものですがね。あとは、場末の道具屋でも――私の処に持って来ても全然買いませんね――値段に拘らずね。実に驚いた。それから、何時も言う通り、博物館の美術品は実にひどすぎます。あれを外国人に見せるのは、実に情ない位ですね。ですから、今度私の方で並べる物は、こんな物が世の中にあるのだろうかと、驚くに違いないですね。外国の人が見たら腰抜かす位に驚きます。それで又、やっぱり、人間業でないんですからね。神様がやっているから、不思議にすごい物が手に入って来るんです。ですから、奇蹟的に集まって来るんですね。ですから、私の処に来るのは、割合値段も安いんです。大抵、財閥とか言う人達が、急に金が要って、そう言うのがパッと来るんです。私は、今売れば随分儲かるんですがね――そう言う訳にもいかないからね。そう言う場合には、やはり神様がそう言う事を、大いにやられていると言う事が良く分る。そう言う話になると、つい油がのっちゃってね。
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