十二月十一日

(お 伺) 入信以前に子宮癌を手術し、入信後(九月一日)御伺い申し上げまして、御守護を戴き其後順調に参りました処、十一月末より出血多く、十二月初め御不浄にて拳大の毒血の固りが二箇出て、出血多く、御不浄内で倒れました。一時は危篤状態でありましたが、御浄霊にて御守護戴き小康を得、出血は止まりました。現在は食欲は軽く一膳位のお粥を食べる位で、全身だるく特に手足がだるく、気力は衰え、手術致しました患部に拳大の固りが残っており、痛みは御座いません。御浄霊は何処をさせて戴きましたら宜敷う御座いましょうか。

〔御 垂 示〕

 之は大変結構ですね。この固りと言うのは子宮癌ですね――癌であったかも知れないですね。お医者は、開けてみて其処を取らずに、そっとして置いてあるかも知れないが、之は――子宮癌と言うのは殆んど血の固りですから、之はそれでしょう。だから結構です。食欲がないのは、熱がある為ですよ。だから、そう長くは続かないです。それで、大体そう言った固りが取れると、其処が綺麗になるからして、平均浄化が起ったんですね。だから、首とか肩とか背中とか――そう言う処から熱が出るんですから、そこを調べて、そこの熱が冷めれば――冷めます、大した事はない。

 「時々、ぼっとした様になります」

 貧血の為です。血の固りが取れると、脱落した様になる。貧血した様になります。ここ(頸部淋巴腺)を見て御覧なさい。ここから熱が出ているかも知れない。非常に結構なものですからね。

(お 伺) 神取八郎(五十二才)昭和二十三年頃から、夜眠られず寝床を三カ所も変える状態で、医師より脳梅毒と言われ、色々と医療を受け、熱心に御獄教を信仰して居りましたが、段々悪化して参りました。御浄霊を戴く様になり、良い方に向いましたので、主人は昭和二十四年二月入信させて戴きましたが、申訳ない事に三月末突然、御守様の「光」と「ゝ」とを鋏で切離して了いました。其後、病状悪化し、現在では食物を丸飲みにし、此方から持って行かねば、食事を要求せず、一日中寝て、口の中で独言を言って居ります。小便は自分で気づかずにして了います。尚二十五、六年前に家の蔵の中に三升笊を伏せた程の青大将が居たのを殺して、近所の人に薬にする様にと与えた事が御座います。主人の父親は五、六年前に縊死して居ります。私の前夫は或る女行者と恋仲となり劇薬自殺を遂げて居ります。この時、前夫のみ死に、女行者は生残りました。右は霊的関係で御座いましょうか。尚、御神体を御奉斎させて戴きます様準備中で御座います。

〔御 垂 示〕

 何うして、こんな事したのかね。霊憑りだな。随分厄介だね。光明如来様をお祀りする様に準備していると言うんだから結構ですが、一日も早くお祀りする。それから主人はやっぱり霊が憑っているんですがね。鋏で――やっぱり霊にやられたんですね。丸飲み――青大将ですね。無論、此青大将は祖霊ですがね。三升笊――随分大きいんだな。青大将の霊を救ってやるんだから、光明如来様を祀ったら、その部屋に寝るんだね。あとは別に大した事はない。それですね。そうして出来る丈御神書を読む様にして、気長にやっていれば段々良くなります。何しろ、殺されると非常に怨みますから、しつこいですよ――霊の働きがね。だから、簡単にいかないですね。気長にやるより仕方がないですね。そして、少しでも暇があったら、一人でも多く人助けをする。その徳によって治りが早くなると言う訳ですね。

(お 伺) 満四歳の女児、昨年七月疫痢の際、上乳歯が三本根本から折れました。それより上唇が腫れ、本年九月頃より、折れた歯の上方より外側に向って尖った歯が見え、可成り肉を破っております。毎朝上唇より膿が出ており、現在もう一本出かかっており、又奥歯下側二本目が内側に倒れ、新しい歯が外側に向って出ております。上乳歯三本共歯根が残っております。御浄霊は毎日続けて居ります。薬毒の為で御座いましょうか。前世の因縁に因るので御座いましょうか。又自然に歯根が抜けましょうか。両親は四年前入信。御神体、御屏風観音様は御奉斎させて戴いて居ります。

〔御 垂 示〕

 之は、単に薬毒許りではないですね。一種の罪ですね。之は歯医者に行って抜いて貰った方が良いですよ。早いです。それは構いませんよ。歯を抜くとか入歯するとか言うのは、別に悪い事はない。けれども、こう言う歯が――口の中が順調にいかないと言う事は、やはり原因があるんだからね。だから、早く信仰に入っていればそんな事はないが、今となっちゃ歯医者の御厄介になるよりないから、そうした方が良いですね。

 「四つですが、麻酔等致しますが――」

 構いませんよ。ここ(歯部)丈やるんですからね。そんな事は何でもない。歯の注射は暫くすると、歯に出ちゃうから別に心配する事はない。それから、麻酔の注射は余り害にはならないですよ。普通の薬毒と違って一時的だからね。

(お 伺) 昨年一月入信の者で御座います。銃猟が趣味で、毎年冬の山野を歩くのを楽しみと致して居ります。十二月一日、三連発の猟銃の廻転が悪いので、実弾(散発三百発入)をこめて、安全装置をして、「いろり」の側で調べて居りましたが、銃口を上にして一、二回下に突いて見ましたが、具合が悪いので、銃口に左の手をあて力を入れて下に突きました瞬間、弾が爆発して手の平をつらぬき、屋根裏をぶち抜き、飛び散りました。傷は手の平に一寸、手の甲は二寸程碎けて口を開けて、白い筋の様なものが飛出し、勿論骨は砕けたものと思われます。御浄霊を戴きまして経過は良くさせて戴いて居ります。今後の御浄霊に就き御垂示の程御願い申し上げます。

〔御 垂 示〕

 之は驚いたな。信仰に入っていて、そんな殺生するなんて飛んでもない。だから、神様のお気附けですよ。まあ、何ですね――こう言う狩猟するのは、信仰()めてやるか、信仰に入っている以上は、絶対にやっちゃいけないですね。やっぱり、こう言う殺生すると、必ず祟って、碌な事はないですよ。之は、()めろと言う神様がされた事だから、非常に結構ですよ。良くお礼を言って良い。それで、之を()めないと、今度はもう一層ひどいのになります。之でもか之でもかとなりますよ。之で()めて、良くお詫びして、之から出来る丈人を助けるんですね。そうして、その鳥を殺生した罪を、それによって償って貰う。そうするのが一番良いです。それから、御浄霊は自分でやっても良いですから、あとは良くお詫びするんだ。之からはもうしない。そう言う事は絶対にしないと言う事をお誓いするんです。それが根本ですよ、そうしないと、又何かありますよ、だから非常に結構です。

【御 教 え】

 農業特輯号ですね。あれを出して、そうして出来る丈日本中の農会とか新聞社ですね。国会議員だとか、そう言う方面に配ろうと思う。そして出来る丈早く目を醒まさせなかったら、下手にまごつくと米が減産して来ます。丁度、薬毒と同じ様に、肥料毒と言う奴が、今後霊界が明るくなるに従って、余計強く影響しますからね。何しろ早く知らせなければならない。その論文です。

 (御論文「農業の大革命、五カ年にして米の五割増産は確実」)

農業の大革命 五ヶ年にして米の五割増産は確実(一)

(栄光一三一号)

 私は十数年以前から、自然栽培法と言って、金肥人肥を用いず、自然のみの肥料を使って、農作物の収穫を得る事を発見し提唱してきたのであるが、その当時農民に向かって如何に説得し、信じさせようとしても、なかなか耳を()す者がなく、随分努力をしたが思うようにはゆかなかった。しかし最初からの私の信念は、これこそ絶対の真理である以上、いつかは必ず分る時が来るに違いないと共に、これによらなければ農民はいつになっても救われないばかりか、国家の運命にも至大なる関係がある事を考え、撓まず屈せず今日に到ったのである。ところが幸か不幸か、私の憂慮した通りの重大なる事態となってきた今日、農民諸君はもとより一般日本人にも分らせなければならない事を痛感するのみか、この自然栽培の前途にも漸く光明が見え始めたので、いよいよ時期到れりと、ここに大宣伝を行なう事となったのである。

 そうして、この農法に都合のよかった事は、私が宗教家であるだけに、信者は不思議な説とは思い乍らも、兎も角信じて実行に移った者も少なくなかったので、割合早く効果が分り、共鳴者も追々でき、最近に至っては信仰者ならざる一般農民層も、漸く注目を払うに至ったのである。しかも今回別項の如く農林技官金崎貞男氏が、職掌がら技術方面の見地から、数年にわたって熱心に研究の結果、ここにいよいよ驚嘆すべき成果を認め、発表する事となったので私としては喜びに堪えないのである。それというのも、一般はこの栽培法は宗教から出たという理由で、兎もすれば迷信視せられがちなのが、同技官の発表によって、それを打ち消すに大いに力あると思うからである。

 言う迄もなく、現在日本に於ける最大の悩みは、何と言っても主食の不足である。何しろ終戦後狭くなったこの国土に対し、人口の方は増えるばかりで、現在既に八千四百万というのであるから、ここに緊迫せる問題となったのである。しかも本年の如きは、二千数百万石の不足となるので、それが為各国からの輸入によって、辛くも安定を得ているに過ぎないと共に、その輸入額に至っては、実に千数百億に上るのであるから、国家経済に上からいっても、実に容易ならぬ事態となったので、この解決ができない限り、我国の前途や全く寒心に堪えないものがある。のみならず世界の状勢によっては、何時如何なる事態が発生するやも分らないのだから、全国民に対する絶対量の確保は、どうしても達成しなければならないのである。そこで政府も農民も、あらん限りの手段方法を尽してはいるが、仲々思うようにならないばかりか、ややもすれば減産の傾向さえ見える。本年の如きは、昨年よりも約三百万石の減収であるに対し、彼の産制も期待薄く、人口増加の趨勢は今のところ、年百万以上と見ねばなるまいから、この大危機を解決するには、何等か画期的大奇蹟でも現れない限り、どうしようもないのである。

 しからば、何故我国が全人口を養うに足るだけの米の産額を得られないかというと、これこそ私が言わんとする処の根本理由である。それは現在までの農耕法に一大欠陥があったからで、その欠陥というのは金肥、人肥の如き人為肥料であって、それに気が付かなかったのである。では何故それ程の過誤が、今日まで分らなかったかというと、長い間に不知不識一種の肥料迷信に陥ってしまったのである。ところが、私はそれを発見した以上、その迷夢を醒まし、農耕法の大革命をしなければならないと痛感し、この運動を起こしたのである。

 ここでいよいよ本農法が、堆肥のみで大収穫を得られるというその原理と、方法を詳しくかいてみるが、その前に、先ずこの自然栽培法の効果である。それはこの方法を五ヶ年継続すれば、全国を平均して五割増産は易々(いい)たるものである。としたら恐らく何人と雖も到底信じられないであろう。そこで現在の平年作六千三百万石とみて、五割増産は九千四百五十万石となるから、日本人が鱈腹食っても、尚一千万石の余剰米が出来るから、今度は反対に輸出しなければならない事になろう。

 そればかりではない。肥料代も要らず、虫害は何分の一に減り、風水害も半分以下に減るから、労力もまた半減するであろうし、実に驚異的農耕法である。以上は米のみに就いてであるが、この自然栽培法は一般農作物に対しても同様であって、それらもザッとかいてみるが、まず如何なる野菜でも素晴しい実績が挙がるのは勿論、例えば薩摩芋なども驚く程巨大なものが出来、一個の目方五、六百(もんめ)位はザラであるから、総収穫量も有肥よりも二倍以上は確実である。又豆類も粒が大きく、数量も増えるので、三倍位の収穫は容易である。大根なども色白く、キメ細かく粘っとりとして、ザクザクなどは更になく、頗る美味であり、菜類も色がよく、虫喰いがなく、軟らかでこれ又頗る美味である。その他玉蜀黍でも、南瓜でも、西瓜等、野菜と名のつく野菜は何でも好く、一々は略すが到底想像だもつかないのである。

 そうして特筆すべきは、自然栽培でできた物の素晴しい美味である。米、麦でも野菜でも一度味を覚えたら、有肥栽培の物は到底食う気にはなれなくなる。現に私なども自然栽培者が益々増えるので、現在は食い切れない程貰うのである。又果実も同様人為肥料を廃めてから質も良好で、多収入となり、皆感謝している。花卉にしても花は大きく、色鮮やかで美しく、生花などに使う場合、長持ちがするとて喜ばれている。

 次に自然栽培は、害虫が激減する事である。元来害虫なるものは、人為肥料から湧くものであるから、廃止すれば湧かないに決まっている。ところが、現在は害虫を駆除しようとして、殺虫剤や消毒薬を旺んに用いるが、実は之が土壌へ浸み込んで、害虫発生の原因となるのでその無知なるを哀れむべきである。

 そうして近頃の如く、毎年と言いたい程、風水害を蒙るが、自然栽培によれば、実に被害が少なくなる。という訳は、本来作物が人為肥料を吸収すると意外にも非常に弱くなるもので、それはこういう訳である。即ち、人肥でも金肥でも、作物が吸収するやそれが有毒化し、その毒が害虫の食物となり、繁殖するという理由を私は発見したのである。又肥料によっては肥料自体から微生虫が湧き、それが作物そのものを食いつつ殖えてゆき、根に発生すれば根毛を食い荒し、弱らしてしまう。葉枯れ、茎折れ、花落ち、実の不熟、馬鈴薯の萎縮などの原因もそれである。又根毛以外の場所にも、種々の微生虫が発生するが、作物自体が健全であればそれを死滅させる力があるが、前記の如く肥料の為脆弱となっている以上、害虫に負けてしまうのである。

 又風水害に遭っても自然の方は強靭で、倒伏も少なく、倒れても直ぐに起き上がるが、有肥の方は倒れたままで、大きな被害を蒙るので、この理由として根を見ればよく判る。無肥の方は根毛が有肥のよりも、ズッと多くて長いから、根張りが強い為である。又稲でも野菜でも、葉の短いのが特徴であって、これは凡ゆる作物に就いて農民も知らるる通り、丈が低く葉伸びの少ない程、実が多く生るとしている。これに反し有肥の方は丈も長く、葉も大きいから、見た目は立派だが実りは案外悪いものである。

 次に蚕であるが、これも自然の桑で育てると非常に健康で、出来た糸質も強靭で光沢がよく、極めて優良で勿論増産になる。それは病蚕発生がないからでもある。

 以上の如く凡ゆる耕作物は、有肥栽培に比して自然栽培の方が、比較にならない程有利でかは以上の通りである。それに就いて知らねばならない事は、第一土なるものの性能である。抑々土とは造物主が人畜を養う為に作物を生産すべく造られたものである以上、土そのものの本質は、肥料分があり余る程で、言わば肥料の塊といってもいい位のものである。それを今日迄全然知らず、肥料は作物の食物のように誤ってしまい、色々な人為肥料を施した結果が、意外にも土本来の力を弱らせてしまったのである。よく日本の土質は酸性だと言われるが全くそのためである。としたら何と驚くべき錯誤ではなかろうか。この意味に於いて作物を増産せんとするには、土自体の力を出来るだけ強化させる事である。ではどうすれば可いかと言うと、それは土に対し堆肥以外些かの不純物も混えず、出来るだけ清浄にする事で、それだけで素晴しい成績を挙げられるのであるから、今迄の頭脳では到底信ずる事は出来ないのである。

 右の理によって、自然栽培の根本理念は飽迄自然尊重であって、それは自然がよく教えている。凡そ世界にある森羅万象凡ゆるものの生成化育を見れば分る如く、大自然の力即ち太陽、月球、地球というように火、水、土の三大元素によらぬものは一つもない。勿論作物と雖もそうであるから、日当たりをよくし、水分を豊富にし、土をより清くする事によって、作物は人間の必要以上余る程生産されるものである。見よ、地上には枯草も落葉も豊富に出来、年々秋になればそれが地上を埋め尽すではないか。これこそ全く土を豊穣にする為のものであって、それを肥料にせよと教えている。そうして耕作者は堆肥に肥料分があるように思うが、決してそうではない。本来の堆肥の効果は、土を乾かさない為と、温める為と、固めない為である。つまり水分を吸収し、熱を吸収し、土が固まらないようにするにある。

 この理によって稲に与える肥料は、藁を出来きるだけ細かく切り、土へよく(こね)り混ぜればいいので、それが自然である。藁は稲の産物であるからで、これは根を温める効果がある。又野菜の方に枯草や落葉がいいのは、畠の近くには必ず林があり、落葉、枯草があるにみてそれを使えという意味である。

 そうして地球の中心は巨大な火の塊であって、不断にこれから地熱即ち、地霊を放射している。これが窒素であって、この窒素こそ神が与えた肥料で、地表を透過し地上或程度の高さに達して滞留し、それが雨によって地上へ降下し、地面に浸潤する。これが自然の窒素肥料で天から降ったものであり、勿論量に於いても過不足なく丁度いい位なのである。では何故窒素肥料を使い始めたかというと、これには理由がある。かの第一次大戦の折、ドイツに於いては食料不足の為、急激に増産せねばならず、そこで空中から窒素を採る事を発見し、使用したところ大いに増産されたので、それ以来世界的に普及されたのであるが、右は一時的効果であって、決して長く続くものではない。いずれは窒素過剰に陥り、土が弱って減産する事になるが、その理がまだ判らないのである。つまり麻薬中毒と同様であると思えばいい。

 ここで注意すべき事がある。それは自然栽培に切替えても、その水田の土と種子に残っている肥毒の多少が、大いに影響する。例えば本栽培にしても、或水田は一年目から、一割位の増収になる処があるかと思えば、一年目二年目共一、二割の減収で、漸く三年目になってから一、二割の増収となり、漸次予期の成績となるのである。従って先ず普通としては一年目従来と同様、二年目一割増、三年目二割増、四年目三、四割増、五年目から五割増とみれば、先ず間違いはあるまい。従ってもし余りに成績の悪い場合は、人為肥料が多量に残っている為であるから、一時客土によって緩和すればよい。

 今一つ重要なる一事がある。それは硫安の如き化学肥料は、稲が吸収する以上、その劇毒がたとえ微量であっても、人間は一日三度宛腹の中へ入れるのだから、不知不識の内に人体に害を及ぼすのは当然である。近代人の罹病率が多くなったのも、そうした原因もないとは言えないであろう。

 最後に自然栽培に対する経済的利益をザット挙げて見るが、

(一)肥料代が要らなくなる。

(二)労力が半減する。

(三)収穫が大増量する。

(四)目方が増え、炊き減りがなく美味である。

(五)虫害が殆どなくなる。

(六)現在最も悩みの種とされている回虫やその他の寄生虫問題も、完全に解決する。

 以上によってみても、本栽培法が如何に画期的で一大福音であるかが分るであろう。この実行によって日本の食糧問題は、一挙に解決するは勿論、それが動機となって他の凡ゆる問題、特に人間の健康に対しても、好影響を与えるのは勿論である。この栽培法が日本全土へ行き渡るとしたら、日本の再建を早め、高度の文化国家として、全世界から仰がるる日の来る事は断じて間違いないのである。この意味に於いて私はこの特集号を以て、一人でも多くの日本人に読ませたい念願である。

 最後に言いたい事は、これを以て宗教宣伝の為にする意志は毫末(ごうまつ)もない事で、それは無信仰者でも実行すれば、右の如き好成蹟を挙げ得るからである。

 未だ、農業の方の――大体米ですが、成績の報告は充分集まりませんから、集まり次第、之は発行し様と思っている。何うしても春になるだろうと思いますね。

 次に汚職問題ので――此間のは「無神迷信」ですね。あれを、もう一杯深い処を書いたものです。

 

 (御論文「悪は何故暴露するか」)   【註 栄光一三六号】

悪は何故暴露するか

(栄光一三六号)

 私は前々号に無神論者の題名の下に、公務員の汚職問題に就いて詳しくかいたから大体分ったであろうが、要するにその根本は不正をする人の心理である。勿論人の目にさえ触れなければ、どんな悪い事をしても隠しおおせるという、所謂無神論者である。そこで今一層徹底してかいてみるが、成程右の考え通り悪が絶対知れずに済むとしたら、こんな旨い話はないから、出来るだけ悪い事をして(もう)けた方が得という事になる。今日悪い事をする人間の殆んどは、そうした考えであるのは言うまでもない。処がいくら巧妙にやっても、いつかは必ず暴露(ばくろ)してしまうというこの不思議さである。としたら彼等と雖も其処に気が附かない訳はなかろうが、本当の原因がハッキリ分らないが為、悪事を棄てかねるというのが偽らざる心情であろう。

 そこで私は、何故悪事は必ずバレるかというその原因を明らかにしてみるが、先ず何より肝腎な事は、成程人の目は誤魔化(ごまか)す事が出来ても、自分の目は誤魔化せないという点である。どんなに人に知れないようにしても、自分だけはチャンと知っている以上、自分には暴露されている訳である。そうして一般人の考え方は、自分は社会の一員としての独立の存在であって、別段他には何等の(つな)がりがないから、何事も自分の思った通りにやれば一向差支えはない。だから自分に都合のいい事、利益になる事だけを巧くやればいい、それが当世利巧なやり方であるとしている。従って偶々利他的道義的な話を、先輩や宗教人などから聞かされても、上辺(うわべ)は感心したように見せても、肚の中では何だ馬鹿々々しい、そんな事は意気地なしの世迷(よまい)(ごと)か、迷信屋の空念仏だ位にしか思わないのが実状であろう。全くそういう人間こそ形に囚われ、精神的には零でしかないから、人間としての価値も零と言えよう。

 右は、現代人大部分の考え方をありのままかいてみたのであるが、ではこういう思想の持主が果して将来幸福であろうかというと、例外なく失敗するのである。

 では何故失敗するかというと、前述の如く悪は人には知られなくとも、自分だけは知っているのだから、この点が問題である。何故かというと、どんな事でも人間の肚にあるものは何でも彼んでも手に取るように分る、或恐ろしい所がある。その恐ろしい所とは一体何処かというと、これが霊界にあって、現界でいえば検察庁のような所で、所謂閻魔(えんま)の庁である。処が悲しい哉、唯物思想に固った人間には信じられないので、偶々人から聞かされても、そんなものはあるもんかと否定し、少しも耳を傾けようとしない。この想念こそ悪の発生原(源?)である。この理によって本当に悪を無くすとしたら、これを教え信じさせる事で、これ以外効果ある方法は絶対ない事を断言するのである。では閻魔の庁へ何故知れるかというと、人間の魂とその庁とは霊線といって、現界の無線電波のようなものが一人々々に繋がっていて、一分の狂いなく閻魔の庁に記録されてしまう。庁には記録係があって、一々帳簿へ載せ、悪事の大小によってそれ相応に罰するので、それが実に巧妙な手段によって暴露させ、現界的刑罰を加えるのであるから、この事が肚の底から分ったとしたら、恐ろしくて少しの悪い事も出来ないのである。尤もその反対に善い事をすれば、それ相応な褒美(ほうび)を与えられるという、これが現幽両界の実相であるから、この世界は神が理想的に造られたものである。

 これが絶対真理であってみれば、これを信ずる以外、根本的解決法はないのである。処が現代はそういう霊的な事は、政府も有識者も盲目であるから、反って大衆に知らせるのを非文化的とさえ思っているのだから、困ったものである。そんな訳で、折角それを分らせようとする吾々の仕事も迷信と断じて警戒する位だから、本当からいえば御自分の方が余っ程迷信にかかっているのである。その何よりの証拠(しょうこ)は、これ程骨を折っても汚職などの犯罪は少しも減らないばかりか、むしろ増える傾向さえ見えるではないか。それは単に表面に現われた犯罪を膏薬張りで防ごうとしているのだから駄目で、容易に抜けられそうな法網を張ったり、誰でも破れるような取締りの塀で塞ごうとしていて、全然急所が外れているのだから、その愚及ぶべからずといいたい位である。然もこれが文化国家と思い、得々としているのだから、余りに幼稚(ようち)で、現在は文化的野蛮時代といってもよかろう。

 それから、最近のお蔭話の中で、医療の為に随分ひどい目に遭った経路が実に良く書いてある。之を読んでいると、実際涙がこぼれて来ますね。

 

医学が悲劇を作る

(栄光一四〇号)

 吾々は現代医学の盲点を常に指摘し、警告を与えているが、事実医療による被害者の如何に悲惨なるかは、誰も気付かないのであるから大問題である。左の例などは到底読むに堪えられない程のものである。此感謝報告をかいたのは、シベリヤ帰りの元軍務に携った人で、帰国後最初軽い病気に罹った処、其原因は勿論、日本を出発の際の種々の注射の薬毒にある事は勿論だが、そんな事は全然分らない医師は、出来るだけの治療を施したが、漸次悪化するばかりなので、患者は迷いに迷い、医師や病院を取換えてはみても、お定まりの手術、注射、服薬等あらん限りの療法を受け、金の続く限りやってみたが、反って悪くなるばかりなので、絶望の極一家心中迄企てたというのであるから、其苦悩目に見ゆるようである。

 そこで若し此文を医師が読んだとしたら、果してどう思うであろうか。まさか自分達の行っている医療の結果とは想像もつかないであろうが、右の如き生きた事実はどうしようもない。としたら実に由々しき大問題であろう。又普通人が之を読んだら、憤激を禁じ得ないのが当然であるが、恐らくそう思う者は一人もあるまい。何となれば現代医学に盲信し切っているからである。そこで吾々は此迷信を打破し、大いに目醒めさせんとしているが、彼等は反対に吾々の方を迷信とするのであるから、問題は深刻である。処が事実は此例と同じような医療被害者が到る処に満ちてをり、全国では何万何十万に上るか分らない程であろう。としたら何と悲惨な世の中ではあるまいか、忌憚なく言えば、戦争よりも寧ろ恐ろしい位である。成程戦争の恐るべきは誰も知っているから、世界を挙げて其防止に努力するが、此方は反対に可と信じ切っているのであるから、問題は容易ならぬものがある。

 此報告をかいた本人は結局本教によって、完全に救われたからいいようなものの、若し本教を知らなかったとしたら、今頃は一家揃って彼の世行となり、地獄で苦しんでいるに相違なかろう。としたら此様な医学の過誤はいつ迄続くかという事であるが、最早其心配の要はない。神の大愛は之に対して、決定的解決をされ給う時が来たのであるから、先ず其警鐘の一歩としての此文と、そうして此実例と思って貰いたいのである。

 

 これぞ救い

  身を以て体験した医学の恐しさ

      (本文省略)

 (「医学が悲劇を作る」のあとの御教え)

 つまり、この人なんかは、最初は鼠蹊腺が腫れた丈ですね。何故鼠蹊腺が腫れたかと言うと、戦争に行く人は注射を受けますからね。この注射は、大抵ここ(頭部)に腫れる。前にうんと腫れた人がありましたが、それでも其処に穴が開いて膿が出て治ります。之もそれなんです。医学は解らないから、いろいろつついて、色んな病気を作っていったんです。今読んだ様に、あっちもこっちも次々悪くなる。一家心中しなければならない様な事になった。一体、こんな不仕合せな目に誰が遭わせたかと言うと、戦争は勿論ですが、現代医学がこんな目に遭わせた。それを誰も知らないで、良いと錯覚しているんですから、実に大問題です。こう言う人が、今何十万人あるか、分らないですね。だから先ず、之を救うと言う事が第一番ですね。

 それから、話は違うけれど、一昨日――日曜の日に、ラジオの放送闘(討?)論会ですね。この間、朝日講堂で三日の日に、汚職官吏は何故後を絶たないかと言う様な題で――演説した人は、岡崎官房長官と阿部眞之介、臘山政道――この三人が担任者になって喋りましたが、色々な――根本は何うだ。何だ彼だ――色々な事を話合って――質問も相当ありましたがね。それで、結局において、つまり道義の低下と言う結論になったんですね。道義の低下――道義心の低下、それは何うすれば良いかと言うと、法律――法規をもっと厳重にしろとか、刑罰をきびしくしろと言う様な事を話合って居たですね。処が、箒を厳重にしろなんて事は、今迄に幾度となくやっているんですからね。又、法規と言うのは、出した当座丈は馬鹿にきびしくても、段々時が経つに従って、グラグラになっちゃうですね。又、それを狙って、又悪い事をする。それは、何よりも――熱海は忘年会の申込みは一つもないですね。東京の花柳界なんかも、昨今非常にさびしいのだそうですが、と言うのは何しろ、今は問題が喧ましくなって煩いから、当分慎んで居た方が良いという訳で、ほとぼりが冷めれば、段々元の木阿弥になっちゃう。だから、道義心の低下は何処に原因があるかという事は、全然――宗教とか神とかに結びつけるのは、一人もないですからね。だから問題なんです。さっき読んだ様に――この間の「無神迷信」と今日の「悪は何故暴露するか」と言う事を書いたんですがね。中々、こう言う事を読ましたって――それでも、幾らかは――人によっては、之も理窟だなと言う人も、無論あるに違いないと思いますからね。出来る丈読ませ様と思っている。この論文なんかでも、最高裁判所、特審局、法務庁――そう言う処にも送る積りですがね。何しろ今言う犯罪と言い、医学と言い、農業と言い、実に間違った事をやっているんですよ。それで世の中が悪いとか、何だ彼だ皆苦しんだりやっているんですが、実に我々から見れば滑稽な様な、可哀相な様な――非喜劇ですね。至る所に非喜劇が出ている。だから、之を救うには、何うしても宗教よりない。そうかと言って、唯宗教でやれば良いかと言うと、恐らく他の宗教で本当にそれを解決する力のあるものは、恐らくないだろうと思うね。だから、何うしてもメシヤ教がやらなければならない。その為に神様が私に力を与えられ、色々な事を知らされるんですからね。結局解決はつくんですが、そこでつまり、神は在るかないか、神が在ると言う事を知らせれば良い。神が在ると言う事を知らせるには、神が在る事を見せれば良い。見せると言う宗教が何しろないからね。私の方では――「神を見せる宗教」と言うのを書いたんですがね。

 

 (御論文「神を見せる宗教」)   【註 栄光一三八号】

神を見せる宗教

(栄光一三八号)

 よく世間信仰のない人に信仰を勧める場合、彼等はこの世の中に神仏等あって堪るもんか、若しあるんなら是非見せて貰いたいといって、サモサモ自分は文化的人間の様に思って、迷信は真ッ平御免だとテンデ相手にならないのが一般人の態度であろう。それが最も甚だしいのが、所謂インテリ階級の人達である。といっても、これ等の人を決して非難する事は出来ない。全くそれに違いないからである。というのは世間多くの信仰を見ると余りにも非科学的で、迷信くさくない信仰は(まこと)寥々(りょうりょう)たる有様であるからである。従って多くの信仰は、神仏の実在をハッキリ見せる事が出来ず、あるような無いような、甚だ頼りないのである。としたら信仰に無関心な人の多いのも無理からぬ事と思うのである。

 処が我救世教に至っては、神の実在をハッキリ誰の眼にも見せている。一度本教へ接するや必ず神の実在を知って吃驚(びっくり)するのである。その何よりの証拠は、本教の無数に上る御蔭話である。処が遺憾な事には、これを読んでも、信者から聞いても、その儘吞込める人は洵に少いのが実情である。というのも全く前述の如き、レベルの低い信仰によって出来上がった色眼鏡(いろめがね)(とお)して見るからで、これも一面無理はないが、本教などにとっては残念至極である。それに就いて私がいつも言う如く、本教は宗教ではない、超宗教であり、大いなる救いの業である。

 そうして入信者がよく言われる事は、最初本教の刊行物などを見た場合、余りに今までの宗教の教えや科学の理論とは掛離れているので、只不思議と思うばかりで、到底信ずる気にはなれないが、併し物は試しと疑い疑い浄霊を受けるが、只手を(かざ)すだけなので唖然(あぜん)としてしまい、これ程進んだ現代医学で治らないものが、こんな他愛ない()り方で治る訳はないと思い、止めてしまおうかと決心していると、翌日になるや何だか気持がよく、軽くなったような気がするので不思議で堪らないが、マア(だま)されたと思って今少し辛抱(しんぼう)してみようと(まか)していると、メキメキ快くなってしまうので、喜ぶよりか愈々分らなくなってしまう、というのが体験者の口を揃えて言う処である。

 以上のように、本教は余りに類例のない現当利益が顕著なので、それらの話を聞く智性人などは、それだから迷信だなどと飛んでもない逆な事を言うのである。これも大いに邪魔になるのであるが、中には頭の確かな人もあって、事実は飽迄事実だからと素直に入信し、幸福者となる人も尠くないのである。そんな訳で本教が何物にも追随を許さない奇蹟を現わし、手に取るように神の実在をも見せる以上、如何に頑迷な人でも、科学文化に心酔(しんすい)している人でも、結局(かぶと)を脱ぐのである。 

 

 

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